第2部 血まみれの愛 18
館野が先頭で、俊が後に続いて家の階段を上がった。登り切った場所に対象が潜む部屋があった。二人はドアの両端へ静かに立つ。緊迫した表情の館野が、指で数え始めた。
三、二、一。
ドアが部屋の中へ吹き飛んだ。それを盾ににして、館野と俊が室内へ飛び込む。
ねっとりと重い空気が体にまとわりつき、周囲に光を放っている男女が見えた。間違いなくJSだ。飛ばしたドアが、四人の対角線上に浮かんでいる。
「JS取締官だ。抵抗する場合は躊躇なく殺害する」
「館野」竹中が笑う。「逃げた伊野から聞いたぞ。お前、抵抗しなかった筒井を殺したそうじゃないか」
「あれは筒井が抵抗する素振りを見せたからだ。伊野はそこまで見る前に逃げていたはずだ」
「本当か?」
「ああ」
対象のアグノーが弱まっていく。投降するのかと思い、少し緊張を緩めた。同時に、自分のアグノーも弱まっていたらしい。
「バカっ、お前が警戒を解いてどうすんだよ」
館野の言うとおりだった。
突然竹中と村野のアグノーが爆発的に強まり、浮いていたドアが砕け散った。尖った破片が顔に向かって飛んでくる。
「うおおっ――」
叫びとともにアグノーを発散させ、破片を吹き飛ばした。もう少し遅かったら、力場を切り裂き、破片が目に刺さっていた。
間髪を置かず、村野のアグノーが殺到する。
訓練の時とは違う。殺気を孕んでいる。
圧倒され、壁に押しつけられる。
迫ってくる村野の顔は無表情だが、それが逆に狂気を感じる。
くそお……。体が動かない。
鋭いナイフのようになったアグノーが、力場を切り裂いていく。
――やめてくれ――叫ぼうとしても、声が出てこなかった。
村野の背後にある窓が破裂して、ヌシと森山が侵入してきた。
不意を突かれた村野が、殴られたように横へ飛んだ。目の前のアグノーが消える。
「遅せえぞ。二人とも俊をフォローしろ」
館野は竹中を一人で殺すつもりだ。
村野を見る。彼女はヌシと森山の力に絡め取られ、身動きできなくなっていた。
「俊。こいつをクラッチさせろ」
「離せえええー」
村野は口の端からよだれを垂らし、瞳孔の開ききった目が、爛々と輝いている。人間の形をしていたが、もはや獣と変わりなかった。
その姿に圧倒され、アグノーを出すのに躊躇した。
「早くしろっ。こいつ、バカ力なんだよ。もたもたしてたらほどけちまうぞ」
森山の叫びで我に返り、先端を尖らせた力を女の力場に差し込んだ。
茹だったジャガイモへ、竹串が差し込んでいくように、すっと力が入っていく。
彼女の皮膚の下にある、熱く蠢くものへ到達した。
俊は何度か失敗した後、ようやく内臓を掴み、夢中で引っ張った。
「ぎゃあああっ」
断末魔の叫び声が部屋に響き渡り、口から大量の鮮血が吐き出された。
これが殺し合いなのか。俊は自分でやったことが信じられず、呆然とのたうちまわる女を見つめていた。
「由江っ」
竹中が村野に注意を向けた。
集中が削がれたのを館野は見逃さない。正面からの力を緩めてフェイントさせ、左側面から襲いかかった。
動揺していた竹中は、あっさり館野に取り込まれ、身動きが出来なくなってしまった。
「あはは、捕まえたぜ」
ニタニタ笑いを浮かべ、館野は自分のアグノーに包まれた竹中を見つめた。中で、更にアグノーが濃くなり、一本のひものようなものが出来ていく。それは竹中の体へ伸びていった。
「やめてくれ、投降するよ。お願いだ」
「筒井の件だがよ。あれ、嘘なんだ」館野はニタニタ笑みを浮かべていた。「あいつもお前みたいに命乞いしたんだが、無視してやったよ」
アグノーが、竹中の中に差し込まれていく。
「うげえっ――」
竹中は大きく目を見開きながら激しく痙攣したあと、あらぬ方向を見つめたまま、動きを止めた。アグノーが消えると、畳の上に倒れ、二度と起き上がらなかった。
「早く息の根を止めてやれよ」
館野は呆然としたままの俊を突き飛ばし、村野に向かって手をかざした。アグノーが伸びていき、体の中へ入っていく。女は一瞬痙攣して事切れた。
「おめえら、どいつもだめだぞ。俊は油断しすぎだし、香織と森山は入ってくるタイミングが遅すぎる。相手が弱っちいからなんとなかなったがな、次はないと思え」
館野の檄も、頭の中を通り過ぎていくだけで、意味を理解できない。熱くて柔らかな内臓の感覚が、生々しく蠢き続けていた。そして、獣のような顔をして苦しみの叫びを上げる女の顔。俊は、自分もまた獣となっているのを意識した。
法律ともかく、俊の中では間違いなく彼女は人間であったし、自身も人間なはずだった。
一体俺はなんてことをしてしまったんだろうか。
おぞましい。
館野の報告を受けて、警備課の男たちが大挙して入ってきた。そんな状況も目に入らず、俊はぼんやりと立ち尽くしていた。
「俊君、行きましょう。あなたの仕事はもう終わったのよ」
いつの間にか、傍らに白衣を着た小太りの女性が立っており、背中をそっと押していた。どこかで見かけた人だと思った。すぐに、食堂で料理を作っていたおばちゃんだと思い出した。
「どうして……」
「こんなところにいるのって聞きたいんでしょ。とりあえずここを出ましょう。あなたたちの仕事は終わったんだから」
妙子に促されて家の外へ出ると、メンバーと塚原がいた。相変わらず表情のない顔をしていた。
「みんな、ご苦労だった。いろいろ不手際があったらしいが、成功したのは確かだから、今回の反省を踏まえて、次回はより確実な取締を実施してもらいたい。詳細については館野を中心にミーティングを行ってくれ。
話は変わるが、取締班付けの医師として、君たちを医療面からサポートしてもらう大桑妙子さんだ。君たちもかつて研究所内の食堂で見かけたことがあるだろう。意外に思うかも知れないが、彼女は医師免許を持っている。JSに関しては理解も深いから、いろいろ相談するように」
「みなさんお久しぶりです。再びJS関係の仕事に関わることができて光栄に思っております」
妙子はメンバーに向かって深々とお辞儀した。館野は訝しげに眉根を寄せ、妙子から塚原へ視線を移した。
「この人、山原の元妻だって聞いてたんだけど」
「業務に支障を来さない限り、個人の思想信条は関係ない」
「建前ばっか言いやがって。保護庁で働いてる奴は、みんなアンチJSじゃねえか」
「局長は立場上言いにくいかもしれませんので私から説明します。私がここで働くことになったのは、純粋になり手がいなかったからです。アンチの人でこの仕事を引き受ける人がいたら、私は採用されなかったでしょう」
「まあいいや。所詮俺たちには関係ない話だしさ」
「他に質問はないか」
ヌシがしゃがんだまま力なく首を振り、俊は反応すらできなかった。精神的に疲れ果て、質問する余裕などなかった。
その後保護庁へ行って今回の反省と、今後のフォーメーションについての打ち合わせが行われた。解放されたのは夕方六時過ぎで、合同庁舎の前は夕日でオレンジ色に染まっていた。帰宅を始めたスーツ姿の人々が行き交っている。
「じゃあな」
館野が手を振る。ヌシが当然のように、彼の腕に自分の腕を絡めた。彼女は俊たちを見ることもなく、館野へもたれかかり、他の人々の中へ紛れていった。俊は改めて二人が恋人関係になっていたことを思い知らされ、呆然としてその姿を見送っていた。
「お前、ヌシと付き合ってたのか?」
「一回寝ただけさ」
「だからあいつと付き合い出したのがわかって、ショックを受けてんだな」
「別に。どうだっていいよ」
「どうだってよさそうな顔はしてないけどな」
「気のせいだ」
森山は夕飯を食べようと提案したが、食欲がないので断り、一人タクシーを捕まえてホテルへ向かった。行き先を告げてシートに身を沈めると、今まで体がこわばっていたのに気づいた。風呂に入ったときのように体がほぐれていくのがわかる。心地よさを感じたが、一瞬だけだった。
いつの間にか、手が痙攣していた。疲れているだけで、放っておけば治るだろうと考え、目をつぶった。
ホテル前に着いて精算をしたが、震えが止まらず、財布に釣り銭を入れられなかった。しかたなくポケットに小銭を突っ込み、タクシーを出た。自分の部屋へ行って、カードキーを差し込むのにも何度か失敗する有様だった。ようやく部屋に入り、シャワーを浴びると、今度は体全体が震えてきた。体を拭き、裸のままベッドに横たわった。
目を閉じると、苦悶の表情で叫び声を上げる女の顔が浮かんでくる。大量の鮮血が、口から溢れ出てくる。怖くなって目を開いた。心臓が激しく鼓動していた。頭の中ではまだ女が叫び声を上げ、のたうちまわっていた。
俺は人殺しになってしまった。
これまで、牛も人も同じじゃないかと漠然と考えていたところがあった。しかし、自分と同じ生き物を殺すのは、体が許さないのだ。いま自分の体に震えが起きているのは、何かが壊れてしまったからなんだろう。
夜が更けていく。眠気が差して意識が薄れていくと、獣じみた女の叫び声が響き、無防備になった心を切り裂いていく。そのたびに目を開け、心臓の鼓動を意識した。
時には裸で絡み合う館野とヌシの姿も現れた。やめてくれと祈ったが、暗い虚無の中へ吸い込まれていくだけだった。
いつの間にか夜が明け始め、窓の外が明るくなり始めていた。薄暗闇の中、喉が渇いて冷蔵庫を覗いた。ミネラルウォーターを飲もうと思ったのだが、下の棚に缶ビールが入っているのに気づいた。震える手がアルコールを求めてビールを掴んでいた。プルタブを引き、一気に口へ流し込む。苦みと炭酸の刺激が口へ広がり、一瞬悪夢が消え去ったように思えた。しばらくすると体が熱くなり、頭の中がぼんやりし始めてきた。
すべて忘れられるかも知れない。そんな予感がして、俊はビールをすべて飲み干し、更に新しい缶へ手を伸ばした。
酔いが深まるにつれ、悪夢は小さくなっていくような気がした。完全に消し去ってしまいたい。そんな思いに駆られ、次々とビールを飲み干していく。
やがて冷蔵庫の中にあるビールをすべて飲み干してしまった。他に何かなにかないか探すと、棚の隅に琥珀色の小瓶が置いてあるのに気づいた。取り出し、キャップをひねった。刺すような刺激を伴った、ウイスキーの甘い香りが鼻を突く。俊は一気に飲み干した。
目の前がちかちかと輝きだし、自分が何をしているのかよくわからなくなってしまった。
気がついた時、俊はベッドに寝ていた。ホテルではない。周囲は白い布のカーテンで仕切られており、消毒薬の匂いがどこからか漂ってくる。ひどく頭が痛く、吐き気がした。ゆっくりと体を起こしてみると、右腕に違和感を感じた。点滴のチューブが伸びているのだ。無意識のうちにアグノーが働いて、針が抜けた。機械から警告の信号が発せられる。
「起きたかしら」
カーテンが開いて白衣を着た妙子が顔を覗かせた。
「ここはどこなんですか?」
「私が勤めている診療所よ。森山君にお礼を言っときなさい。意識のないあなたを、ここまで連れてきたんだから」
「そうだったんですか」
「これだからJS患者は困るのよねえ。点滴なんかできやしない」
妙子は微笑みながら垂れ下がった点滴のチューブをまとめて、カーテンの向こうに運び出した。カートを押して戻ってくると、薬と水の入ったコップを手渡した。
「利尿剤よ。飲んで」
言われるままに薬と水を飲んだ。水が体へ染み渡っていく感覚がして、気持ちがよかった。
「もう一杯水をもらえますか」
妙子は頷き、ピッチャーから水を注いでくれた。一気に飲み干し、思わず大きく息を吐いた。
「昨日はいろいろ大変なことがあったらしいわね。それでアルコールに手を出したのはわかるけど、無茶が過ぎるわ。お酒を飲んだの、昨日が初めてなんでしょ」
「うん」
「普通のJSだったら、アルコールの限度を超えると、拒否反応を起こすんだけど……。初めてだったから、体が毒物と認識しきれなかったのね。今日は一日ここにいて、ゆっくり休むのよ。トイレは部屋を出たところにあるから、勝手に使ってちょうだい」
俊は起きているのがひどく辛くなり、再びベッドへ横になり、目をつぶった。妙子が出ていく気配があった。横になってしばらくしていると、吐き気と頭痛が和らいでくる。同時に眠気が襲ってきて、意識が薄れていった。
次に尿意を催して目覚めたとき、頭痛と吐き気はかなり減っていた。ベッドから降りてトイレへ行った。手を洗っているとき、震えが止まっているのに気づいた。
苦悶の叫びを上げている女の姿が、再び浮かび上がってくる。今は遠くの方で叫んでいるような気がした。相変わらず心が痛んだが、心が引き裂かれるような強さはなかった。
ベットに戻って横たわり、ぼんやりと天井を見ながら考えた。
過去は次々と現れる新しい現実の前に、次第に存在を薄れさせていく。どんなに苛烈な体験も、多くの記憶の一つとして、過去の戸棚に収められる。それが経験というものなんだろうか。
そういえば。いつの間にか、あれほどリアルに感じていた由衣のぬくもりや、怒りに満ちた浜口の叫びも、遠くで感じているのに気づく。
あれほど大切だと思っていた仲間の存在が失われていくのに、自分自身驚きを感じた。
喪失感を埋めるように、涙が出てくる。
人というのは、そういう風にして、次第に馴れていくものなんだろうか。




