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第2部 血まみれの愛 16

 気象庁が春に発表した予測だと、今年の梅雨は多雨の予想だったはずだ。しかし見事に外れ、五月の後半にまとまった雨が降ったきり、空梅雨が続いていた。

 今日も太陽が雲に隠れる様子はなく、地下鉄から出て五分ほど歩いただけで、額から汗が噴き出してくる。妙子は途中で自動販売機でペットボトルのお茶を購入し、水分補給をした。日陰になるべく入るようにしながら歩く。

 目的の霞ヶ関にある高層ビルに到着した。緊張した面持ちで見上げたが、窓ガラスからの照り返しで、思わず目を細める。このビルの十七階に、ヤフノスキ症候群保護庁があった。

 受付で訪問目的を告げると、すぐに入館証が発行された。エレベーターで十七階へ行き、応接室へ案内された。ドアが開き、二人の男が入ってきた。妙子は立ち上がりお辞儀をする。

「萩谷長官、お久しぶりです」

「こちらこそお久しぶりです。お変わりないようで。どうぞ、おかけになってください」

 萩谷は一年前よりもやつれた顔をしていた。春から始まったJS保護庁の立ち上げが激務だったのは想像に難くない。

「塚原君はご存じですかな」

「直接お話ししたことはありませんが、何度が食堂でお見受けしました」

「改めて自己紹介させていただきます。管理局長の塚原です」

 塚原が軽く会釈したので、妙子も会釈を返す。

「既に聞いているかと思いますが、大桑さんはこれから塚原局長の下で、取締班の治療及び健康管理を行ってもらいます。診療所はすでに都内に確保してありますので、後で局長に案内してもらってください。現在取締班は四人しかいないので、普段はかなり暇かと思います。ただ、何か起これば現場へ行かなければならない可能性もありますので、かなり危険な仕事です」

「承知しております。だからこそ私が採用されたわけですから」

 一瞬、萩谷が鼻白んだ。「まあ、確かにそういう面もありますね」

「少々表現がストレートでしたね。申し訳ありません」

 妙子が頭を下げる。

「いやいや、事実我々も、取締官の治療についてはどこも難色を示す有様で、ほとほと弱っていたんですよ。そこで宇田さんから大桑さんを紹介されて、大変助かりました」

「しかし、どうして大桑さんは宇田議員をご存じだったんですか?」

 萩谷が非難がましい視線を向けたが、塚原はそれを無視した。

「もちろん直接の面識はありませんでしたわ。ただ、知人のJSカウンセラーがあの方の秘書と交流がありまして、ご紹介いただきました」

 妙子はあらかじめ矢阪から仕込まれた経緯を話した。

「もちろん、亡くなった主人と宇田さんが異なった信条を持っていたのは承知しております。ただ、私は以前から亡くなった山原の後を継いで、JS患者に対して何らかの貢献を行いたかったのです。思想的には主人と同じですが、このような事態になった以上、私も原則論を振りかざすのは現実的ではありません。宇田議員もそうした心情を理解し、私を保護庁に紹介してくださったのです」

「確認ですが、職員間ではプライベートも含め、思想的な話しは一切しないことは約束していただけますね」

「はい、約束いたしますわ」

「すまないね。局長は優秀な男だが、表現がきつすぎる面がある。他意はないから勘弁してください」

 苦笑を浮かべる萩谷に対して、塚原は怯む様子もなかった。

「曖昧に処理すると、後々禍根を残すことになりますから」

「組織での意思統一を図る上では必要な確認だったと思いますわ」

「ご理解いただき、ありがとうございます」

「この後のスケジュールはどうなっているんですか?」

「最初に診療所予定場所を見てもらいます。午後からは防衛医大から医官が来ますので、調達する機材や連携について打ち合わせをしていただきます」

「機材の話をするなら、診療所予定地へ医官と一緒に行ってもらった方がいいんじゃないですか」

「はい、ただ、そうなると、わざわざ午前中に来ていただいた大桑さんの時間が無駄になります」

「それなら心配はいらない。私と世間話でもしていればいい」

 萩谷がにこりと笑い、妙子に同意を求める。

「私は別にかまいませんが……」

「だったら決まりだ。局長も忙しいでしょうから、その方が都合がいいんじゃないですか」

「長官がお手間を取らせてしまいますが」

「言い出したのは私だ。スケジュールの調整がつくから提案したんだよ」

「恐縮です」

 塚原は深々と頭を下げた。

「それではお言葉に甘え、ここで失礼させていただきます」

 心なしか、塚原の表情は強ばっているように思えた。少々引っかかるものを感じながらも、出て行く塚原をお辞儀をして見送った。

 塚原がドアを閉めた途端、萩谷は急に表情を緩め、ソファの背もたれに体を預けた。

「塚原も堅物だからね、話をするのに疲れるよ。大桑さんも無理して合わせない方がいい」

「このたびは採用していただいてありがとうございます」

「いやいや、僕は判子を押しただけで何にもしなかったよ。むしろ大桑さんの名前が出てきてびっくりしたぐらいさ。まさか、あの大桑さんじゃないだろうねって、塚原に聞いたら、間違いなく山原先生の奥さんだって言うんだよ。渋い顔をしてさ」

 萩谷が声を上げて笑う姿に、妙子は意識しないうちに顔が強ばった。それを見て萩谷は真顔に戻り、顔を近づけながら静かに話し出した。

「大桑さんがここへ来るに当たって、いろいろ議論が起こったんですよ。ご存じの通り、JS保護法というのは当初の理念から大きく変わって、JS患者の保護というより、隔離政策に近い形となっています。しかもJS患者は人間でないのですから、将来の緩和なんてことはあり得ないわけです。当然ここで働く職員たちもそれを前提として働いています。疑問を持っているのは、私とか堀田さんのようなロートルぐらいなものですよ。私たちは経験がありますからまだ重宝されていますが、時期が来れば、そのうち排除されるでしょうね。

 そこへ大桑さんのような、融和派の筆頭であった方に近い人が来られるのは、ちょっとした事件なんです。はっきりと、いかがなものかと言い出す職員もいるのも事実です。特に塚原は直接の指揮下に入りますから、あからさまに嫌がっています。ただ、紹介したのがなぜか強硬派最右翼の宇田さんと言うことで、矛を収めているんです。そんな状況ですから、発言にはくれぐれもご注意願いますよ」

「了解しました。気を付けるように致します」

「しかし、大桑さんだからいいますけど、正直今のJS政策で、今後今後の日本がどうなっていくのか心配でなりませんよ。JS患者となった途端、基本的人権を奪われて、ジェネレータまで仕込まれてしまう。これでJS患者が反発しないわけがない」

「脱走した人たちは、対立をあおる政策だと声明を出していますしね」

「ただ連中も、生きるためとはいえ、銀行強盗を起こすのはいただけないが。あれで世論が更に反発してしまった」

 妙子は脱走JS患者による強盗事件を思い出した。客を装って入った銀行内で、全員を動けなくして金を奪うという手口だった。深夜にATMを破壊して金を盗みだすという方法も増えてきた。

 基本的に一般人は殺さない方策をとっているようだったが、逃走中、警察車両を破壊して、既に五人の警官が殉職している。対戦車誘導弾が使用され、脱走JS患者二人が殺害されたときには、爆風と破片を受けて、通行人七人が死傷した。

「まだ二十八人が潜伏中です。彼らが一斉蜂起したら大変な事態になりますよ」

「彼らをサポートしている組織の全容はつかめていないんですか?」

「それを捜査をしているのは公安でしてね、私も新聞報道以上のことはわからないんですよ。もっとも、知っていたとしても、詳しい話は大桑さんといえども話すわけにはいきませんが。

 ご主人が亡くなられてからまだ一年ほどしか経っていませんけど、世の中は大きく変わってしまいましたねえ。まさかこんな風になるとは思いもよりませんでした」

「全く同感ですわ」

 妙子は大きく頷く。

「ところで、福池君の事件ですが、その後進展はありましたでしょうか」

 萩谷が顔を曇らせ、軽く首を振る。

「捜査は継続中という話ですが、このところ、警察からは音沙汰がないですよ。あの事件で、福池君を担当していた看護師が亡くなってしまいましたからねえ。実際、マニュアル通りにストロンチウム製剤を投与していたのかはわかりません」

 マニュアルでは、実際患者が製剤を飲むところを確認したり、飲んだ後も口腔内を確認するなど、事細かな取り決めがあった。それらすべてを実行できていれば、あのような事件は起こらなかったはずだ。

 午後になり、妙子は塚原と防衛医大の医官とともに、霞ヶ関からほど近い場所にある雑居ビルへ行った。間取りをチェックし、打ち合わせを行った。細かい点はまだまだ詰めなくてはいけなかったが、塚原に外せない用があるというので、五時で役所へ戻った。

 塚原に了解を取って、帰宅することにした。既に定時は過ぎているはずだが、まだ昼間とは変わらないペースで忙しく立ち働いている職員の間を抜け、妙子は廊下に出た。

「大桑さんじゃありませんか」

 聞き覚えのある声を聞いて、前から来る人物を改めて見た。

「あら、田原さんですか」

 妙子はあまりの風貌の変化に、声を聞くまで、目の前にいる男が田原だとわからなかった。肌の色は茶色がかっており、色つやもなかった。蛍光灯に照らされた髪の毛は薄くなり、うっすらと地肌が透けて見えている。

 やや太り気味だった体つきも、今は枯れ枝のようにひどく痩せこけていた。妙子の表情で自分の変わりように驚いているのがわかったのか、田原は自嘲気味に微笑んだ。

「胃をやられましてね。今まで薬で何とかしていたんですが、とうとう手術をしなくちゃいけないことになったんです。今日はその手続きやら挨拶でここへ来ていたんです」

「お仕事も当面休まれるんですか」

「いや、そうじゃなくて、もう退職するんです。正直言って限界なんですよ。これ以上死んでいく子供たちなんか見たくない。その上、ショックを受けている子供たちの気持ちを和らげろだなんて無理です。その前に、自分がだめになってしまいますよ。

 残された子供たちはかわいそうだと思いますが、私も自分の命は惜しいし、女房や子供もいます。申し訳ないが、彼らと心中するわけにはいかないんです」

 田原は話しながら、目に涙を浮かべていた。

「わかりますわ」妙子は優しく頷きながら答えた。「いま、あの子たちが置かれている状況は、本当にひどいものです。でも、それは田原さんのせいじゃない。その点ははっきり認識された方がいいと思います」

「そうなんですけど、なかなか吹っ切れなくて」

 田原は妙子に慰められ、とうとう涙があふれ出した。手でぬぐいながらお辞儀をする。

「済みません、お見苦しいところを見せまして」

「いいんですよ。いろいろ溜まっているものがあるときは、涙で発散する方がいいですから」

「ありがとうございます。ところで、大桑さんは取締班専属の医師になるとお聞きしましたが……」

「少しでも子供たちを救うことが出来たらと思いまして」

 田原は一瞬何かを言おうと口を開きかけたが、途中で息を止め、ただ頷いた。

 ――そんなの無理ですよ――

 田原はそう言いたかったに違いない。その点は妙子も充分承知していた。医師が一人抵抗したとしても、状況を変える前に、排除されるだけだ。

 それでも、ここにいないよりましだ。ほんのわずかな可能性だとしてもいるべきなんだ。死んだ山原と息子も、きっと賛成してくれるだろう。

 妙子はまだ涙ぐんでいる田原へ「お体を大切にしてください」と言い残し、エレベーターへ向かって歩き出した。


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