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第1部 隔離 23

 矢阪が役所の前に並んでいる職員の帰宅待ちのタクシーへ乗り込んだ。堀田も続いて乗り込む。

「銀座方面へ行って下さい」

 タクシーが発進する。隣に座っていると、今までかいだことのない香水の匂いがしてきた。それは堀田の鼻腔を刺激し、疲れた体へ化学反応を起こすよう浸透した。吐き気がこみ上げてくる。

 横へ座っているこの男に、素性の知れない不気味さを感じ始めた。不安がわき上がり、不用意にタクシーへ乗ってしまった自分を後悔した。

「朝倉さんの話はやはり驚きですか」

 不意に声を掛けられ、必要以上に大きく頷いた。「確かにね」

 そうなんだ。俺は朝倉の名前が挙がった経緯を聞かなければならない。堀田はゆっくりと息を吐き、落ち着けと心の中でつぶやいた。

 朝倉啓四。JS研究者の中では、規制派最強硬に属する男だった。

 雑誌への寄稿も多く、テレビのJSに関する討論番組での常連でもあった。

 朝倉は、JS患者をそもそも人類として認めないという前提に立っている。JSは〈ホモ・サピエンス・デヴィエーション〉――ホモ・サピエンスの亜種という学説を主張していたのだ。そうなれば、JS患者について、憲法に規定されている人権であるとか、行動の自由に抵触するかといった議論自体が意味を持たなくなる。

 人類はJS患者を、自由に排除、殺傷できるようになるのだ。

 数年前まで、この主張は学会で異端視され、規制派からさえも批判されていた。

 ただ、JS患者に不安を抱いている市民からは、根強い支持が存在している。一般向けに書かれた彼の本は、しばしばベストセラーリストに名を連ねるほどの人気があった。そうした世論を背景にして、朝倉と同調する若手研究者も現れ始め、近年では新たな派閥を作るまでに発展していた。

 そして、先日の自衛隊が出動した事件だ。この件が発覚したあと、朝倉は毎日のようにテレビの報道番組へ出演し、強くJS患者の規制を訴えていた。もし彼がJS研究所の所長になれば、日本のJS政策が大きな転換を迎えることを意味する。

 タクシーはがら空きの晴海通りを、スピードを上げて走った。首都高の高架を過ぎたところで左折するよう指示する。何度か進路を変えさせた後、雑居ビルの前で止めさせ、タクシーを降りた。

 矢阪が携帯で店と話している。

「空いてるそうです。行きましょう」

 矢阪がビルの中へ入っていくので、ついていく。エレベーターで三階に上がった。

 扉が開いた目の前に、和風居酒屋の入り口があった。矢阪は中へ入り、作務衣を着た店員に声を掛けた。薄暗い座敷の部屋へ案内される。

「さて、何か食べますか?」

「お茶漬けでももらえるかな。この時間帯だと、重い物はなかなか厳しくてね」

 料理が出てくると、早速堀田が本題を口にした。

「情報の出所はどこなんですか?」

「信頼できる筋からですよ。あと一二ヶ月すればはっきりわかるでしょう。小安川議員にもそうお伝え下さい」

 堀田は苦笑いを浮かべた。「どうして私が、小安川議員に報告しなければいけないんですか」

「誤解でしたらお許し下さい。堀田室長は小安川議員に近いと、もっぱらの噂でしたので」

 この狸が。俺が議員と結びつきが強いのをわかっていて、情報を漏らしてきたんだ。

「まあいいでしょう。仮に私が小安川議員に報告したとすると、彼が人事に口出してくる可能性がありますよ。あの方は、朝倉さんの学説に反対されていますから」

「人事に官邸の意向が反映されているとすればどうです? いかに小石川さんといえども手は出せないはずです」

「本当なんですか? どうして官邸があんな人を推すのか意味がわからない」

「今は市井の人々でも、JSに対する恐怖を抱く人が増えているんですよ。全国でJS政策のデモや集会が行われていますが、参加メンバーを分析すると、おもしろいデータが出てくるんです。まず、人権擁護派の集会ですが、伝統的な左派の活動家や、革新政党の支持者が多い。これは予想できますね。もう一方の規制強化を目指す集会ですが、こちらはどのような人たちが参加しているかわかりますか?」

「右翼や保守系の人たちですか」

「もちろんそうした人たちも多く参加していますが、それに加えて、最近は普通の人たちの参加者も増えているんです。特に思想的な背景がないサラリーマンや主婦、これまで一度も集会なんて参加したことのない老人もいました。未成年者も多くいましたよ。

 この人たちは、直接、間接にかかわらず、JS絡みの事件に関わりを持っています。自身や知り合いがJS絡みのトラブルに巻き込まれたり、近くでそうした事件が起きたことで、恐怖心が目覚めたのです。こうした人たちが、与党系の議員に不安を訴える。議員さんはそうした声を無視するわけにはいかないので、政策に反映させなければならないのです。

 春に改正されたJS保護法は、アメリカの要請だけでなく、こうした人たちの意向も少なからず反映されていたんですよ。小安川議員は比例代表での当選ですから、有権者の話を聞く機会はあまりないかもしれませんが。

 今回の人事で山原さんのような穏健派を据えれば、規制を訴えた有権者から批判が集まるのは必至です。

 新聞やテレビの記者は、まだまだ左翼系知識人が多いですから、人権最優先の姿勢を崩していません。でも、そうした報道をするメディアは、どんどん発行部数や視聴率が落ちてきている。彼らも最終的にはビジネスですから、倒産する前に方針転換するでしょう。

 規制強化の方針は、国際社会も容認するはずです。と言うより、外国の方が、規制に関しては先を行っている。その点については、堀田室長の方がよくご存じかと思いますが」

 堀田は頷く。

 近年、JS患者が徐々に増えていくにしたがって、世界各国でJS絡みの事件も増加傾向にあった。中国福建省は、逃亡して町を破壊し続けていたJSの少年を、人民解放軍がテルミット焼夷弾で殺害した。このとき、五十三人の市民が巻き添えで焼死している。コロンビアでは麻薬組織がJS収容所を襲撃して、激しい戦闘が行われた。

 こうした状況の中、強権的な政治を行っている国々では、JS患者を〈第二市民〉とし、徹底的な行動の制限を加えているところが多く存在していた。欧米諸国でも、このような議論はふんだんに行われており、選挙のたびに規制強化を強く訴える政党が議席数を増やしていた。

「しかし、朝倉啓四とは、少々やり過ぎなんじゃないでしょうかねえ。いくら圧力がかかっているとは言え、山原さんから朝倉さんというのは百八十度の転換じゃないか。普通なら中間派から入っていくかと思うけど」

「もう少し詳しい話をしますと、この人事、先日行われた国家安全保障局の定例会が発端なんです」

「あんな所からですか」

「はい。今、国家公安委員長を務めている宇田議員はご存じですね。あの人が強く主張したんですよ」

「ああ」堀田はようやく状況を理解した。「あの人は規制派最右翼ですから、福池君の事件をきっかけにして、首相へ進言したわけですか」

「さすがご理解が早いですね。福池君の事件に関しては、警察はもちろん、防衛省も大きなダメージを負いました。政府としても威信を保つため、国民に対して、早急に何らかのメッセージを送らなければならない。そんな中、手っ取り早いのが今回の人事だったわけです。JS保護法は改正されたばかりなのに、また改正だなんて言い出したら、野党が大騒ぎし始めるでしょうし」

「たしかにね。そうすると、今後、JS政策は朝倉さんの学説を軸に進められていくのか」

「当然そうなるでしょう」

 矢阪は手酌で日本酒をうまそうに飲んだ。

「遠慮なく召し上がってください。冷めたらおいしくない」

 ほとんど箸を付けていない茶碗を見て、矢阪がつぶやく。

「急に食欲がなくなってね……」

「そうですか。では、お開きにしますか」

 堀田も異存なかった。会計を済ませ、エレベーターに乗ってビルの外へ出る。外は相変わらず風が生暖かくて不快だった。

「ここからだと、役所のタクシーチケットは使えないでしょうから、千葉のご自宅までお送りしましょう」

「断るよ。というよりまず、どうして私の家が千葉にあるのか知っているんだ?」

「いろんな伝がありましてね」

 矢阪は意味深げに微笑んだ。

 本来厳重に管理されているJSの情報に通じ、自分の個人情報まで把握している。

 こいつは一体、どういう背景を背負っているんだ。

 得体の知れない物が、べったり背中へ貼りついている気がした。

 矢阪は軽くお辞儀をして去って行った。残された堀田は立ち尽くし、掴み所のない不安を抱えて、後ろ姿を見送った。


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