第1部 隔離 22
萩谷がカードキーをかざし、主のいなくなった山原の部屋を開けた。大桑妙子は軽く会釈をしながら礼を言い、部屋の中へ入った。よく整頓されていると妙子は思う。
狭い部屋ではあったが、キッチンや家具が置いてあるスペース以外の壁には、すべて本棚が置かれてあり、ジャンル分けされた本がびっしりと並んでいた。流しはきれいに磨いてあった。床も掃除機をかけているらしく、埃らしき物は見当たらない。あの人らしい部屋だった。
「あの、山原さんが亡くなった件につきましては、他にご連絡しなくても大丈夫なんでしょうか」
「はい。山原の両親は既に亡くなっておりますし、兄弟もおりません。いとこについては私が連絡しましたから問題ありません」
「いとこの方はどちらにお住まいで?」
「北海道です。出身は釧路なんです」
「遠いところですね。それで山原さんは、遺骨の処分を大桑さんへお願いしたのですか?」
「そうですねえ。私が結婚していた頃からいとことは没交渉の状態でしたし、遺言では遺産も寄付すると書いてありますから、頼みにくかったんでしょう」
山原のJS患者に対する対応の仕方が隙だらけで、危険だと指摘されていたのは前々から知っていた。実際、萩谷から注意してほしいと頼まれたこともある。しかし、彼の研究の原点である息子の存在を思い出せば、説得が無駄なのは妙子自身が一番よくわかっていた。一報を聞いても冷静でいられたのは、こんなことが将来起こるだろうと、心の片隅で予測していたからだと思う。
「紙の本がかなりありますね」
「昔の人ですから、電子書籍は違和感があるとか言って、なるべく紙で入手していたようです」
「これだと重労働になりそうですから、若い人を何人かよこしましょう」
「お言葉はありがたいのですが、多少時間がかかっても、一人でやらせていただけませんか」
「私どもはかまいませんが……」
「ありがとうございます」
妙子は言葉をつなごうとする萩谷を、遮るようにしてお辞儀をした。
「では、大変なようでしたら遠慮せずにご連絡下さい」
会釈をして出て行こうとする萩谷に、妙子は声を掛けた。
「あの、ちょっと伺っていいでしょうか」
「なんなりとどうぞ」
「自衛隊の出動要請ですが、山原が福池君を説得に当たっている最中に行われたそうですね」
「ええ。その通りです」
萩谷の表情が、急に硬くなる。
「いろいろご事情はあるかと思いますけど、私には少々早かったかと思うのですが。状況はわかりませんが、あれで福池君の態度が硬化する、あるいは山原が焦って結論を急がせてしまう可能性があったかもしれません」
「その点につきましては、戦車の存在が福池君を刺激するのではないかと言うことで、当日我々も激しく議論しました。しかし、レーザー発振機が破壊されたら、すぐに福池君はこの施設から逃げ出していたでしょう。そうなったら、最悪民間に被害が及ぶ恐れがあります。それは絶対避けなければなりませんでした。そこで自衛隊を要請することとなったのです。
そうした経緯も含め、今回の件は、来月早々に外部委員を招いて、検証委員会を立ち上げる予定です。その中でどういった議論をしたか、また、自衛隊の要請が、タイミングを含めて適正であったかも取り上げます。結果が出次第、大桑さんにもご連絡いたします」
「よろしくお願致します。山原とは離婚した間柄ですが、なかなか他人とまで割り切れていないのです」
「そのお気持ち、わかりますよ。山原さん、いい人でしたからね。JS研究にとっても大きな痛手ですよ」
妙子は再びお辞儀をして、出て行く萩谷を見送った。
静かになった部屋で妙子は椅子に座り、室内を眺めながら、山原が残した匂いを嗅ぎ取る。今にも山原が現れてきそうな空気があった。これを整理しなければならない。妙子はふと、慎也の部屋を整理した日を思い出す。
何も手を付ける気が起きず、週に一度埃を取る以外は、三年ほどそのままにしていた。しかし、山原との離婚が成立し、住んでいた家を引き払うこととなり、一日かけて整理した。空っぽの部屋を見回すと、確実に息子の記憶が遠ざかっていったのを意識して、しばらく涙が止まらなかったのを思い出す。
萩谷の言うとおり、整理はひどく腰の折れる仕事だが、やはり一人でやらなくてはならないと思う。それが山原と別れるための儀式でもあった。
妙子は立ち上がり、本を段ボールに詰め込み始めた。
「和久井、あのときは山原さんをもう少し待っているべきだったかなあ」
「私からは……何とも言えません」
堀田の問いかけに、和久井は小首をかしげ、一瞬見せた重苦しげな顔を隠すように、パソコンへ目を落とした。
「それに、もう起きてしまったんですから、今更思い悩んでも、仕方がないんじゃないかと思います。」
「悪いな。俺も疲れてるみたいだ」
自衛隊出動による福池の殺害と、山原の死。福池が研究所から逃走する事態は避けられたが、代償はあまりに大きかった。和久井もこの話題にあまり触れたくないのはよくわかる。つい口にしてしまった自分に後悔した。
「室長もこのところ家に帰ってないでしょう。奥さん心配しているんじゃないですか?」
「あいつはそんなタマじゃねえよ。俺が死んでくれたら、保険がいくら出るか計算でもしてるんじゃないか。お前だって早く帰らないと、デートもできないだろ」
「いいですよ。俺、彼女はいませんし」
時計を見た。既に午後十一時を回っている。このままだと、終わるのはまた一時時過ぎか。千葉にある家へタクシーで帰ったとしても、ろくに寝る時間もないだろう。それよりはまたカプセルホテルへ泊まった方が、睡眠時間は長くとれる。堀田は和久井にわからないよう、小さくため息をついた。
研究所での事件があった日の翌日、鳥取でJS患者発生の通報があり、休む間もなく保護の指揮を執らなければならなかった。その事後処理に加えて、調査委員会による事件の詳細に関する聴取が始まった。昼間はほとんど通常の仕事をしている時間がない。
十二時を過ぎた時点で、モニターを見目が霞んできた。思考能力も明らかに落ちている。五十を過ぎて連日の深夜勤務はさすがにきつい。報告書は明日何とかしよう。
「和久井、悪いけど先に上がらせてもらうよ」
堀田はパソコンを閉じて事務室を出た。ふらつく頭を抱えて人気のない廊下を歩き、エレベーターのボタンを押し、通用口へ向かう。IDカードをかざしてドアを開け、警備員に挨拶して外へ出た。
低気圧が来ているのだろうか、生暖かく湿った風が吹き付けてくる。体へまとわりついてくる感覚が不快で、思わず上着を脱ぎ、手に持った。
「堀田室長ですね」
不意に声を掛けられ、まだ暗闇に馴れていない目を凝らした。長身の男がいた。身構えている堀田を見て、男はにこやかに笑いかける。
「怪しい物ではありません。矢阪です」
「ああ。あんたか」
力を抜き、思わず息を吐いた。前からJSについて取材活動をしている記者だ。堀田も何度か取材を申し込まれたことがある。
「来ても無駄だって言ってるじゃないですか。こっちには守秘義務があるんだし」
「今日はいろいろご報告したいことがありまして、よかったらそれについてコメントしていただければと思ったんです。もちろん、匿名と言うことにしておきますから」
「お断りするよ。そんな暇があったら早く家で眠りたいんだ」
「山原さんの後任の件です」
「興味ないよ」
「朝倉さんが着任するそうですね」
思わず歩き出そうとする足を止め、矢阪をまじまじと見た。
「それ、ホントなのか」
矢阪のあごひげを蓄えた顔が得意げに微笑んだ。正直しゃくに障るが、差し出したえさに飛びつく自分が抑えられなかった。
「軽く一杯どうですか?」
堀田は頷いた。




