第1部 隔離 17
「おおい俊、放課後暇か?」
五時間目の休み時間、ジューケイがクロックの教室へ顔を見せた。
ヌシたちとトランプをしていた俊は、顔を上げて戸口に立っているジューケイを見た。「またサッカーなの?」
「オウ、貴重な戦力なんだから頼むよ」
ちらりと森山を見た。彼は窓際の席に座り、携帯ゲームをしていた。ジューケイの声は聞こえているはずだが、感心なさげに、じっと画面を見つめていた。
かつて森山は、ジューケイ率いるサッカーチーム「フリッピン」のメンバーだった。しかし、目をやられて以来、チームへは参加していない。その代わり、比較的運動神経がいい俊が誘われるようになった。仕方ないとは言え、俊はジューケイに誘われるたび、森山に対して申し訳ない感情を抱いていた。
「大丈夫、あいつは納得してるから、お前のことを何にも思っちゃいないよ。怪我の件についてはちゃんと話し合っているんだ。美佐子へ会いに行ったのも、半分はあいつに心の整理を付けさせるためだったんだぜ」
更衣室で不安を打ち明けると、ジューケイはこともなげにいった。
「結局、どうにもならないことを嘆いても、しょうがないってことさ。ここにいれば、そんなのたくさんあるだろ」
俊は、憎しみをぶつけた弟の姿を思い出した。
「図星っていう顔してるぜ」ジューケイはにやりと笑った。「だからよ、楽しめるときには存分楽しまなきゃいけないのさ。そうだ、これをやるよ」
ジューケイはスポーツバックから小さなアルミパックを取り出して、俊に渡した。
「これ……」
パックの中に、丸い輪のような物が入っているのがわかった。
「男女交際で、上の奴らが一番恐れているのは妊娠さ。ただでさえ、俺たちをもてあましてるっていうのに、JSの子供なんてできたら大事だからな。ただ、それさえクリアしてりゃ奴らは何にも言わねえよ。もっとも、やる場所は外しかねえから、いろいろ大変だけどさ」
ジューケイは声を上げて笑った。しかし、俊は笑えず、戸惑いの表情を浮かべたままだった。
「お前、誰か好きな奴はいねえのかよ」
「……」
「例えば、ヌシとかさ」
手にしたコンドームを見ながら、ヌシの姿を思い出すと、心臓が高鳴った。
「森山からはいろいろ聞いてんだ。がんばれよ」
ジューケイはニタッと笑い、俊の肩を叩いてグラウンドへ出て行った。
軽い練習の後、試合が始まった。相手は「フジヤマイレブン」。ジューケイのクラスメートである前田義隆がキャプテンを務めるチームだった。技術、体力的にもジューケイがダントツに強かったが、チーム全体でのレベルで見れば、戦力的にはほぼ拮抗している。
先攻は「フジヤマイレブン」で、前田がボールを蹴り出す。
小競り合いの後、ボールが俊へ向かってきた。
胸で受けると同時に、相手スウィーパーの種末が、全速力で突っ込んでくる。
俊より一回り大きい。ぶつかった瞬間、俊ははじき飛ばされた。
ジューケイがフォローに入り、ボールを奪い返す。
十七歳が中心のメンバーの中にあって、俊は体力的にやや落ちる。このため、相手方の攻撃の時、俊を突破口にして攻められるパターンが多かった。それは他のメンバーもわかっているので、すぐにフォローへ入る。ただ、そうすると逆サイドががら空きになり、そこから点を取られる時もあった。
何度か攻守が入れ替わった後、ジューケイがボールを奪い、相手右サイド奥へ蹴り込んだ。その瞬間を見逃さず、俊は掴みかかろうとした種末をかわし、ボールへ突進した。ゴールライン手前でボールに追いつき、ペナルティーエリア内を見た。
ジューケイがいる。対して、敵側は二人。
センタリングをあげれば、ジューケイを止められるやつはいない。
一点もらった。俊はボールを蹴ろうとした。
「俊」
ゴールラインの向こうから、叫ぶ声が聞こえた。ヌシと由衣だった。
一瞬、脳裏にコンドームの映像が映し出される。
俊の蹴ったボールは、ジューケイの頭上を越え、サイドラインを割った。
「バカ、高すぎる」
ジューケイの怒鳴り声に、ヌシたちが笑った。
「変なところで声を掛けてくるんじゃねえよ」
「何よ、せっかく応援してやったのにさ」
ヌシがむっとした顔で言い返した。
「俊っ、ぼさっとしてないでとっとと上がれ」
言い返そうとした俊に再びジューケイの怒鳴り声が浴びせられた。味方のゴールを見ると、既に敵のフォワードが、ドリブルでセンターバックを振り切ろうとしていた。
「くそっ」
俊は走り出そうとした。
その時、グラウンドに校内放送が響いた。珍しく、教頭の村井の声だった。
――全校生徒に連絡します。全員校舎および宿舎内で待機してください。繰り返します。全員校舎および宿舎内で待機してください――
フォワードの蹴ったボールがゴールポストへ当たり、鈍い音を立てて跳ね返った。それを追いかける者はいない。みな、少し不安げな顔をして、お互いを見合っていた。
「何があったんだ」
振り向いてヌシに問いかけた。
彼女は首を振る。「私にわかるわけないでしょ」
平静を装っていたが、村井の声は明らかに語尾が震え、切迫している様子だった。
「ねえ、あれ見てよ」
由衣が指さした方向を見ると、本館から職員が三人、病院から二人出てきた。彼らは全員〈収容所〉の中へ向かっていった。
〈収容所〉というのは、以前、生徒の間で、〈幽霊ビル〉と呼ばれていた場所だ。今は福池が閉じ込められている。このため、生徒間での通称が、〈幽霊ビル〉から〈収容所〉へ変わっていたのだ。福池の管理は病院が行っていたが、いつ騒ぎを起こすかわからない男を院内で管理するのが難しかった。紆余曲折があったらしいが、結局用途がなかったこのビルを改装し、収容することとなった。
「あいつ、また何かやったのかな」
俊がつぶやいた時だ。〈収容所〉にある三階の窓が一斉に割れ、机やキャビネットが外へ投げ出された。
その中には、人間の姿もあった。
「ああ……。とうとうやっちまったか」
強化ガラスが破壊されたのだから、彼がストロンチウム剤を服用していないのは明らかだった。村井が慌てるのも無理はない。
「ヤベー。奴、出てきたぞ」
壊れた窓から男が出てきた。体は中に浮いている。遠くて顔はわからなかったが、間違いなく福池だろう。
俊たちは一斉に校舎へ走った。アグノーを持っているとはいえ、ストロンチウム剤を服用しているのといないのでは、力に差がありすぎる。
校舎に入る直前、俊は振り返り、福池の様子を見た。彼はゆっくりと地上に向かって降りていくところだった。
「室長、JS研究センターの萩谷理事長からテレビ電話が入っています」
堀田は先週確保したJS患者についてのレポートをパソコンの画面から消し、電話にリンクさせた。アプリが起動し、萩谷の顔が映し出される。彼のひどく緊張した表情は、明らかに問題が生じていることを示していた。
「堀田室長、すぐにここへ来てくれないか。三十五条を適用しなければならない事態が起きたんだ」
ヤフノフスキ症候群保護法第三十五条。指定保護施設は、法第十五条二号に該当する事案が生じた場合、別表一に規定する機関に対し、協力を要請することができる。――要約すると、研究センターでクソみたいな事態が起きれば、ウチへ丸投げできる――というわけだ。
「で、何が起きたんですか」
「福池が施設から逃げだそうとしている。どうやらストロンチウム製剤が効いていないようだ」
福池徹。確か最初の通報は父親からだったはずだ。麻酔を打つとき抵抗されて、かなり手間取った子だった。施設内でもトラブルをよく起こしていたと聞く。
とうとうきたか、というのが第一印象だった。
「我が国で、ストロンチウム製剤を服用していない相手と対峙したことがあるのは、君たちしかいない。そこで連絡させてもらった」
――うちはそこまで面倒見切れませんよ――そんな言葉が喉まで出かかったが、法の下僕たる公務員に、拒否はできない。加えて、ストロンチウム製剤を投与されていない患者と対峙するノウハウが、日本ではここしかないのも事実だった。
JS患者が暴走した場合に備えて、警察庁内に特殊部隊を設置する案は五年前から検討されてきた。しかし、穏健派からJS患者の差別につながるとして、ずっと棚上げになっている。今までヤノフスキ症候群対策室だけで事足りていた事実も、特殊部隊を不要とする根拠になっていた。私たちだけで完結しているのは偶然に過ぎない。そんな堀田の警告も、政策を巡る議論には反映されなかった。
「状況を説明してください」
「ストロンチウム製剤の服用は毎回看護師が確認していたが、すぐ後にトイレへ行って吐き出していたらしい。薬の効果が完全に薄れるのを待って行動を起こしたようだ」
「計画的と言うことですか。非常にやっかいですね」
「その通り。しかもあいつは看護師を窓から落として死亡させいる。非常に危険な状態だ。一旦収容されていたビルから外に出たが、今はレーザー発振器で威嚇して、ビル内へ戻している」
「アメリカから押しつけられたとか言っていた奴ですか」
「去年設置したときは大げさだとか言われていたが、あってよかったよ。あれがなければ、福池を止める手段がなかった」
研究所に取り付けてあるレーザー発振機は、もともとアメリカ軍がミサイル迎撃用に開発したもので、去年警備体制を強化するに当たり、アメリカ政府の提案で設置されていた。本館ビルの屋上にあり、グラウンドを囲む建物すべてに狙いを定めることができるようになっている。軍用の物より出力は落とされていたが、それでも一キロ以内であれば、自動車に穴を開けられる程の威力は持っていた。
JS患者は銃弾を跳ね返すほどの力を持っているが、半面、レーザー光線を避けられない。このため、レーザー発振機はJS患者に対してきわめて有効な武器だった。
「施設の見取り図は共有ファイルに納めてあるから見てほしい。警備課の塚原には既に連絡済みだ。よろしく」
何がよろしくだ。堀田は心の中で毒づきながらモニターから顔を上げた。既に事態を悟った部下たちが、堀田を注視している。