高地の花嫁
「ただいま帰りました。兄上。」
ブラストはセネバの声で我に返った。
目を閉じていたことに気づかず、一瞬、意識が混濁する。
「どうしたのです?」
帰って来たセネバが、ブラストの様子を見て尋ねた。たった一人で長椅子に座り、虚空を見つめていたからだ。
「何でもないよ。」
ブラストは言った。
「エレナが寝室を決めたから、暖炉に火を入れようと思ってね。」
「ああ、そうでしたか..,」
セネバは頷き、身につけていた帽子と外套を脱ぐと、暖炉に手をかざした。
「姉上は何処に?」
「部屋からの景色が気に入ったらしい...そこで待っている。」
「なるほど。」
「寒くなってきたようだ...早く部屋を暖めなければ。」
「僕も手伝います。」
「いろいろすまないな。」
「今日だけです。気になさらないで下さい。」
ブラストとセネバは、暖炉から火種を鉄製の容器に移し変え、それを持って階段を登った。
「楼台にも火を灯さないと...」
「終わったらすぐにやろう。」
「はい。」
兄弟は会話をしながら、互いに口角を上げた。四歳の差はあるものの、今となっては背丈も目線も同じ...実に頼もしい相手になった。
…以前会った時は、まだ幼い少年だったのに。
動物が好きで、生き物の生態に興味を持っていた弟...積極的に外へと出て行くセネバが羨ましかった。「影」の影響に怯え、人前に出ることを避けていた頃、どんなに自由を求めていたことだろう...
…私は自分の境遇を疎んじていた。第一王子でありながら、サンザスを去らねばならず、結婚するさえも叶わないと諦めていた。影の証は忌むべきもの...悪しき宿命など、私で終わらせれば良い...そう考えていた。
その時は、セネバに王位を譲る。
決意をもってボルドーに向かった。
一人の騎士として生き、医師として働く生涯を送る覚悟だった。
…だが、今は違う。
ブラストの心は自信に満ちていた。
継承者としての役目を果たし、愛する女性との結婚を目前にして、輝く未来への希望に心を躍らせている...
「明日が楽しみです。王家の挙式は久しぶりですから。」
ブラストの心中を察したのか、セネバが明るい口調で言った。
「城から知らせが届いたのか?」
「ええ、今しがた。」
「エレナはまだ何も知らない...急なことに納得してくれれば良いが...」
「挙式といっても、形式的な儀式を行うだけだそうです...歓迎式は一昨日に行ったばかりなので、宴は控めにする様です。」
「それでもエレナは驚くだろう。」
「そうかな...むしろ喜ぶのでは?」
「何故?」
「結婚を切望しているからこそ、サンザスまで来たのでしょう?兄上を信頼して、未踏の国に単身訪れるくらいですから、不満を漏らすとは思えませんよ。」
セネバの鋭い分析に、ブラストは納得して頷いた。確かに、ブラドル王子を上手く使ってメルトワから会いに来たり、一緒にサンザスへ行くと言い出したり…本当にエレネーゼには驚かされてばかりだった。
「サンザス王家の新しい風...王太子妃という春風を、父上も母上も、心から歓迎しているのです。もちろん、僕も。」
「セネバ...」
弟の気遣いに、ブラストは感謝するしかなかった。野心の欠片もない彼だからこそ、不在中の留守を任せられるのだ。
「エレナ、待たせてすまない。」
ブラストは声を掛けながら部屋に入った。
しかし、窓際のベンチに姿はなく、一見、室内には見当たらない。
「兄上、こちらへ...」
セネバの手招きで寝室に足を向けると、小さな寝息が聞こえ、ベッドに横たわるエレネーゼが見えた。
「眠っているみたいですね...」
セネバが言った。
「待ちくたびれてしまったのかな?」
「そうかもしれない。」
ブラストは歩み寄り、複雑な思いでエレネーゼを見つめた。エーガが自分に対して促したように、マージもエレネーゼの記憶を書き替えたに違いない。
━━試練をともに乗り越えた妻。影の暴走を抑えるため、その身を犠牲にして世界を救った“黄金の王女”━━
…誰が知らずとも、その事実は私の記憶に刻まれる...永遠のものとして。
我儘で奔放と揶揄されようと、秘めた正義は真に偽わざる事実。ブラストにとって、エレネーゼは最愛の相手だった。
「暖炉に火を入れよう。」
火種を置き、セネバが持って来た薪を暖炉に焚べた。吹子を使って勢いを促し、時間をかけて炎を燃え上がらせる。
「見事な手際です。」
「料理をするより容易いさ。」
「そうですか?」
「騎士は料理などしないんだ。」
「王子だってしませんよ。」
「変わり者ならここにいる。」
「兄上だって同じでしょう?」
ブラストが沈黙したので、セネバは肩を震わせて笑った。優れた兄にも苦手とするものがある…それを知っただけでも嬉しかった。
「姉上はまだ起きそうにないですね...どうしましょう?」
「眠らせておこう。良い夢を見ているようだ...」
「分かるのですか?」
「何となく...さ。」
その晩、エレネーゼは目覚めなかった。
夕食を用意したセネバが心配になって問うものの、ブラストは首を横に振り、「眠り姫の夢を妨げてはならない。」と言うだけだった。
…昨日から不思議なことばかりが起こるな。
セネバはブラストの横顔を見つめた。
物憂げな顔が、炎の色に染まっていた。
翌朝
騒々しさにエレネーゼが瞼を開くと、周囲の状況が一変していた。
何人もの女官が周りで働いていて、寝ぼけている隙に服を剥ぎ取られ、素早く身支度が進められている。背後では侍女が髪を漉く仕事をしており、器用にまとめ上げた後、顔の化粧を施し、最後に良い香りの香水を吹きかけられた。
「よく、お似合いです。」
女官の一人が、たどたどしいメルトワ語で言った。
もう一人の女官が大きな鏡を持って正面に立つ。鏡に映る自分を見たエレネーゼは、ようやく自分の置かれている状況を知った。
「...これは?」
美しい織物で仕立てられた衣装に目を奪われる...純白の薄絹のドレスと見事な刺繍に彩られたガウン、頭に載せられたベールは煌びやかな銀の飾りで彩られている…
「王妃様が、お召しになられた、ドレスです。」
「王妃様の?」
侍女達は頷くと、すぐに控えながら首を下げた。戸惑っているエレネーゼから離れて道を開ける...背後で足音が聞こえ、振り返ると、ブラストが歩み寄るのが見えた。
「ブラスト...」
エレネーゼが動く前に、ブラストが手を差し出し指先を握る...軽くキスをした後、笑顔を浮かべて嬉しそうに告げた。
「城からの出迎えが来たんだ。帰りしだい、すぐに結婚式を挙げるよ。」
「...すぐに?」
「全ての準備は整っている...迎えの馬車も待っているよ。」
「突然過ぎるわ。」
「うん...両親がこうもせっかちだと私も知らなかった。」
「あなたが急かしたのではなくて?」
「私が?」
「だって、早くお仕事に戻りたいと言っていたでしょう?」
投げかけに、ブラストは目を丸くした。禊を済ませ、両親に結婚の許しを得るのが目的だったとはいえ、急かすつもりなど微塵もなかった。
「誤解だ...滞在してまだ2日、そんなに急いではいないよ。」
「じゃあ、まだ帰らない?」
「10日ほど滞在する予定だ。」
「良かった…」
エレネーゼが笑顔を浮かべたので、ブラストはほっと胸を撫で下ろした。花嫁衣装に身を包んだエレネーゼは眩いばかりに美しいが、何せ急ごしらえだ。
「ボルドーに戻って、結婚披露の宴を改めて催すつもりだ…今はこの衣装で我慢して欲しい。」
「我慢だなんて…」
エレネーゼは否定し、その場で一回りして見せた。
「こんなに素敵な衣装は見たこともないわ!」
…美しい。
ブラストは思わず目を眇めた。今すぐに抱きしめたい…そう思うほどに。
「嬉しいよ。昨晩は君の寝顔を見ながら夜を過ごした...辛抱するのに苦労したよ。」
「辛抱?」
「そうとも。」
ブラストは頷き、顔を寄せて耳打ちした。
「私を見くびっているようだが、これでも健常な男だ。君の期待以上に欲望は強い。」
「...えっ?」
「だから、急いで結婚してしまおう。」
…それは...つまり?
エレネーゼは頬を染めた。ブラストの言葉の意図するものは、自分の願望と同じだということだ。
「ああ、ブラスト...」
改めて見ればブラストの身支度も素晴らしい…凛々しく端正な顔立ちが引き立つ礼装は、サンザスの王太子に相応しい華美なもの…頭上には冠が輝き、彼の容姿をさらに際立たせているのだった。
「行きましょうブラスト...今すぐに。」
エレネーゼは明るく告げ、屈託のない笑顔を浮かべた。
ブラストの手を取り歩き始める…
ブラストは安堵した。
今度こそ、今日という日を特別なものにしなければならなかった。
風がそよぐ穏やかな日──
国王ガレスと王妃フェリーナが同席のもと、ブラストとエレネーゼの結婚式が行われた。
家臣、騎士、民衆が集まり、二人を祝福する。
ブラストは彼らに、妃の活躍を伝えた。
「妃の貢献が無ければ、大義を成し遂げることは出来なかった。」と。
「妃殿下に敬意を!」
皆が平伏し、感謝と祝福の声が溢れる…
エレネーゼは涙を流した。評判の悪いメルトワの王女...他国へ嫁ぐ以外に、何の期待もされていなかった存在だったというのに…
「泣き過ぎだ...」
泣きじゃくるエレネーゼに、ブラスト優しく言った。もらい泣きをしている女官が差し出したハンカチを受け取り涙を拭う。
「だって...嬉しいんだもの。」
「泣くほど?」
「こんなに褒められたのは初めてだわ。」
「完璧な王女と讃えられていたのに?」
「容姿のことなんてどうでもよかった...私は、本当の私を知って欲しかった...」
「エレナ...」
ブラストは翡翠色の瞳を覗き込んだ。正直で可愛い妻...愛しくてたまらない。
「悪い噂はすぐに消える..君はサンザスを救ってくれたのだから。」
「いいの。あなたの妻になれただけで幸せよ。」
「本当?」
「本当よ。」
周囲の視線など気に留めず、熱い抱擁を交わすブラストとエレネーゼ──
静かに見守るガレスとフェリーナは、互いに視線を合わせながら笑顔を浮かべた。
「一安心だな。ブラストは王子としての自信を取り戻した。もう影の力に怯える必要はない。エレネーゼと共に、サンザスを治めてくれるだろう。」
「ええ、でも、それはまだ先のこと...陛下にはまだまだ活躍して頂かなければなりません。」
「活躍?」
ガレスは眉を跳ね上げた。
「それは騎士としてか?それとも男として?」
「ま...」
フェリーナは目を丸めた。ガレスの謙遜はいつもの事だが、この場での発言はいささか不謹慎だ。
「もちろん国王としてです。」
ピシャリと返したものの、ガレスの悪ふざけは終わらない。
「顔が赤いぞ。」
「そんなわけないわ。」
「耳も赤い。」
「ガレス!」
これ以上の揶揄は逆効果...ガレスは口角を上げつつ、フェリーナの背に手を置いた。恥じらう妃を見るのは久しぶり...まんざらでもない気分だった。
満天の星々が輝く夜空に、明るい極光の波が現れる...眩しく美しい光の波──
幻想的な光景に、空を見上げて人々が言う。
「ローゼの祝福だ。」
ブラストとエレネーゼは、就寝のために城の塔へと登った。
頂上に用意された寝室に入り、テラスに出て外を眺める。
「素敵な夜だわ...」
「遠くまで灯火が見える...今夜は夜通し明かりが灯されるそうだ。」
「極光もあって、とても明るいわね。」
「おかげで、君がよく見える。」
「あなたも。」
二人は見つめ合い、顔を寄せてキスをした。信じられないほど幸せで、満ち足りた気持ちだった。
「行こう。」
ブラストがエレネーゼを誘い、軽々と抱き上げた。銀の光に照らされたベッドに妻を座らせ、そのまま身を重ねる...
“光と影の名において、運命の子らに加護を与える”
影の王が祝福の言葉を贈る。
それは誰の耳にも届かぬ声だった。
風がブラストの背を穏やかに凪ぐ…
やがて、二人に至福が訪れると
幸せに満ちたエレネーゼの目に、傷ひとつないブラストの肌が、青く、白く、輝いて見えた…
「このお花を持って帰りたいわ。」
王城の片隅にある小さな庭園で、フェリーナとともに花を摘んでいたエレネーゼが言った。
「お花を?」
「ボルドーで待っているお姉様に贈りたいのです。出発前、お腹に赤ちゃんがいると教えてくれたので...そのお祝いに。」
「まあ、そうだったの。」
フェリーナは目を細めて微笑んだ。
「もちろん構わないけれど、地上まで持っていくには、工夫が必要だわ。」
「工夫?」
「高地の花は気難しいの...保存する方法を考えなければ、枯れてしまうわ。」
フェリーナは傍らに控えている女官に手招きをした。彼女が歩み寄ると何かを伝える...女官は頷き、すぐに背中を向けて去っていった。
「お姉様の名は?」
「シュナーベルです。」
「素敵なお名前ね。」
「はい。」
「どんな方なのかしら?」」
「お姉様は...ルポワド語とボルドー語が話せます。薬学にも興味があって、勉強のために、月光の騎士と結婚しました。」
「勉強のために...騎士と結婚?」
「きっかけはそうです...お兄様の計略ですけれど...」
フェリーナは苦笑した。
「それは大義ね...」
「そうでもありませんわ..,計画以前に、二人は愛し合ってしまったから。」
「じゃあ、お姉様はお幸せなのね?」
「ええ。誰もが羨むほど。」
フェリーナは口元に手を当てて笑った。。王家では策略も計略も日常茶飯事...まして、メルトワのような大国であれば、至極一般的なことだろう。
「殿下は善きお方のようね。ブラストを信用して、あなたを送り出して下さった…とても感謝しているわ。」
「お義母さま...」
「いずれ、ご挨拶に参らなければと思っています。ブラストはしばらくボルドーで医師を続けると言うし、メルトワの両陛下を険しい山岳の地にお誘いするわけにもいきませんから、ボルドーの地でお会いしたいと申し上げるつもりよ。」
「地上に…降りるおつもりですか?」
「必要でしょう?」
「でも...」
「特別な事じゃないわ。ガレスも私も、若い時にボルドーに滞在していたことがあるの...メルトワまで行ったこともあるのよ。」
「え…メルトワに⁉︎」
エレネーゼは声を上げた。考えてもいなかった事実だ。
「メルトワ語が話せるのはそのおかげ...思いがけず役立って、本当に助かったわ。」
「知りませんでしたわ...」
「とても昔のことですもの。知らなくて当然よ。」
フェリーナは軽く肩をすくめた。サンザスという辺境の国は、他の国々に知られていない未知の存在──
それでも、少なからず国を捨て、地上に生きる者もいる。
「しばらくの間、お別れね。」
「ええ、私もその間にサンザス語を学びます。」
「期待しているわ。」
エレネーゼとフェリーナは約束を交わした。
遠くない未来に、この庭を駆け回る可愛い子供たちの姿が見られるだろう。
希望を紡ぐサンザスの春風──
宙へと続く高地の空に、耀く未来が広がっていた。
サンザスの春風
〜おしまい〜
ブラストとエレネーゼが結ばれるエピソード、いかがでしたか?
我儘で奔放だったエレナも、さまざまな経験を経てちょっぴり成長しました。
影を継承を背負っていたブラストも、その肌の痣が消え、自由の身になりました。
影の王と黄金の王女。その正体を知っているのは読者の皆さんのみです。
誰にも話さず、秘密にしておいて下さいね。
お読みいただき、ありがとうございました。




