王女の願いと王子の戸惑い
… 本当に目を覚ました⁉︎
ブラストは動揺を隠して身を引いた。虚ろな眼差しのエレネーゼが、毛布の下から腕を出そうとしたからだった。
「いけない、君は今──」
忠告が間に合わず、体を捻った拍子に毛布が落ちる...寝ぼけまなこでブラストに抱きつくと、嬉しそうに言った。
「夢ではない...本物のブラスト?」
「本物だ。夢の中の王子ではなくね。」
「これが現実でありますように...」
「現実だよ。さあ、しっかり目を開いて。」
夢と現の境界にいるエレネーゼを抱き寄せつつ、ブラストは努めて冷静に務めた。刺激的な姿を晒していると気づかないうちに、何とか服を着せなくてはならない。
「服を...」
身を離そうとしたが、エレネーゼがそれを許さなかった。ますます身体を密着させ、腕を首に巻き付けてくる。
「駄目だエレナ...」
ブラストは嗜めた。これではまるで拷問だ。
「酷い…」
エレネーゼは訴えた。
「私のことが嫌いなの?」
「そうじゃない。」
「じゃあなぜ?」
「君は服を着なくてはいけない。」
「...服?」
「頼むから服を着てくれ。」
「…?」
差し出されたものを見つめて目が覚める...困惑顔のブラストと服を交互に見やり、ようやく事態に気がついた。
「嘘...」
頬を真っ赤に染めエレネーゼが身体を丸めた。長い髪が覆っているおかげで隠れているものの、肌の大部分を晒している。
「そんな...どうして?」
「質問は後だ。私は背を向けているから、とにかくこの服を着て欲しい。」
「...でも、どうやって着たら良いのか分からないわ。」
「わからない?」
「だって、侍女がいないもの。」
,,,侍女だって?
ブラストは失念していた。エレネーゼはメルトワの王女...一人で着替えをしたことなどあろうはずもないことを。
「困ったな...」
自分とて婦人の身支度の世話などしたことがないし、セネバはすでに退室していて姿が見えない。
「すまないが、ここには適当な人間がいないんだ。」
「誰も?」
「弟のセネバが一人で暮らしている城だからね。」
「弟?」
エレネーゼに事情を説明するのを後回しにして、ブラストは部屋着を持ち上げ、それをしげしげと観察した。エレネーゼも立ち上がり並んで見つめる。
「きっとこのボタンを外して足を入れるんだわ。」
「この紐はどうするのだろう...」
「これはリボンよ。たぶん後ろで結ぶの。」
「なるほど。では一度、解かなくてはならないね。」
背の部分のボタンを外し、腰のあたりにある編み上げの紐を抜いて押し広げる...エレネーゼは屈んでいるブラストの肩に手を乗せ、スカートの中に足を入れた。その際、身体に絡みついている黄金色の髪を払い除けなければならず、露わになった胸や腰をブラストの目の前に曝け出すことになった。
「上に引き上げていただける?袖を通すから…」
エレネーゼの言葉に応じて、服を引き上げ肩に乗せる...細い腕が薄衣の袖の中に隠れ、ようやく、背中のボタンにたどり着いた。
「紐は胴を締めるための物のようだ...」
「そのようね。」
ほっそりとした胴に合わせて紐を編み上げ、リボンを結び終えると、エレネーゼがすぐに振り返った。恥じらうように頬を染め「似合う?」と言って笑顔を浮かべる。
「似合ってる。想像以上に。」
質素な形の部屋着と思っていたが、エレネーゼの美しさがその印象を払拭してしまった。母の物に間違いないが、その姿は、まるで朝の光のように眩しく美しかった。
「痛むところは?」
ブラストはエレネーゼの手を取って尋ねた。
「顔色はだいぶ良くなったが...」
「少しフラフラするわ。」
「空腹のせいでは?」
「そうかも...」
「セネバに言って食事を用意してもらおう。」
「セネバ?」
「弟だ...歩けるかい?」
「ええ、大丈夫。」
当たり前のようにエレネーゼが肩に頭を乗せて寄り添う。ブラストは腰に手を添えて支えながら、ゆっくりと歩き出した。
「ねえ、ブラスト...私は昨夜、王城の部屋にいて、マージと話をしていたのだけれど...試練はどうなったの?」
「マージと話した?」
「そうよ。あなたと結婚するには、私も試練を乗り越えなければいけないと彼女に言われたの。それで、あなたの居る場所に行きたいと言ったら、その願いを叶えてくれた...でも、その後のことを何も思い出せなくて...」
…やはり、エレナはメーヴェに来ていた!
ブラストは驚きを隠せなかった。
光の声──すなわちマージの囁きは母フェリーナにのみ与えられた奇跡だ。その声をエレネーゼが耳にしていたとは!
「試練についてマージは君にどんな説明を?」
「確か宿命がどうとか..戦うことだとも言われたわ。」
「戦う?」
「いろいろ説明されたけど、あまり意味が解らなくて...」
エレネーゼは首を傾げて眉を寄せた。マージの言葉は難しく、理解できないのが正直なところだった。
「それに、私のこと勇敢だけど“無知で愚か”とも言ったわ...本当に無礼者なんだから。」
「無礼者...」
頬を膨らませて文句を言うエレネーゼにブラストは思わず吹き出した。マージはサンザスにとって崇めるべき存在...フェリーナとて一度たりと雑言を交わしたことはないというのに。
「あ、でも...」
エレネーゼは恥じらう様に俯くと、頬を染めて言った。
「影...いいえ、あなたに相応しい相手だとも言ってくれたわ。だから辛くても、試練に打ち勝てと...」
エレネーゼは、うっとりとブラストを見つめた。身に起きた事は何ひとつ理解できないが、今、この場にいると言うことは、試練を乗り越えたという事だ。
「あなたに愛を告げられたのは夢じゃない...あなたに抱きしめられて...キスをして、そして...」
「そして?」
ブラストは歩を止めた。エレネーゼを見つめる...
「結ばれたのは...夢?」
「エレナ...」
「答えて。」
…冗談ではない。
ブラストは答えに詰まった。
記憶がないだけに確信が持てなかった。人生の一大事だと言うのに、そんな事があってなるものか!
「おそらく...夢だ。」
曖昧な返事をした。それ以外に適当な言葉が見つからなかった。
「そう。夢だとしても、とても素敵だったわ。」
肩を落としたエレネーゼが、つま先立ちで背伸びをする。求めに応じて、ブラストは唇を重ねた。誰もいない廊下は静寂に包まれていて、覗き見る不躾な者もいなかった。
…試練を終えた今、畏れていた障壁は消え去った。痣の疼きも感じない。影の暴走も収まり、私はようやく自由を得たのだ。
喜びを感じ、抱きしめる手に力が入った。エレネーゼも身体を密着して応えている...気持ちが昂り、自制の効かない状態に陥った。
「これ以上はいけない。」
ブラストは告げると、エレネーゼから身を離した。
「どうして...?」
「君は食事をするべきだ。」
「ブラスト...」
エレネーゼが残念そうに口を尖らせる。
「食事のほうが大切?」
「大切だ。」
かすれた声でブラストは言った。
「とにかく、今は冷静になるべきだ。弟に君を紹介しなければならない。」
仕方なく、エレネーゼは説得に応じた。弟君がいるのなら、きちんと挨拶をするべきだった。
「ここはお城なの?」
エレネーゼが周囲を眺めながら尋ねる。
「サヌー城だ。王城の西にある小さな城だよ。」
「私達は何故ここに?」
「私にも解らない...禊を終えた後、近くに放り出されたらしい。」
「放り出された?」
「偶然に弟が通りがかって、倒れている私達を見つけてくれたそうだ。」
「私が服を着ていなかったのはそのせい?」
「彼の助けがなければ路頭に迷うところだった。私の着てる服も、弟の物を借りているからね。」
エレネーゼは、改めてブラストの服装をに目を向けた。生成色のブラウス になめし革のベストを着たシンプルな服装で、珍しい姿だった。
「じゃあ、私の服は?」
「母上の物だと思う。古い物だが管理はしっかりなされていた。城の者が到着するまで辛抱して欲しい。」
「辛抱だなんて」
エレネーゼは微笑みを浮かべて言った。
「お母様の物なら、とても光栄だわ。」
薄絹で仕立てられたドレスは着心地が良かった。襟元に毛皮をあしらったガウンもあり、ひんやりとした城内を歩くには申し分なかった。
「気に入って貰えたなら良かった。」
ブラストも微笑み歩き始める...感情の昂りも収まり、この場はお互いに頭を冷やせたようだった。
セネバは厨房に立ち、湯気の立つ鍋に向き合っていた。
台の上には昨日届いたばかりの食材が置かれている。燻製肉もあり、幸いなことに、新しいパンまで揃っていた。
「これなら、姉上にも気に入っていただけるだろう。」
王城を離れてからは調理を学んだ。
主に保護した動物の治療のためだったが、自分用に工夫し、考案した料理も数多くある。王子自ら炊事をする事に違和感を唱える者もいるが、セネバは料理が嫌いではなかった。
「セネバ」
ブラストの声が聞こえたので、セネバは入り口のほうに目を向けた。兄と並んでいる貴婦人が見え、その美しさに目を見張る。
「目を覚まされたのですね?」
セネバは言った。
「安心しました。とても長く眠られていたので...」
「ええ。」
頷いてセネバを見つめる...翡翠色の瞳が美しく、想像以上に麗しい姫君だった。
「ブラストに伺いました。助けていただいたそうですね?感謝していますわ。」
エレネーゼはスカートを持ち、きちんと膝を折ってお辞儀をした。目の前の王子はブラストによく似ているものの、髪の色は銀色で、信じられないほど美しい容姿の青年だった。
「どういたしまして。お役に立てて光栄です。お二人とも大事に至らず、本当に安堵いたしました。」
セネバがエレネーゼの手を取り、膝を床に着け指先にキスをした。二人の姿を見つめるブラストの心が、僅かながら複雑な思いに揺れる...
「私の名はセネバです。麗しの姫君。」
「エレネーゼと申します。初めましてですわね、セネバ殿下。」
視線を交わした後、セネバはすぐに立ち上がって調理台に向かった。あまりエレネーゼを見ていると、心を兄に見透かされてしまいそうだったからだ。
「お腹が空いているでしょう?スープが出来上がったところなのです。陽も高いですし、庭で食事をしませんか?」
エレネーゼは不思議に思った。セネバのの前には鍋があり、とても美味しそうなにおいが漂っているが、食事係の姿が見えない。
「セネバの料理はなかなかのものだ。」
ブラストが言った。
「私は“からっきし”だけどね。」
「当然ですよ。僕が変わっているだけなんです。」
「セネバは変わっているのですか?」
「はい。母上にいつも愚痴をこぼされる程度に。」
「まあ、では私と同じ。私もお母様にいつも叱られてばかりなの。」
「そうなのですか?」
「そうよね、ブラスト?」
ブラストは苦笑しながら頷いた。クロウディア王妃はかなり寛容だが、エレネーゼの奔放さにはほとほと手を焼いているとぼやいていた。「貴方と出会ってから少しはマシになったけれど...」と言っていた程だ。
「庭に出よう。」
鍋掴みを手にして鍋を持ち上げる。セネバが食器を用意し、エレネーゼもパンをバスケットに入れて運んだ。
暖かい日差しが降り注ぐ昼下がり──
三人は穏やかな時を過ごした。
セネバの料理はとても美味しく、エレネーゼのお腹を十分に満たしてくれた。 食後の果実酒を飲みながらの談笑も楽しく、幼い頃の話は特に盛り上がった。それらはセネバがメルトワ語を会得していたからこそ成り立たった事であり、エレネーゼは改めて、自らも語学を学ばなければならないと痛感したのだった。
小鳥がさえずり、木々の間にリスの姿も見える庭...自然に抱かれたサヌー城は美しい城だとエレネーゼは思った。
「早ければ、明日にも王城の者が来るはずです。僕が飼育している伝書鳩に詳しい手紙を付けて放っておきました。お二人の無事を知って、父上も母上もさぞ喜んでいるでしょう。いろいろ準備を整えてから迎えに来ると思いますよ。」
果実酒を口にしながら、セネバはにこやかに告げた。鷹に任せた一報の後、詳しい状況を手紙に書いて鳩に託した。人が馬で走るより、鳥の方がずっと早く飛ぶことが出来るからだった。
「禊を終えた事をご報告をしなくてはならないのは分かっているけれど、私は、もう少しここに居たい気がするわ。」
テーブルに頬杖をつきながら、エレネーゼが言った。
「何故だい?」
ブラストが問い返すと、セネバも視線を送る。
「マージが近くに居る気がするの...ここに居なさいと言われている様な気がして...」
「声が聞こえるのですか?」
「いいえ、ただ気配を感じるだけ。」
…マージの導き?
ブラストは周囲を見渡した。サヌー城は王城よりも高い場所にある。サンザスでも最もメーヴェに近い城なのだ。
「僕は歓迎しますよ。姉上がそうしたいのなら。」
「姉上?」
「目を覚まされる前に、兄上がそう紹介してくれたのです。」
「...妻?」
エレネーゼは頬を染め、ブラストを見つめた。自分にはまだ言ってくれたことのない言葉だ。
「ブラスト...」
熱い眼差しがブラストを捉えた。またしても危機が訪れる...エレネーゼは本気だ。
兄が困惑するのを見て、セネバはすぐに状況を察した。生真面目な兄は誘惑に必死に耐えている...エレネーゼの気持ちとは裏腹に。
「日暮れまでに片付けをして寝床を作りましょう。今夜は穏やかな夜になりそうです...僕は飼育棟で眠りますから、お二人はお好きな部屋を使って下さい。」
「飼育棟に?」
「ええ、少し心配な容態の子がいるのです。傍についていたほうが良さそうなので。」
「助けは?」
「いいえ、僕だけで十分です。兄上はゆっくり眠って下さい。」
「そうか。」
ブラストは納得して頷いた。セネバは生き物の知識に長けている。幼い頃から動物が好きで、常に本を読んでいた。争い事を好まない彼を、父も騎士として鍛えようとしなかったのだ。
「何かあったら遠慮なく言うのだぞ。」
「そうします、兄上。」
…なんて素敵なのかしら。
仲の良い兄弟に、エレネーゼの胸が高鳴った。この二人が自分の家族になる...本当に幸せなことだと感じた。
その後、セネバは日暮まで周囲の巡回に行くと告げ、城の外へと出て行った。
ブラストは十数年ぶりに訪れたサヌー城を、エレネーゼを連れて見て周った。
小さいとはいえ、内部の設備は整っているし、セネバの言う通り、清潔さも保たれている。客室には様々なタペストリー が飾られ、それぞれ天蓋のあるベッドや、調度品などが置かれているのだった。
「どこがいいかな。」
ブラストは尋ねた。
「好みの寝室を選ぶといいよ。」
「私の?」
頷くブラストをエレネーゼは見上げた。
言葉使いが、まるで他人事の様だったからだ。
「寝室は二人で決めるべきではないの?」
「エレナ...」
「夫婦なのに、別々の部屋で寝るつもり?」
「まだ正式じゃない...挙式を終えてから──」
「嫌よ!」
エレネーゼは声を上げた。泣き顔になり、目に涙を浮かべる。
「やっぱり、ブラストは私のことが嫌いなのね...だからそんな意地悪を言うんだわ!」
「意地悪?」
「だってそうでしょう?愛しているならひとりになんてしないはずよ!」
「だがそれは...」
「ブラストなんて大嫌い!」
エレネーゼはとうとう泣き出した。子供の様に肩を振るわせ、嗚咽をまじえて泣きじゃくった。
…泣き脅しだ。
エレネーゼのそれは茶飯事かもしれないが、この願いは我儘とは言えない。無視すれば深刻な溝が生まれるに違いなかった。
…もう限界だ。
ブラストは決意し、エレネーゼを抱き寄せた。両腕に力を入れ、耳に口を寄せる。
「君は間違っている...私をみくびっている様だ。」
ブラストの声音が変わったのに気付き、エレネーゼは泣くのを止めた。声は低く、いつもより真剣だ。
「...ブラスト?」
「疑いを晴らさなくてはならない...さあ、一緒に部屋を決めよう。」
ブラストは短く告げた。
顔を離してエレネーゼを見つめ、最後の意思を確認した。
「はい。」
エレネーゼが素直に頷くと、ブラストは白く細い手を握って歩み始めた。
薄暗い回廊に、二人の靴音だけが響き渡った。
つづく




