第9話 王子のともだち
ローワン王子の部屋に初めて夕飯を持っていくようになってから、一ヶ月。あれからローワン王子への夕食の給仕を何度か仰せつかるようになった。
ベイルの腰が治ったその後も、ローワン王子直々の指名で、週に二、三度夕食を運んでは話に花を咲かせている。
もちろんこれまで通り、扉の前にキッチンワゴンを置いて、それをローワン王子が部屋の中に入れるので、扉で王子の顔は見えないし、直接顔を見て話をするわけではないが。
最初の頃は床にそのまま座っていたのだが、それじゃ腰が痛くなるだろうと、ローワン王子の計らいで、扉の前に座り心地の良い椅子をミモザのために置いてくれた。
ローワン王子との会話は本当に楽しくて給仕の日は胸が躍る。
「ミモザ、温室には慣れたかい?」
風邪はとっくの昔に治ったはずなのに、まだ鼻声が残っているローワン王子はドア越しに投げかける。
「はい、ロウィ様もアンダーソン様もとても優しいですし、なにより毎日たくさんの草木に囲まれて本当に幸せです!」
「それは良かった。あそこは僕にとってとても大切な場所だから、ミモザみたいに植物に愛のある人に世話をしてもらえて本当にうれしいよ」
以前、アンダーソンから聞いた話を思い出した。ローワン王子が幼い頃、温室がまだバラの館だけだった頃の王妃の話。
「温室は……王妃様との思い出の場所なのですよね」
自分も母との思い出の場所が庭だったこともあり、ローワン王子のことがよくわかる。
「ああ。草花がとても好きな人だった……」
切ない過去を懐かしむような口ぶりだった。大切な人の死は、いくら時間が経っても、悲しいままだ。傷は時間が癒してくれるし、思い出にもなるけれど、それでも楽しいものにはならない。それをミモザは知っている。
しんみりした雰囲気に、ミモザは殊更に元気なふりをした。
「私、昔一度だけ王城を訪れたことがあるんです! その時に迷子になって迷い込んだ場所があって。今思えば、あれは温室だったのかもしれません」
昔、王城で迷子になった日のことを思い出す。バラの香りが部屋中いっぱいに詰まっていたあの場所は、きっとバラの館だったのだろう。
「王城でどうやって過ごしたかとかは覚えていないのですが、温室の中の花々の美しさだけは覚えています。丁寧に愛情込めて育てなければ、ああはなりません」
バラを育てると言ってもただ水をやるだけではない。雑草をむしり、剪定をし、花がら摘みをし、適温を見極め、虫に気を使う。かなりの愛情がないと、あそこまで綺麗には育たない。
「あれはきっと王妃様が育てられていたのですね。愛情深くて素敵な方だったのでしょうね」
「会ってないのにわかるのかい?」
「もちろんです。植物は嘘をつきませんから。愛情を受けた分だけ、美しくなるのです」
「……ああ、本当にその通りだね。とても、とても愛情深い人だった」
ローワン王子はいつも通り穏やかな声で、でも少し嬉しそうに話す。
「実はあの温室は、母と、もう一人、大切な人との思い出の場所なんだ」
「大切な方……ですか?」
「ああ。初恋の人なんだ」
「まぁ。素敵です!」
自称恋愛小説のスペシャリストなだけあって、人の恋愛話は大好物だ。自分の恋愛となるとさっぱりなわけだが。
「もう十年も前のことなんだけど、あの場所でその子に出会ったんだ。だから温室は僕にとって二つの意味で大切な場所なんだ」
優しい声色に、ローワン王子はきっとその人に、今も恋しているのではないだろうか、と女の勘が言っている。
自分の恋愛じゃなければ、なかなかに勘が良いほうなのだ。
それにしても、ローワン王子が十年も思い続けるとはどんな女性なのだろうか。
きっととても素敵な人なのだろう。
知的で教養もあって、とても美しくて。
小説の中の王子とお姫様の話を聞いているようで、うっとりする。
「どんな方だったのですか?」
ミモザは好奇心が抑えられる、思わず訊ねた。
「そうだな......。明るくて、優しくて、太陽みたいな人なんだ。ふさぎ込んだ僕を照らしてくれた。しかも二回も。そういう人なんだ」
口ぶりから、ローワン王子のその方への想いが伝わる。
一人の人をそんなに思い続けることができるローワン王子を心底尊敬すると同時に、十年もの間、思われる相手の女性を羨ましく思う。
女性ならそんな風に一途に思われてみたいと一度は考えるだろう。
昔読んだ小説に、人には全員、運命の相手がいるのだと書かれていた。
ローワン王子の想い人が、ローワン王子の運命の相手だといいなと思う。そうであってほしい。
その一方で、自分にも運命の相手がいるのだとうかと考える。
自分のことを一途に想ってくれる人が現れるなんて想像もできない。運命の相手がいるのなら、早く現れてほしいものだ。
「ミモザは? 君は初恋はいつ?」
不意な質問に、虚を突かれ「ひぇ」と情けない声が出る。
え、あの、その、と言葉にならない声が漏れ挙動不審になってしまう。
「私は……」
たっぷりの沈黙の後、ミモザはポツリと呟いた。
「私は、今でしょうか……?」
言葉にした瞬間、全身の血液が顔に集まってくるかのように熱く、赤くなる。ドア越しでよかったと本当に思う。今の表情をローワン王子に見られたら恥ずかしくて死んでしまう。
自分の内に秘めていた想いは、口にした瞬間、初めて現実となってミモザの目の前に現れた。
言葉にさえしなければ、なかったことにでもできたのに、口に出したらもう後には引き戻せない。
靄がかかってよく見えなかった道の視界が急に開けたような、そんな気分。
これまでひた隠していた感情を、なぜ言いたくなったのかはわからない。
ローワン王子相手に嘘をついてはいけないと思ったのか、それとも名前まで言わなければ問題ないと思ったのか、はたまた誰かにこの想いを知ってほしかったのか。
答えはミモザにもわからなかったが、言葉に出すと、胸のわだかまりがなくなった気がした。代わりに、抑えていた感情がじゃぶじゃぶと溢れて止まらない。
――好き。私、ロウィ様が好きなんだ。
好きという感情は湧き出てくるものだということを、ミモザは初めてしった。
「そっか。……その人には告白したりはするの?」
ローワン王子が穏やかな口調で訊ねた。
「いえ。どうにかなりたいとは思っていないので告白はしません。結婚はもうこりごりですし、恋愛にはむいていませんし。ただ心の中で思うだけです」
「そう……なんだね」
「だから、一生ここで働こうと思っていますよ! おばあちゃんになっても温室はお任せください」
「ふふふっ。頼りになるね」
ローワン王子の笑い声は、どこか影を持って鼓膜を揺らした。
その時、西の方角から時計台が鳴った。ゴーンゴーンという鐘の音は骨まで響くような重低音で、夜を一層、夜たらしめる。
「あ、もうこんな時間だ。ローワン王子、私そろそろ失礼いたしますね」
そう言って、ドアの前の丸椅子から腰を上げたとき、ローワン王子がミモザを呼び止めた。
「まってミモザ。あの話があるんだ。あの……その……」
その言葉はどうも歯切れが悪い。
何か言い出しにくいことなのだろうかと考えていると、ローワン王子はやっとこさ言葉を紡いだ。
「あの、僕の……友達に…、そう! 友達になってくれないか」
ここまで話が合う人は初めてなんだ、とローワン王子は付け足す。
「友達ですか?」
「ああ。もちろん君は僕直下の庭師だけど、あの、ここに来ているときだけは……、友達として、話して欲しいんだ」
ローワン王子は現在、齢十七だ。三年前から引きこもられている。ということは、十四歳からずっとこの部屋にいたということだ。もしかすると友人と呼べる人もいないのかもしれない。
かくいうミモザもそうだ。
植物オタクが災いして、学校では友人と呼べる人がいなかった。土いじりは、貴族のやることではないと馬鹿にされてきた。唯一そばに居てくれたのは侍女のマーガレットだけだ。
だから、ローワン王子の気持ちがよくわかる。迷いなんてなかった。
ミモザは声を弾ませる。
「もちろんです! むしろ私なんかでよければ喜んで」
「ありがとう」
ローワン王子が心を開いてくれたことが素直に嬉しくて、友という響きが心地よくて、そして、自分の恋心を認めたことが気恥ずかしくて、その日はなかなか寝付くことができなかった。