第4話 ロウィの過去
額から吹き出した汗が輪郭を沿って、頬から顎に伝い、顎から地面にぽとりと落ちた。
それと同時に、言葉が口からぽろりとこぼれる。
「暑すぎる……」
夏の暑さで脳が鈍っているのか、その言葉が自分の口から出たものだと気づくのには、時間がかかった。
あ、と手で口を塞いだのは、近くにいるアンダーソンに声が聞こえてしまったかもしれないと思ったから。
その予感は的中していて、ミモザの声にアンダーソンは手を休め、口を開いた。
「すこし休みましょうか」
「いえ、全然大丈夫です。まだ頑張れます! すみません、言葉がうっかり口から出てしまって……」
簡単に音を上げて、これだから侯爵令嬢は、とは思われたくない。
ミモザは元気をアピールするように両腕を殊に動かしてみる。
しかし、アンダーソンは首を横にふった。
「無茶と努力は違いますよ。口から思わず出てしまうってことは体がSOSをだしているのでしょう。私もそろそろ休憩したいと思っていましたし。そうだ、ハーブティーでもいかがですか?」
私もこれ以上頑張っては、また腰をやってしまうかもしれませんし、と付け加えて笑うアンダーソンに、ミモザは静かに、はい、と返事をした。
夏の温室は室温の調整が必須だ。
温室にはたくさんの管が張り巡らされており、そこを水が循環することで夏は室温が高くなり過ぎないようになっている。
というのも、あまりに暑いと植物がだめになってしまうのた。
けれど今朝はその空調の調子が悪く、いつも以上に室温が高くなってしまっている。
現在急ぎで空調の点検をしてもらっているが、その間も、温室はどんどん暑くなっていく。
どうにかこの局面を乗り切らなければと、とりあえず、プランターで育てている植物たちは外に出して、少しでも被害を減らそうと試みるが、二人でこの量を移動させるのはなかなかハードだ。今日はロウィがいないので、アンダーソンと二人での作業なのだ。
アンダーソンが来るようになってから、ロウィは定期的に温室の仕事を休むようになった。
アンダーソン曰く、王城の他の庭の手伝いをしているらしい。
王城の庭はかなり広い。温室もなかなかの面積があるが、それとは比べ物にならない広さだ。
男手はいくらあっても足りないのだろう。
そういうことで今日はアンダーソンと二人での作業なわけだが、開始一時間でもうすでに体がばてて、弱音を吐いてしまった。
自分の不甲斐なさに落ち込んでいると、温室の外に出されたミントのプランターの前に立つアンダーソンがこちらを振り返り、優しく声をかけた。
「ミモザさん、ミントは大丈夫ですかな?」
「ミントですか? あ、はい! とても好きです」
アンダーソンはミモザの返事に微笑みたと、庭のミントの葉をちぎって軽く揉むと、手に持っていたティーポットに入れた。
温室の外へ出てすぐのところにある、大きなパラソルの下に置かれた、簡易のテーブルセットに腰掛ける。
紅茶はアンダーソンの趣味らしく、これまでいろんな紅茶をふるまってくれた。
特に美味しいのは、春に咲いた温室のカモミールを使って作った紅茶で、今日もティーポットからはカモミールの甘い香りがふわりと漂ってくる。それと同時に、鼻をすうっと通り抜けるようなミントの香りも。
目の前で上司が自分のためにお茶を準備してくれる様子を見ながら、温室の労働環境はかなりホワイトだなとミモザは改めて感じる。
アンダーソンだけではない。ロウィもそうだ。
以前、ミモザがスコップで誤って手に切り傷をつけてしまった日、ロウィはすぐにアロエと呼ばれる貴重な多肉植物をとってきて、葉から出る保湿エキスをこれでもかというほど手に塗ってくれた。
血がじんわり滲む程度の小さな切り傷だったのに、まるで重篤なケガでもしたかのように心配する姿に、思わず笑ってしまったほどだ。
一番下っ端なのだから、もっと馬車馬のように働かされてもいいようなものなのに、そういったことをされたことは一度もない。
もちろん、これをしておいて、あれを持って行って、といった仕事の指示はあるが、決して無理がない範囲でできるように気を遣ってくれているのがわかる。
もしかして侯爵令嬢だということを配慮してくれているのかと、当初は思っていたが、そういうわけでもなさそうで、本当にこの職場は素晴らしいのだと知る。
「アンダーソン様は温室だけでなく、王城の庭すべてを見られているのですよね?」
お茶ができるまでの間を埋めるように、ミモザはアンダーソンに話しかけた。
「ええ。とはいっても温室含め、優秀な庭師ばかりなので私はほとんどお飾りの庭師長みたいなものなのですがね」
目を細めて笑うアンダーソンの謙遜が本当に謙遜だということを、ミモザは知っている。
アンダーソンは決してお飾りの庭師長ではない。
植物姫と呼ばれたミモザですら知らないことをたくさん知っているのだ。
歩く植物図鑑と言っても過言ではない。
「昔から王城で働かれていたのですか?」
どうしたらアンダーソンのようになれるのか知りたくて、少しでも近づきたくて、ミモザは質問を投げかけた。その域に達するにはあとどのくらいかかるのだろうか。
「はい。昔からこちらで庭師をしております。かれこれ五十年ほどでしょうか」
「ご、五十年……」
あまりの長い年月に感嘆してしまう。そこまでやれば自分もアンダーソンのようになれるのだろうか。
「実は、昔はミモザさんと同じで、温室専任の庭師でした」
「あっ、そうなのですね」
「はい。温室ができた時に専任になり、一度温室が取り壊されることになったときに、今のように――」
「え!」
話を最後まで聞く前に、思わず声を出してしまう。
「大きな声を、すみません。でも温室が取り壊された過去があったなんて知らなくて」
「取り壊されてませんよ」
「でも今……」
「結局取り壊されなかったんです」
アンダーソンは過去を思い出すように目を細めた。
口元は笑っているのに、どこか泣いているようにも見えるその表情に、思わず息を呑む。
アンダーソンは何かを決意したように頷くと、ミモザさんにはお伝えしておきましょう、とゆっくり話し始めた。
「もう何年も前のことです。今の王様、グレイス様の奥様、つまり王妃様がまだご存命だった頃」
温室は今よりもずっと小さくて、バラの館ただ一つだったのだという。
王妃はとても植物の好きな女性で、温室は王妃のために、王が作ったものだった。
その温室で王妃は、自分の好きな植物を愛で、慈しみ、大切に育てた。
それまでは一介の庭師だったアンダーソンだが、その腕を買われ、たった一人、王妃直下の温室専属庭師になり、王妃とともに温室の世話に勤しんでいた。
ある年。国内で流行り病が蔓延した。けれどもその病の特効薬はすぐに開発され、薬さえ飲めば治ると言われていた。
王を初め、王妃、王子と順番に床に伏してしまったが、薬のおかげで、皆、回復に向かっていると、そう思われていた。
けれども、王妃が再び国民の前に姿を見せることはなかった。三五歳という若さだった。
「まさか亡くなることになるとはだれも思っていませんでした。ただ、王妃様は体が少し弱いところがあられたので、だからではないかと、当時王妃を診た医者はそう言っておりました」
けれど王は、あまりに突然の最愛の人の死を受け入れられなかった。
そして、国中の有望な医者を集め、王妃の死因が本当に流行り病だったのかを調べるように命じた。
王の中ではある疑念があったのだ。
薬さえ飲めば治ると言われている流行り病で、王妃が亡くなるわけがない。王妃はもしかすると毒殺だったのではないか、誰かに殺されたのではないか、と。
けれど、どれだけ優秀な医者が集まっても王妃の死因はわからなかった。やはり流行り病が原因ではないかと結論づけられようとした時、西からの旅人がその事実を覆すことになる。
「その異国の男は、植物学者と名乗り、あらゆる国の植物を見て回っているのだと言っていました。バレスティン王国にしか咲かない花や木々を見て回っているとき、王妃の話を耳にして、もしかしたらと、直に王に進言しに来たのです。なんでも彼が言うには、特定の植物や食べ物に弱い人がいる、とのことで、王妃もそうだったのではないかと。バレスティン王国内の有能な医者ですら、知り得なかった情報です。その時、初めて調べて分かったのです。王妃にアレルギーがあったことを」
「……!」
「いまでこそアレルギーという言葉は一般的になっていますけれど、当時は、その言葉すらこの国にはなかったのです」
ミモザは息を飲んだ。
今の医療では、食べ物や植物、動物にでもアレルギーがあるのだと証明されている。しかし十年前までは、それは未知の病だったのだ。
「それも王妃様のアレルギーは、王妃の一番好きな花……バラのアレルギーだったのです」
決して重度なアレルギーではなかったようだが、流行り病で免疫が落ちていた王妃には、少しのバラも毒になり得た可能性がある。
「王様は大変ショックを受けておられました。なぜなら病に伏して温室に通えない王妃様の代わりに、王様が毎日温室のバラをお見舞いにと、王妃様の部屋に届けていたのですから。そして、王妃はそのバラを花瓶に生けていらっしゃいました」
毎日一本ずつ増えていくバラ。それは王から王妃への愛情である一方で、王妃の体を少しずつ蝕んでいたのかもしれない。
それを知った時、王はどれほどの絶望だっただろうか。その苦しみは想像をはるかに超えるだろう。
もう聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。そう思うほどに悲しい話だった。
王は自分を責めた。自分がバラの花を持っていかなければ。
そうすれば王妃は死なずにすんだのにと。
「しばらくして、王は温室を取り壊すことを決めました。温室を見ると王妃を思い出して苦しいのだと。王妃の命を奪ったバラが、そしてそれを何も知らずに部屋に持って行った自分が、憎いと。温室の取り壊しに関して、誰も王に反対するものはいませんでした。誰も反対できなかった」
アンダーソンは当時を思い出したのか、苦しそうに目を眇めた。
誰も王に声をかけなかった。
だって、どんな言葉も無意味だから。
どんな言葉だって、人の死を前にしてはただの文字の羅列に成り下がる。
どんな言葉も傷を癒すことはできないのだ。
だけど、とアンダーソンは言葉を続けた。
「ただ一人、第三王子のローワン様だけは違いました」
ローワン王子は王妃の後をついていくのが大好きで、よく二人で温室に来ていたという。
「温室はローワン様にとって、王妃様との大切な思い出の場所で、だから取り壊さないでくれと、王様に直談判されたのです」
ローワン王子は王を説得した。
王妃が王のバラをどれだけ嬉しく思っていたか。
毎日持ってきてくれるのを病床から、どれだけ心待ちにしていたか。
「ローワン様は王様に提案されました。壊すのではなく、より良い未来のために、温室を有効活用していこうと。まだ当時七歳であられましたが、その瞳はまっすぐに未来を見つめていらっしゃいました」
アンダーソンは沸騰したお湯を茶葉の中に入れる。
ガラスでできた透明のティーポットの中で、茶葉が目まぐるしく踊る。
「当時の温室は今もなお取り壊されることなく現存しております。それが温室の中で一番小さい、バラの館です。その後、ローワン様は植物アレルギーの研究を進めるため、温室を広げ、様々な植物を育てるようになられました。現在ここで作られた植物の一部は植物アレルギーや、医薬品の研究などに使用されているのです」
近年、アレルギーという言葉が一般的に周知され、薬の開発も進んだのにはそういう背景があったのか。
自分の育てた植物たちがそういった使い方をされているなんて、知る由もなかった。
ローワン王子のことは、ひきこもりという以外は人柄も容姿も何もかもしらないけれど、悪い人では絶対にない。
ミモザはそう思った。
ティーポットの中の茶葉は沈殿して、先ほどまで透明だったお湯はゆっくりじんわり茶色に代わっていく。それを見つめながら、ミモザは、あの、と声をだした。
「もうすでに分かっていらっしゃることだとは思いますが……、バラ科のアレルギーを引き起こすものは、バラだけではありません。リンゴや桃、サクランボもバラ科の一種です。いくら免疫が弱っていたからと言って、バラの花が近くにあっただけで死に至るとは思えず……。だから実際王妃様が亡くなられた原因は王様ではないかと、……思います」
自分なんかが口を挟むべきことではないと分かっているし、釈迦に説法かもしれない。
それでも口を挟みたかった。
王のせいではないと言いたかった。
だってあまりにも悲しすぎる。愛する人のためにとった行動が愛する人を死なせてしまうなんて、そんなことない。そう願いたい。
アンダーソンはゆっくりと微笑む。
「ええ。少し前にそのことが分かったとローワン王子も仰っていました。王もそれを聞いて、少し心が救われたようでした」
ミモザはほっと胸をなでおろした。
もちろん、だからと言って王妃を失った王の悲しみが半減するわけではない。
それでも、自分のせいだと嘆き苦しみ、後悔する日々から救われればと思う。
「ローワン王子は素晴らしい方なのですね。私もその思いに報いることができるように、頑張ろうと思います」
力を込めて話すミモザを見てアンダーソンは穏やかに微笑んだ。
「ミモザさんは十分頑張られていると思いますよ」
そう言いながら、ゆっくりとティーポットのお茶をカップに注ぐ。華やかな香りがふわりと漂う。
「はい、できました。特性ハーブティーです。カモミールとミント以外に隠し味を入れているので当ててみてください」
先ほどまで重かった空気が嘘のように霧散し、小さなクイズ大会が開催される。御年七十歳の茶目っ気たっぷりの笑顔に、ミモザも思わず笑顔になる。
目の前のカップを手に取り、一口紅茶をすすると、カモミールの甘い華やかな香りが鼻腔に広がる。ごくりと飲み込むと、今度はミントのすっきりとした清涼が咽喉を通る。その間に、ほのかにフレッシュな爽やかさを感じた。
「これは……レモングラス……。いや、違うなもっと瑞々しいなにか。柑橘系かな……?」
答えを最後まで絞る前にアンダーソンは、ミモザに向けて拍手する。
「おみごと。実はオレンジの皮を入れてみたんですよ。なかなか味が広がっていいでしょう」
「ああ、オレンジでしたか」
なるほど、この瑞々しい酸味はオレンジか。しかし紅茶にオレンジの皮を入れるなんて、なんてハイカラなんだ。
再度紅茶に口をつける。ミントの清涼とオレンジの爽やかさが、夏にぴったりだった。
「美味しい」
しみじみと呟くと、アンダーソンは笑みを深めた。
「これはね、坊ちゃんも好きなフレーバーなんですよ」
「ロウィ様も……」
そう言いながら、ミモザはロウィのことを思い浮かべた。
「可愛い」と言われたあの日から、どこかロウィのことを意識してしまう自分がいる。
もちろん仕事に支障はきたしてはいない。けれど話をするたびにどこかそわそわしてしまうのだ。
ロウィはミモザの小さな変化に気づいてくれる。
「髪切ったんだ、可愛いね。似合っているよ」
「リップを塗っているなんて珍しいね。ミモザは色が白いから色のついたリップがよく似合うよ」
「ポニーテールも似合ってたけど、三つ編みもいいね」
髪を切っても、化粧を変えても、新しいヘアスタイルに挑戦してみても、アデスは何も言わなかった。 いや、気づいてすらいなかったと思う。
それでも特に何も感じてはいなかったが、気づいてもらえることが、こんなに嬉しいとは。
自己満足ではなく、誰かに気づいてもらうために身なりを気にし始めたのは初めてのことだった。
もちろんそれがロウィにとって特別なことではないことは重々承知だ。
ロウィにとって、女性を誉めることは、きっと当たり前のことで、特に深い意味はないのだろう。
おはよう、とか、お休み、とかそんな感じ。
それでもミモザにとっては生活の潤いだった。
「あの、アンダーソン様はロウィ様と昔からお知り合いなのですか?」
ミモザは以前より気になっていたことを訊ねてみた。
アンダーソンはロウィを坊ちゃんと呼ぶ。
ロウィは今年で二十歳だそうだが、坊ちゃんと呼ぶ年齢でも容姿でもない。
つまり昔からの仲で、その名残で今も彼を坊ちゃんと呼んでいるのではないかと、そう思ったのだ。
「ええ。坊ちゃんとは家族ぐるみのお付き合いなのです。坊ちゃんが鼻水を垂らしていたころから知っております」
「ふふ。ロウィ様も鼻水を垂らしていた時期があったのですね」
「ええ。坊ちゃんには内緒ですが、それはそれは垂らしておいででした」
愛しいものを思い出すように穏やかな表情をしているアンダーソンを見ながら、ミモザはロウィの幼少期を想像する。
けれど、どう頑張ってみても今の端正で精悍な顔つきのまま幼児になった姿しか想像できない。
鼻を垂らしていたなんて、本当だろうかと疑ってしまう。
「坊ちゃんはそれはそれは泣き虫でね。よく、お父上に「人前で泣くな」と言われておいででした。でも、ある時から泣かなくなったんです。強くなられたんですね。……でも数年前に、大変ショックなことがあったようで。その時は何も声をかけることができず、私は遠くから見守ることしかできませんでした……」
当時を思って、アンダーソンは表情を曇らせた。
でも、と言葉を続ける。
「少し前からまた前のような坊ちゃんにお戻りになられて。本当に嬉しかったです。死ぬまでもう二度と、坊ちゃんの笑った顔は見れないかもしれないと思っていましたので」
アンダーソンの話しているロウィは、ミモザの知っているロウィとはまるで別の人のようだった。
だってミモザの知っているロウィは、いつも太陽のような笑顔で、どんな小さなことにもありがとうを欠かさず、優しく瞳で微笑みかけてくれる、頼りがいのある庭師の先輩なのだ。
笑顔のないロウィなんて、まるで想像ができない。
ミモザが驚きのあまり口をポカンとあけているとアンダーソンが頭を軽く下げた。
「最近の坊ちゃんが笑っていらっしゃるのは、ミモザさんのおかげです。本当にありがとう」
突然の感謝にミモザは首を横にふった。
「いえ、わたくしは何も!」
謙遜ではない。本当に何もしてないのだ。
だってミモザが来た時にはすでに、ロウィは今のロウィだったのだから。
「それでも。それでもあなたがここに来てくれて本当に助かりました。これからもよろしくお願いしますね」
表情は穏やかだけど、いつもよりすこし真面目な口調のアンダーソンにミモザは何も言えず、ただこくりと頷いた。
アンダーソンは、にこりと微笑むと、それじゃぁそろそろ休憩は終わりにしましょうか、と腰を上げた。
ミモザは少し残った紅茶を一気に流し込んで、席を立った。
オレンジの甘酸っぱさが、口の中いっぱいに広がった。




