第3話 ”かわいい”なんて
「ミモザ、バラがカミキリムシにやられているみたいなんだ。後でバラの館へ行って薬を塗っておいてくれないか」
ペチュニアの花がら摘みをしていると、上から声が降ってきた。
声の主を探そうと見上げると、脚立に上ったロウィがミモザを見下ろしていた。
どうやら伸びた木々たちを剪定しているらしい。
バラの館とは、四つに分かれた温室の一つである。
温室は四つの建物で構成されていて、それぞれの植物ごとに適温が異なるため、建物ごとに温度を調整している。
その中でもバラの館は、ほかの温室とは異なりかなりこじんまりした造りで、名前通りバラの花が沢山植えられていた。
「わかりました。カミキリムシは雑草の多いところに出やすいですから、周りの雑草もしっかりとっておきますね」
上にいるロウィに声が聞こえるように、少しだけ声を張って返事をする。
「そうなんだ。最近あのあたりの雑草まで手が回っていなかったから虫が増えたのかもしれないな。ミモザ、気づいてくれてありがとう」
ロウィはミモザと同様に少しだけ声を張ると、ニコリと微笑んだ。
王城の温室で働き始めて三ヶ月が経った。
仕事は意外にも肉体労働で、最初の一ヶ月は毎日のように筋肉痛に悩まされたが、今ではすっかり慣れてしまった。
麦わら帽子に軍手姿も板についてきて、もはや周りから侯爵令嬢とは思われない姿である。
これまでワートル家の小さな温室と、机上だけで植物を嗜んでいたが、ここではその倍のスピードでいろんなことを学べる。
大好きな植物に囲まれながら、一日中植物のことだけを考えられるなんて、庭師の仕事は天職以外の何ものでもない。
花がら摘みを素早く終わらせ、バラの館まで向かおうと、かがんでいた腰を上げた時、再びロウィに呼び止められた。
「そういえばカモミールにアブラムシがたくさん寄ってきているのだが、何か対策はないかな。カモミールティーにしたいから、できれば農薬は使いたくないんだ」
でしたら、と言いながら、ミモザは頭の中の図鑑をパラパラとめくる。確か、アブラムシには――。
「アブラムシには、ハーブを近くに植えると虫がつきにくいですよ。ハーブの放つ芳香が虫は苦手なのです」
「ハーブか、なるほど。剪定が終わったらやってみよう」
「ただしハーブといっても、いろいろありますので、注意が必要です。地続きで植えられる場合は、おすすめはラベンダーです。ラベンダーはミントなどのハーブとは異なり、繫殖力がさほど強くはないので、省スペースでも栽培可能なのです。同じハーブでも、ミントを地続きで植えてしまうと、あまりに繫殖して、かえってカモミールの栄養をミントが奪ってしまい、枯れさせてしまう可能性もあります。なので、もしミントをご使用される場合は、プランターに植えていただければ。プランターのミントをカモミールの周りに囲むように置いておけば効果があるかと思いますよ」
一息に話して、満足げにロウィを見上げると、そこには驚くように目を見開いたロウィがいた。瞬間、ミモザはやってしまった、と頭を抱えた。
以前、お茶会で「ご趣味はなに?」とご令嬢方に聞かれた時と同じように、無我夢中でマシンガンオタクトークを繰り広げてしまったのだ。
結婚していた時、アデスにも「植物の話のときだけ饒舌になりすぎて気持ち悪い」と言われていたのに。
植物のことになると、ついつい知っていることをすべて話してしまいたくなるのはミモザの悪い癖だ。
ただでさえ、庭師のわりに爵位が高く、しかも年上で扱いづらいと思われているかもしれないのに。
二十三歳のミモザに対し、ロウィは二十歳。年齢的にミモザのほうが上なのだ。
年上の後輩、しかも侯爵令嬢など、扱いづらい以外のなにものでもないだろうに、そこに気持ち悪いまで加えさせては、一緒に働くロウィに申し訳ない。
オタク丸出しの話しぶりに、言ったそばから後悔の念に駆られていると、ロウィのカラッとした声が耳に聞こえた。
「なるほど! 本当にミモザは物知りだね。とても勉強になるよ。いつもありがとう」
優しい微笑みがミモザに降り注ぐ。
ありがとう、というロウィの言葉が反芻されて、じんわり胸に溶けていく。
ロウィはいつもお礼を欠かさない。
小さな仕事だろうと、絶対にありがとう、と言ってくれる。
それはミモザの励みになっているし、そう言われるたびに、自分はここに居ていいんだ、と思えた。
フランシス家では一度もこんなに満ち足りた気持ちにはならなかった。
結婚してからも、どこか他人の家で寝泊まりしているような、間借りさせてもらっているような、そんな窮屈さを感じていて、それは最後まで変わらなかった。
サイズの小さい服を着せられた時のような息苦しさが、いつもついてまわった。
ミモザはあの家で空気だった。植物のほうが存在感があったくらいだ。
無論、アデスにありがとう、と言われたことは一度もない。
アデスとの離婚後、ワートル家のみんなはミモザを優しく受け入れてはくれたが、その優しさが苦しくもあった。
施しを受ける一方で自分は何もできていない状況に肩身が狭くなる。
この家に居ればお荷物になってしまう。不甲斐なさは日に日に募っていった。
しかし、ここでは違う。こんな自分でも誰かの役に立っている。
空気でも、お荷物でもなく、必要とされている。そう思えた。
午前中の作業が終わって昼ご飯を食べようと、ロウィと温室の出入り口に向かっていたとき、温室の扉が外からゆっくりと開いた。
そこにはベイルと、白いひげを蓄えた初老の男性がいて、何やら話をしながら温室へ入ってくる。
万年仏頂面のベイルと違って、初老男性の方は、デフォルトでニコニコと微笑んでいるようで穏やかな雰囲気がにじみ出ている。
ロウィは二人に気が付くと、足早に向かっていった。
「アンダーソン! 腰は大丈夫か?」
「ロー坊ちゃん、ご迷惑おかけしましたね」
アンダーソンと呼ばれた男性は、かがめた腰を少し伸ばしながらロウィに頭を下げた。
「迷惑だなんて、全然。僕のほうこそ、これまでアンダーソンに任せきりだったから、本当にすまない」
「いえいえ、この温室を守るのはわたくしの使命ですから」
どうやら話を聞く限り、この初老男性が腰を痛めた庭師長なのだろう。
二人の様子を少し後ろから見ながら、挨拶のタイミングを伺う。
その時、ロウィ越しのアンダーソンと目が合った。
アンダーソンはミモザを見るなり、ほう、と目を細める。
「これはこれは、かわいらしい女性じゃないですか。新しく雇われた植物姫とは彼女のことですかね。軍手と手ぬぐいがよくお似合いだ」
アンダーソンはミモザの首にかけられたタオルと、泥だらけになった軍手を見て笑みを深める。
穏やかで優しい瞳だ。
初めまして、と挨拶をしようとしたとき、横からとびきり明るい声がした。
「ああ、そうだろう!」
ロウィの声だ。
勢いのある賛同に、一瞬何事? と首を傾げそうになったが、最前のアンダーソンの言葉を思い出して、なるほど。
『軍手も手ぬぐいもよくお似合いだ』にロウィも激しく共感してくれているのだなと解釈する。
軍手が似合っているなんて、庭師として最高の誉め言葉だ。
最近は自分でも一番の似合う格好だと自負している。
ありがとうございます、と頭を下げようとすると、またしても先にロウィの声が重なる。
「本当にかわいらしいだろう」
「ありが……え?」
自分の思っていたものとは違うロウィの言葉に、ミモザは思わずフリーズした。
そんな様子など気づいてはいないロウィは、改めた口調で声をあげた。
「そうなんだ、ミモザはとてもかわいいんだ」
何かの冗談かと思ったが、眩しいほどに真っ直ぐな瞳からは、揶揄いの色は見られない。
ミモザはあまりに急な言葉に謙遜することも忘れ、固まったまま、ただ顔を赤らめた。
だってそんな言葉。他の殿方はもちろん、アデスにもかけられたことはないのだ。
三年も結婚して、一度も。
アンダーソンの「かわいらしい」というのは、一種の社交辞令であって、それはいくらミモザでも言われたことはある。
初めましての挨拶の一部であり、女性に対してのマナーなのだ。
その「かわいらしい」に対しての返事は一つ。
「ありがとうございます」だ。
この「ありがとうございます」には、「そんなお世辞を言っていただき、ありがとうございます」という意味が含まれているわけで、ここまで含めてが挨拶の定例文なのだが。
ロウィのそれは今までのものとは違う。
社交辞令の言葉にかぶせて、しかも食い気味に、まるで本当にそう思っているかのように言われた「かわいい」はこれまで経験がなく、対処に困ってしまう。
もちろんロウィも社交辞令だろう。
容姿端麗な彼のことだ。女性の扱いはうまいとみた。
きっとフェミニストで、いろんな女性にそういったことを言っているのだろう。
それでも。
そうだと分かっていても、不意打ちで投げかけられた「かわいい」はミモザの心を大いにかき乱す。
――こんなのロウィ様にとってはただの挨拶なのに。
内心動揺しつつ、けれどその場を取り繕わねばと、ミモザは固まったままだった表情をどうにか解いて、やっとの思いで口を開いた。
「アンダーソン様、初めまして。ワートル侯爵家のミモザと申します。庭師としての経験はないのでお役に立てるかどうかわかりませんが、これから一生懸命勉強してまいりますので、どうぞよろしくお願いします」
挨拶は落ち着いたものだった。
きっと誰もミモザが動揺しているなんて気づいていないだろう。
自分がいま作業着を着ていることを忘れ、いつもの癖で頭を下げる際に、実際には履いていないスカートを持ち上げるような仕草をしてしまったが、きっと大丈夫。
動揺は悟られてないはず。
「庭師長のアンダーソンと申します。ミモザ様はとても植物に対する造詣が深いとのこと、坊ちゃんから聞いておりますよ。これから一緒に働けることが本当に楽しみです」
アンダーソンはにこりと微笑む。
坊ちゃんとはロウィのことだろう。
身長一八〇を越える青年を坊ちゃんと呼ぶのは少し違和感があったが、きっと昔からの仲なのだろう。
アンダーソンの言葉を補足するようにベイルが横から口を開いた。
「庭師長は温室だけでなく、この王城全体の庭師を統括されているので、温室に顔をだすのは週に数回程度になります。何か急用があれば、基本は庭のどこかにいるので、探されてください」
庭のどこかに、とさらりと告げられたが、庭だけでもだいぶ広いのがここ王城である。
そんな難易度の高いかくれんぼ、絶対に探せる気がしない。
何かあれば温室にいらっしゃるときにまとめて聞くようにしよう、とミモザは心に決めた。
「それでは、私はこのあと他の用があるのでこの辺で。今日はミモザ様にご挨拶に伺っただけですので、お会いできてよかった。ミモザさん、これから温室と……そして坊ちゃんのこと、お願いいたしますね」
そう言うと、アンダーソンとベイルは温室をあとにした。
ロウィのことをお願いだなんて、こちらがいつもお世話になっているのに、とぼんやり思いながら、ミモザは最前のロウィの「かわいい」という言葉に、いまだに胸をどぎまぎさせていた。