漆の3 長野の事件があったから
五〇センチ四方ほどで厚さ一〇センチほど、表面は青くつるつるでビニール製に見える、取っ手のようなもののない四角い座布団状のそれを両手で胸部の前に携え、やや小柄な男性制服警官が飛び込んできた。おれとリュックを見分した警察官が和やかに談話している様子を現認し、拍子抜けした表情を、座布団警察官は見せた。
「それでぼくを抑え付けるつもりだったの?」
二人の警察官のどちらに対するでもなく、尋ねてみた。
「違うよ。自分たちの身を守るためだよ。長野の事件もあったばかりだしさ」
リュックを見分した警察官は、おれのスチール製ペンケースを開けながら笑う。わずか十日前に、消防経由で通報を受け出動した長野県警地域部門の男性制服警察官二人を含む計四人が殺害される事件が起きている。
「そんな座布団じゃ、スラッグ弾をはね返せないぞ」
殺害された四人のうち警察官二人は、猟銃で撃たれた。撃った男は、散弾銃の所持許可を県公安委員会つまり県警から受けていた。撃ったのは散弾ではなく、スラッグ弾だ。
火薬を使って弾丸を飛ばす猟銃には、散弾銃と、その経験を十年有するなどのやや厳しい条件が必要なライフル銃の二通りの許可がある。散弾銃は弾丸がまっすぐ遠方に飛ばないから、ライフル銃ほどの危険性はないと、一般には解釈されている。
ところが、散弾用の銃を使って、散弾ではない一粒弾を撃つことが、物理的構造上も法制度上も可能だ。金属の塊を意味する英語のSlugから、こう呼ばれる。
長崎県佐世保市のスポーツクラブで二〇〇七(平成十九)年、クラブ会員の男(当時三十七)が、一方的に抱いた恋愛感情のもつれからインストラクター女性(同二十六)を同クラブ施設内で撃ち殺すのに使ったのも、スラッグ弾だ。本来なら散弾を発射する太い口径から出るスラッグ弾は、「塊」の語源からも分かるように破壊力がすさまじい。厚さ十センチほどの座布団など容易に砕き、それを所携する者の胸も貫通する威力を持つ。
スポーツクラブ会員の男は、クラブ施設で待ち合わせしていた、発砲を制止しようとした友人男性(同三十六)も射殺。逃走先の教会で、自身の銃を使い自殺した。
この事件を受け銃刀法が一部改正されたが、散弾銃によるスラッグ弾の使用は規制強化されず、銃本体にしか頓着しない、頓着しないふりの警察は、スラッグ弾の在りか把握にさえ努めない。猟で使った、撃ったと虚偽の届け出をすれば、いくらでもため込める。スラッグ弾の規制が緩いのは、さらに危険なライフル銃への移行にブレーキを掛ける狙いもあるが、本末転倒の感は拭えない。
正規の許可を受けた猟銃が凶器と化す事件や暴発・誤射などの事故は、全国で散発している。しかし、許可を受けた人の実数が少なく、よって事件、事故とも決して多発しているとまでは言えないから、自動車のペダル踏み間違いによる重大交通事故のような社会問題には発展しない。
撃たれて死んだ長野県警の地域部門制服警察官二人は、拳銃を装備していなかったという。
警察官の拳銃装備いかんは、地域性や時代背景、トップの考え方により異なる。例えば交通機動隊などに所属する白バイ隊員は、都市部では装備している一方、へき地では常装しない。
私服勤務員の場合、日常的に捜査車両で管内をぐるぐる回り通報、指令とともに現場急行する機会の多い刑事部機動捜査隊員は全国的に、装備して日常業務に当たる。
都心部の小規模警察署では、夜間の当直時のみ私服勤務員も装備する傾向にある。人手が足りない時間帯で、出先の現場から別の現場に次々転戦する可能性が高いから。
神奈川県警は長く、女性制服警察官に拳銃を常装させなかった。男性警察官に比べ体力に劣り、奪われるリスクが高いという理由でだ。
一九九五(平成七)年の地下鉄サリンなどオウム真理教によるとされる一連の事件が未解決のころ、四十七都道府県警だけでなく警察庁も、各部署の実情に応じ警察官に、非番の日を含め四六時中、片時も拳銃を手放させず、緊急事態に備えた時期があった。介護が必要な同居家族がいるとか本人が傷病中だとかの事情がある警察官は、免除された。
長野県警の地域部門制服勤務員が拳銃を携帯していなかったのは、性善説にのっとる地域性に起因する。
二〇一六(平成二十八)年に「子どもを性被害から守るための条例」が制定されるまで長野県は、全国四十七都道府県で唯一、未成年者との性交を禁じ罰するいわゆる淫行条例がなかったことと同根だ。
つまり、長野では淫行などといったみだらな犯罪は発生しない。発生しない犯罪を取り締まる条例など必要ない。同様に、長野では、警察官が銃を抜かなければ、撃たなければならないような凶悪犯罪は発生しないという前提で、社会全体が動いていた。
「あれしかないんだよ」
リュックを見分した警察官が、恐縮する。
「買ってもらいな。長野でスラッグ弾を撃ち込まてるんだから、予算付けてもらえるだろ」
制服警察官が日常的に羽織るベストは、ある程度の防刃機能を備えているものの、重装備になりがちな防弾チョッキの用は成さない。
東京・霞が関の官庁街路上で暴れる男を、警視庁の白黒パトカーに乗った制服警察官が、後部トランクから取り出した黒いビニール製に見える封筒状の器具で包み、簀巻きか寝袋のような頭だけ出した状態で後部座席に突っ込み、そのまま連行していく光景を見たことがある。自分たちの身を守るという、実際はおそらくおれを抑え付けるための用途だった青い座布団も、常にパトカーに積んであるのだろう。
「これか」
スチール製ペンケースから、革でぐるぐる巻き、刃先に消しゴム付きのアウトドア用アイスピックを取り出し、リュック見分警察官は、矯めつ眇めつ感心する。
「自分じゃなかったら、これ、取り締まるよ」
いつかの警視庁町田署生活安全課少年係員のように一人称を「自分」と表現するリュック見分警察官は、恩着せがましい。
「いいよ。あんたが取り締まりな」
「そういうこと、自分はしたくないからさ」
「じゃ、そういうことをやりそうな、やりたそうな同僚を呼びなよ。呼べないなら、任意提出するから持ち帰ってあれこれ見分しな」
アイスピックの扱いに言及している間に、四人目の警察官が飛び込んできた。三人目の座布団警察官は、いつの間にか姿を消している。
「身分証明書を出せ!」
四人目は、眼が血走っている。
「さっき出したじゃん」
眼を血走らせる四人目警察官に申し向けた。
「ワタナベさんが確認したから」
リュック見分警察官がとりなす。
「ワタナベさんが確認したんだって」
出入口の外に向かって四人目警察官は、大声を張り上げる。
おれを身体捜検したのがワタナベらしいから、眼を血走らせた四人目警察官は、座布団の三人目警察官か、まだおれの面前に姿を現していない「五人目」以降に向けた大声だろう。
「所持品を全部出せ!」
「それも、ワタナベさんとやらにさっき見せたじゃん。リュックは今、確認してもらってるじゃん」
「おれは見てない。おれに見せろ!」
眼を血走らせて言うし、今度はリュック見分警察官もとりなさないからおれは、ポケットの中身一切と、半分だけリュックに戻っていた商売道具をテーブル上に改めて並べ、店仕舞い途中のガレージセールを再開した。
(「漆の4 世界まるごとHОWマッチ」に続く)




