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陸の6 提出文書を取り返す

 鍵の受領書を提出した場合と提出しなかった場合、ならびにそれぞれについて、鍵を全数返却できた場合とできなかった場合、二×二で四通りあることになる、もちろんその四つのうちいくつかは同じの可能性もあろう、彼ら《(株)URコミュニティ/神奈川西住まいセンター/技術サポート課》名義の《鍵を交換されたお客様へ(ご注意ください)》がいう退去時査定の対象いかんについて、電話に出てきたカンダは答えられない。


「質問の仕方を変えます。受領書を提出しないで、退去の際に、鍵二本しか手元にない。紛失したのかどうか分からない。何本受け取ったか覚えていない。あなた方の記録では三本。査定の対象になりますか?」

〈書いてある通りです〉

「なるということですね。もう一つ。受領書を提出した上で、退去の際に、鍵二本しか手元にない。同様に、紛失したのかどうか分からない。受領書の『控え』には三本と記されている。査定の対象になりますか?」

〈書いてある通りです〉

「受領書を提出しても免責されないとカンダさん、あなたは先ほどおっしゃいましたね。つまり、受領書の提出いかんは、査定にはまったく影響しないということではないですか?〉

〈違う〉

「どこが違いますか?」

〈紛失した場合は、別問題〉

「だから、紛失をうんぬんする話はやめたじゃないですか。『紛失したのかどうか分からない』っていう条件下ですよ。紛失のことは条件から除外してください。受領書を提出した上で鍵の一部を返却できない場合と、受領書を提出せずに一部を返却できない場合の、退去の際の査定における取り扱いの違いを教えてください」

〈意味が分からない〉

「あれ? では、意味が分かる方に代わってください。もしくは、意味が分かる方とのアクセス方法を教えてください」

〈答えられるのは、わたししかいない〉

「だってカンダさん、ぼくが言ってることの意味が分からないんでしょう?」

〈そんな質問には、たとえ意味が分かったとしても、永久に答えない。もういいですか? 切ります〉

「カンダさん」

〈はい〉

「漢字は、神田神保町(かんだじんぼうちょう)の神田でいいですか?」

〈そうです。(かみ)様の田んぼです〉

「フルネームか、肩書きのいずれかを教えてください」

〈課長をやらせていただいております〉

 誰に対するものか本人も分からないであろう謙譲語表現で、神田は答える。

「なんという課ですか?」

〈お客様(きゃくさま)相談課です〉

「その課を、われわれはなんと呼称すればいいですか?」

〈はぁ?〉

「神田さんがおっしゃる『お客様』というのは、われわれ住人のことを指しているのではないですか?」

〈そうですよ。その通りです〉

「あなた方がおっしゃる『お客様』であるわれわれが、自分を指す『お客様』の名称を使えるわけがないでしょう? なんと言い換えればいいですか?」

〈意味が分からない〉

「それは神田課長、あなたの脳みその問題だ」


 この問題について尋ねると、たいがいの相手は神田と同じ反応を示す。つまり、意味が分からない。

 令和に入ってからおれは、サントリー、アサヒビール、キリンホールディングス、日本コカ・コーラ、伊藤園の五社に、取材を掛けたことがある。五社とも、消費者対応に当たる最前線の窓口の名称に、「お客様」が付く。

 消費者が、自分のことを「お客様」と表現するのはおかしい。例えば郵便物の宛て名で、部署名に《お客様》が付き、担当者名にも《様》を付けることになる。ところが、それぞれの《様》は、逆の立場の相手を指している。

 五社を選んだのは、礼儀作法に関する複数の作品で著名な作家・エッセイスト、山口瞳(やまぐちひとみ)(一九二六―九五)がサントリーの広告(CМ)部門出身だったから。そして、最終消費者と接する機会が多いであろう、つまり、事業者向けの「B tо B」ではなく、消費者(consumer)向けの「B tо C」の大手であるアルコール・清涼飲料メーカーに横並びで聴くことにした。

 その結果、すべての会社から、丁寧な対応を受けた。残念ながら、うち複数の会社から「回答の二次使用制限」を求められたので、横並びで、五社とも回答内容をここでは明かさない。

 総じて、消費者が自身を「お客様」と表現することに対する奇妙さは感じているものの、特定の言い換えは存在しない。しかし、「お客様」の部分を「顧客」などと自身の判断で言い換える、書き換える消費者は少数ながら存在する。おれと同じ価値観の消費者は、少数ながらいるということだ。

 ただ、アルコール・清涼飲料メーカー五社には礼を尽くし取材を依頼したからこそ正常な回答が得られたのであって、電話でいきなり尋ねたら、神田と同じような「意味が分からない」という対応だったかもしれない。


 電話での神田とのやり取りは不調に終わり、神田たちの無能ぶりを改めて知る結果しか生まなかった。おれは、団地二号棟一階の管理サービス事務所に行って、前日提出したおれの署名などが入る《玄関扉解錠による鍵受領書》を返却してもらうことにした。

 事務所職員が返却を拒めば、神田に吹っ掛けたのと同じように、受領書の提出の有無と、鍵を全数返却できるかできないかの合計四パターンにおける退去査定の対象いかんに関する議論を持ち出すつもりだったが、事務所の女性職員は不機嫌な表情ながら、受領書を返してきた。彼女らに神田に対するのと同じ議論を持ち掛けても、神田よりさらにひどい醜態を見せつけられるだけだろう。


 受領書の最上の欄には、鍵番号が、数字と英字の計十字で記されている。実際の鍵に打刻されている表示から、おれが転記した。

 鍵番号が分かれば合い鍵の複製は容易で、それを悪用した犯罪の報道がここ数年、目立つ。

 受領書の原本は取り返した。しかし、管理事務所は、つまりUR側は、おれの鍵番号など容易に入手できる。鍵番号を記入した受領書を複写(コピー)しているかもしれない。そんなことをしなくても、シリンダー錠を取り換えたのはURの関連事業所従業員なのだから、鍵番号を含め諸情報は筒抜けと覚悟するべきだ。

 URは住人の鍵を管理しない、合鍵を預からないと、前述した。しかし、それはあくまでも見せかけ(ポーズ)に過ぎず、逆に、すべて管理されている、常に部屋内部まで厳重に監視されているのだと、のちに逮捕、勾留される神奈川県警青葉署の留置施設で接見の弁護士と話していて、改めて思い知らされることになる。


(「陸の7 指を突き出す間抜けな女」に続く)

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