参拾参の7 電子証明書の有効期限
日本政府が発行するおれ名義の旅券の有効期限が切れていると気づいた。二〇二〇(令和二)年秋のことだ。密航を含め、しばらく海外に出ていないから、気づくのが遅れた。
新たに発行してもらう。有効期限が残っていれば、申請は容易なはず。しかし、期限が切れているゆえゼロからのスタート。戸籍謄本を準備しなければならない。
本籍地の大分県日田市役所に出向かなくても郵便で願い出なくても、マイナンバーカードで請求できたはず。自宅最寄りのコンビニエンス・ストア「セブン-イレブン」に行き、マルチプリンターでの取得を試みる。
しかし、何度やってもうまくいかない。
マルチプリンターの表示画面に従えば、問題があるのは、大分県日田市役所ではなく、おれのマイナンバーカード。住民票がある横浜市の窓口に問い合わせよ、とのご指示。ご丁寧に、〇四五-六六四-二五二五の電話番号まで教授してくれる。
その場で手持ちの携帯電話端末にこの番号を打ち込み、仕事場兼居宅に戻ってから、落ち着いた状態で、発信ボタンを押した。
〈きょうは、どのようなお問い合わせですか?〉
電話に出てきたのは、八十歳を超えているのではなかろうかと疑う入れ歯ふがふがの様子の高齢女声。
「コンビニのマルチプリンターで、横浜市外のぼくの戸籍謄本を出してもらおうとしたんだけど、うまくいかないのよ。マイナンバーカードに問題があるみたいなんだけど」
〈こ、こ、こ、こ…なんですか?〉
「コンビニ。戸籍謄本」
〈こせ、こせ、こせ、こせ…なんですか?〉
「戸籍謄本」
〈こせき、こせき、こせき、こせき…なんですか?〉
「戸籍謄本」
〈こせきとお、こせきとお、こせきとお。こせきとお…なんですか?〉
ちっとも話が進まない。
「とにかく、マイナンバーカードの関連部署につないでくれる?」
〈マイナンバーカードのどのような件でお問い合わせですか?〉
マイナンバーカードという語は、後期高齢女声の耳になじむようだ。
「だから、戸籍謄本が刷り出せない」
〈なぜ刷り出すんですか?〉
「パスポートを申請するのに必要だから」
社会常識に照らせば正当なはずのこの文言が、八十歳超らしい後期高齢者を混乱させたらしい。
〈パ、パ、パ、パスポートっ!〉
この単語は一度で通じたようだが、すっとんきょうな女声で極端に驚く。総入れ歯が口から飛び出した漫画の図を、おれは頭に思い描いた。
「うん。コンビニのマルチプリンター…これじゃ通じないんだったな。とにかく、マイナンバーカードの担当部署かに代わって」
〈いえいえ、そんなわけにはいきません。パスポートをどうするんですか?(入れ歯ふがふが)〉
「海外に渡航するのに必要なんだよ」
〈かい、かい、かい、かい…なんですか?(ふがふが)〉
「外国に行くためだよ。担当部署に代われ」
〈パスポートの部署は、市役所にはありません(ふがふが)〉
「そんなことは分かってる。不明な点があったら県庁の窓口に聴く。とにかく、マイナンバーカードの担当部署に代われ」
〈いいえ、代われません。そんなことをしたら、わたしたちが叱られます(ふがふが)〉
「じゃ、あんたが解決してくれ。コンビニ…セブン-イレブンね。そこのマルチプリンターで、戸籍謄本が刷り出せない。この今、かけてる、あんたが受け取った電話番号に問い合わせろって表示が出る」
〈コ、コ、コ、コ…なんですか?(ふがふが)〉
「…とにかく、誰かに代わって。あんたの周囲にも誰かいるでしょ。誰でもいいから、代わって」
〈いいえ、最後まで聴かないと、わたしが叱られます(ふがふが)〉
「じゃ、あんたが周囲に聴いてみて」
〈そんなことをしたら、叱られます(ふがふが)〉
駄目だと思って、その電話は切った。
再度、同じ番号に架電した。先ほどの八十歳超後期高齢ばああよりは若い、といっても七十歳くらいであろう「前期高齢者」の女声が出た。
〈きょうは、どのようなお問い合わせですか?〉
総入れ歯の様子はない。
「あのね、コンビニのマルチプリンターで戸籍謄本を出してもらおうとしたんだけど、うまくいかない。マイナンバーカードに問題があるみたい」
〈どこの戸籍謄本を、どこのコンビニエンス・ストアで請求しようとなさったんですか?〉
意図は伝わったーーと胸をなでおろしたおれが、浅はかだった。
「大分県日田市に置いてるぼくの戸籍を、横浜市内のコンビニエンス・ストア…セブン-イレブンね、そこのマルチプリンターで」
〈オーイタケン?〉
「…横浜市の外…神奈川県の外に置いてるぼくの戸籍を、横浜市内のセブン-イレブンで刷り出そうとして」
〈はあはあ。県外のセブン-イレブンで、横浜市内の戸籍を…〉
「逆っ!」
〈逆でしたか。横浜市内の戸籍を、県外のセブン-イレブンで、ということですね?〉
「違うだろっ! とにかく、マイナンバーカードの担当部署に、戸籍の担当部署でもいいから、代わって!」
〈いえいえ、そんなことをしたらわたしたちが叱られます〉
そんなことをしたら叱られるという文言は、後期高齢ばばあも前期高齢ばばあも異口同音だ。
「分かった。もうなにも言わん。マイナンバーカードの担当部署に代われ」
〈そんなことをしたら、わたしが叱られます〉
「叱られろ」
電話が保留音に変わった。五分以上は待たされた。音量を上げスピーカー状態にして、別の作業をしていた。
市民局市民情報課ですーーと名乗り代わって出た、後期高齢者、前期高齢者に比べれば若い印象の女声は、続けてこう言った。
〈本籍地も住民票も横浜市の場合、県外のコンビニエンス・ストアでは請求できません〉
やはり、まったく通じていなかった。
「ぼく、今、横浜市の自宅にいるのよ」
〈県外に出掛けた際に、請求できなかった、ということですか?〉
「違うよ。つい今しがたのことだよ。横浜市青葉区のセブン-イレブンで取得できなくて、今ぼくがかけてる電話番号が表示されて、そこに、あんたらに問い合わせろっていうメッセージが出たのよ」
〈住民票はどこですか?〉
「横浜」
〈本籍地は?〉
「大分県内。さっきから同じこと言わされてるんだけどな」
〈先方の自治体が、電子証明に対応していないのかもしれません〉
「対応してるってことは、マルチプリンターで確認した。対応自治体一覧に、ぼくの本籍がある日田市が含まれてた。タッチパネルで、そこを選択して押せる」
〈で、あれば、取得できるはずです。可能性といたしましてはーー〉
「うん」
〈ーーマイナンバーカードの「電子証明書」の期限が切れているかもしれません〉
「そうなの? マイナンバーカードは、有効期限十年って認識してるんだけど」
〈カード自体はそうなんですが、電子証明書としての機能は、五年で更新です。お手元にカードはおありですか? 有効期限はどう表記されてますか?〉
敵を欺くため国粋主義者を偽装するおれは、制度がスタートして早い時期にマイナンバーカードを作ってもらったから、十年の期限はまだ先だが、電子証明書として期限である「五年目の誕生日」は、確かに過ぎている。市役所が郵送しているはずだという「お知らせ」は見過ごしていたようだ。
なぜこんな簡単なことを尋ねるのに、複数回にわたり電話をかけ、長時間待たされるのか、とその比較的若い女声には言わなかった。別の方法で確かめることにした。
電子証明書の更新のためには青葉区役所まで出向かなければならないというからそれは後回し。戸籍謄本は、成育地の大分県日田市の市役所に、郵便局の定額小為替を送るという旧来のアナログな方法で取り寄せた。
新しいパスポートは、無事、発行された。
マイナンバーカードの電子証明書としての更新も別途、青葉区役所で済ませた。
(「参拾参の8 青葉区に聴けばいいじゃないですか!」に続く)




