参拾参の1 ちゃんとした住所
米国発祥の通販会社日本法人「アマゾンジャパン」や、衣料品製造販売「ユニクロ」への潜入取材に当たり、ジャーナリスト、横田増生(一九六五-)は、素性や目的を対象企業に悟られぬよう、妻との婚姻の形態を変え戸籍上の姓を改名したり、不自然さのないエリアに住民票を移したりの方法で、「従業員」として潜り込む。これら取材手法の一部を、著書『潜入取材、全手法/調査、記録、ファクトチェック、執筆に訴訟対策まで』(KADОKAWA刊、二〇二四年初版)で明かしている。
従業員を装っての潜入取材で成果を上げた国内の嚆矢は、自動車メーカー「トヨタ」に潜り込んだルポライター、鎌田慧(一九三八-)による『自動車絶望工場ーーある季節工の日記』(現代史出版会刊、一九七四年初版)だ。
改名し住民票を移す横田の手法は、鎌田の時代には重視されなかったであろう今日的な問題の解消に有益と言える。
インターネット社会において、例えばジャーナリスト経験があれば、検索で本名がヒットしてしまう。素性がばれる。ばれれば採用に至らず、潜入取材ができない。
半面、出自による差別待遇を排除するという日本国憲法などにのっとった観点から、戸籍に関する情報を採用側は尋ねない。少なくとも表向きには、「尋ねない」ことにしている。自動車運転免許証の本籍欄もなくなった。自治体の担当窓口が交付する住民票の「写し」は、その記載内容が必要な特別の場合を除き本籍欄が省略されている。
横田、鎌田の二人には経歴に共通点があって、いずれも業界紙記者出身だ。横田は物流業界、鎌田は鉄鋼業界。
これらの経歴が、取材のテーマや対象の業種に影響していることは十分、考えられる。取材手法にまで影響しているかどうか、おれには分からない。
また、従業員として潜り込んだ取材対象企業から給与を受け取り、仕事仲間である同僚や上司らに潜入取材であることを明かさずだまし続けたまま職場を離脱する手法に、強い非難や嫌悪感を示す同業者は少なくない。
このような「旧くて新しい」手法で取材を敢行するに当たり、おれは横浜市内の現住所を維持したまま、東京都心に仮の居所を置く必要に迫られた。手っ取り早いのは、マンスリーなどの短期契約型マンションだ。
旅館業法、不動産業関連法など適用法規があいまいなこともあって、マンスリーマンションを展開する事業者は、顧客がそこに住民票を置くことを禁止している場合と、そうでない場合がある。そうでない場合も、物件が立地するエリアの自治体に顧客自身で可否を確認するよう求めている。
住民票を置くことを禁じていない事業者が展開する中で、港区、文京区、新宿区それぞれにめぼしい物件を見つけたから、それぞれの区役所に、電話で問い合わせた。
港区、文京区の対応はほぼ同じ。いずれも即答できずたらい回しにされ長時間待たされた揚げ句、切電しコールバックを待たされたりもしたが、共通する答えは、「可否は物件によって異なる」。
めぼしい物件の所在番地と建物名を挙げたところ、いずれでも「可能」ということだった。可否の境界線については別の項で述べる。
新宿区役所は、港区役所、文京区役所と、対応が異なる。
代表番号〇三-三二〇九-一一一一に架電。
「住民票の転入の件でお尋ねしたいことがあります」
港区役所、文京区役所への電話と同じように申し向けた。
転送先の電話を取った、カサイと名乗る女声は、おれが事情の説明を終わらぬうちに、こう唾棄する。
〈駄目ですね。そんなの〉
なぜ駄目なのか、おれは理由をただす。
〈だって、マンスリーマンションじゃないですか〉
小ばかにした口調だ。
短期の賃貸契約だから駄目なのか、尋ねる。
〈そうです〉
マンスリーマンションに長期にわたって居住する、あるいはした場合はどうなのか。長期だと可能な場合、その基準となる期間はどの程度かを尋ねる。
〈マンスリーマンションは駄目です〉
それは、新宿区だから駄目なのかを尋ねる。港区、文京区の対応については口にしない。
意図的に「口にしない」のではない。取材者の習性で、第三者がこう言っている、などと相手に予断を与えるような「ヒント」を避ける。
〈日本じゅう、どこでも駄目です〉
なにかの法令で規制されているのか。そうであれば、法令の名称と条文を示してほしい。
〈法令なんか関係ありません。常識的に考えて駄目です。常識的に考えて、分かりませんか?〉
面白いことになってきた。
分からないから聴いてるんだよ、常識がないんだよと、相手の口を滑らかに仕向ける。
〈ふんっ〉
電話口で失笑したのが分かる。あえてそれをおれに聴かせたのかもしれない。
そして、カサイは著しく厳しい口調で、はっきりとこう言い放った。
〈新宿には、きちんとした、ちゃんとした住所を決めてから、来てください〉
マンスリーマンションは、きちんとした、ちゃんとした居住地ではないという認識でよいか?
〈常識です〉
それは、新宿区としての公式見解でよいか。
港区のことも文京区のことも、おれの職業についても言わない。
〈なにがですか?〉
マンスリーマンションはきちんとした、ちゃんとした居住地ではなく、そこはきちんとした、ちゃんとした住所ではなく、だから住民票を置けず、そのことは日本じゅうの常識であって、マンスリーマンションにしか住めないおれのような貧乏人は、新宿区に居住してはならない、よって、マンスリーマンションはその存在自体が違法状態である、というのは、新宿区としての公式見解でよいか。
〈…ちょっと待ってください〉
自身の発言の重大な瑕疵を、カサイが自覚したのだとは思えない。面倒くさそうな口調だし、カサイに代わって出てきた、順番にイトウ、トミザワ、ヤマウチと名乗る女声は、いずれも同じような言い分だからだ。
しかも彼女らは、ことどとく敬語表現を誤っている。例えば、〈(自身の同僚から)伺ったんですけども〉という表現を使う。
「伺う」は謙譲語だから、目上の人物から言われた場合の表現。つまり彼女らは、おれに対し、自身の同僚を敬え、自身の同僚を敬うべきだと強要している。すくなくとも、謙譲への同調を求めている。
そして、「新宿区の公式見解でよいか否か」には一切、回答しない。
四人目のヤマウチは、次に電話を代わらない。彼女で打ち止め。彼女をバックアップする人物は存在しないようだ。
「あなた、新宿区の正規職員じゃないね」
〈……〉
「さっきのカサイさんも、イトウさんも、トミザワさんもだね」
〈……〉
「会計年度任用職員といったような、区の非正規職員でもないね」
〈……〉
「ヤマウチさん。あなたは、どこから給料をもらってるの?」
〈……〉
「業務委託先の民間事業者から。違う?」
〈……〉
「あなたは、業務委託先民間事業所の従業員。違う?」
〈…そうです〉
「なんていう会社?」
〈……〉
「四人とも、同じ会社?」
〈……〉
「区の職員に、代わってちょうだい」
〈……〉
「そこには、いないの?」
〈……〉
「そこは、区役所庁舎とは別の場所にあるオフィスなの?」
〈……〉
「どうなの?」
〈…職員様には…〉
「しょくいんさまあ?」
〈…職員様には、代わっていただけないんです!〉
(「参拾参の2 メイド喫茶」に続く)




