参拾弐の10 彼の父と約束したので
シンガーソングライター、井上陽水(一九四八-)十八枚目シングル『リバーサイドホテル』(一九八二)を元ネタに、同業者の嘉門達夫(一九五九-)=現・嘉門タツオ=が発表した替え歌は、陽水オリジナル〈誰も知らない夜明けが明けた時〉の歌い出しが、〈誰も知らない素顔の八代亜紀〉。厚化粧を皮肉る相手である演歌歌手、八代亜紀(一九五〇-二〇二三)の所属事務所に嘉門が仁義を切りにいったところ、顔の彫りが深いからそう見えるかもしれないが実際は薄化粧なのだと、八代のマネージャーから言われという。
新型コロナウイルス感染症の影響に伴う特例である雇用調整助成金を虚偽申請し国から憶単位をだまし取ったとして起訴されている、神奈川県警青葉署留置施設で同室だった野村の公判に情状証人として出廷する女房は、傍聴席と柵の向こう側、柵の向こう側のベンチと証言台の間の行き来で観察できる限り、彫りが深いか、メイクが濃いかのどちらかに見える。やや日本人離れ。
ファッション誌を中心に活動した蛯原友里(一九七九-)、押切もえ(同)に次ぐ「三人目のモデルだった」と留置施設で野村が言っていた、「エビちゃん」「もえちゃん」の愛称のこの二人や、一般的に「三人目」とされる山田優(一九八四-)らの年齢と、確かに大きく離れているようには見えない。
傍聴席に座っている際には視認できず、立ち上がって分かった。白いブラウスの上から腰に幅広な黒い革ベルトを巻いている。通常のプロポーションで考えられるウエストの一番くびれた位置より高い場所で、ベルトは収まる。しかし、足元は靴底の薄い黒いスニーカーだ。胴が短く脚が長いことを示す。
日本人女性にしては、身長がやや高い。「内縁の夫婦関係にあった」と野村が主張する夭逝した美しいシンガーソングライターに、似ていなくもない。
刑務官二人に連行され、黒い半袖Tシャツ、紺色ズボンの野村が両手錠で片足を引きずりながら入廷した際、女房はまだ傍聴席にいた。
意識してであろう、野村は、女房と眼を合わせない。女房後方にいたおれとも、視線は合わない。
午前十一時ちょうどに判事が法壇奥の扉から姿を現した。
「それでは、開廷しますーー」
十一時二分、判事が宣言する。
「ーー弁護人の立証についてお尋ねします」
恰幅の良い女性弁護士が、立ち上がる。
「書証一点と、証人一人を申請します。書証は、家族ぐるみで付き合いをしている友人から預かっている手紙」
女性弁護士にバトンタッチする前の、「クビにしたった」と野村がいう京都の重鎮弁護士は、情状証人二人を申請すると前回の公判で言っていた。交代した女性弁護士の戦術で、そのうちの一人は手紙で済ますことにしたのだろう。
「いずれも認めます。証人は証言台の前へ」
柵の向こうのベンチの女房が、立ち上がって証言台に進む。
「野村××さんですね」
女房のフルネームを判事は確認した。
「はい」
「住所、職業などは出廷者カードに書いていただいた通りで間違いありませんか」
「はい。間違いありません」
「それではまず、うそ、偽りを述べないという宣誓をしていただきます。手元の宣誓書を、声を出して読んでください」
「宣誓。良心に従い、なにごとも隠さずーー」
宣誓書を読み終わると彼女は、判事からなにも言われないまま、証言台のいすを引いて自ら腰掛けた。
法廷に、公判への出廷に、刑事事件に慣れているのかもしれない。弁護人弁護士によるレクチャーが行き届いている、徹底しすぎているのかもしれない。
弁護人弁護士による主尋問が始まる。
「あなたは、被告人の妻ですね?」
「はい」
「事件について知って、どう思いましたか?」
「驚きました」
「被告人は、ご主人は詐欺をするような人に見えた?」
「見えませんでした」
「ご主人は、あなたにとってどういう存在?」
「経済的に、彼が働いているので、いないと困ります」
いないと困りますの「な」に強いアクセントを感じる。
「夫婦仲はどうですか?」
「問題は、ないです」
また「な」だ。
居住、成育エリアに影響された「訛り」なのだろうか。そうかもしれない。
しかし、おれは、違う可能性を検討する。英語の「No」など世界の多くの言語で否定の意味を包含し日本語もそうである「N」の鼻音を強調していると感じる。
これも、弁護人弁護士によるレクチャーの成果かもしれないし、本人の考えかもしれない。自然体かもしれないし、意識的なのかもしれない。
モデル出身という真偽の疑わしい野村の話や、どうやら芸能界好きの野村の伴侶という事実から、一言一句を、一挙手一投足を、おれは色眼鏡で見てしまう。ただ、応答が芝居がかっているふうには見えない。演技ではあるまい。
「面会には行きましたか?」
「はい。二回、行きました」
接見禁止処分が解除されてから、おそらく身柄が青葉署から横浜拘置支所に移されてからのことだ。
「手紙のやり取りはしていますか?」
「はい。頻繁に来ますし、返事を書いて出しています」
青葉署の留置施設で、接見禁止処分中でも弁護士とやり取り可能な郵便に同封し、手紙をやり取りしていたことは知っている。同室だったおれは、彼女のものと思われる整った文字を見た。
拘置支所におれが出した手紙に同封しておいた「多め」の切手を、女房とのやり取りに活用してもらえているとしたら、結構なことだ。「差し入れ」した身として、光栄だ。
「ご主人の健康状態はどうですか?」
「もともと心臓が悪かったので、不整脈が出ることがあって、心配です」
青葉署でおれと同室になる前、おそらくおれが留置される前に施設内で卒倒したのだと話していた。
足を引きずるのは心臓の病気のせいだと、拘置支所での接見の際に言っていた。
「身元引受人として、ご主人をどう支えていく? どう監督していく?」
「△△△△に、経済的、精神的に支えられているので、二人で見張って、厳しく監督しようと思います」
手紙を託された知人のことであろう、証言で女房は、フルネームを明かした。
青葉署の留置施設で野村は、女房の伯母だか叔母だかに当たる人物に世話になっており、その伯母だか叔母だかのおかげで、逮捕されても女房から離縁されないのだと言っていた。
手紙を託した、女房や経済的、精神的に支えられているという、野村に解任された京都の重鎮弁護士が証人に呼ぼうとした「知人」、女性弁護士によれば「友人」とは、女房の伯母、叔母のことかもしれない。
「ご主人に、犯罪に手を染めている様子は?」
「まったくありません」
「被害弁償については、これは社会に出た後も含めてですが、どういう考え?」
「額が大きいので、わたし一人ではとうてい無理です。彼は早く弁償したい意向なので、協力してやっていきたいと考えています」
「離婚はしない?」
「しません」
共犯者、文強の公判で、同じように情状証人として出廷した内縁の妻は、内縁の夫を三人称で「文強」と呼んだ。
野村の女房は、野村を「彼」と呼ぶ。
検事による反対尋問は、短く簡便なものだった。
「今回の事件で、相当期間、刑務所に入らなければならないことは分かっているか?」
「分かっています。彼の父親と約束したことなので」
野村の父親と約束したから、離縁はしない、添い遂げるのだという意味合いだろう。
ーーきみは、うそつきだったんだなーー
叔母に当たる中村帝国女帝、中村由紀子(一九四七-)の使者で、えせエリート県庁職員の夫、孝に土足で乗り込まれた、岳父の言葉が耳によみがえる。
おれたちの家族を踏みにじり分裂させ、めちゃくちゃしてほくそ笑む女帝、由紀子の醜い顔が、脳裏をよぎる。
(「参拾弐の11 八十三歳、最後の仕事」に続く)




