参拾弐の9 ポニーテールはふり向かない
横浜拘置支所に勾留されている、神奈川県警青葉署留置施設で同室だった四十番の男、野村に宛てた手紙を投函した五日後、団地一階の集合ポストに、今や眼にする、手にする機会の少なくなった定型の細い長方四号茶封筒が配達されているのに気づいた。
封筒裏には差し出し人として、ボールペン字でこう横書きされている。
《横浜拘置所/野村××》
《233-0003/横浜市港南区港南四丁目2-3》
表の宛て先はそれと同じ筆跡で、こうだ。
《227-0036/神奈川県横浜市青葉区奈良町2913-2/森史×様》
個人情報漏えいを極力防ぐため、おれは名刺に、自宅兼仕事場の部屋番号を刷らない。それでも郵便物は問題なく届く。受け取れる。
野村への手紙でもそうした。野村は、おれが出した、おれから受け取った手紙の差し出し人欄を忠実に写し取り、宛て先を記入したようだ。
開封すると、B5判よりやや小さい便箋が一枚、折りたたまれ入っていた。
右下に小さく、桜の花弁を模したような朱色のスタンプが捺されている。拘置所による「検閲」を通過したことを表す。
縦書き便箋に、決して達筆とはいえない三行プラス署名で計四行の文章が、右寄せに記されている。
《森さん/この前の「面会」本当にありがとうございます。今は私はこの用な「じょうきょう」
なのですみません/「私が」出たら又ゆっくり「手紙」で「れんらく」します。
「切手」とか本当にありがとうございます/字きたなくてすみません!
野村××》
(改行タイミングや漢字など原文ママ。読みやすいよう筆者がスラッシュを打った。野村の下の名は伏した)
前の月の接見(面会)や、月が改まって切手を多めに同封したおれ発の最初の手紙での依頼に応じた書簡と考えられる。拘置所の刑務官に、返事を出すよう指導されたのかもしれない。そういう刑務官の指導を察知し、こびへつらうための所業かもしれない。
少なくとも書面からは、おれの野村へのこれ以上の接触を、野村は歓迎していない。それでもあえておれに当たり障りのない手紙を出したのは、女房への直当たりを避けるためだろう。野村がおれの接触から逃げていると、おれは野村の女房に取材を掛けてしまう。
野村はそれを懸念している。
女房経由で自身のことをおれに知られたくない、おれ経由でよからぬことを女房に吹き込まれたくない。面倒ごとを家庭に持ち込まれたくない。家族を巻き込まれたくない。
接見や手紙は、もうよそうと考えた。おれの手紙が、検閲で部分的に「墨塗り」されたとしても、野村に到達した、野村が眼にした、読んだことは間違いない。野村や女房を困らせることは、決しておれの本意ではない。
しかし、気になることが一つ。
野村発の手紙の消印は、二〇二四年六月二十五日付け。おれが二通目の手紙を投函したのが同二十二日で、通常の郵便事情だと同二十四日、横浜拘置支所に送達するはず。
おれの二通目の手紙を読んだ上で野村は手紙を書いたのか、二通目を読む前、つまり切手同封の一通目のみ読んだのか。
二通目では、横浜地方裁判所で公判を傍聴した共犯者、文強の懲役六年判決について触れている。また、野村が「内縁の夫婦関係にあった」と主張する夭逝した美しいシンガーソングライターについて、踏み込んで尋ねている。
横浜拘置支所に電話で確認することにした。
〈個別には答えられませんが、受信で来た郵便物は、中身を確認して問題がなければ、遅くとも次の平日朝には被収容者の手に渡りますね〉
だとすれば、二十二日投函の手紙が二十四日に送達。検閲スタンプを押し二十五日の朝、野村の手元に渡っている。
〈発信は、夕方、郵便局が回収に来ます。それに間に合わなければ、翌平日の回収の便に乗せます〉
この日程だけでは、野村がおれ発二通目も読んでしたためたか、一通目のみか判断が付かない。文面からも分からない。野村文書が、検閲に長時間を要するものとも思えない。
そんなことよりーーという調子で、電話の男の声の拘置支所職員は聴いてきた。
〈消印のスタンプ、どこの郵便局になってます? 川崎東じゃありません?〉
確かにそうだ。
〈やっぱ、そうですか。以前はこの近くの郵便局の消印だったんですけどね〉
腑に落ちないという口調だ。
おれも腑に落ちない。横浜拘置支所がある横浜市港南区はその名の通り、官庁街がある中区より南に位置する。川崎市は逆に、横浜市の北だ。
刑務官は法務省の国家公務員だが、キャリア官僚候補などの本省採用組でない矯正管区採用組は、転勤の範囲も頻度も、狭くて少ない。希望すれば長期にわたり同じ職場で勤務できるし、転出しても、やはり願い出れば出戻りも容易。
囚人同様、塀の中の閉ざされた職場で、民間事業者など外部との癒着の構図が生じにくいからというのが最大の理由だ。
だから、刑務所などその施設独自の文化が醸成され、それが社会常識から逸脱していることを彼ら刑務官は気づけず、囚人の虐待といった事件がまま発生、まれに発覚する。
外からはうかがい知れない独自空間が職場の彼らは、離職率が高い。同じように「外からはうかがい知れない独自空間が職場」である、しかも同じ法務省の国家公務員である入国警備官も同様に離職率が高い。そのことを裏付けるように、刑務官、入国警備官は、定期採用試験を驚異の「四十歳」まで受けられる。
塀の中で自己完結してしまっているという自覚がある刑務官は、外の世界に強い関心を示す。外の世界を知ることを渇望する。
郵便局の消印がどこになっているのかと聴いてきた職員は、おそらくこの類いだ。
日本郵便に取材したら、最近では集配局で消印を捺すとは限らず、中継局で捺すことも多いという。
横浜刑務所と横浜拘置支所の立地エリアは、港南郵便局が集配担当。同市青葉区のおれの自宅兼事務所を管轄する青葉郵便局に送るため、郵便物は一度横浜市外に出て川崎東郵便局でまとめて消印を捺すようなのだ。
ペーパーレス、デジタル化の趨勢で実体としての郵便物の取り扱いが激減したことによる組織再編だ。
文強の判決公判があって、野村から手紙を受け取った一カ月後ーー。
夏が本格化した七月二十四日、延期になっていた野村の公判を傍聴するため、横浜地裁に出向いた。「クビにしたった」と野村が言う京都の重鎮弁護士の姿はない。代わりに弁護人席に座っているのは、恰幅の良い女性弁護士だった。
彼女には、見覚えがある。
野村との接見のため横浜拘置支所に出向いた日、おれより後に警備小屋に入ってきて、弁護士ですと名乗って、おれより先に奥の建物に進んでいった女性だ。
弁護士の接見の予定があるから待つかと、拘置支所職員に言われた。横浜の国選弁護人だと、野村は言っていた。彼女のことだったのだ。
拘置支所には起訴前の被疑者や起訴後の被告人が大勢、収容されているから、恰幅の良いその女性弁護士がその日、野村の接見だけのために拘置支所を訪れたのではあるまい。
また、拘置支所で見かけた際も、野村の公判でも、季節的なことだけでなく、彼女の体格にも要因があるのではないかと疑うのだが、薄着だ。弁護士バッジは衣服の上からはどこにも見えない。「弁護士然」としていない。
傍聴席最前列に、スレンダーな女性が、一人で座っている。
白い薄手ブラウスから、内側の黒いタンクトップが透けて見える。アーミーグリーンの細いパンツを穿いているように見える。左手首に、スマート・ウオッチを巻いている。
髪は金色に近い明るい茶色で、それを後頭部で「ポニー・テール」状に束ね結んでいる。後方のおれの席から、顔貌はうかがえない。
ポニー・テールの彼女が、弁護側の情状証人として出廷する野村の女房だった。
(「参拾弐の10 彼の父と約束したので」に続く)




