参拾弐の7 動揺する姉妹
中国出身の会社経営者、文強に対する被告人質問で、弁護人弁護士からの主尋問、横浜地方検察庁検事からの反対尋問が終わり、横浜地方裁判所女性判事は、手元の資料のページをめくりながら、こう言った。
「裁判所からは、ありません。本日、結審します。双方のご意見を伺いたいと思います」
検事が立ち上がる。
「態様は、本公判廷で明らかになった証拠で十分に証明されるものと思料します。犯行は組織的、計画的で、国の制度を悪用し、七カ月間にわたり公金を詐取した常習性の高いものです。被害は甚大で、結果は重大です。よって、求刑ですーー」
検事はここで、手元の資料の読み上げをいったん止めた。法廷通訳人の壮年女性による同時通訳が追いつくのを待った「溜め」のためだと感じる。
「ーー懲役八年を相当とします。八年の実刑です」
論告求刑で検事は通常、「実刑」とは言わない。
「八年」を繰り返しさらに二度目に「実刑」と付け加えたのは、親切心からではあるまい。日本の法慣行に疎いのだと主張する被告人サイドに対する、執行猶予なしで刑務所に収監することを求刑するのだという検事の強い姿勢の表れと受け取れる。
傍聴席最前列に並んで陣取っていた、文強の被告人質問に先立ち証人尋問に応じた中国人の「内縁の妻」と、二人を引き合わせたというおそらく姉が、一様に動揺するのが傍聴席後方から観察できる。
姉妹らしい二人は、顔を見合わせなにかを小声でやり取りする。すがるような仕草と表情で、弁護人席を見やる。
検事が着席するのと入れ替わり、ツーブロック・ヘアーの男性弁護人弁護士が立ち上がる。
「事件について被告人は本公判廷で素直に認め、反省、贖罪の意志を示しています。犯行への加担は従属的で、自ら関与の継続を避けました。国家資格と国家公務員の区別もできず、共犯者に利用された側面が大きいことは明らかです。また、養うべき妻と子どもがいます。これら情状を考慮し、寛大な判決を求めます」
執行猶予付き判決を求めますーーとは弁護士は、言わない。
被告人質問の主尋問で自ら文強にその事実を認めさせたように、文強には二〇〇七(平成十九)年に収監された前歴が、二〇〇九(平成二十一)年には罰金前科がある。初犯でないと、執行猶予の奪取は難しい。
それに、執行猶予が付けられるのは、刑法(第二五条)の規定により原則、懲役(現・拘禁)三年判決まで。検察の「八年」の求刑を、裁判所が「三年」にまで落とした上で懲役を付けるのは、現実的ではない。
そして、一連の犯行を文強が認めている以上、「無罪」は主張できない。
被告人に認められる最終弁論で文強は、なにも言わなかった。
判決は、約三週間後の六月二十一日に言い渡される。
閉廷し文強が刑務官に連れて行かれ姿を消すと、内縁の妻ら女性二人はツーブロック・ヘアーの弁護士に詰め寄る。
「ちょっとこっちで」
三人は法廷の外に出て、同じ階の待合室に入っていく。そこは「一般用」の待合室で、誰でも利用できる。三人の会話を聴き取るために、おれも入室することは可能だ。
しかし、それをおれは敢行しなかった。まだ判決公判が残されており、弁護士や内縁の妻らから警戒されるのを避けなければならない。平穏かつ確実な取材を継続するためだ。
地裁庁舎十一階の刑事訟廷庶務係にエレベーターで行き、期日が取り消されたという野村の新しい期日を確認した。野村の言う通り大幅に延期され、七月二十四日に指定されていることが分かった。
神奈川県警青葉署刑事課強行犯係警部補、グランパ石場と巡査長、ピロシキ田中による、スーパー三和奈良北店レジ打ち従業員、穂積恵美(一九七〇-)がことどとく満面の笑みで収まる写真を大量に撮影し調書に添付した「実況見分」から丸一年の記念日である六月一日は、なにも起きずに過ぎた。
この日は土曜で、記念日を前倒ししての五月三十一日も、週明けの六月三日にも、なにもなかった。
五十八回目のおれの誕生日には、福岡に嫁いで子育てを終えた妹から、「ゆうパック」が届いた。食料品が入っている。
前の年に身柄を釈放され、なにか欲しいものがあるかとLINEで尋ねられたから、地元の食べ物と答えておいた。とんこつスープのラーメンの素などが入っていた。
お返しに、野村との接見(面会)のため出掛けた横浜拘置支所敷地内にあった刑務作業製品店舗で買った、横浜刑務所特産パスタと、横須賀刑務支所特産の洗濯用固形洗剤を、レターパックに入れて郵便ポストに投函した。
〈中身が不審で航空便に乗せられません〉
集配を担当する青葉郵便局から、切羽詰まった口調の電話があった。《品名》欄に、《食品、日用品》としっかり記入したのにも関わらずだ。
「食品ってのは、パスタ。スパゲッティの乾麺ね。日用品ってのは、洗濯用の洗剤」
〈洗剤? そんなふうには見えません〉
「ああ、固形だからかな。粉末でも液体でもないからかな」
それで解決した、解決させたつもりだったのだが、妹の元に届いたレターパックは《石鹸》と書き加えられていたようで、危うく体を洗うための石鹸と勘違いされるところだった。
自宅配電盤の断線でエアコン用コンセントまで電気が届かないのだと申告しているのに、それはブレーカーが落ちているせいだと団地管理サービス事務所職員の女が譲らず、JS日本総合住生活東京支社神奈川西支店管理主任、田代修の虚偽通報により県警地域部自動車警ら隊員ら四人が、拳銃ホルスターをロック解除状態など戦闘モードで臨場した記念日の六月五日も、青葉区あざみ野の伊藤治同社社長宅でインターホン越しに名乗ったとたん、家人が「一一〇番通報する」とヒステリーを起こし、青葉署地域課交番勤務員二人がスクーターでふらふら臨場した記念日の同六日もなにも起こらず、過ぎていった。
横浜拘置支所に勾留中の野村に宛て、おれはこんな手紙を書いて投函した。
《 二〇二四年六月九日
野村××殿
〒二二七-〇〇三六
横浜市青葉区奈良町二九一三-二
森史×
拝啓 平年より遅れ気味という梅雨入りも、南日本から着実に近づく足音が聴こえます。
先日は、事前連絡をせずそちらを訪れ、驚かせてしまい申し訳ありませんでした。【略】
当方は、貴殿と知り合うきっかけとなった、貴殿がかかわったとされる事件そのものには、さほどの関心を持ちません(当方の事件は、略式で罰金刑が確定。完納しました)。
そちらでお会いした際もお話しした通り、同室で過ごした短い間、お互いの事件に関することや身の上話を、あくまでも表面だけなぞるような形で披露し合いました。貴殿からお聴きしたことは、あの後、図書館の資料で調べたり、公判を傍聴したりする中で、おおむね真実かつ正確だと分かりました。ところが、○○さんに関することのみ、当方の調べとまったく一致しません。そのことが、不可解でならないのです。
【略】
これらは果たして、単なる偶然でしょうか。貴殿に担がれたのだろうかと、当方はずっと首をひねっています。頭を悩ませています。しかし、いくら考えても分かりません。答えが出ません。
【略】
回答はだれにも(貴殿にも)導き出せないかもしれません。
郵便切手を同封します。返信を強要するものではありません。少し多めに入れるので、どうぞ他のことにもご随意にお使いください。今秋、郵便料金が値上げされるらしいので、端数の額面のものも入れます。
貴殿がかかわったとされる事件関係者のうちの一人に対する論告求刑公判が先月末、横浜地裁でありました。論告に先立ち、内縁の妻だという女性が情状証人として出廷。検察官の論告を傍聴席で見守っていた彼女は、その厳しい内容の求刑に、激しく動揺しているようでした。判決は今月二十一日言い渡される予定です。
動いたのが巨額であることや、事件の相手方(被害側)が強大な権力を行使する国家機関であることから、貴殿についても今後、厳しい制裁が突きつけられると思料します。社会復帰され、○○さんに関する真相その他について、官など第三者を介在・同席させず、お互い腹を割って、お話を聴かせていただける日が早期に訪れることを願っております。
敬具》
通常のビジネス・レターで使う《冠省/草々》ではなく、礼節をもって、《拝啓》で始め、《敬具》で終えた。
【略】の部分は、野村が「内縁の夫婦関係にあった」と主張する夭逝した美しいシンガーソングライター、《○○さん》に関することだ。
(「参拾弐の8 しっかり反省してください」に続く)




