参拾弐の3 国家の感情
「あらへんよ。なんも」
望みはあるか、なにかおれにできることはあるかと尋ねたら、透明アクリル板の向こうの野村は、首を横に振った。
「そうですか」
アクリル板の手前の、狭いカウンター状テーブルの上で開いていた大学ノートを、おれは閉じた。アクリル板の向こうにも同じような状態で設けられるテーブル上に、野村は両ひじを突いている。野村の隣に座る立会人の刑務官は、組んだ膝の上に大学ノートを開いたまま、まだなにかをページに書き付けている。
カウンター状テーブルの上に置いていたチタニウム製バンドの腕時計を、おれは左手に巻いた。
「兄い」
「はい」
森さんとは、この時の野村は言わなかった。
「だまし取ったお金な」
「はい」
「被害弁償せなあかんと思てんねん」
「そうですか」
神奈川県警青葉署留置施設で同室だった前年八月、逮捕容疑の詐欺で受け取った三億円を自分のためには一円も使っていないと、野村は言っていた。
前月の公判で次回期日を指定するに当たり、野村が「首にしたった」という京都の老練弁護士は、論告と弁論を先延ばしにしたいと主張。「被害弁償(のタイミング)があるからか」と裁判官に問われ、そうだと答えた。
なぜ拘置所でアクリル板越しの野村が、法曹でもないおれにそんなことを言ったのか分からない。隣の刑務官に聴かせるためでもなかろう。刑務官は検察官と同じ法務省の機関の職員だが、なんら権限を持っていないし、接見の様子をどこかの誰かに密告する価値があるような性質の事件ではない。そんな価値のある性質の接見でもない。
しかし、おれは、野村の発言を利用させてもらうことにした。おれの場合は、あえて隣の刑務官に聴かせるため。
「確かに、被害弁償は必要なことですし、それをするかしないかによって、野村さんの量刑にも影響するでしょう。大切なことです」
「そうやろ」
「ですが、野村さん」
「うん」
「相手は、国です」
「……」
「野村さんたちが大金をだまし取ったのは、だまし取られたのは、国です。国家です」
「……」
「国家に、感情はありません」
「……」
「国家は、感情には流されません」
「……」
「無機質に、制度的に判断します。無機質に、制度的に事は流れます」
「……」
「過剰な期待を抱いたり、楽観視したりすると、裏切られた気分に陥ることになるかもしれません」
「せやな。ありがとう」
「素人のぼくの考えです。弁護士の先生と、よく相談なさってください」
「そうするわ」
この間も、若い刑務官は大学ノートから顔を上げず、ボールペンで一生懸命なにかを書き込んでいる。
おれと野村の会話を、メモしきれていないのではないか。書き込んでいるように見えるのは、演技ではないか。
そんな気がしだした。
取材メモを取っていると、取材を受けるのに慣れた対象者は、メモの取り方でその取材者の理解度を判定できる。
ーー森ちゃん。今のところ、きちんと聴いてた? 間違ってノート取ってない?ーー
親切な取材対象者が、親身なおせっかいを焼いてくれることがある。
扱うネタによっては、おれが誤報を出してしまうと彼らもその尻拭いに回らなければならなくなる恐れがあるからだ。
(刑務官さん、ぼくたちの話、ちゃんと聴いてる?)
老婆心めいた思いを、おれは拭えない。そう尋ねてみたい衝動に駆られる。
立会人の彼が誤ってノートを取っても、おれも、恐らく野村も、困らない。しかし、国家公務員である刑務官の雇い主である国家のことを話題にされているという認識が、果たして彼にあるだろうか。
あるともないとも言える。
おれが、あるいは、おれと野村が、接見の場でなにか重大な問題の火種になることを話したとしても、彼は、知らぬ存ぜぬで通した方が、厄介な仕事を抱えずに済む。
「もうそろそろ時間だと思うのでーー」
刑務官は、顔を上げない。大学ノートに「へのへのもへじ」だか「つるにはまるまるむし」だかを描いているのだろう。
「ーー野村さん」
「うん」
「ここに、野村さん宛てに、野村さんがここにいるはずの間に、お手紙を出します。返信用の切手を入れときます。もし気が向いたら、お返事ください。便箋も封筒も、あるんでしょ?」
「あるで」
「んじゃ、そんなことで。こんなとこで」
話を切り上げる意図を伝えたいおれの目配せを、刑務官は無視する。無視されたように感じる。
いすを引いて、おれは立ち上がる。野村も刑務官も、おれに合わせて立ち上がる。
接見中を通して、野村はほぼ無表情だった。明らかに感情がくみ取れたのは、証人尋問のための女房の出廷に関する話題の際のみ。
青葉署の留置施設ではどうだったか。
「先生、先生」と牢番の留置管理課員にこびへつらうような態度は始終見せていた。
感情を高ぶらせたことが、一度だけある。後に野村が「幸せの数」とタイトルを付けたおれの例え話で、野村は、眼がしらを押さえた。瞳が潤んでいた。
「看守さん。野村さんのこと、よろしくお願いします」
刑務官全般や、警察でも留置施設の牢番のことをそう呼ぶ「看守」は、刑務官のうち末端の階級名だ。警察官の「巡査」、消防吏員の「消防士」と同じで、やはりこれら同様、世間一般ではその職業全体を指す。
立会に当たった刑務官の胸の階級章は、「主任看守」か「看守部長」の物だ。警察に当てはめると、巡査長か巡査部長。警察のこの二つの階級章が遠目だと識別しづらいのと同様、刑務官の主任看守と看守部長も混同しやすい。
主任看守か看守部長の階級章の刑務官は、おれの最後のあいさつにも反応せず、おれに向かって頭を下げる野村を引き連れ、扉の向こう側に姿を消した。
立会の刑務官が無愛想なのは、便宜供与の強要や受諾を含む密室での不適切な行為を避けている、それを疑われることを恐れているせいなのかもしれない。
なにかのブザーのような音が聴こえ、後ろの扉が開いた。
接見室に入ってきたのと同じ道筋を逆向きに歩き、警備小屋のような別棟の建物のロッカーに預けた荷物を受け取り、横浜拘置支所を後にする。
横浜刑務所と横浜拘置支所が同居する広い敷地内に、刑務所作業製品の店舗があるのを、駅に近い門から入りほぼ反対側の拘置支所に向かう途中、視認していた。拘置支所側にも出入り口があるようだが、店舗の品ぞろえを見ておくため、入ってきた門に向かって歩いた。
刑務所作業製品は、懲役(現・拘禁)囚らが職業訓練を兼ね毎日工場に「出陣」してこしらえる小物や日用品、大物家具で、全国の実店舗や通信販売を通じ一般消費者向けに開放されている。娘が幼いころ、乗って遊ぶ木馬を買ったことがある。
この日は自分用に、横浜刑務所特産パスタと、下部機関である横須賀刑務支所特産の洗濯用固形洗剤を買って帰った。
(「参拾弐の4 十九歳で長崎留学」に続く)




