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参拾壱の8 霊媒師(シャーマン)のパラドックス

 漢方医を父に熊本県宇土郡松合村(現・宇城市)で生まれた御船千鶴子(みふねちづこ)(一八八六-一九一一)は、怪しげな「心霊療法」を商売としていた義兄の被験者を務めるうちに、透視の能力があるらしいことが分かる。人体の透視や患部の治癒ができたとされ評判になり、実家の医院には大勢の患者が集まった。

 教え子を経由し千鶴子のことを知った心理学者で東京帝国大(現・東京大)助教授、福来友吉(ふくらいともきち)(一八六九―一九五二)が、熊本を訪れるなどし、種々の方法でその再現実験を試みる。

 しかし、福来らの研究が緒に就いたところで、千鶴子は服毒自殺を遂げてしまう。マスコミを通じ千鶴子の名は全国で知られるようになり、福来らによる公開実験で、不的中なら非難され、的中なら詐術を疑われるという精神的な圧迫に耐えられなくなったためとみられている。

 千鶴子の透視は当時、道教に登場する神の名から「千里眼(せんりがん)」と呼ばれた。

 山口県生まれで司法官(現・裁判官)の夫の転勤に付いて香川県で暮らしていた一男二女の母親、長尾郁子(ながおいくこ)(一八七一―一九一一)が、千鶴子と同じような能力を持つことに自ら気づき、千鶴子と同じように注目を集める。しかし、千鶴子と同じ境遇に苦しめられ、一切の被験を拒否。千鶴子の死のわずか一カ月後に、急性肺炎のため急逝した。


 千里眼など超能力あるいは神通力を持つ者の晩年は、三通りある。

 一つ目は、千鶴子や郁子のように、その能力があからさまになって十分な時を経ず、なんらかの理由により亡くなる。

 二つ目は、能力があからさまになるのと反比例するように、その能力を失う。

 三つ目は、能力を維持したまま大往生を迎える。


 ハンガリー系ユダヤ人の移民の家庭の子としてイギリス委任統治領パレスチナで生まれたユリ・ゲラー(一九四六―)来日を契機に一九七〇年代(昭和五十年ごろ)、歴史上何度も形を変え繰り返されたオカルトブームが国内で再燃する。念力でスプーンを曲げられるとする清田益章(きよたますあき)(一九六二-)、秋山眞人(あきやままこと)(一九六〇-)ら少年が注目されるが、週刊誌などメディアによってその仕掛け(トリック)がことごとく見破られ暴露されている。

 では、彼ら超能力少年は、最初からうそつきだったのか。

 そういう連中がほとんどだろう。しかし、本物もいたはず。清田、秋山が「本物」だとしたら、前述した「二つ目」。メディアで注目され、その不思議な力を喪失してしまった。

 この二人に関していえば、「一つ目」である千鶴子、郁子のような不幸は避けられた。


 前の項で例に挙げた「人捜し名人」の記者Gさんは、「二つ目」「三つ目」のどちらに当てはまるか。

 失踪した女子中学生を確保した彼は、後に自殺することになる女子大生を「ナンパ」し本人と特定した時点では、その能力をまだ温存していた。厚生労働省の広報室で意図せず再会したおれに、先に声を掛けなかった際は、能力を失っていたか。


 大分県東国東郡安岐町(現・国東市)出身で、鮮魚商を退きボランティア活動に明け暮れていた尾畠春夫(おばたはるお)(一九三九-)は、二〇一八(平成三十)年八月、山口県周防大島町の山中で家族とはぐれ行方不明になっていた男児(不明時一歳、発見時二歳)を、生存が絶望視されている中、現場に入り、三十分ほどで見つけ救助した。

 その後も尾畠はボランティア活動を続けるが、「人捜し」への貢献は、この一件のみ。これで神通力を使い果たしたのかもしれない。


 霊感を持つ占い師として雑誌やテレビで取り上げられた福岡市出身、藤田小女姫(ふじたこととめ)(一九三八-九四)は、メディアに踊らされた。

 小学六年生だった一九五〇(昭和二十五)年、「産業経済新聞」(現「産経新聞」)が社会面トップで《奇跡の少女現る/マリを突きながらなんでもズバリ》と紹介。「産業経済新聞」社長が産経ビルの中に事務所を与え占い屋を開業させたほか、題字をカタカナの「サンケイ」にしたのも小女姫の占いに基づくという。

 一九七〇(昭和四十五)年、小女姫は米国ハワイ州ホノルルに移住。一九九四(平成六)年二月、一人息子(当時二十歳)の知人の男(同二十八歳)に射殺される。息子もこの男によって射殺されている。


 心霊(スピリチュアル)の世界には、越えてはならない一線がある。それを踏んでしまうと、その世界との扉が閉ざされてしまう。はしごを外され、不幸な結末を迎えることにもなり得る。


 霊を自身に憑依(ひょうい)させ霊に代わりその意志を語るという「口寄せ」は世界で見られ、日本では特に顕著だ。東北地方のイタコ、沖縄・奄美地方のユタなどの「巫女(みこ)」がそれを担う。

 彼女らが、そのような特殊能力を本当に持っているのか否か、おれには分からない。

 しかし、「越えてはならない一線」を踏んでしまったら、そのことイコール能力の喜捨だ。

 だから、イタコが、ユタが「本物」なら、それを生業(なりわい)にはできない。もし能力を保持したままのイタコ、ユタが存在するとしたら、彼女らは本気を出していない。手加減している。

 扉の向こう側から、その扉を閉じさせないためだ。はしごの下から、そのはしごを外されないためだ。


 前述した、シンガーソングライター、さだまさし(一九五二-)が主演、音楽を務めるサーカスのピエロが主人公のノンフィクションを元にした映画主題歌『道化師のソネット』(一九八〇)は、さだによれば、タイトルを付けた後に詩の行数を数えたら、イタリア発祥の詩形「ソネット」通り十四行になっていたという。この偶然についてさだは、「神様っているのかも」とコメントしている。

 これも前述した、さだ七枚目アルバム「夢の(わだち)」(一九八二)収録『(つぐな)い』で、交通事故で死なせてしまった相手の奥さんから〈ゆうちゃん〉に手紙が届いたと知らされた〈ぼく〉は、〈神様って思わず/叫んでいた〉。


〈彼は(ゆる)されたと思っていいのですか

 来月も郵便局へ通うはずの

 やさしい人を赦してくれてありがとう〉


 ビートルズ解散間際の楽曲『Let It Be(レット・イット・ビー)』で、ポール・マッカートニー(一九四二-)による歌詞に登場する〈Mother Mary〉は、永らく、キリスト教を創始したイエス・キリストの母「聖母マリア」のことと解され、日本版の歌詞カードでもそう翻訳されていた。

 マッカートニーが十四歳のころ病気で死に別れた実母(一九〇九-五六)の名前は、Mary(メアリー)だ。マッカートニーは一九六九(昭和四十四)年に授かった娘に、亡き実母と同じ、娘にとっては祖母と同じ名を与えている。いわゆる祖名継承(そめいけいしょう)で、イギリスの労働者階級ではよくみられるという。

 二十一世紀の、令和の現在、歌詞は亡母のことだとされ、英語では違和感なく〈Mother Mary〉でそのまま通用するが、日本語に翻訳する必要がある場合、混乱をきたす。


 歌詞の意味合いについてマッカートニーは公式にはコメントしない。しかし、こんな趣旨の発言をしている。


「聖母マリアのことだというふうに聴いてもらえたのなら、それはそれで光栄だ」


 イギリスの哲学・倫理学者で、経済学者としての功績がよく知られるアダム・スミス(一七二三-九〇)は、著書『国富論(The Wealth of Nations)』(一七七六)で、市場経済における適切な資源配分について論じた。

 スミスによれば、個人による利益追求は一見、社会に対してなんの利益ももたらさないように見えるが、各個人が利益を追求することによって、社会全体の利益となる望ましい状況が「見えざる手」によって達成される。

 また、価格メカニズムの働きにより、需要と供給が自然に調節される。

「価格メカニズム」と「需要と供給」の関係については、現行の日本の中学三年「社会科」教科書で、そのごく初歩の「触り」の部分が扱われる。

 後世においてスミスの唱える市場における自由競争に関し、「神の見えざる手(invisible hand of God)」と表現されるようになった。しかし『国富論』でスミスは、「見えざる手(invisible hand)」とは言っているが、「神の(of God)」は一度も登場しない。

 西欧におけるキリスト教主義的な「分かりやすさ」から、スミスの主張は捻じ曲げられた。スミスの学説を教会が利用したとも言える。


 神はいるのか、いないのか。それは、誰にも分からない。

 しかし、このことは言える。神が人を創りたもうたのではない。人が神を創ったのだ。

 人智の及ばないなにかの力を、その存在を理解するために、モデルとして、偶像(idol)として、崇めたてる対象に(まつ)り上げた。


 神は気まぐれで、亡者(ほとけ)は寂しがり屋だと、事件記者の仕事を始めてから思うようになった。

 姿は見えない。声も聴こえない。しかし、彼らの存在は確かに感じる。おれに訴える。埋められているのはここだ、(あや)めたのはこいつだ。

 おれは、そこを掘り返す。そいつを攻める。

 遺族にも同業者にも捜査関係者にも、過程を話さない。精神の異常を疑われる恐れなどといったことはどうでもいい。説明のしようがないのだ。

 なにかに突き動かされ、使命を帯びていると自覚させられ、取材する。成果だけを報じる。


 深入りして身内を失う同業者がいる。本人が亡くなることもある。

 寂しがり屋の亡者に魅入られ、連れて行かれてしまったのか。神がそれを許したのか。「深入り」し過ぎたためとも言えない。入り込みが足りなかったとも、その方法が誤っていたとも思えない。

 身内を失った本人にも、分かるまい。あの世に行けば、分かるのかもしれない。


 検屍(けんし)をする警察の検視官や、司法解剖を行う大学医学部の法医学教室、行政解剖の監察医、永く深く事件取材に携わった同業者なら、心当たりがあるはず。おれの言っていることが理解できるはず。納得してもらえるはず。


(参拾弐 質草夫人「1 安否(うかが)い」に続く)

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