参拾壱の5 もとの十九にしておくれ
〈アンタ、あの娘のなんなのさ!〉という楽曲中の印象的なせりふで大ヒットを飛ばした、宇崎竜童(一九四六-)率いる「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』(一九七五)は、宇崎が作曲。作詞は宇崎の妻、阿木燿子(一九四五-)で、彼女にとって作詞家デビュー曲だ。
二人はおしどり夫婦で、作曲家、作詞家として山口百恵(一九五四-)の全盛期を支え、山口三十一枚目ラストシングル『さよならの向こう側』(一九八〇)を担当したのは、すでに述べた通り。
宇崎と阿木はそれぞれ明治大法学部、同文学部の同級生で、先に軽音楽部に入部していた宇崎は、遅れて入部することになる阿木を一目見て、こう思ったという。
「あっ。嫁が来た!」
若者のカリスマと呼ばれ二十六歳の若さで逝ったシンガーソングライター、尾崎豊(一九六五-九二)は、未亡人の繁美(一九六八-)によれば、ダスティン・ホフマン(一九三七-)が教会で結婚式を挙げている最中の花嫁を奪い去るラストシーンが印象的な映画『卒業』(原題・The Graduate)を部屋で一緒にビデオで見ていて、不思議そうな顔をして繁美にこう言ったという。
「なんか、おまえとは結婚しそうな気がする」
おれが後に離婚することになる女房と知り合ったのは大学二年のころで、彼女は一学年下。十九歳になったばかりだった。アルバイト先が同じで、県都・那覇市内でアルバイトを終えバスで帰宅する際、当時おれの住んでいたアパートより奥まった住宅街に家族と暮らしていた彼女と一緒になることが多かった。
そのうち、おれのアパート最寄りのバス停で彼女も降り、学生客相手の深夜まで営業している喫茶店だか食堂だかよく分からない飲食店で、一緒に食事を摂るようになった。
彼女は家で母親が食事を用意しているからと、ほとんど食べない。
「アイス・ティー!」
彼女の注文する飲み物はたいがい決まっている。
そんなバイト終わりのデートが何度か続いて、そのバス停の近くのおれのアパートに、初めて来ることになった。おれの誘いを、彼女が断れないという様相だ。
二人で店を出てたわいもない話をしながら並んで歩いて五分もかからないおれのアパートに向かっていて、「あっ」と声を上げ、彼女は立ち止まった。
「分かった! 傘だ。さっきの店に傘、忘れちゃった」
確かに彼女は、傘を持っていたように思う。昼間は雨が降っていた。夕方から仕事に入るおれは、傘を持たずに出掛けた。
「取ってきなよ。待ってるからさ、ここで」
えっというような表情を見せた後、彼女は、今、来た道を逆方向に歩く。
おれの部屋に来るのが嫌になったんだろう。そう言うと角が立つから、傘のせいにしたんだ。「分かった」という不自然な表現が、それを物語る。
しつこく彼女を誘うのは、もうやめなければならない。迷惑がられている。アルバイト先でお互い、気まずい思いをすることになる。
そう受け止めた。
だから、彼女が歩いて往復すれば最長で十分ほどであろうそこで待ち、戻らないのを確認してから一人で帰宅しようと、腕時計の針を見た。
予想に反し、彼女はすぐに戻ってきた。工事中で足場の良くない路面を、傘の取っ手部分を手首にぶら下げ、先端を片方の靴つま先で蹴りながら歩いてくる。
「一緒に来てくれてもいいでしょ? こんな真っ暗のよく知らない道を一人で歩かせるなんて」
「戻ってこないと思ったんだよ。帰りたいんだろうなって。うちに来たくなくなったんだろうなって」
はあ、と彼女は深いため息をついた。
暗い足場の悪い道を歩いてくる彼女は、さかのぼれば、店に戻る彼女の後姿は、確かに心細そうだった。
あまりにもはかなげな彼女は、おれが抱きかかえなければ、崩れ落ちそうだ。彼女に支えてもらわなければ、おれは世界の不条理に対し爆発しそうだ。
おれは彼女を守る。おれは彼女に守ってもらう。生まれてからそれまでの二十年より長い時間を、何倍もの年数を、これから彼女と一緒に過ごす。
そう決心した瞬間だった。
沖縄民謡と認識されながら実際には一九七二(昭和四十七)年発表と比較的新しい、『十九の春』という楽曲がある。歌手、田端義夫(一九一九-二〇一三)によるカバー(一九七五)で、全国的なヒット曲になった。
〈わたしがあなたに/ほれたのは
ちょうど十九の/春でした〉
妻のある男と不倫関係にある女性との、対話形式で歌詞が進む。
〈今さら/離縁と言うならば
もとの十九に/しておくれ〉
女性による設定のこの語りの部分を聴くと、いつも胸が締め付けられる。離婚してからだけではない。婚姻生活中も、さらに言えば、結婚前もだ。
彼女の人生を背負うことが、おれにできるのか。後悔させないで二人の寿命をまっとうさせられるのか。
男による設定部分の歌詞で、おれのその思いはますます強まる。
〈もとの十九に/するならば
庭の枯れ木を/見てごらん
枯れ木に花が/咲いたなら
十九にするのも/やすけれど〉
時間を元に戻すことはできないし、それは自分のせいではない。男はそう歌う。
中村帝国女帝で叔母に当たる中村由紀子(一九四七-)を筆頭に、その夫、孝ら女帝の命を受けた配下によりことごとく家庭を壊されめちゃくちゃにされ、自身と娘の危険回避のため別居、離婚を申し出る女房をなんとか食い止めようとしたのは、『十九の春』の男の轍を踏みたくなかったからだ。十九歳に戻してあげることのできない女房(当時)に対し、最後まで、最期まで責任を取りたかったからだ。
シンガーソングライター、森高千里(一九六九-)不朽の名作『私がオバさんになっても』(一九九二)に、こんな歌詞がある。
〈女ざかりは十九だと/あなたがいったのよ〉
この曲を作った時、森高は十九歳をとうに過ぎていた。音楽製作スタッフが雑談で、歌詞の〈あなた〉のようなことを言ったのに憤慨して作詞したのだという。
忘れた傘を取りに真っ暗な道を往復した後の女房の、特色ある髪型が記憶の底によみがえる。米国のティーン・エイジャーが好んでしていた、作り上げるのにそう手間のかからない髪型だ。
神奈川県警青葉署留置施設で同室だった四十番の男、野村(一九六五-)が「内縁の夫婦関係だった」と主張するものの所属音楽製作会社が全否定する、夭逝した美しいシンガーソングライターのトレードマークが、この髪型だ。作り上げるのも解くのも容易だから、常にその髪型というわけではない。
鈍いおれは、元女房と、夭逝した美しいシンガーソングライターとの共通項にずっと気づかないでいた。元女房がその髪型を始めたのはもちろん、美しいシンガーソングライターに影響されたからではない。
当時、その歌姫はまだデビューしていなかった。
(「参拾壱の6 健全なる精神」に続く)




