参拾壱の1 早朝から鳴らしてしまいました
おれの身柄の安全は脅かされぬまま、年度が改まった。身に危険が迫る感覚はしない。
新型コロナウイルス感染症の影響に伴う特例で従業員の休業を補償するための雇用調整助成金を国から億単位でだまし取った詐欺罪で起訴されている会社代表の男、橋本(一九五九-)の、二〇二四(令和六)年四月十八日に指定されていた四回目の公判は、期日が取り消された。前日に電話で横浜地方裁判所に確認したところ、延期される次の期日が決まっていなかったから、直前になってなんらかの都合で取り消されたのだろう。
おかしなことがあったのは、その一週間後。
橋本の共犯者で、神奈川県警青葉署留置管理施設でおれと同室だった四十番の男、野村(一九六五-)の、三回目の公判が開廷される四月二十五日のことだ。午前六時四十分ごろ、携帯端末「赤色一号機」が着信を知らせるうなりを上げた。
取材などで遠方に出掛ける際、時間と交通費を節約するため、現地周辺で別の用事も極力済ませて帰宅するのだとすでに書いた。
横浜地裁が立地する、海沿いにある横浜市内の官庁街に出向くには、うちからだとバスと電車を乗り継いで一時間半の長旅だ。横浜地裁は午前八時半に開扉するから、通勤ラッシュを避けそれより早い時間帯に移動する。そのためには、六時半ごろ自宅を出発する。
ところが、野村のこの日の公判は午後に組まれていること、前日、都内に出掛け帰宅時刻が遅かったことから、横浜地裁へ向けての出足が遅れた。「通勤ラッシュ」が始まる前に、バス、電車に乗ることが難しくなった。
通勤ラッシュが終わるのを見計らって、午後九時ごろになって出発しようと考えた。眼を覚まし、起きてはいた、デスク作業をしていたと記憶している。
いつも寝床横に置いてある「赤色一号機」を見にいった。呼び出しの振動は、すでに止まっている。メッセージは入っていない。発信者番号は、野村が「内縁関係にあった」と主張する、夭逝した美しいシンガーソングライターの所属音楽製作事務所、タケシタの携帯電話だ。
すぐにコールバックした。タケシタは出た。
〈いやいや。森さま、申し訳ない〉
自身がおれの携帯電話を鳴らしたという認識は、タケシタにはあるようだ。
「どうかしたんですか?」
〈こんな早朝から鳴らしてしまいました〉
「なにかあったんですか?」
〈なんにもありません。すみません〉
「……」
タケシタの話は、要領を得ない。相手の電話番号を間違えてかけてしまったふうではない。寝起きの声でもない。
おれは、前の年の八月の暑い日、青葉署刑事課員に奇襲された朝のことを思い出した。あの日も、連続して鳴る携帯電話の一本目は、この時間帯だったはずだ。
しかし、青葉署奇襲の時間帯との直接の関係は、タケシタからの電話にはあるまい。関係が深いのはむしろ、夭逝した美しいシンガーソングライターの生前の「内縁の夫」を名乗る野村のこの日、開かれる公判だ。公判をおれが傍聴するか否かだ。
おれがタケシタの事務所を訪れ、タケシタと初めてコンタクトを取ったのが、その年の二月一日のこと。タケシタは野村のことを知らず、そして、その日のうちに野村の主張を全面否定されたのは、すでに述べた通り。
その後、三月六日に指定されていた公判期日が一度取り消され、この日に延長されている。
つまり、タケシタは、あるいはタケシタの事務所は、身柄を勾留されたままの野村を、加えておれをマークしだした。野村が公判でよからぬことを口走らないように、傍聴したおれがよからぬ記事を書かないようにだ。彼らがそれを始めた最初の公判が、この日。
野村が起訴されている事件の概要は、二月一日にアポイントなしでタケシタの事務所を訪れた際に渡した報道記事のコピーでタケシタたちには分かっている。同じタイミングで渡した、橋本が代表取締役を、野村が役員を務める新聞販売店を経営する会社の法人登記簿の記載内容で、フルネームなど橋本、野村の素性も分かる。
つまり、タケシタたちは、野村の公判期日をチェックできる。
そして、それを欠かさず公判しているおれの動きも、追える。彼らの二月のおれへの対応から判断して、彼らは報道慣れしている。芸能業界なのだから当然だ。
おれの動きのチェックは、裁判所ルートとは限らない。
野村の公判でなくても、県警の捜査員が傍聴席にいることはよくある。
私服姿で傍聴席にいる警察官は、間抜けだ。上着を着ない軽装だと、バッジ型警察手帳の落下・紛失防止用ストラップ先の、茄子に似た形状から「ナスカン」と呼ばれる金具が、ズボンのベルトループとつながっている。ストラップがズボンポケットから伸びており、そこに手帳を収納していると分かる。
さらに間抜けな警察官もいる。
彼らはたいがい、二人一組で行動する。公判の傍聴も同様だ。二人のうち一人が警察官だと分かれば、同伴のもう一人もそうだと分かる。一人は公判中、たいがい居眠り。もう一人は、起こさない。
なんの疑いを持たぬままでいた際、傍聴席おれの前列に陣取っていた人相の悪い男二人組のうちの一人が、開廷前にスマートフォンをいじりだした。LINEのような画面になにかを打ち込み操作しどこかの誰かと通信しているのが、肩越しに見える。
《今、地裁~》
《お疲れさま~ ♡》
法廷でメッセージをやり取りしなきゃならん内容か?
スマートフォンには、神奈川県警のマスコット「ピーガルくん」の黄色い小さなフィギュア人形がぶら下がっている。そして、はいているズボンのベルトループには、バッジ型手帳とストラップでつながるナスカン。
その公判閉廷後、おれは二人を尾行した。二人は裁判所庁舎を正面玄関から出て、おれの尾行に気づかない様子のまま、隣のビルの検察庁舎に入っていった。
中二階のような高さにある庁舎玄関まで、おれは付いていった。二人組の一人が、ベルトループとストラップでつながるバッジ型警察手帳をポケットから出し、シロアリ駆除屋「ビソー工業」従業員にそれを示す。警備員の制服のシロアリ駆除屋は、極端に背筋を伸ばす不自然な姿勢で、右腕を上げ手指の先を自身の頭部右側に付け、「ピーガルくん」二人に敬礼する。
全国の裁判所で開かれる公判には、傍聴マニアのほか、職場で定年退職を迎え家に居場所がないのであろう、老いたじじいが陣取っている。一目見ただけでは、彼らが事件とどういう関係にあるのか分からない。
野村の公判をそれまで二回、傍聴した限りでは、傍聴席に、特筆すべき傍聴人の姿は確認できなかった。否認事件でかつ追起訴に向け捜査が続いている事件では、よく取り調べを担当する警察官がいる。否認している共犯者、橋本の公判で傍聴席に警察官がいたか否か、審理の傍聴に没頭していたから覚えていない。
ただ、おれの公判傍聴関係の動きは警察に「筒抜け」と考えるべきだ。なぜなら、野村は青葉署での「房仲間」だから。第二に、三和のでっち上げ事件に関しおれは、警察に対しても一矢報いるつもりで、そのことを警察側も認識しているはずだから。第三に、おれは、公安部門の「Fファイル」に掲載された状態がおそらく今も続いている、危険な思想を帯びる司法担当上がりの元新聞記者かつ今も警察批判記事を頻繁に発表しているノンフィクション作家だから。
きょうは野村の公判ですよ、これから傍聴に向け出掛けますーーというような反応を、タケシタは期待したのであろう。しかし、野村、つまりタケシタの事務所が今も著作権を管理する夭逝した美しい女性シンガーソングライターに関連することを、おれは一切、口にしない。
代わりに、タケシタの意図を、電話越しに読み取ろうと試みる。
よく分からないーー。
タケシタたちの手を煩わせるようなことにはならない、夭逝した美しい女性シンガーソングライターのことでも別のことでも、タケシタとなにかやり取りをする機会はもう訪れないと二月一日におれは宣言したのに、その後、野村の公判の日の早朝アクセスしてきたタケシタの方が、おれの動きを注視している、懸念しているであろうことは間違いなかろう。
そして、おれが野村たちの公判傍聴を続けていることは、なんらかのルートで警察も把握している。三和のでっち上げ事件の端緒だった横浜地検は、傍聴の機会に公判担当検事が傍聴席のおれと日常的に顔を合わせているのだから、言うに及ばずだ。
(「参拾壱の2 女房と知人に証人尋問」に続く)




