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弐拾陸の4 ダスティン・ホフマン

 横浜地方検察庁(ちけん)徴収担当の事務官、寺山を電話でからかった翌日、予告通り、バスと電車を乗り継いで、地検庁舎に向かった。庁舎前の交差点を挟んで対角線上にある郵便局の現金自動預け払い機(ATМ)で自身名義の口座から二十万円を引き出す。機械から出てきた一万円札二十枚を、機械備え付けの封筒に入れ、ジャケットの内ポケットに突っ込む。

 交差点を渡り、地検庁舎の中二階のような高さにある正面玄関まで階段を駆け上がり、ガラス製の扉を押して中に入る。警備員の制服の中年女が待ち構えている。


「罰金を(おさ)めに参りました」

「罰金をお支払(しはら)いですね?」

「いや、払うんじゃないよ。納めにきたんだよ」

「はあっ?」


 支払いとは、商品やサービスの対価で出費することを指す。動詞「支払う」も同様。これに対し、税金など決められた物を決められた額(例外もある)、決められた目的のため支出するのは、「納める」。学費も「納める」。結納金も、その名の通り「納める」。


 ふた月半前にこの庁舎で身柄を解かれ建物を出る際には、よく見ていなかった。改めて制服を観察して分かった。警備業務を請け負っているのは、埼玉県に登記簿上の本店がある「ビソー工業」。建築物のシロアリ駆除屋だ。

 官公庁の業務は警備に限らず民間事業者への外部委託が進み、国家的な財政難に伴い委託事業費が切り詰められるから、受託業者の質は劣化する一方。

 それでも、一般の傍聴者らが出入りする裁判所は、警備業務に気を配っている。傍聴者のためでは、もちろんない。傍聴者と警備員がトラブルを起こすと、裁判所職員の面倒ごとが増えるからだ。

 一般人の来庁が想定されていない検察庁はだから、警備を受託する事業者の資質が極めてお粗末。

 そんなシロアリ駆除屋「ビソー工業」をおれが知っているいきさつについては、章を改め詳述する。


「罰金を支払いにきたんじゃないんですか?」


 頭の悪そうなシロアリ駆除屋女は、顔をゆがめる。


「うん。だから、罰金を納めにきた」


 同じ制服を着てガラス窓で仕切られた向こう側に座っていた、シロアリ駆除屋の年配の男が、固定電話の受話器を上げる。


「ちょっと頭のおかしいやつが来てるんで…はい、はいーー」


 どこかの誰かへの電話は、それをかけた男の声がおれに筒抜け。あえて聴かせるつもりなのかもしれない。


「ーーはい、はい…聴いてみます。あんた、納付書かなんか、持ってるの?」


 受話器を耳に当てたまま、おれに向かって年配の男は叫ぶ。


「呼び出し状ならあるけど?」


 おれは現金二十万円が入っているのとは別のポケットから、郵便で受け取った封書を取り出し、中身をシロアリ駆除屋の女に手渡した。それを受け取った女は一瞥(いちべつ)し、同僚のシロアリ駆除屋の男にリレーする。


「なんか持ってますね。森なんとかって名前が書かれてます。えっ? 通していいんですかっ! こいつをですかっ!」


 すっとんきょうな声を上げるシロアリ駆除屋の男は、電話の相手の指示に納得していない。


 女のシロアリ駆除屋の指示で、衣服のポケットの中身とリュックの中身をすべて出してテーブル上に並べ、金属探知機を頭の上から足の先まで当てられ、荷物をすべて自分で仕舞い、相変わらず納得できない表情と仕草のシロアリ駆除屋男から来庁者用ネックストラップを受け取り首に掛け、階段でその上の指定されたフロアに向かった。


 指定された部屋は、釈放された日に寺山と罰金の納入について討議した際に入った覚えがある。しかし、部屋の出入り口前に、下のフロアでシロアリ駆除屋の男が座っていたような小窓の受け付けがあり、罰金納入はそこで待つよう指示する掲示があった。


「罰金を納めにきましたよお」


 小窓越しに声を掛けると、未知の男が中から小窓に近づいてきた。


「こちらからお送りした関連の書類をお持ちですか。身分を証明する物はありますか」


 一通りのことを聴かれ、要求された書類を示し、その場で一万円札二十枚を、その男に渡した。

 男はそれらを受け取ると、奥に引っ込んでなにかを持ってくる。奥で寺山と話をしているのが見えたが、寺山は出てこない。


《領収証書

(住所)227-0036

    神奈川県横浜市青葉区奈良町

    2913番地 奈良北団地2棟805号

(氏名)森 史×殿

 令和5年度 第01506号

 一般会計 法務省主管

(項)懲罰及没収金

(目)罰金及科料

 納付金額 ¥200000

 調停番号 令和5年第118号 罰金 現金持参

 令和5年11月8日領収しました。

 横浜区検察庁》


 カーボン仕様のそんな紙切れを渡された。


「名前、教えてもらえる?」

「わたしですか? アベです」

「じゃ、アベさん。確かに耳をそろえて二十万円全額、納めたからね」

「はい」

「寺山さんによろしくね」

「…はい」


 フロアを降りて庁舎を出るため、ネックストラップをシロアリ駆除屋の女に返す際も、シロアリ駆除屋の男は納得がいかないという表情を向けてくる。自分の半生すべてに納得がいっていないのかもしれない。


 その日も別に大した用事がなかったから、隣の庁舎の裁判所に寄って、刑事事件の公判、民事事件の口頭弁論を傍聴することにした。

 検察庁舎のシロアリ駆除屋に比べればまだましな警備員の所持品検査を受け、エレベーターホール手前に掲示されている開廷表を確認する。刑事事件に、面白そうな公判は見当たらない。民事事件の開廷表に眼を移した。


 ダスティン・ホフマン(一九三七-)とメリル・ストリープ(一九四九-)が夫婦を演じる米国映画『クレイマー、クレイマー(原題:Kramer vs. Kramer)』(一九七九)は、同じクレイマー姓が原告、被告になる離婚訴訟を指す。邦題を付ける際、読点(、)を使ったから、日本語を母語とする日本人にとって、そのタイトルだけではイメージがつかみにくい。民事訴訟に縁がなければなおさらだ。

 この映画でホフマンは、アカデミー主演男優賞を獲得している。


 キャサリン・ロス(一九四〇-)を結婚式が催されている教会から奪い出すクライマックスが象徴的な映画『卒業(原題:The Graduate)』(一九六七)はホフマンのデビュー作で、パロディも含め後のサブカルチャーに大きな影響を与えた。

 市販されている藤公之介(ふじこうのすけ)(一九四一-)の詩集で見つけた作品を気に入り曲を付け歌ったシンガーソングライター、大塚博堂(おおつかはくどう)(一九四四-八一)の『ダスティン・ホフマンになれなかったよ』(一九七六)は、花嫁を奪えなかったことを悔いる内容の歌詞。ばんばひろふみ(一九五〇-)がフォークグループ「バンバン」時代に歌った松任谷由美(一九五四-)=旧制・荒井=作詞作曲で、同じように旧い映画をモチーフに青春時代の恋愛を振り返る『「いちご白書」をもう一度』(一九七五)と比較され、大塚は苦い思いをさせられた。


 他人の離婚訴訟などに、おれは興味がない。

 独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)が原告になっている口頭弁論がある。《建物明渡訴訟》とされている。(のぞ)いてみた。

 被告席には代理人弁護士も被告もいない、欠席裁判。未払い家賃三カ月分と利息相当額を払え、とする原告の訴状そのままであろう判決文を、裁判官がぼそぼそ事務的に読み上げた。


(「弐拾陸の5 職員室を血の海にする」に続く)

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