弐拾肆の4 還付金じゃなかった
「新型コロナウイルス感染症に伴う国の特例措置である雇用調整助成金制度を悪用し、労働者の休業の事実がないのに、神奈川労働局に虚偽の助成金申請を行い、りそな銀行難波支店に一億八百九十八万円を入金させーー」
甲高い声の女性検事による起訴状朗読は続く。
「続いて、令和五年七月二十八日付け公訴事実についてです」
橋本は、八月二十九日付けも含めすでに二回の追起訴、計三回、起訴されていることが分かる。神奈川県警青葉署の留置施設で同室だった四十番の男、野村が自身について語っていたのと合致する。
橋本に対するこの日の審理は、検察側の都合により、最初の起訴二回分のみ。公判は長期に及ぶことが予想される。
「まず、黙秘権について説明しますーー」
裁判官が、法壇の上から述べる。
「ーーあなたには、聴かれたことに答えない権利があります。一部にだけ答えてもいいし、始終黙っていても構いません。ただ、ここで述べたこと、黙秘したことは、あなたにとって有利であろうと不利であろうと、証拠として採用されます。そのことをよく理解した上で、お答えください。いいですか?」
「はい」
「では、改めてお尋ねします。今、検察官が読み上げた内容に、なにか間違っていることはありますか?」
「いや、わたしは、××××ブンキョーに、こういう助成金があると働きかけたが、うその申請であるとは、まったく知らんかった」
還暦を越えた痩身の男は、関西弁のアクセントでそう答えた。
ブンキョーというのは共犯者で、野村とは別に、ウエノ×××という人物も登場する。留置施設で野村が、自分以外に共犯者が三人捕まっていると言っていたのとも合致する。
「事件に関わったのは事実だか、うその申請と知らなかった、ということでいいですか?」
「そうです」
「弁護人のご意見を伺います」
法檀上の裁判官に促され、弁護人弁護士が立ち上がる。
「被告人に、共謀の事実はありません。虚偽の申請と知らず、よって無罪と思料します」
早口でそうまくしたて、弁護士はすぐに再び着席した。
ほかの三人は容疑を否認しているらしいと野村が言っていたのとも、矛盾はない。
「それでは、検察官の冒頭陳述を」
裁判官に促され、女性検事が立ち上がり、卓上に開いたファイルを読み上げる。
「検察官が証拠によって証明しようとする事実は、以下の通りです。まず、身上経歴関係。被告人は高校中退後ーー」
離婚歴があること、前科二犯を有すること、そのうちの一件は詐欺罪で、二〇〇五(平成十七)に懲役一年の有罪判決を受けていることなどを、女性検事は淡々と朗読する。
橋本は野村と共に、二〇二〇(令和二)年、新聞販売店を開業。それとは別に、会社経営者の××××ブンキョー、社会保険労務士のウエノ×××と知り合い、ウエノの指南で、新聞販売店と、ブンキョーの会社それぞれの従業員数を水増し。コロナ禍のため計百人単位で休業させた従業員の給料を補填する名目で、数億円単位の助成金を国からだまし取った。
新聞販売店というワードが耳に入り、おれは自分の心臓がどくんと鳴ったのを聴いた。
留置施設で野村に、新聞記者出身の経歴を言わなくてよかったと、鼓動する胸をなでおろす。
国内ほとんどの新聞販売店は、紙を発行する新聞社となんら資本関係はなく、お互いに単なる「取り引き相手」だ。だけど、というか、だからこそ、新聞販売店の連中は、新聞記者の生態を知っている。新聞を配達し集金する肉体労働者集団の彼らは、別組織の頭脳労働者集団である記者に対し、良い印象を持っていない。
取材して文章を書き取り引き先に自身で売って歩いており、逮捕された威力業務妨害の容疑はそのことと関係あるのだと説明したら、野村は、パパラッチとか芸能レポーターとかをイメージしていたようで、それについて肯定も否定もしなかったのは、前述した通りだ。
冒頭陳述が終わり、女性検事は、裁判所に採用を求める証拠書類の要旨を述べる。××××ブンキョーの会社従業員のものとして神奈川労働局に提出した中国人らしい名ばかりの職員名簿や賃金台帳などが含まれている。
野村とのLINEのやり取りを刷り出したとみられる書面も、裁判官は証拠として採用した。
「検察官。三件の起訴以外に、さらに追起訴の予定はありますか?」
「今月下旬ごろに一件。さらに続く可能性もあります」
横浜地方検察庁など都市部の大規模な地検は、検事が捜査担当、公判担当に分かれており、法廷に出てくる検事はたいがい、検察官面前調書作成のための被疑者の聴取には同席などしない。だから、追起訴の予定についても、捜査担当検事からの伝聞や申し送りだ。
こうした捜査担当、公判担当が別の事件の裁判を傍聴していると、両者のコミュニケーションが不全だと想像できる事態にまれに接する。
例えば、供述調書の文章上の矛盾を裁判官や弁護士に指摘されて、検事が即対応ができない。事前に検察内で打ち合わせをし調書など資料を熟読しているはずなのに、学校の教室で教師に指名され立たされなにも答えられない生徒のように、ごく短時間だが固まってしまう。調書を作成した、つまり被疑者(起訴により「被告人」になっている)ら事件関係者を聴取した捜査担当検事の意図が、公判担当検事にうまく伝わっていない、公判担当検事がくみ取れていないのだ。
この公判ではそんな不手際もなく、二カ月後に当たる次回の十二月六日の開廷予定を裁判所、検察、弁護士の都合によって決め閉廷。橋本は私服警察官二人に再び手錠を打たれ、退廷した。
留置施設で野村は、自身の容疑について、「還付金詐欺」だと言っていた。過剰に納めた税金や医療費、保険料が戻ってくると言って情報弱者に接触し、金融機関の現金自動預け払い機を誤操作させ逆に口座のお金を吸い上げるといった手口の、これも今世紀に入って急増した、「特殊詐欺」の一種だ。
しかし、橋本が起訴されている、野村が共犯とされる二件の起訴は、この「還付金詐欺」ではない。国が相手の、「給付金詐欺」と言えるものだ。
野村が「給付金詐欺」というワードを知らなかったか、知っていてあえておれには「還付金詐欺」とうそをついたのか、どちらか分からない。今回の「給付金詐欺」以外に、「還付金詐欺」も抱えているのかもしれない。
傍聴席のおれは、野村の公判に備え、法廷の外のトイレに用を足しに行った。
戻る前に廊下で、スマートフォンを使い橋本のフルネームを検索した。大した情報にはヒットしない。開廷表に記される、おれの記憶とは異なる野村のフルネームも打ち込む。一件もヒットしない。
検事の冒頭陳述に登場した、会社経営者、××××ブンキョーと、社会保険労務士、ウエノ×××は姓名の正確な漢字が分からないから、検索が著しく困難で、欲しい情報に行きあたらない。
法廷に戻ると、書記官と検事の席には、それぞれ橋本の公判と同じ人物がそのまま座っていて、手元の資料を確認しているようだった。
開廷時刻である二時半の少し前、弁護士が入ってきた。電話を一度だけ受け、話しをしたことがある。声の印象と違わぬ高齢男性だ。
続いて、先ほど橋本が私服警察官に連行され出ていった扉から、野村が、別の警察官二人に連れられ入ってきた。
入ってすぐに、傍聴席のおれと眼が合った。おれに気づいた野村は驚いたような顔を見せ、おれに向かって軽く会釈した。おれは座ったままで、会釈を返した。
野村は黒っぽい服を着ている。同伴しているのは、警察官の制服の男と、私服の男。まだ身柄を拘置所に移されてはいないようだ。
留置施設で一緒だったころより、髪が伸びてる。天然パーマなのか、軽くカールが掛かっている。染めたらしい茶色い部分より、毛根に近い黒髪の方が多くなっている。
弁護士とは、言葉を交わさない。直前にどこかで接見し打ち合わせを済ませているのであろう。
警察官に挟まれ腰を下ろすためのベンチに歩いて進む際、右足を引きずっているように見えた。
(「弐拾肆の5 前科四犯、単純賭博」に続く)




