弐拾参の8 幾つも旅券を持つ男(Man of Multiple Passports)
精神科病院(当時の呼称は「精神病院」)の閉鎖病棟での医療従事者による日常的な入院患者への暴行、虐待や、それによると疑わしい患者の死亡の実態を取材するため、アルコール依存症を装って病院に潜入した「朝日新聞」記者、大熊一夫(一九三七―)は、職場の同僚でもある女房との間で、「SОS」の暗号を決めていた。定期的に面会に来る「患者の家族」である女房にそのサインを出したら、取材が完了したか、もうこれ以上無理だから救出してくれ、という合図。
無事、大熊は女房によって救出され、一九七〇(昭和四十五)年、「朝日新聞」社会面に『ルポ精神病棟』を連載。成果は反響を呼び、日本の精神科医療のあり方に一石を投じた。『ルポ・精神病棟』として書籍化されている。
もし、女房との間の暗号のやり取りがうまくいかなかったら、最悪の場合、患者を装っての潜入取材であることや「朝日新聞」記者の素性が病院側に知られてしまったら、このルポルタージュは、日の目を見なかった。素性がばれてもばれなくても、暴行、虐待の末、大熊は生還できなかったかもしれない。
おれ宛ての梨が郵便で届かないからとおれの「安否」をおれの住み家を管轄する神奈川県警青葉署に確認させ、勾留されていることを聴き出し、弁護士の選任状況を調べ上げ、ここからは確証が取れていない(逆に、ここまでは本人らが認めている)が、公安警察の縁で公安専務員の青葉署留置管理課長(当時)片山勝太や、同じく公安専務員の同署長(当時)橋谷田裕樹らと情報交換。おれと国選弁護人との間の接見交通権を侵害し、利益相反関係にある株式会社「三和」顧問弁護士、藤間崇史らに、おれにとって不利な情報を伝えた、おれの叔母に当たる中村由紀子と、自慢の長男で熊本県警公安・外事専務員現職警部の宏は、おれの身になにかあったら、誰にどう責任を取るつもりか?
ーー警察官でもないくせに、知ったかぶって警察の取材をしようと思い上がるから、駄目なんだーー
中村由紀子は、自慢の息子、宏が熊本県警に入職した当時と同じことを言うだろう。
では、叔母さん。医師でもないのに精神科病棟に潜入した「朝日新聞」大熊一夫は、ギルティですか? ノット・ギルティですか?
銀行の取材をしている記者は、銀行員ですか? 国会の取材をしている政治記者は、議員ですか? スポーツ取材をしている記者は、アスリートですか? 自慢の夫、孝がエリートとして奉職した熊本県庁の記者クラブに詰めている報道機関の記者は、県庁職員ですか?
韓国人への取材のため、日本最大のコリア・タウンとされる東京・新宿の新大久保に、同業者と二人で出掛けた。当時は二人とも、報道機関に雇用されていないフリーランス。
ーー韓国人は、一目で分かるーー
国際取材経験の豊富なそいつは言った。
すいません、とまず日本語で声を掛ける。日本語が通じない、あるいは片言の日本語で応じてきたら、韓国語に切り替える。そいつほどの外国語会話能力がないおれは、記録係に徹する。
一人で歩いていた若い女性に、そいつは声を掛けた。日本語も韓国語も通じない。
そいつは、中国語に切り替えた。通じない。英語に切り替えた。通じない。相手は不審がっている。おびえているようにも見える。
ポケットの財布からカードを出して、そいつは相手の若い女性に提示した。タイ・バンコクで作ったという、米国のニュースチャンネル「CNN」や、フランスの通信社「AFP」の偽造記者証を、そいつは持っていた。
若い女性も、肩に掛けていたバッグから、なにかのカードを出し、そいつに示した。法務省が交付する「在留カード」は、まだ制度運用が始まっていない時代のことだ。
オーケーだかオーライだか言って、そいつは彼女を解放した。
ーーなにを見せられた?ーー
尋ねてみた。
ーー外国人登録証明書みたいだったーー
そいつは顔に大粒の汗をかいている。
ーーどこの?ーー
ーー新宿区が発行してるみたいなーー
おれの質問の意図が通じないのは、平常心を失っているそいつのせいだ。
ーーだから、どこの国籍の?ーー
ーー分からん。片仮名表記だったけど長くて、読み取れんかった。よく目にする国名じゃないーー
そいつは、国籍不明の若い女性とのわずか数十秒のやり取りで、いろいろなことが頭の中を巡った。
若い女性は、そいつを入国警備官など取り締まり当局の役人だと誤認して、身分証明のために外国人登録証明書を提示した、あるいは、そいつの提示した記者証を偽造と見破って、自分は正規の身分証明書があるのだと主張した。
後者の場合、おれたちの取材になんらかの理由で入管当局など公的機関が介入すると、偽の記者証で外国人に接触しようとしたそいつ、というかおれたちの立場は危うくなる。うがった見方をすれば、若い女性自身が、どこかの国の公的機関構成員かもしれないし、それを装う日本の公的機関(公安警察、公安調査庁など)構成員かもしれない。
早急に手を引くべきだーーそいつはそう判断したのだった。
実物を模写しパソコンなどで偽の記者証を作成するのは容易だ。しかし、国際取材経験豊富なそいつは、そんなことはしない。国内においては私文書偽造(刑法一五九条)、偽造私文書行使(同一六一条)などの嫌疑をかけられるのが必至だし、海外ではさらに重罪になる可能性が高いからだ。
ーーこれがなんなのか知らないで、バンコクの土産屋で買ったってごまかすんだよ。パスポートを見せて、名前も写真も刷り込んでもらったってさーー
そううそぶいていた。
そいつとは別の同業者に、おかしな男がいる。
日本国籍を持つ、ルーツも日本人だと最初は疑ってもいなかったのだが、政情不安定な国にたびたび入って、撮影した動画などの素材を持ち帰ってくる。日本を出国してその国に直接入っているとは思えないし、その国から日本に直接帰国している様子もない。
ーーどうやって国境を突破してんの?ーー
ーーおれたちに国境はないーー
冗談めかしてその男は言うが、冗談とは思えない。
持ち帰った素材はテレビ局などのメディアに売り込む。しかし逆に、国内の情報をどこかの国に売っている可能性も捨てきれない。
どこかの誰かと電話で話しているのを盗み聴きした。流暢な英語だ。おれたちの知るものとは別の、日本人風ではないフルネームを名乗っている。
カマをかけてみた。
ーーパスポート、見ちゃったよーー
ーーえっ? どこのを見た?ーー
つまり、日本国政府発行のもの以外に、複数のものを持っているということだ。
熊本県警警備部外事課から熊本東署熊本空港警備派出所長に任警部として修行に出されている、従弟にあたる公安警察官に宛て、三日前のはがきが到着した頃合いを見計らって、封書を投函した。
《 二〇二三年九月七日
中村宏殿
〒二二七-〇〇二六
横浜市青葉区奈良町二九一三―二
森 史×
電話 〇九〇-××××-××××
ファクシミリ 〇四五―九六一―二〇七七
メール ××××@××××××××
冠省 貴殿ご母堂の傍若無人な言動ならびにそれにより当方が甘受すべき生命・身体の安全リスクそのほかについてお尋ねします。
当方は本年八月九日、威力業務妨害の容疑で神奈川県警青葉署に通常逮捕され、二十二日間の身柄拘束を経て同三十日、同罪で横浜簡易裁判所から罰金刑の略式命令を受け釈放されました。
拘束中、貴殿ご母堂は当方のあずかり知らぬところで本件に介入し、日本国憲法、刑事訴訟法で被疑者たる当方に認められる弁護人選任権、接見交通権を著しく侵害。当方は多大な不利益を被りました。当方が自身でいまだ気づかぬ不利益も存在すると思料します。
かかる事態につき、ご母堂の管理監督責任を有するであろう貴殿におかれましては、別紙の質問への回答を願います。返信用に郵便切手(額面百二十円)を同封します。不足する場合、着払いで構いません。 草々》
《 別紙
質問
一 当方の勾留中、貴殿ご母堂が当方になんら相談することも知らせることもなく神奈川県弁護士会に当方の身柄拘束について通告したのは、当方と利害が対立する本件事件被害申告事業所ならびにその顧問弁護士に与し、当方と当方の弁護人との関係を破綻させ、当方を窮地に陥らせる目的ととらえてよいか。
二 当方の身柄拘束中、貴殿ご母堂が当方になんら相談することも知らせることもなく、使者を遣わせ当方との面会を命じたのは、「一日一組(弁護士の接見を除く)」と制限される身柄拘束中の被疑者である当方の他者との面会の機会をつぶす目的ととらえてよいか。
三 上述 一 および 二 は、貴殿による差し金または貴殿による助言に基づくととらえてよいか。
四 上述 三 に「否」の場合、かかる事態に対する貴殿の所感。
五 その他、関連事項。
(以上)
※ 当方が貴殿ご母堂に宛てた電子メール内容の一部をプリントアウトしたものを添付します》
(「弐拾参の9 シンデレラ譚」に続く)




