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弐拾参の9 シンデレラ譚

〈もっ! どっ! 今どこから電話なさってるですかっ! 森さんっ!〉


 かかりつけ心療内科、X医院の受け付けカウンターにいつも座っている女性スタッフのあわてた表情が眼に浮かぶ。


「ご心配をおかけしましたね。先日、釈放されましたよ。ご面倒をおかけしました。留置場の(おり)の中から電話してると思いました?」

〈思いました…〉


 威力業務妨害容疑で横浜地方検察庁(ちけん)が請求した勾留の延長を横浜地方裁判所(ちさい)が認めたせいで予約の診療日に登院できず、それを知らせる手紙も医院に到達せず戻ってきたものの、神奈川県警青葉署刑事課強行犯係巡査部長、ジョー松本らのだまし討ちに遭い手錠腰縄を打たれたまま夜間、連れて行かれた未知のクリニックで処方された薬がなくなるから、留置管理課のポマード巡査長がX医院に出向き処方を受けており、おれの逮捕のことは、この医院には知られている。


「それで、改めて次の通院の予約をお願いしたいんです」

〈分かりました。お薬はどの程度、お手元に残ってますか? ご希望の日にちは?〉


 予約の日に登院すると、医師からこんなことを言われた。


「あの様子じゃ、そのうち逮捕されるんじゃないかと思ってたよ」


 四週間ごとの診察で、前の診察日から後にあったことを毎回話すから、スーパー三和やUR都市機構の問題に関し、医師は把握している。


 糖尿病を診てもらっている、公安専務員で任警部の修行先として青葉署留置管理課に出されている片山勝太課長によればおれの「主治医」である内科のYクリニックにも、同じように電話で予約を入れて登院した。

 Yクリニックの処方薬は、おれがなにも言わなくても逮捕翌日には支給されたから、こっちにもおれの身柄のことは知られている。


「被害届けを出したの? そんなものを、出されちゃったの?」


 刑事訴訟手続きに、会話の様子ではY医師は精通していない。

 しかし、被害届けを誰が出したのか、誰によって出されたのかを、把握しているようだ。把握しているからこそ、それを口にしない。


 おれの受けた印象では、身柄を拘束された直後ににらんだ通り、精神科医であるX医師には、警察は逮捕前には接触していない。逆に、内科医であるY医師には接触している。身柄の拘束が内臓疾患上、問題ないと言わせている。X医師は、精神疾患上、問題あると答えるだろう。

 警察も、というか、事件の端緒である、三和顧問弁護士、藤間崇史が泣きついた検察も、おれと同じ考えだったはずだ。横浜市役所が医療機関から受け取る国民健康保険の診療報酬請求書(レセプト)で、おれの疾患に関する情報は、警察による任意の捜査事項関係照会を通じ筒抜け。だから、Y医師にだけ接触した。Y医師をおれの「主治医」に仕立て上げなければならななかった。


 身柄を拘束されていた約三週間で、体重が五キロほど減っていた。糖尿病の目安である長期的な血糖値の動きを見るヘモグロビンA1c(エーワンシー)の値が、採血検査の結果、かなり改善していると分かった。


 自己破産の経歴があるから利用停止が心配だったクレジットカードは、「セゾン」も「楽天」も、無事だった。


 積年の恨みが募る叔母に当たる女帝、中村由紀子(なかむらゆきこ)の自慢の長男で熊本県警公安・外事専務員の、神奈川県警・片山勝太と同じように任警部として修行に出されている中村(ひろし)に宛てた九月七日付け文書を投函した時から、横浜簡易裁判所(かんさい)による罰金命令を、横浜地裁での公判に持ち込むか否かについては、結論を出していた。

 前述した通り、中村宏宛て書簡には、返信用切手を同封した。当時の定形外五〇グラムまでの送料百二十円の額面でだ。

 返信の期日は、設定していない。してもしなくても、返信はないと覚悟していた。

 百二十円切手が返却されるか否か、試してみようという思いはあった。それから二年以上経った本稿を書いている現在においても、おれに対する中村親子の反応はなんらなく、切手も戻らない。


 三姉妹のおれの実母と叔母二人は、異母きょうだいだ。おれの母親が幼いころ、その実母は死んだという。

 おれはずっと、自殺か、そうでなくても精神病に関連して亡くなったのだと思っていた。なぜなら、おれの実母が重度の精神病だから。

 幼いころのおれは、気が狂った実母から逃れるためもあって、その妹である二人の叔母に懐いていた。上の叔母である中村由紀子を、「(おお)(ねえ)ちゃん」、下の叔母を「(ちい)姉ちゃん」と呼ばされ、それに従っていた。

 幼いおれは、誤解していた。かわいがられているのだと思っていた。虐待の対象として育成されている、飼いならされていることに気づかなかった。


 実の母方祖母の死因はがんだったと知ったのは、つい数年前のことだ。妹から聴かされた。しかし、妹も実母か誰かからの伝聞だろうから、信憑性に欠ける。

 ただ、叔母二人も、実母に負けず劣らず気が狂っているから、それは、おれを命名した祖父の「血」(いでん)なのだろう。


わたしたち(うちだん)は、あんたのお母さんからひどい目に遭っ(おう)た。由紀子(ユッコ)姉ちゃんといっつも話しよったもんばい。『今度、生まれ()くる時にゃ、後妻の子だけにはなるまい(めえや)って()言って(いうち)から」

 戦前の旧民法でいうところの「婿養子」を取り高倉(たかくら)姓を継いだ、祖父の末子に当たる下の叔母がこぼしたのは、おれが中年を過ぎてから。ここ十年か二十年のことだ。

 その時に下の叔母は、だから、ひどい目に遭わせた異母姉の長男であるおれは、叔母二人からの見返りである報復を受忍しなければならないというようなことも、口を滑らせて言った。


 下の叔母がいう「ひどい目に遭った」というのが、本当のことかどうか分からない。なぜなら、実母はまったく逆のことを常に言っていたから。つまり、自分が継母や異母妹である二人からいじめられ続けたと。


 古代ローマ時代のギリシア系地理・歴史学者が紀元前一世紀に記したものが確認できる最古とされる童話「シンデレラ」は、世界中でさまざまなバージョンに展開され語り継がれるが、ストーリーの骨子は、継母とその連れ子である姉たちにいじめられる主人公が、王君(おうきみ)に見初められるという成功譚だ。

 叔母二人、殊に中村由紀子の異常ぶりを認識するにつけ、おれの実母が言うことも叔母二人が言うことも事実なのだろうと思う。


 例えばおれの実母が、まだ幼児の、宏を含む(おい)(めい)をいたぶるのを、おれは恒常的に目撃した。

 うちの家を増築した際、父がその友人から卓式の碁盤と碁石のセットを贈られた。その碁石に傷が入っている、割れていると、碁石で遊んでいたらしい宏と、高倉の長男を、彼らの伯母に当たる実母は、せっかんする。

 高倉の長女に、服を作ってやると、うちの狂った母親は言う。仮縫いの針を、高倉家長女は極端に怖がる。彼女にとって伯母であるうちの母が針を持つと、高倉家長女は、体をくねらせ逃れようとする。

 針が怖い、いや、針で刺されるのが怖いのだ。伯母であるうちの母が怖いのだ。気が狂っていると、幼いなりに危険を察知しているのだ。


 そんな親族から一刻も早く逃れたかった。高校を卒業するに当たり、入試で落ちる心配のない遠隔地の、学費の安い国立大に進んだ。

 大学の最初の一年を終え、友だちに会うため帰省した。その時に、実家に寄った。

 宏ら子連れで帰省していた中村由紀子にも会った。親族のきちがいぶりは、まったく変わっていない。高校卒業までの十八年余のおれの見立ては、間違いではなかった。

 そこから、親族との接点を一切排除した。

 しかし、叔母二人はそれを許さないしおれを赦さない。彼女らにとって、おれへの虐待が足りない。間尺が合わないのだ。おれの実母は叔母二人の子どもたちを虐待し続けるのに、叔母二人はそれに対抗できないのが不満なのだ。


 トラウマは遺伝する。憎しみは、世代を超え継承される。おれは、自分の娘には、被害者にも加害者にもなってほしくない。

 だけど、娘は中村由紀子から人質に取られている。人質に取っているのだと、中村由紀子が常にアピールしてくるのは、前述した通りだ。

 おれが自分の事件を地裁の公判に持ち込んだら、捜査の端緒である検察ルートで、実質的な国家組織である公安警察の(きずな)により、中村親子から、娘が狙われる。報復を受ける。娘に子が、つまりおれにとっての孫がいれば、矛先はそこにも向く。


 こんな事情を、おれの友人や仕事仲間は、高校まで一緒でおれの家庭に接したことのある連中を除き知らない。

 公安、外事警察をつぶそうと持ち掛ける弁護士も、例外ではない。説明しても、これほど異常な親族集団が存在するのだと、信じてもらえまい。


〈残念だな。せっかくのタイミングなのに。まあ、仕方ない。これ系の案件に巻き込まれたら、最初におれを呼んでくれ。金はいらん。森ちゃんには一銭も払わせん。民事でも、いくらでもやりようはあるぞ〉


 期限の九月十三日、裁判所窓口が閉まる夕刻、公判持ち込みはあきらめると告げたら、そいつはそう言ってくれた。


(弐拾肆 内から見るか? 外から見るか?「1 野村さんに解任(クビに)される」に続く)

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