軍艦旗、再び
昭和二十八年五月一日。
呉港の朝は、まだ霧の中にあった。
海面を覆う薄靄の向こうから、ゆっくりと巨大な艦影が浮かび上がる。
飛行甲板。
右舷艦橋。
長く伸びた艦首。
かつて太平洋戦争を戦った航空母艦――隼鷹である。
岸壁には既に数百人の将兵が整列していた。
濃紺の制服に身を包んだ若い士官候補生たち。
戦時中を知る古参下士官たち。
そして海軍航空再建団から集められた搭乗員たち。
彼らの多くは戦争を知らなかった。
昭和二十年の敗戦時、まだ幼い子供だった世代である。
その列の中に、海軍中尉候補生・相沢慎一の姿もあった。
二十二歳。
帝国海軍兵学校第五期卒業。
第一〇一海軍航空隊配属予定。
本日付で軽航空母艦隼鷹勤務を命ぜられている。
相沢は黙って艦を見上げた。
戦前の写真で見た隼鷹とはどこか違う。
艦橋の上には奇妙な格子状のアンテナがいくつも並び、甲板脇には見慣れぬ電子装置が取り付けられている。
まるで古い軍艦に新しい時代を無理やり詰め込んだような姿だった。
「思ったより古い船だな」
隣で誰かが呟いた。
振り向くと、同期の宮本中尉候補生だった。
「空母というから、もっと新しいものかと思っていた」
「新しい船じゃない」
相沢は答えた。
「戦争を生き残った船だ」
宮本は少し黙った。
二人とも、その戦争を知らない。
知らないからこそ、目の前の艦が持つ重みを完全には理解できなかった。
やがて埠頭の先から号令が響く。
「総員、気を付け!」
一斉に姿勢が正される。
軍楽隊が演奏を始めた。
午前八時。
隼鷹艦尾。
ゆっくりと軍艦旗が掲揚される。
白地に赤い旭日。
その旗が春の海風を受けて広がった瞬間、埠頭は静まり返った。
古参兵曹たちの中には、思わず帽子を握り締める者もいた。
彼らは知っていた。
この旗が最後に艦上で翻った日を。
敗戦の日を。
そして、海軍が消えた日を。
だが今日、その旗は再び海へ戻ってきた。
相沢は知らなかった。
この日の記憶が、自分の海軍人生の始まりとして生涯消えることがないことを。
そして数時間後、自分が米国製の艦上機に乗り込み、戦後初となる隼鷹への着艦訓練へ向かうことを。
飛行甲板には、翼を折り畳んだ濃紺の機体が並んでいた。
機首には白い数字。
胴体には日の丸。
その機体の名を、海軍は「海燕」と呼んでいた。
しかし整備員たちは、もっと単純に呼ぶ。
アヴェンジャー。
かつて日本海軍を攻撃した敵機の名であった。




