「信長が愛した異能、家康が恐れた経営。早すぎた麒麟児の、静かなる逆襲劇。」
【新作開始のご挨拶】
本編『罠に落ちた 猿と麒麟 蒲生氏郷』をご愛読いただいた皆様、ありがとうございます。
本日より7日間、外伝となる『戦国の習い』を連載いたします。
本編では描ききれなかった、氏郷による「価値の書き換え」と「経済戦争」の記録です。
「清廉潔白な勇将」という虚像を広告塔に使い、裏で莫大な利益と技術を蓄えた男の、より痛烈な知略をお楽しみください。
『氏郷外伝・戦国の習い』
序章:灰の中の算盤
天正十年、六月。安土の空は、落ちた陽の光ではなく、猛火の照り返しでどす黒く濁っていた。
かつて信長が築き上げた地上最大の楽園は、今や巨大な焚き火と化し、琵琶湖の湖面には溶け落ちた黄金のような朱がのたうっている。
「……看板が、掛け変わるな」
近江、日野城の物見櫓。蒲生氏郷は、鼻を突く煤の匂いから逃れるように懐紙を口に当てながら、低く呟いた。その瞳に映っているのは、主君の死への悲しみではない。織田という名の巨大な商社が倒産し、その余波が近江という「市場」をどう塗り替えるかという一点のみであった。
隣で数珠を握りしめ、震える声で祈りを捧げていた老臣が、弾かれたように顔を上げる。
「殿、なんと不謹慎な。信長様が……あのお方が、光秀の謀反に倒れられたのですぞ。もはや織田の世は終わり、我ら蒲生も明日をも知れぬ……」
「だから申しておるのだ」
氏郷は取り乱す老臣を顧みず、懐から取り出した小さな算盤の珠を、パチリと一つ弾いた。その乾いた音は、泣き崩れる家臣たちの嗚咽よりもはるかに冷徹に響いた。
「織田の世という巨大な店が潰れたのだ。ならば、次代の『元締め』が誰になるか。それを見極め、いち早く座布団を差し出すのが、生き残るという名の商いよ。感情に流されるのは、資本をドブに捨てるのと同じことだ」
氏郷の脳裏には、昨年、京都で行われた「御馬揃え」の光景が焼き付いている。
煌びやかな織田軍団の中で、一際異彩を放っていたのは、羽柴秀吉の軍勢であった。整然とした行軍、兵の末端まで行き渡った規律、そして何より、主君の顔色を窺うような卑屈さがない。
(あの猿め……。ただの『人たらし』ではない。人の欲を組織に組み込み、巨大な歯車として回しておる。愛や忠義という安っぽい通貨ではなく、『利』という最強の基軸通貨で天下を統治しようとしている)
信長公が生きていた頃から、氏郷だけは気づいていた。秀吉という男は、戦国という乱世を「感情」ではなく「利」で統治しようとしている、自分と同種の怪物であることに。
「……秀吉が来る。必ずな。奴なら、この灰の中から真っ先に黄金を拾い上げるはずだ」
氏は、煤けた風に目を細めた。
後世、情緒にのみ浸ることを生業とする物書きどもは、この時の自分を「旧主への義理に殉じ、冬姫を守り抜いた悲劇の忠臣」とでも書き立てるのだろう。
だが、事実はもっと乾いている。
冬姫という「信長の血」を日野に囲い込んだのは、次代の権力者への最強の交渉札にするためだ。そして、信長公に天才と見込まれた自分という「一級品」の牙を、いかに秀吉の目から隠し通すか。
「これより、蒲生家は『貧乏』を売る。阿知寝、皆に伝えよ。これからは贅沢を捨て、金がないと嘆くのが我が家の軍略であるとな」
算盤の珠を再び弾く。安土の炎を背景に、乾いた音が夜の静寂を切り裂いた。
秀吉という巨大な資本に飲み込まれぬためには、自らを「買い叩いても損な、食い詰めた実力者」に偽装せねばならぬ。
これが、氏郷が仕掛けた人生最大の「コマーシャル」の始まりであった。




