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見えない家事、見えない私  作者: 櫻木サヱ
変化の兆し、日常の再構築」

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離婚届に触れた夜(Aルート)

家の中は静かだった。

子どもたちは寝ている。テレビも消した。

美沙は、テーブルの上に置いた白い封筒をじっと見つめていた。


昼間、役所で受け取ったままの離婚届。

まだ何も書かれていないのに、ただそこにあるだけで、胸の奥がざわつく。


「この紙一枚で終わるんだ……」


美沙の喉は乾いて、言葉がかすれた。

終わらせたい。

でも、終わらせたくない気持ちも、微かに残っている。

十年近く積み重ねた時間は、簡単に切り離せるものじゃない。


玄関の鍵が回り、悠介が帰ってきた。


「……ただいま」


この家に響くその声を、今夜で最後にしたかった。

だけど、涙はこぼれなかった。

涙が出ないほど、心は乾いていた。


悠介の顔を見ると、いつもなら胸に広がるモヤが、今日はなかった。

もう怒る気力すら残っていない自分に気づく。


「今日は遅かったね」


美沙が静かに言うと、悠介はネクタイを外しながらため息をついた。


「仕事だよ。察してくれよ」


その言葉。

何度も聞いた、逃げの常套句。

もう胸には刺さらない。むしろ何も感じない。


美沙は封筒を指先で軽く押し、ゆっくりと滑らせて悠介の前に置いた。


「……何これ?」


「離婚届。受け取ってきたの」


悠介の手が止まった。

目が見開かれ、言葉が詰まったように口が動かない。


「ちょっと待てよ。なんで、急に」


急じゃない。

本当はずっと前から、静かに積み重ねてきた終わりだった。


「私ね……もう無理なの。

 家事も育児も、全部私任せで当然みたいな顔されるのも。

 優しくても冷たくても、あなたの気分次第で私の日常が揺らぐのも。

 ……しんどいんだよ」


涙は出なかった。

ただ、言葉だけが静かに落ちていく。


悠介はしばらく黙ったまま、封筒を見つめた。

怒るでもなく、謝るでもなく、ただ戸惑った顔。


「俺……そんなつもりじゃ」


「わかってる。

 あなたには“つもり”がなかった。

 でも、私の苦しさは“あった”の」


静かな夜。

二人の間に落ちた沈黙は、これまでのどんな喧嘩より重かった。


美沙は最後に、震える声で言う。


「サインしてほしい。

 でも、強制はしない。

 あなたが書いてくれたら、明日、提出してくるから」


悠介は動かない。

ただ、封筒を見つめたまま、固まっている。


その姿に、美沙の胸に残っていた小さな迷いが、音もなく剥がれ落ちていく。


美沙は席を立ち、

子ども部屋の前で一度だけ立ち止まり、

眠る子どもたちに小さく呟いた。


「ママ、大丈夫だからね」


その声は自分に向けたものでもあった。


美沙は部屋に戻ると、静かに灯りを消した。

真っ暗な部屋の中で、決意だけが強く光っていた。

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