第14話 労働の対価と、最低生活保障《ミニマム・ウェイジ》
黎明連邦アジールの建国宣言から数日。
新たな憲法である『三つの絶対理』が浸透し始めた私たちの国は、かつてないほどの熱気に包まれていた。五千人の元兵士たちが居住区の建設を進め、ドワーフたちが農具や生活用品を打ち、ルシアが担当する孤児院からは子供たちの元気な声が響いている。
だが、国を治める者として、私にはやらなければならない実務が山積していた。
「湊さま。本日の執務の準備が整っております」
私の思考を遮るように、鈴を転がすような、それでいて芯のある凛とした声が天幕に響いた。
声の主は、私のすぐ傍らに控える美しい鬼人――白蘭だ。
彼女は剛鬼族のリーダーの妹にあたる。オーク族の中に稀に生まれる「先祖返り」の個体であり、豚のような容貌ではなく、透き通るような白い肌と流麗なプロポーション、そして額から伸びる一本の真紅の角を持っていた。
「いつもすまないな、白蘭」
「とんでもございません! 湊さまの玉座となることは、私の無上の喜びです!」
白蘭は頬を赤らめながら、ゼリー状の私を両手でそっと抱き上げた。そして、豊満な胸元に私をすっぽりと収める。
建国に伴い、各部門の責任者が任命された。アルジェントが防衛、ルシアが児童福祉、鋭牙と巌鉄が生産と建築。そして、私個人の『秘書兼筆頭護衛』として推挙されたのが、剛鬼族の中でアルジェントに次ぐ武力を持つ彼女だった。
彼女は難しい法理のことはよく分かっていないようだが、「湊さまの言うことはすべて絶対の正義」という狂信的なまでの忠誠心――いや、重い愛情を向けてくれている。スライムの私を抱き抱えて移動することを『特権』と称して譲らないのが、少しばかり困りものだが。
「湊さま、ぷにぷにで冷たくて、最高です……」
「白蘭、少し締め付けが強い。……さて、今日の報告を聞こうか」
私が咳払いをして話を振ると、白蘭はキリッとした表情に戻り、一枚の木簡を読み上げた。
「はい。鋭牙殿と巌鉄殿からの報告です。居住区の建設や畑の開墾が進んでいますが、現場で『配給』に関する不満が出始めているとのことです」
「不満? 食料や物資は足りているはずだが」
「ええ。ですが……剛鬼の兄弟たちのように一日で大木を何十本も切り倒せる者と、人間の元兵士たちのように数本しか切れない者とで、『なぜ同じ量の肉とパンが配られるのか』という声が上がっているのです」
なるほど。私は心の中で深く頷いた。
それは、コミュニティが大きくなった際に必ず直面する『労働と報酬のパラドックス』だ。
これまでは私が全財産を管理し、必要な者に必要なだけ配る「共産的」な物々交換で事足りていた。だが、人口が数千の規模になり、それぞれが異なる仕事を持ち始めると、「成果を出した者が多くをもらうべきだ」という『成果主義』の概念が自然発生する。
「人間の元兵士たちも、『俺たちは剛鬼たちほど力がないから、パンを減らされても文句は言えない』と肩身の狭い思いをしているようです」と白蘭が付け加えた。
放っておけば、力の強い者が富を独占し、力の弱い者が困窮する。それは、能力主義という名の『資本主義の暴走』であり、弱肉強食の森の掟への逆行だ。
「よし。各区画の責任者を広場に集めろ。新しい理を敷く」
「承知いたしました! 湊さまの決定に逆らう者がいれば、私がこの鉄砕牙で物理的に黙らせます!」
「いや、それは最後の手段にしてくれ」
私は白蘭に抱えられたまま、中央広場へと向かった。
広場には、鋭牙、巌鉄、そしてルシアたち各部門の代表が集まっていた。
「皆、労働の対価についての不満が出ていると聞いた」
私が念話で語りかけると、鋭牙が気まずそうに頭を掻いた。
「すんません、湊さま。俺たちゴブリンや剛鬼は、人間より力仕事が得意です。だから『俺たちの方が多く働いているのに、なぜ報酬が同じなんだ』って言う奴が出てきまして……」
「鋭牙、君の仲間の言い分は理解できる。多く成果を出した者が多く報われるのは、経済の基本だからな」
私の言葉に、人間の元兵士たちの顔が暗く沈んだ。やはり自分たちは減給されるのか、と。だが、私はその不安を払拭するように宣言した。
「だからこそ、今日からこの連邦に『共通通貨』を導入する。単位は綴。これまでの現物支給ではなく、働いた分の通貨を支払い、各人が自由に好きなものを買える経済システムへ移行する」
どよめきが起きた。自由な経済活動の始まりだ。だが、ここからが社会福祉の真骨頂である。
「ただし、完全な成果主義にはしない。この国には『同一労働同一賃金』と『最低生活保障』の理を敷く」
私は固有能力《理を編む者》を起動し、広場の空に魔力による『契約の天秤』を投影した。
「一つ目の理。剛鬼が大木を倒すのも、ルシアたち人間が孤児院で子供の世話をするのも、社会を維持するための等しく尊い『労働』である。力仕事だけが偉いわけではない。職種による不当な賃金格差を禁ずる」
ルシアが、ハッとして私を見つめた。
戦闘や力仕事ができない女性や老人でも、保育や炊事といった『ケア労働』が正当に評価される。それは、見えざる労働の価値を認める大革命だった。
「二つ目の理。これが最も重要だ。いかなる労働であっても、一日の基本労働時間を満たした者には、必ず『健康で文化的な最低限度の生活を維持できるだけの賃金』――最低生活保障を支払うことを国の絶対義務とする」
天秤が光り輝き、黄金の硬貨――綴の幻影が降り注いだ。
「剛鬼たちが自らの強みを活かし、基本労働に加えて多くの成果を出したなら、その分の『ボーナス』は支払う。それが彼らの努力への正当な対価だ。だが、人間の元兵士たちがどれだけ不器用で、木を数本しか切れなかったとしても、彼らが一生懸命に一日働いたのであれば、彼らの賃金が『最低生活保障』を下回ることは絶対にない。生存を脅かすような安売り労働はこの国から永久に排除する」
沈黙の後、広場が爆発的な歓声に包まれた。
力の強い者は、頑張れば頑張るほど豊かになれる。
力の弱い者は、どれほど不器用でも、一生懸命働けば絶対に飢えることはない。
強者のモチベーションを削ぐことなく、弱者の生存権を完璧にシステムとして組み込んだのだ。
「……すごいです、湊さま。これなら、誰も悲しみません。誰もが安心して、明日も働こうと思えます!」
私を抱き抱える白蘭が、興奮で胸を大きく弾ませながら瞳を輝かせた。
「ああ。労働とは、単なる食い扶持稼ぎではない。自分が社会の役に立っているという『誇り』の獲得だ。その誇りを、力の差という理不尽で傷つけてはならない」
ルシアも、涙ぐみながら深く頭を下げている。彼女たちのケア労働が、国の根幹を支える仕事として公に認められた瞬間だった。
「さあ、白蘭。明日から忙しくなるぞ。全住民の労働時間と賃金の計算、そして通貨の発行管理だ。君の筆頭秘書としての腕の見せ所だな」
「は、はいっ! 私、計算は少し苦手ですが……湊さまの理を守るため、徹夜で数字と格闘してみせます! ですから、その間はずっと私の膝の上にいてくださいね!」
白蘭は嬉しそうに私に頬擦りをした。
力強き秘書と、心優しき児童福祉担当。彼女たちの働きによって、黎明連邦アジールは「理念」だけでなく、確固たる「経済基盤」を持つ最強の国家へと、また一つ大きな階段を駆け上がったのだった。




