第12話 見えない傷と、七つの対人援助《バイスティック》
五千の人間を迎え入れ、私たちの連邦はかつてない活気に包まれていた。
急造された家屋が並ぶ居住区には、ドワーフの打った調理器具から温かいスープの匂いが漂い、日中は剛鬼たちと元兵士たちが肩を並べて開拓作業に汗を流している。
前世の賢者が提唱した通り、食と安全という土台が満たされたことで、彼らは見事に社会の構成員として機能し始めていた。
だが、国家という巨大なシステムが回り始めた時、必ずその網の目からこぼれ落ちる者が現れる。
「湊さま……少し、よろしいでしょうか」
執務用の天幕に、防衛長官のアルジェントが重い足取りで入ってきた。その顔には、外敵と相対する時とは違う、困惑と苦悩が浮かんでいる。
「居住区の第三区画で、ルシアという若い元女性兵士が、三日前から家から一歩も出てきません。食事の配給も受け取らず、夜中になると家の中から悲鳴のような叫び声を上げているそうです」
それを聞いた警備担当の鋭牙が、鼻を鳴らした。
「……甘えじゃないですか? 飯もタダで食えて、理不尽な暴力もない。前の国より何百倍もいい暮らしをしているのに、何が不満なんだ。剛鬼の兄弟たちも『俺たち魔物でさえ真面目に働いているのに』って、少し不満を持ち始めてますよ」
鋭牙の言葉は、集団の論理としては正しい。だが、私は首を振った。
「鋭牙。彼女が抱えているのは『不満』ではない。目に見えない『傷』だ。衣食住が満たされ、生きるための緊張の糸が切れた今だからこそ、心の奥底に抑え込んでいたものが噴き出しているんだ」
私はアルジェントと共に、ルシアの家へと向かった。
家の扉は固く閉ざされ、中からは微かな震え声が漏れ聞こえてくる。鋭牙は「扉をこじ開けましょうか」と言ったが、私は彼を制した。
『固有能力《理を編む者》。生体情報の解析……極度のフラッシュバックによるPTSD《心的外傷後ストレス障害》。交感神経が過剰に興奮状態にあります』
魔法で扉を吹き飛ばすことも、精神干渉魔法で無理やり心を落ち着かせることも、今の私には造作もない。だが、人間の心は機械ではない。外からの強制的な操作は、彼女自身の立ち直る力を根本から破壊してしまう。
「アルジェント、鋭牙。君たちは下がっていなさい」
私はゼリー状の体を扉に寄せ、静かに、だがはっきりとした声で語りかけた。
「ルシア。私はこの国の代表、九条湊だ。君が今、とても辛い状態にあると聞いてやってきた」
「……こ、こないでください……! 私は、私は駄目なんです……!」
中から、悲鳴に近い拒絶が返ってくる。若い、ひどく掠れた声だった。
「無理に外に出なくていい。だが、私はここにいる。君が自分で扉を開けるまで、何度でも待つ」
対人援助における普遍のルール、過去の賢者が提唱した七つの原則。
その一つ、『自己決定の原則』。
援助者は対象者に強制してはならない。彼らが自らの意志で選択し、一歩を踏み出すそのプロセス自体が、回復の絶対条件なのだ。
私は扉の前に座り込み、一時間、ただ静かに待った。
やがて、カチャリという微かな音と共に、扉が数センチだけ開いた。隙間から、ひどくやつれ、目の下に濃い隈を作った銀髪の少女の顔が覗いた。
まだ十代後半だろうか。かつては美しかったであろうその面影は、深い絶望と恐怖によって塗り潰されていた。
「……どうして、見捨てないんですか。私は、働けないのに……」
「私の国に、見捨てるという法理は存在しないからだ」
ルシアは震える手で扉を開け、私を家の中へと招き入れた。
私は彼女と対面し、言葉を待った。
ルシアはしばらく俯いていたが、やがて堰を切ったように語り始めた。
「……私は、光の王国で、脱走者を捕まえる部隊にいました。逃げ出した農民や、借金から逃げた子供まで……上官の命令で、私はこの手で……っ」
ルシアは両手で自らの頭を抱え込んだ。長い銀髪が床に散らばる。
「この国に来て、皆が笑っているのを見て……私だけが幸せになっていいはずがないと、そう思ったら、夜、殺した人たちの顔が浮かんで……息が、できないんです……」
極度の自責の念。
鋭牙が言ったような「甘え」などではない。彼女は、彼女自身の本来持つ優しさと、強要された罪の狭間で心が引き裂かれているのだ。
「……私みたいな人殺しは、この国にいる資格なんてない。お願いです、追放してください……!」
ルシアの涙ながらの訴え。
私はここで、賢者の原則をさらに展開した。
『意図的な感情表出の原則』――彼女の負の感情を抑え込ませず、吐き出させること。
『非審判的態度の原則』――彼女の過去の行動を、善悪で裁かないこと。
『受容の原則』――彼女のあるがままの姿と、その苦しみを受け止めること。
「ルシア。君がしてきたことは、消えない。だが、君を『人殺しの悪人』だと裁く権利は、私にも、他の誰にもない」
「でも……っ!」
「対象への精神的結界、展開。術式・『傾聴』」
私の体から放たれた柔らかい魔力が、ルシアを優しく包み込む。それは他者の心を操作するものではない。彼女が吐き出す痛みを、私が全て受け止め、彼女自身が自分の感情と安全に向き合えるようにするための『心の防壁』だ。
私はスライムの体を変形させ、震える彼女の背中を包み込むように密着した。物理的な温もりと適度な重圧が、過覚醒状態にある彼女の神経を少しずつ鎮めていく。
「君は、命じられて引き金を引いた自分を許せないほど、優しい人間だ。私は、君のその苦しみごと、君という存在を受け入れる。君はもう、誰かを傷つけるための命令を聞かなくていい。ここにいていいんだ」
非審判的でありながら、絶対的な受容。
その言葉が届いた瞬間、ルシアは子供のように声を上げて泣き崩れた。
何時間も、ただ泣き続ける彼女に、私は一切の助言も説教もせず、ただ寄り添い続けた。
翌朝。
ルシアはまだひどく疲れた顔をしていたが、その瞳の奥には、昨日のような狂気と絶望はなかった。
「……湊さま。私、すぐに前のようには働けないかもしれません。でも……剣を握る手が震えて駄目でも、孤児院の子供たちのお世話や、畑の草むしりなら、少しずつできる気がします」
「ああ、ゆっくりでいい。『個別化の原則』だ。君には君のペースと、君に合った役割がある。焦らず、自分の足で歩き出せばいい」
私がそう告げると、ルシアは初めて、花が綻ぶような微かな微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、湊さま……。私の命、これからはこの国の……あなたのために使わせてください」
私は家の外で待っていた鋭牙とアルジェントに合流した。
鋭牙が、神妙な顔で頭を下げる。
「湊さま。俺、間違ってました。目に見えない怪我って、本当にあるんですね」
「気付いたならそれでいい。鋭牙、彼女が草むしりに出てきたら、特別扱いはせず、ただ『おはよう』と声をかけてやってくれ」
社会への包摂は、そうした日常の些細な繋がりから回復していくものだ。
武力で敵を倒すよりも、一人の壊れかけた心を救うことの方が、時に何倍も難しく、根気がいる。
だが、それを成し遂げることこそが、誰もが安心して生きられる『真の福祉国家』の証明なのだ。
私は、朝日に照らされる連邦の街並みと、新しく生きる意味を見つけた一人の少女の後ろ姿を見渡しながら、静かにそう確信していた。




