第10話 剣を折る歌と、普遍の理《ユニバーサル・ウェルフェア》
徴税官バルサスが逃げ帰ってから一月後。私たちの連邦に、かつてない規模の危機が迫っていた。
「湊さま。南の平原より、光の王国の正規軍がこちらへ進軍してきます。数は……およそ五千。重装歩兵と魔術師団を揃えた、本気の侵略部隊です」
防衛長官アルジェントの声には、かつてない緊張が孕んでいた。
五千の軍勢。対する私たちの連邦は、ゴブリン、剛鬼、ドワーフ、そして逃亡してきた人間たちを全て合わせても戦闘員は五百に満たない。
広場に集まった村の幹部たちの顔に、絶望の影が落ちる。
「……湊さま。俺たち剛鬼が先陣を切り、少しでも敵の数を減らします。その間に、皆は北の山へ逃げてくだせえ」
「いや、俺たちの鉄の壁で防衛線を構築する! ドワーフの意地を見せてやる!」
剛鬼のリーダーとドワーフの長、巌鉄が悲壮な覚悟で叫ぶ。だが、私は静かに首を振った。
「誰も死なせないし、誰も逃げない。そもそも、五千の兵力と真正面から殺し合う必要などどこにもない」
「し、しかし湊さま。相手は我々を滅ぼし、この豊かな土地と資源を奪うために来るのですよ?」
鋭牙が食い下がる。
「彼らが本当に欲しいのは『土地』だろうか? アルジェント、敵軍の構成をどう見る?」
私の問いに、元筆頭騎士であるアルジェントが答える。
「……指揮官クラスは貴族階級でしょうが、五千の兵の大多数は、貧しい農村から強制的に徴兵された平民や、借金で首の回らない下級兵士のはずです。彼らに戦う理由はありません。ただ、上からの命令と死の恐怖で動かされているだけです」
「その通りだ。彼らは敵ではない。彼らもまた、搾取システムに苦しむ『困窮者』に過ぎない」
私はゼリー状の体を大きく弾ませ、皆に向かって宣言した。
「私たちの最強の武器は、剣でも魔法でもない。この数ヶ月で君たちと築き上げた、この『国そのもの』だ。彼らに、私たちの国の『生活水準』を見せつける。それだけで、あの軍隊は自壊する」
数時間後。私たちの連邦の境界線、広大な平原を挟んで、光の王国の五千の軍勢が布陣を完了した。
整然と並ぶ盾と槍。天を衝くような軍旗。陣形の中央に設えられた豪奢な天幕から、黄金の鎧を着た司令官が姿を現すのが見えた。
『辺境の魔物ども、ならびに国を裏切った大罪人どもよ! 我が光の王国の圧倒的武力の前にひれ伏し、全財産を差し出せ! さもなくば、この地を焦土と化す!』
魔法で増幅された司令官の傲慢な声が、平原に響き渡る。
私はアルジェントと、数人の代表者だけを連れて、軍勢の前にただ一匹のスライムとして進み出た。
「対象領域を設定。広域情報伝達術式・『情報公開の理』起動」
私は自らの魔力を空へ向けて極限まで放出した。
上空に、巨大な水のスクリーンが形成される。そして、私の核から放たれる声は、司令官のそれを遥かに凌ぐ音量と、魂の奥底に直接語りかけるような温かさを伴って、五千の兵士たちの耳に届けられた。
『光の王国の兵士たちよ。私はこの連邦の代表、九条湊だ。君たちと争う意志はない。ただ、君たちの命を散らす前に、一つだけ提案を聞いてほしい』
空中の巨大スクリーンに、映像が映し出された。
それは、ドワーフの打った新しい鋤で、笑顔で畑を耕すゴブリンと逃亡者たちの姿。
『君たちは今、飢えているのではないか? 私たちの国では、完全な「就労支援」を行っている。労働には正当な対価を支払い、一日三食、肉と麦の温かい食事が必ず保証されている』
スクリーンが切り替わる。
広場の「生命の泉」で、怪我をした剛鬼が一瞬で回復し、仲間と笑い合う姿。
『戦場で怪我をして、捨てられる恐怖に怯えていないか? 私たちの国には「普遍的医療保障」がある。病や怪我は、皆が出し合った魔力によって無償で、かつ瞬時に治療される。切り捨てられる者は誰一人いない』
さらに映像は、学校で読み書きを学ぶ多種族の子供たちや、木陰で穏やかにチェスを楽しむ灰智たち老人の姿を映し出す。
『子供は労働力として奪われず、教育の権利が保障されている。老いて働けなくなっても「年金《共済備蓄》」によって最期まで安心して暮らすことができる』
五千の軍勢に、微かな、しかし確かな動揺が広がるのが感知できた。
槍を下ろし、食い入るように空中の映像を見つめる者。隣の兵士と顔を見合わせる者。
無理もない。彼らの国では、過酷な税と強制労働が待っているだけだ。怪我をすれば捨てられ、老いれば飢え死にする。
そこに突然、お伽話よりも甘美で、絶対的な安心感を持つ『真の福祉国家』の全貌を見せつけられたのだ。
『だ、騙されるな! それは幻術だ! 魔物の罠だ! 構えろ、攻撃準備!』
焦った司令官がヒステリックに叫ぶ。
その時、私の横に控えていたアルジェントが、兜を脱ぎ、兵士たちの前に姿を晒した。
「かつての同胞たちよ。俺の顔を忘れたか」
「あ……ア、アルジェント隊長!? 生きておられたのですか!」
「片腕と両目を失って、追放されたはずじゃ……!」
兵士たちの中から驚愕の声が上がる。
アルジェントは、魔法で形成された擬似右腕を高く掲げた。
「俺は、国に見捨てられた。だが、この国の『理』は俺に新しい腕と視覚、そして何より『生きる尊厳』を与えてくれた。俺は今、かつての何倍も強く、何倍も幸せだ!」
さらに、前回の騒動で借金を免責され、逃げ込んできた人間たちがアルジェントの後ろに立ち、叫んだ。
「本当だ! 俺たちは借金をご破算にしてもらい、今はここで立派な家を作って暮らしてる! 俺たちの国より、この魔物の国の方が、よっぽど人間らしく生きられるぞ!」
その言葉が、決定打となった。
敵軍の最前列にいた兵士の一人が、手にした槍をカランと地面に投げ捨てたのだ。
「……俺は、嫌だ。こんなところで、あんな糞みたいな国のために死ぬのは嫌だ……」
「俺もだ! どうせ帰っても、借金で死ぬまで鉱山で働かされるだけだ!」
武器を捨てる音は、波のように軍全体へ広がっていった。
五千の兵士たちが次々と武装を解除し、司令官の制止を振り切って、私たちの連邦へ向かって歩き始めたのだ。
「き、貴様ら! 反逆罪だぞ! 死刑だ、全員死刑にしてやる!」
司令官が剣を振り回すが、もはや彼に従う者は誰一人いなかった。残された数十人の貴族将校たちは、雪崩のように迫る自国の兵士たちの波に恐怖し、馬を捨てて無様に逃げ出していった。
一滴の血も流れることはなかった。
暴力ではなく、絶対的な『安心』という名の引力。社会保障という名のソフトパワーが、五千の正規軍を丸ごと自国の「労働力」として吸収してしまったのだ。
「……信じられねえ。戦争に、こんな勝ち方があるなんて……」
鋭牙が、自ら武器を捨てて歩み寄ってくる人間の兵士たちを呆然と見つめながら呟いた。
「戦争に勝ったんじゃない。私たちは、ただ『生き方の選択肢』を提示しただけだ。誰もが、幸せになれる方を選びたい。それは種族を問わない普遍の真理だからな」
私は、新たに連邦の仲間となる数千の民を迎え入れるため、村の結界を大きく広げた。
これからこの五千人の衣食住を保障し、仕事を斡旋し、システムに組み込むための壮大な『ケースワーク』が始まる。ソーシャルワーカーとしての真の腕の見せ所だ。
国を創る。それは、ただ領土を広げることではない。
誰もが明日を信じ、笑って眠れる『普遍の理』を世界に敷き詰めること。
私、九条湊の戦いは、ここからが本当の始まりなのだ。




