第1話 最弱の魔物と最強の保護
意識が鮮明になった時、私は自分が丸く、弾力のあるゼリー状の何かになっていることに気がついた。
視覚というより、全身の表面で周囲の空間を『感知』している。視界には、鬱蒼とした森の木々。どうやら私は、ファンタジーの代名詞とも言える最弱の魔物、スライムとして転生したらしい。
『確認しました。ユニークスキル《理を編む者》が起動します。対象の記憶領域から、前世の知識体系を魔術法則へと変換、定着させました』
脳裏に響く無機質な声と共に、私の中に膨大なデータが構築されていくのを感じた。
前世の私は、理不尽な社会の底辺で足掻く人々を救うための専門職だった。法と制度を武器に戦うその知識が、この異世界では『物理的な力』となって私に宿ったようだ。
「グルルルル……ッ!」
感傷に浸る間もなく、獰猛な唸り声が森を震わせた。
私が感知した方向には、巨大な漆黒の狼――ブラックウルフが三頭、よだれを垂らしながら獲物を囲んでいた。
その中心で地に伏せているのは、一匹の老いたゴブリンだ。右足の骨が砕け、もはや逃げる気力も尽き果てたように、濁った目で死を受け入れようとしている。
その少し離れた木の陰に、若いゴブリンが数匹隠れていた。彼らは震えながら、老ゴブリンが見殺しにされるのをただ見つめている。
「……駄目だ、助けられない。あれは群れの掟だ。老いて戦えなくなった者は、森の贄になるしかないんだ……」
若いゴブリンの一人が、己に言い聞かせるように呟くのが感知できた。
なるほど。弱肉強食。生産性のない者は切り捨てる。それがこの森の、いや、この世界の『当たり前』なのだろう。
「ふざけるな」
私は、ゼリー状の体を大きく弾ませ、ブラックウルフと老ゴブリンの間に着地した。
突然現れた青い粘性体に、ブラックウルフたちが怪訝そうに鼻を鳴らす。だが、すぐに「ついでに食うか」とばかりに、最も巨大な一頭が鋭い牙を剥いて飛びかかってきた。
「危ないッ!」
隠れていた若いゴブリンが叫ぶ。スライムなど、一撃で噛み砕かれると思ったのだろう。
だが、私は逃げない。
私の中にあるスキルが、瞬時に最適な『理』を導き出す。
前世の記憶。すべての人間が持つべき、最低限度の生活を保障する絶対の権利。
「絶対保護領域」
私の体から眩い光が放たれ、老ゴブリンと私を覆うように、透明で分厚い結界が展開された。
直後、結界に激突したブラックウルフの牙が、鼓膜を破るような金属音と共に根元から粉砕された。
「ギャンッ!?」
狼が苦痛に顔を歪め、地面を転げ回る。
この《ライフ・シールド》は、私が認めた対象の「生存権」を物理的に保障する絶対防御だ。魔力ではなく『法則』そのものに干渉しているため、いかなる物理攻撃も魔術も貫通しない。
「……な、なんだあのスライム……結界を張ったぞ!?」
ゴブリンたちが驚愕に目を見開いている。
仲間が傷つけられたことに激昂した残り二頭のウルフが、左右から同時に襲い掛かってきた。
防御だけでは事態は解決しない。脅威は、排除する。
「対象の窮状を解析。自立阻害要因の完全排除を実行する」
私は自らの質量を凝縮させ、スキルを攻撃へと転用した。
前世で、人が自らの力で立ち上がるために必要だったもの。それは、理不尽な外圧を跳ね除けるための『力づけ』だ。
「能力解放!」
私の小さな体から、不可視の衝撃波が爆発的に広がる。
それは単なる破壊の魔法ではない。対象の持つ本来の力を極限まで引き出し、物理的な圧力として放出する術式だ。
左右から迫っていた巨大な狼たちは、目に見えない巨大な壁に激突したかのように空中で静止し、次の瞬間、木々の彼方へと木っ端微塵に吹き飛ばされた。
牙を砕かれた一頭も、恐慌状態に陥り、尻尾を巻いて森の奥へと逃げ去っていく。
静寂が戻った森で、私は結界を解除し、老ゴブリンに向き直った。
体内で生成した回復薬を傷口に振りかける。砕けていた骨が音を立てて繋がり、老ゴブリンの顔に生気が戻っていく。
「……あ、あんたは、一体……」
老ゴブリンが、信じられないものを見るような目で私を見上げた。
木の陰に隠れていた若いゴブリンたちも、恐る恐る私に近づいてくる。
「どうして、助けたんだ? そいつはもう、戦えない。群れのお荷物だ。森の掟では、見捨てるのが正しいんだぞ」
若いゴブリンのリーダー格が、震える声で私に問う。
私は彼らを見渡し、ゼリー状の体を少しだけ高く持ち上げて宣言した。
「掟が間違っているなら、新しく作り直せばいい。役に立たないから切り捨てる? そんなことを続けていれば、君たちの群れはいつか必ず滅びる」
「な、なんだと……?」
「君たちもいつかは老いる。怪我もする。その度に切り捨てられる恐怖に怯えながら生きる群れに、本当の強さは生まれない」
私は老ゴブリンに視線を移す。
「この者は戦えなくなったかもしれない。だが、この森のどこに毒草があり、どの季節にどんな獲物が通るかを知っているはずだ。その『知恵』は、君たち若者の生存率を劇的に上げる」
ゴブリンたちが息を呑む。彼らにとって、それは全く新しい概念だった。
「働けない者は、私が張った結界のように、群れ全体で保護する仕組みを作る。そして、怪我を治し、再び役割を与える。そうやって『誰も見捨てない基盤』を作ることこそが、どんな凶暴な魔物にも負けない、最強の群れを創る絶対条件だ」
前世で学んだ『セーフティネット』の強さを、私は彼らに叩き込んだ。絶対的な力を見せつけた私の言葉は、彼らの本能に深く刻み込まれていく。
「お、俺たちは……」
若いゴブリンが、そして癒えた足で立ち上がった老ゴブリンが、私に向かって深く平伏した。
「どうか、俺たちを導いてくれ! 見捨てられない、強い群れを作るために!」
こうして、私の異世界生活は幕を開けた。
最強のスキルと前世の知識を武器に、この過酷な世界に、誰もが安心して暮らせる『無敵の国』を創り上げる。
手始めに、まずはこのゴブリンたちの集落を、徹底的に改革してやろう。




