#7 打ち明けるもの
【前回までのあらすじ】
声優事務所・「クライス・プロダクション」(クラプロ)を調査すべく、「サク」は嘘でオーディションを開催させ、未良がレッスン生として潜入していた。未良に対し先輩として目をかけるのはノアと幼馴染であった現役声優の囀きりか。未良の姉・岼果のファンであることや過去の境遇から、未良は彼女に親近感を覚えていた。
一方でノアは改変の影響で登場した“情報屋”・渥美駆真と行動を共にする。その際の駆け引きによって、駆真はノアを「サク」の正体として疑っていた。どうやらクラプロでは突如記憶障害を起こし、それを機に勝手に会社を離れ全く別の場所で全く別の人生を送り始める――“離隔”と称する奇妙な現象が何度か起きているらしく、リモートでその被害者と思われる4人から話を聞いたノアはそこで一定の成果を得て、答えを導き出したようだった。駆真が偽物の被害者を罠として仕掛けたように両者の腹の探り合いは続いていたが、次の調査対象が「囀きりか」であることについては、意見が一致していた。
未良がノアと次に再会したのは、クラプロの事務所内だった。駆真がノアを引き連れて事務所に乗り込んできた。今回はそれだけでなく、ルーズサイズのパーカーに身を包んだ見知らぬ女性も後ろに付いている。その目当ては未良ではなく、隣にいた囀きりかだった。その日もレッスン終わりにカフェスペースで相談に乗ってもらっていたところで、彼らと鉢合わせることになった。
「あの、これってどういうことですか?」
ノアの元へ近付いて囁いてみるが、普段以上の仏頂面で、こちらを見ずに独り言のように切り返す。
「重要参考人ってヤツだよ。本当は俺一人で話を聞きたくて策を講じてみたが、かえって奴に目を付けられたみたいだ」
椅子に腰掛けたまま呆気に取られていたきりかに落ち着く隙も与えず、駆真はやって来たままの足取りで彼女に詰め寄っていた。テーブルに片手を乗せて、彼女を見下ろしている。
「八鍬大紀、アンタの元マネージャーなんだろ?直々に姿を見せるのは迂闊だったんじゃないか」
「……何のことですか」
「奴はここにいた記憶をさっぱり失くして、その自覚も今ひとつなかった。でもその後で、アンタに『“情報屋”には気を付けろ』って言われたことはきっちり覚えていたんだとよ」
きりかは視線を斜め下へ逸らして、口を噤んだ。
「ちょっとノアくん!助けてあげてくださいよ!」
「……なんで?」
「なんでって!未練がタラタラで――」
あまりに淡白な返事に、思わず自分の一方的な分析が口を衝いたが、ノアもそんな未良の話を最後まで聞く気は無かったらしい。体を寄せていた未良を押し退けて、きりかへと一歩近づいた。
「“離隔”の首謀者を決定付ける話ではないだろう。ただ少なくとも、“情報屋”を恐れたのは知られちゃマズい事があるってことだ。まあそれが何なのか、少しは想像がつくがな」
ノアは「ABY」からクラプロの公式アカウントを開いて見せる。
「定期的に所属タレントの出演情報が投稿されている。駆真が特定した“離隔”の被害者の中にタレントは二人いたが、両方が“離隔”以後、それまでと変わらない仕事量をこなしていて、それは実際に公開されているそうだ。内部の人間なら流石に知ってるだろ。蒸発ホヤホヤのアイダホ・タチ、そんで1年ちょい前には吉木沙李奈だ。吉木とは以前仲良しだったんだってな」
以前きりかの話していた「先輩」とは吉木沙李奈のことのようだが、話していて彼女の口から名前が出たことはなかった。
でもその名にはなぜか聞き覚えがあって、未良は寒気のような感覚を覚える。
すると、ノアが突然スマートフォンをこちらに放り投げたので、未良はそれを慌てて掴んだ。画面には何かの文章が書き連ねてあった。
「牙隈、お前が研修生として受け取った資料データは念の為、こちらにコピーして送ってもらっていたよな。一方でそれは、つい昨日吉木が出演したとされるアニメの台詞を乙丸が文字に起こしたものだ。見覚えあるだろ?」
書かれていたものには、確かに見覚えがあった。確かこれは、未良がレッスンに使っていた脚本と同様の台詞だった。
「声色を吉木のものに合成され、実際の作品では彼女の声として放映された。言わば“ゴーストアクター”に仕立て上げられたってことだな、お前は」
未良は動揺するが、何より先にきりかの方へ目を向けていた。彼女は苦い思いのままに目を一杯に瞑っているようだった。
「ま、こんなんも『メディア・ハザード』ありきでバレないと高を括った隠蔽だ。確かにタチは悪い。でも、俺もこのノアも、お前が本当に隠したかったのはそんな事じゃないって踏んでるんだよ。こんなの一所属タレントのお前の責任じゃねーし、皆まで釈明する必要もないとは思う。ただ、せめてヒントくらい教えて貰えると助かるなって話よ。勿論“情報屋”のルールに則って、適当な仕入れ値でな」
「……適当な仕入れ値って何ですか?どうせ全部暴いたらまたそれを誰かに売って、結局私達が損をするだけでしょ?」
「おいおい、冷静に文脈を追って考えろって。対価はさっきノアの言った隠蔽についての口止め料だ。頭ん中で天秤にかけてみろよ、どう考えたって譲歩してるのはこっちだろ?」
「……譲歩も何も、隠してることなんてありません。あったとしても、貴方達みたいに利己的な“情報屋”と関わりを持つつもりはありませんから!」
「へー、“情報屋”は嫌いか?」
「事務所に火種が燻っていたのは事実ですけど、そこへわざわざ風を煽ったのは“情報屋”の貴方なんですよ?好きなわけありません!それを平然と言いふらす『サク』もそう、嫌いに決まってるでしょ……!」
「怨讐――弱者の側にしか湧くチャンスのない感情だね。たとえそれが逆恨みだとしても、正直に話してくれんなら仏の如き寛大さで受け入れてやる。分かるか?選択肢なんて、もう無いんだよ」
きりかは何も言い返せなくなって、俯いて狼狽える。駆真は依然として上から頭を睨みつけていた。
「……相手が捻くれ者なら、裏の裏を行くのも手か」
「え?」
未良の反応には応じなかった。その一言だけ呟いた後、今度はノアが2人に割って入る。前屈みになっていた駆真の肩に斜め後ろから手を置いて、若干力を入れたのか、彼の身を起こさせ、後退りさせた。
「……なんだ?“情報屋”のスタンダードな取引がそんなに目に毒だったかよ。この業界でそこまで現場慣れしてない奴なんて、俺はどこかの預言者くらいしか心当たりが無いんだけど」
「そうじゃない、俺は昔のコイツを知ってるが、そうやって無理に迫っても警戒を強めるだけだ。俺が聞き出すから、お前はここで待ってろ」
ノアがきりかに耳打ちすると、きりかは頷いて小声で何か返答してその場から離れる。別室で2人で話そう、と示し合わせたのだろう。
「ああ、そう言えば。でもそれ、昔絶交したってオチだったよな。本当のことさえ聞けんなら任せたって良いけど、そんな気まずい間柄じゃ厳しいんじゃねーか」
「大丈夫だ。8年も前の事だが、昔のアイツは俺に惚れていたからな」
「……は?」
「根本的に俺が恋愛に鈍感とは言い難いのもあるが、当の本人が確信したくらいだから相当のものだ。今アイツの気持ちがどうかは知らないが、絶交なんてのは小学生の誇大表現だろ?俺に対する警戒心は全くないよ」
駆真が目を丸くしている一方で、ノアの顔は珍妙なことを言い出した割に落ち着いていて、余裕すら読み取れる。
過去を変える対象をその場から離して、鮮烈な“見出し”を最初に主張する――。
今度は未良にも気付くことが出来た。これは、ノアが嘘を吐くときの手順だ。恐らくこの嘘により、この後きりかの証言を引き出しやすくすることも計算の内なのだろう。
ノアは先日駆真と対面する為に未良を騙したが、同じくその場にいた乙丸はそれを見抜いていた。未良はあのとき、その理由を尋ねたことを思い出していた。
『俺は最初の方から怪しいと思ってたよ。多分最初の方の説明、ノアは本当の推測を話していたんだ。本当のことを織り交ぜて説得力を上げるのは嘘の常套手段だからね』
またあの時の通りの手法で嘘をつくのか――未良は目を細めてノアの口ぶりに注意を向けていた。
「自分で言った通りでしょ。8年も経ちゃ男の一人や二人くらい知る。まるで関係のない話だよ」
「それは当時のアイツを知らないから言えることだな。例えば――そうだ、同じクラスだったんだが、アイツが給食当番の日は俺にだけサービスと言って、盛り付けが多かった」
明らかに微妙な空気が漂っている。この局面で突如小学生時代の恋愛を語られても駆真が反応に困るのは仕方がないし、あまり強い理由ではない。ノアが何を思ってこんな手段に出ているか、という疑問はともかく、この話は手法上、嘘を信じさせる為に飾り付けた真実ということなるだろう。
「それに、行事のグループを組むたびに、積極的に俺と一緒になろうとしてきたのを覚えてる。実際冷やかされることもあったのに、それでも止めなかった辺りも好意を察するには余りある」
ノアは駆真が動くまで、淀むことなくきりかとの思い出を話し続ける。思い出を早送りで再生するかのように、細かい行動や仕草をなぞっていくノアの口の動きは、少しずつ早口のそれへと変わっていく。
奇妙に思った未良は、今一度ノアの表情へ注意を向けた。
未良は項垂れる。
――あ、この人今気付いたんだ……。
ノアの顔は話せば話すほど引き攣っていく。恐らくノアは、長々と話してここまでひとつも嘘を吐けていない。記憶をなぞって該当しそうな場面を羅列していくことが、彼がその“事実”に向かって、初めて点と点を繋いでいく作業となったらしい。
『根本的に俺が恋愛に鈍感とは言い難い』。そんな言葉を思い出して、未良は不意に笑いを溢す。
「なんだ、牙隈」
「あ、いえ、ごめんなさい!必死にそんなこと話してるからつい……」
「全くだ。そんな恥かいてまで一人で話したいってんなら、好きにしなよ」
駆真が興味無さげにノアから離れると、ノアはすごすごと、きりかの向かった方へ歩いて行った。
ノアらしくなかった、とは感じた。でも、未良が感じてきて提唱できる「ノアらしさ」とは、判断力だとか思考力だとか、能力的なもの。そう思うと胸が痛んだ。
「駆真、私は別件で電話する用があるから。少し外に出てるよ」
「はいはい、いってらっしゃーい」
2人に帯同していた女性もその場を離れ、未良と駆真だけがカフェスペースに取り残される。
「じゃ、俺たちだけで時間潰すとすっか」
駆真はきりかがいたのとは別の椅子へ腰掛けると、未良の方を見据えた。恐らくこの男は、適当な理由を取り繕っただけで逃してはくれない。腹を決めて、未良も隣のテーブルの方の椅子へ、駆真と向かい合うように座った。
「どうかした?浮かない顔って感じだけど」
未良は口を開くことができなかった。
決意するまでは良かったが、危険を逃れる方策までは頭に浮かばなかった。「もし自分の不用意な発言によってノアが『サク』だと暴かれたら」――そんな不安を前にして、呼気が喉を素通りするような圧迫感を覚える。
「ああ、警戒してんのか。それなら、少し安心して欲しい」
駆真はまた立って、自販機の方へと目をやりつつ近づいて来ると、途中で肩に手を置いた。
「ぶっちぎりで疑ってることに変わりはねーから、さ」
背筋の震える思いを必死で抑えていた未良を注意していたのか否か、駆真はさもこちらには興味が無いかのようにコーラを買い、先ほどの椅子へと戻っていく。
「実のところ俺はオーディションの日、つまり最初に君と会った時から疑いの目で見ててさ」
「それは、私の隠し持ってたカメラのこと、ですか?」
「あー、不自然な動きにはみえたけど、いきなり取り立てる要素ではないな。最初のきっかけはもっと直感的なモンだよ。周りと比較して、君だけやたら意地を張ってる風に見えた」
「そう、でしたか?」
「ああ。“情報屋”なんてブランドとしての信用はあっても、人柄まで信頼される身分じゃない。基本は嫌われ者だ、さっき囀きりかの言ったようにね。つまり警戒や敵意があって当然なんだが、君が敢えてそれを隠そうとしてる様子はそこそこ不審だったよ」
言動に注意する意味は本当にないのかもしれない、と思わされた。態度や雰囲気からは探偵らしい堅苦しさの一切見せてこない駆真だが、それ故にその思考には底知れぬ領域を感じさせるし、洞察眼が紛い物でないことは分かる。この分では、先程未良が見せた緊張も当然のように見抜いているかもしれない。
「ただ、ノア君が俺の向かったバーに乗り込んでまで俺の情報を得ようとしていたのは意外だったね。本当に奴が『サク』なら、クラプロの投稿ができたことから、元からかなり俺の近くにいなきゃおかしい。今更俺を調べる必要はないはずだ。策略通りかもしれんけど、これのせいで客観的な疑いはちょっとだけ薄まった。そんなこんなで昨日は宮尾――さっきまでここにいた、あの女性の部下を使ってノア君と話をさせたんだけど、狙いはノア君だけじゃなく、相対的に疑いの強まっていた宮尾も含んでいた。あの場じゃ色々と仕込んだけど、この2人の候補で話し合わせて互いの反応を見たかったのもある」
「でも、まだノアくんを疑ってるんですよね」
「まあね。でもさ、大きな理由の1つは割と君だよ」
「私ですか?」
「当たり前でしょ。ノア君が言うには、いとこなんだろ?“情報屋”だからって、ただのいとこがここまで協力するか、って思うんだよ。疑ってるからこそあえて遠回しで聞くけど、お前は何が目的なんだ?」
反射的に口を開いたが、ふときりかの言葉が脳裏を過ぎった。
「……分からなくなっちゃいました。本当に役者業に憧れてて、この事務所に入るのもノアくんの頼みではあったけど、自分でプラスにも捉えてたから」
「何?お前のレッスンが秘密裏に素材として使われてたってアレか」
「きりかさんって凄く私と似てて、理解してくれる安心感があったから……。なんか、私がお姉ちゃんに重ねちゃってたんだと思います。きりかさんは自分を表現しろって言ってたけど、実際世の中に出ている声はそんなこと関係ないってことですし……。それが余計にショックで」
「姉、ねえ。俺にもいるけど、俺は奴がこの世で一番嫌いだからな。気持ちは分かってやれねーわ」
そして少し考えた素振りを見せると、駆真は立ち上がった。
「ま、だいたい君がどんな奴かは分かった。俺は二人の会話盗み聞きしてくるよ。宮尾が戻ったらそう伝えてくれる?」
「あ、ちょっと待って下さい!」
ボトルを手に立ち去ろうとする駆真に、未良は声をかけた。
「あの、その“離隔”ってやつ、どういう捜査状況なのか教えて欲しいです。ノアくん、狙いも含めてうざがってちゃんと教えてくれないと思って」
「……まあ、いいよ」
駆真はこちらの方を向くと、近くの壁にもたれた。
「状況証拠的に、あの中に元公安の人間が紛れているということは分かってる。で、ノア君は昨日答えをはぐらかしたけど、それが誰なのか、もう正解は導き出してると思うよ。まずどんな4人なのかってとこも話さないといけないけど、多分あいつが疑っているのは――」
それから未良は駆真から一連の事件と情報を聞かされる。その後で、結局未良が先にノアの元へ向かうことになり、それは未良やノアにとって好条件に思えるが、それについて「フェアじゃないから」という理由を語った駆真の脅威を考えると、大したアドバンテージでもなさそうだった。
応接室まで行くとノアの顔が窓から覗いて見えたので、そっとドアを開けて足を踏み入れる。しかし、部屋にきりかの姿は無かった。
「ノアくん、きりかさんは……」
「黙れ!」
見たことのない剣幕で、ノアは声を張り上げる。未良は思わず息を呑み物怖じするが、立ったままでも余計居心地が悪いので、ひとまずノアの向かいの席へ腰を下ろす。
「……悪い、取り乱した。きりかなら先に出たよ」
ノアはすぐ我に帰って、未良に顔を向ける。最後に彼の顔を目にしてから十分程しか経過していないはずが、何故か酷くやつれている様子だった。
「何か、分かったんですか?」
「ある程度裏付けは取れた。……しかし、到底信じられない現象が起きていることも確かだ。きりかが、この件には絶対に関与し得ない人間の写真を見せてきた。そいつの名前は涼霜壮。俺ときりか、二人と小学校時代クラスメイトだった男だ」
「はあ。ノアくん、最近は偶然の再会が多いですね」
「文字通り、そんな次元の話じゃないんだ。クラスメイト“だった”というのは、ただ過去の話を指して言った訳じゃない。今の歴史では違っているということ。こいつは俺の嘘によって、世界から存在ごと消えたはずだった」
「存在ごと、消えた……?」
未良にはすぐに察しがついた。
「まさか、ノアくんがきりかさんと“絶交”したのって……」
ノアはこちらから視線を外す。無言で黙秘を訴える態度だ。
これ以上こちらから追及するのも気が引けるので黙っていたが、未良は漸くノアの心持ちに得心できた。彼はずっときりかに対して、その涼霜壮という男に対して負い目を感じていた。それに耐えかね、距離を取ったのだろう。
「きりかは、一連の“離隔”を起こした責任は全て自分にあると涙ながらに語った。そして、それを起こした実行犯には、恐らくこの壮が絡んでいるとな」
「その涼霜壮って人、もしかしてクラプロや『ABY』の人なんですか……?」
「どうしてそう思う?」
「あの、駆真さんから聞いたんですけど、“離隔”に遭った人の中に公安がいるって。それって私たちと同じように企業の闇を捜査してる人がいて、それで目をつけられたのかなって。それで、他の人も似た理由で被害に遭った、みたいな……」
「違うな。今回の件、恐らくクラプロによるものではない。詳しくは後で話すが、とにかく権威が我が身可愛さでやったようなイメージは持たない方がいい」
「何でですか?一番ありそうな気がするんですけど……」
「理由の1つは、そんな手段を取る必要が無いこと。何故“離隔”という手段を選択した?隠蔽したかったのなら、この件は少し奇妙過ぎる。特にレッスン生の一斉辞退はどう考えても外部の人間にまで足が付く。こんなことなら極端な話、殺してしまったほうが早い」
「それは、まあそうですけど」
「もう1つ、仮にそうだったとして、クラプロ側の対応はあまりにも杜撰だ。アフレコに役者が来ず合成音声を当てるなんて話、“情報屋”なしでも人伝でリークされかねない。クラプロの方が“離隔”のことを把握できていなくて、苦し紛れに取った応急処置がダラダラ続いていると考えた方が無難だ」
「うーん。……ってことは、駆真さんの言ってた公安って、あまり“離隔”と関係なかったんですかね」
「――そうだな。今のところは」
少し考えた後、ノアは頬杖をついて僅かに未良から顔を逸らし、気怠げに言い放つ。
「参考までに公安が誰だったかという話を先にしておくが、正体はアイダホ・タチだ」
「す、凄い」
未良は思わず声を漏らした。
「……何が?」
「いや、駆真さんがです。ノアくんならそう言うだろうって」
それを聞くと、ノアは支えていた頬杖から頭ごと滑り落ちて、大袈裟なほどに項垂れた。
「そうか、やっぱり。……そうだろうな、あいつは」
「あの、大体どんな話かは聞いてるんですけど、どうしてそうなのか教えて下さいよ」
「そうだな……。といっても、絞り込むのは簡単というか、順当な手順を踏んでいるだけだ」
ノアは一呼吸の後で今度は腕を組み、淡々と語り出す。
「まずポイントになるのは、紛失されたスマホが見つかったのは公安の“離隔”の前か、それとも後か」
「どういう手口か分からないので何とも言えませんけど、“離隔”に遭った際に落としちゃったスマホってイメージでした……」
「いや、違うね。問題のスマホは、クラプロ側から問題点を検出出来なかったことは勿論、探偵の駆真が削除されたデータを入念に復元することで初めて機密情報の発信を確認できた、というもの。つまり紛失した後で、遠隔でデータを消す必要がある。これは、紛失の後で“離隔”したことを表している」
「なるほど。だとしたらスマホの持ち主は紛失があってから辞めてる木鋤唯さんかアイダホ・タチさんのどちらか……」
「その二択なら簡単だ。『イカロス』を確認すればいい」
「『イカロス』、ですか?メタバースの」
「『イカロス』の特徴は個人情報登録と生体認証。勿論アカウントは1人1つだし、木鋤のアカウントは“離隔”以前から存在していたもの。ログは見ていないが、開示させれば決定的な証拠になる。逆に言えば、隠密行動を仕事としている人間は『イカロス』に登録したりしない」
「それで消去法でアイダホさんだと。直接の証拠こそありませんけど、確かに妥当かも……」
未良が頷いたのを見て、ノアの方は途端に体と表情の緊張を緩める。
「――というのが、“元の世界”での筋書き。たった今、言った分だけは修正されたがな」
「……え?」
一瞬何を言っているのかが理解できず、口をぱくぱくとさせる未良。
「俺の能力は発動後同一の相手に『今のが嘘だった』とネタバラシをしても、修正することができない仕様だ。だから完全な復元でなくとも元の世界に戻したいと思った場合は、こうして他の人間に真逆の事実を言うことがある」
「い、今のって嘘だったんですか?というか、元々は本当なのを戻したってこと?そっちの嘘はいつ、どこで吐いたんですか?」
「昨日、お前も会った大学の松波夏海にだ。メールにアイダホ・タチという声優が存在すること、そして現在では記憶を失って別の仕事に就いていることを記して送ったんだ」
「それって、本当のことみたいですけど。嘘として適用されたってことは……」
「そう、その時点では奴の記憶が残っていたことになるだろう」
「なるほど、それ自体が消去法の推理を裏付ける直接的な証拠ってことですか……」
ノアは立ち上がって、応接室を出るドアノブに手を掛ける。
「――さて、もういいだろう。気持ちの整理もついた。戻るぞ」
「戻るって、“般若街”の拠点ですか?」
「ああ、駆真を適当に躱した後にな。少し用があるんだ、涼霜壮とも会わなくちゃならないからな」
「あ、はい!」
「それと」
ノアはドアを開いたが、足を止めたままこちらに背を向けて呟いた。
「もう隠しておく必要も無くなった。移動中は俺の体験して知っている過去を聞いてもらう。涼霜壮の情報を共有しておく為だ」
「……はい。分かりました」
未良は既に得心できていた。言葉や行動の蓄積から揺らぎかけていたノアの像が、本当は何を根本としていたのか。
『気持ちの整理もついた』
――やっぱり、嘘つきだ。
しかしその一方で、未良はこの会話に紛れた2つの偽りを見逃していた。