第10話 十年後の裏口
第10話 十年後の裏口
十年後の四月、榊原澪は午前六時四十分に大学の研究室へ入った。窓の外では、銀杏の若い葉に昨夜の雨粒が残り、始業前の清掃員が濡れた通路へ黄色い注意表示を置いている。澪は机の端へコンビニの鮭のおにぎりと紙パックのほうじ茶を置き、壁際の棚から黒いノートを取り出した。
表紙には、白い丸印が九つ付いていた。世界各地の建築物を見て回っていたころから、使い終えたノートの数だけ丸を増やしている。久世の研究室で失われた一冊だけは戻らなかったため、五つ目の丸の横には、小さな空白が残されていた。
澪が担当する講座の名前は、「使用後建築学」といった。新築時の図面や完成写真だけで建物を評価せず、五年後、十年後、二十年後に、住民や働く人が何を付け加え、何を外し、どこを補修したかを調べる。講座には建築専攻だけでなく、福祉、環境工学、都市政策を学ぶ学生も参加していた。
その年、澪の名前は世界的な建築賞の最終候補に挙がっていた。代表作として紹介されたのは、巨大な美術館や高層ビルではなく、築四十年以上の団地、閉鎖寸前だった商店街、洪水被害を受けた地域の集会所だった。どの建物にも、澪の名前を大きく刻んだ銘板はなかった。
大学の広報室は、学生と一緒に研究室で撮影することを提案した。机の上へ模型を置き、背後には受賞候補となった建物の写真を並べる予定だった。澪は広報担当者へ、今日は学外実習があるため、撮影するなら現地へ来るよう伝えた。
「今日は、どちらの建物ですか」
「築十年を過ぎた複合施設です」
「先生の代表作ですね」
「私が一人で作った建物ではありません」
広報担当者は、カメラケースを閉じながら首をかしげた。澪は説明を加えず、ほうじ茶を鞄へ入れた。鮭のおにぎりは昼食用に残し、朝は自宅から持ってきた小さなバナナを一本食べた。
午前九時、十五人の学生がアークの正面玄関前へ集まった。建物の階段状の外観は残っていたが、十年前の完成予想図とは違っている。各階の植栽は均一な帯ではなく、住民が使う場所に合わせて、太くなったり途切れたりしていた。
学生たちは一斉にカメラを構えた。春の光を受けたガラス面と、各階へ広がる庭を収めようと、道路の向かい側まで下がる者もいた。広報担当者は、建物を背にした澪へ立ち位置を指示した。
「榊原先生、もう少し中央へお願いします。建物の全景と一緒に撮ります」
「先に、学生たちの写真を撮ってください」
澪は正面玄関の脇にあるベンチへ座り、鮭のおにぎりを開いた。海苔は袋の内側へ一部張り付き、三角形の角が少し崩れている。十年前、久世のシンポジウムへ持っていったご飯よりは柔らかく、鮭も端まで入っていた。
学生たちが正面撮影を終えるまで、澪は急かさなかった。横長の窓、外付けルーバー、各階の植栽、屋上に残された桜を、それぞれ好きな角度から撮らせた。全員が戻ると、澪は包みを四角く畳み、近くの回収箱へ入れた。
「いま撮った写真に、建物を使っている人は何人写っていますか」
学生たちはカメラの画面を確認した。通勤する人が二人、ベンチに座る住民が一人、四階の花壇で水をやる保育士が一人。十五枚の写真を合わせても、清掃員、配送員、警備員、植栽管理員は一人も写っていなかった。
「では、入りましょう。今日は正面玄関を使います」
自動扉を通ると、十年前にはなかった椅子が壁際に並んでいた。形も色もそろっておらず、木製、樹脂製、折り畳み式の三種類がある。住民が自宅で使わなくなったものを持ち寄り、管理員が脚のぐらつきを直して置いたという。
一脚の背もたれには、赤い毛糸で小さな花が編み付けられていた。別の椅子には、座面の破れを隠すため、紺色の布が張られている。建築雑誌の撮影前には片づけられそうな椅子だったが、澪は学生へ、誰が、いつ、何のために置いたのかを調べるよう指示した。
四階のキッチンガーデンでは、保育施設の子供たちが朝顔の種をまいていた。低い花壇の端には、紫蘇、分葱、バジル、パセリが並び、冬を越したローズマリーは小さな低木ほどに育っている。ミントは十年前から変わらず鉢の中に隔離され、「外へ植えないこと」という札が新しくなっていた。
「ブルーベリー、三つ青くなったよ」
子供が枝を指した。隣にいた住民は、青くなった実へ鳥よけの網を掛けず、そのまま残した。半分は人間、半分は鳥という決まりも、十年前から続いていた。
住宅階では、可動収納の位置が部屋ごとに違っていた。子供が独立して広い居間へ戻した家もあれば、一室を在宅勤務用に分けた家もある。車椅子の男性と妻が入居した部屋では、寝室から浴室までの通路に、後から小さな棚が加えられていた。
「通路が狭くなりませんか」
学生の一人が尋ねた。男性は車椅子を動かして棚の前を通り、左右に十分な余裕があることを見せた。棚には妻が入院したときの薬と、毎朝飲む二人分の湯呑みが置かれていた。
「図面どおりに何も置かない家なんて、ないでしょう。置いても通れる幅が必要なんです」
学生は通路の寸法を測り、棚を置いた状態の図をノートへ描いた。澪は答えを補わず、男性が方向転換するときの車輪の位置を観察するよう伝えた。床には、十年間同じ場所を通った車輪の細い跡が残っていた。
七階のガラス通路では、外付けルーバーが日差しに合わせて角度を変えていた。窓際のベンチには夜勤を終えた警備員が座り、弁当箱から卵焼きを食べている。水筒には、キッチンガーデンで摘んだミントが二枚浮かんでいた。
清掃員の永井は、髪に白いものが増えていた。十年前に交換したカートはすでに二代目になっていたが、四つの車輪は同じように減っている。永井は学生たちへ、古いカートの片側だけが六週間で削れたことを話した。
「この通路が直ったとき、建物は何も言わなかった。でも、肩へ貼る湿布は一枚減りました」
永井はカートを片手で押し、床に落ちていた小さな紙片を拾った。学生たちは車輪の写真だけでなく、永井の靴底と右肩の高さも記録した。澪は少し離れた場所から、ノートへ書く手の動きを見ていた。
午後、学生たちは十年前の浸水地点へ集まった。排水区画は改修され、点検口の上へ物を置かないよう、床材の色が変えられている。壁には開業日の写真と、当時使われた黄色い付箋の複製が展示されていた。
原本は大学の研究資料室で保管されていた。紙は反り、黒い文字は薄くなっていたが、「通行不能」の四文字はまだ読めた。その横には、改修前後の避難経路と、排水区画の切り替え時間が記録されている。
「この付箋一枚で、建物が変わったのですか」
「いいえ。付箋は、通れないと示しただけです」
澪は、現在の通路を歩く人々を指した。ベビーカーを押す父親、杖を使う女性、荷物を運ぶ店員が、互いに立ち止まらず行き交っている。建物を変えたのは、通れないと知ったあと、誰を通すために何を直すかを決めた人々だった。
学生の一人が、正面玄関の銘板に澪の名前がない理由を尋ねた。世界的な賞の候補になった建築家なら、設計者として名を残すべきではないかという。澪は全方向案内図の前へ学生を連れていった。
案内図には、配送口、清掃員休憩室、保育施設、キッチンガーデン、植栽管理室、避難経路が、正面玄関と同じ太さの線で描かれている。余白には、十年前の改修へ参加した住民、作業員、施設職員、設計者、施工者の名前が、同じ大きさで並んでいた。澪の名前も、その中央ではなく、何十人もの名前の途中にあった。
「建築家の名前を消す必要はありません。でも、建築家の名前だけを残せば、建物を作った人の大半が消えます」
学生たちは案内図の名前を一人ずつ読み始めた。永井、相原、吉岡、西脇、保育士、警備員、大工、電気工事士、住宅の契約者。十年前には肩書すら残らなかった人々が、一文字も小さくされずに並んでいた。
夕方、澪は学生たちを搬入口へ連れていった。扉の位置は十年前から二度変えられている。最初は台車が曲がりやすいよう壁際へ移され、その後、荷物の大きさが変わったため、さらに二十センチずらされた。
床には、改修前の台車が付けた半円形の傷が残されていた。配送員が使いやすい位置へ扉を変えてから、その傷の上へ新しい線は増えていない。代わりに、現在の通路には靴と車輪が通った灰色の帯が、駅へ続くように伸びていた。
「先生、これは残したほうがいい傷なんですか」
「残すか消すかは、使う人が決めます。私が決めることではありません」
澪は黒いノートを開き、今日の日付を書いた。第一話で使っていたノートより新しく、角もまだ潰れていない。最初のページには、十二枚の絵葉書から復元した五原則が記され、その下に学生が見つけたことを書き足せる余白を残してあった。
広報担当者は、搬入口の照明では受賞候補者の写真として地味になると言った。正面玄関へ戻れば、夕日を受けた屋上庭園と一緒に撮影できる。澪は断らず、学生たちへ先に正面の写真を撮らせた。
アークの外観には、住民が勝手に置いた椅子も、虫食いの紫蘇も、配送員が直した扉も写らなかった。横長の窓と各階の緑が夕日を受け、十年前の完成予想図より落ち着いた色に見えた。学生たちは午前中とは違う位置から、同じ正面を撮影した。
「きれいでしょう」
澪が言うと、何人かがうなずいた。建物は十年前より統一されておらず、季節を終えた花壇には土の見える場所もあった。それでも、人が入れない完成予想図より、窓辺に洗濯物と植木鉢の見える建物のほうが、長く使われてきた時間を映していた。
「では、ここで一日働く人の靴を見に行きましょうか」
澪は再び裏口へ歩き出した。学生たちはカメラを下ろし、黒いノートやタブレットを開いた。広報担当者も少し遅れて、カメラケースを持ったまま後を追った。
搬入口では、配送員の靴底に細かな砂が入り、清掃員の靴にはキッチンガーデンの黒い土が付いていた。警備員の革靴は踵だけが薄く減り、植栽管理員の長靴にはローズマリーの細い葉が一枚貼り付いていた。学生たちは、その靴が一日にどこを歩き、何段の階段を上り、どの扉で立ち止まるかを尋ねた。
澪は答えを教えなかった。学生の一人が台車の進路を測り、別の一人が搬入時刻を記録し、もう一人が扉を押すために必要な力を測った。十年前、澪が一人で始めた調査を、十五冊のノートが別々の場所から続けていた。
低い花壇では、片桐文枝の団地から運ばれたローズマリーが、夕方の風に揺れていた。何度も株分けされ、元の一株がどれだったのかは、もう吉岡にも分からない。住民は必要な枝を切り、子供は葉の匂いを嗅ぎ、料理人は肉料理へ使っていた。
建築の価値は、完成した日の写真ではなく、十年後の裏口に現れる。澪が若い日に書いた一文は、賞の候補者紹介にも、大学の講座案内にも載せられていた。けれど、その意味を最も正確に残しているのは文章ではなかった。
切り返さずに曲がる台車、日に焼けずに眠る子供、壁の位置を変えた家族、休憩中の警備員、朝食へ少しずつ減っていく分葱。建物は、直された場所から毎日の答えを返していた。
澪は黒いノートの新しいページへ、白い丸を一つ描いた。十個目の丸の中央は塗りつぶさず、学生たちが調査を終えるまで空けておいた。裏口の扉が開くと、ローズマリーと濡れた土の匂いが、夕方の風に乗って通路へ入ってきた。




