第五章:「影を越えて」
夕暮れの箱根は、山の稜線を薄紫に染めながら、静かに夜へ沈みつつあった。 外では、霧がゆっくりと庭を這い、木々の影を曖昧にしている。
ワトソンは紅茶を手に、しばらく黙っていた。そして浜崎は、いつものように姿勢を崩さず、ただ遠くの霧を見つめている。
「……眠れていないね、浜崎さん」
唐突なワトソンの言葉に、浜崎はわずかに目を瞬かせた。
「医者というのはね、人の沈黙を診ることもあるんだ」
浜崎は否定しなかった。ただ、静かに息を吐いた。
「私は……大丈夫です」
「強い人ほど、そう言うものだよ」
ワトソンはティーカップを置きながら続けた。
「でもね、強い人ほど、時には誰かに強さを預けてもいい。 君は、ずっと一人で抱えてきたんだろう?」
浜崎は答えなかった。 だが、その沈黙は、否定ではなかった。
そのとき、玄関の戸が開く音がした。
「ただいま戻ったよ、ワトソン」
ホームズの声だった。 家城警部と別れたばかりなのだろう。 彼は帽子を脱ぎながら、まっすぐ浜崎の方へ歩み寄った。
「浜崎君。そちらへ座りたまえ。少し話をしよう」
彼女は正座をして座った。 その表情には、覚悟のようなものが宿っていた。
「この事件の犯人は、君とは決定的に異なる」
ホームズは、淡々と、しかしどこか柔らかい声音で言った。
「君がかつて犯したのは、恐怖と混乱のただ中での“過ち”だ。 自分を守るための反射であり、そして……その後、君は自らの行為を背負い続けた」
彼は、浜崎に少し顔を近づけた。
「だが今回の犯人は違う。 彼は冷静で、計画的で、そして何より――残酷だった。 病を“利用”し、苦しむ相手を前にしても、一片のためらいもなかった」
ホームズの瞳がわずかに細くなる。
「君の行為は過ちではある。だが、今回の犯人のような悪意とは違う」
「今回の犯人の行為は“悪意”であって、“罪”を自覚すらしていない。 この二つを同列に扱うのは、論理の破綻だ」
浜崎は小さく息を呑んだ。
「そして、もう一つ。 君は少女を止めようとした。 自分の過去を思い出しながらも、だ。 それは、君が残酷な人間ではないという、何よりの証拠だよ」
ホームズは、ほんのわずかに微笑んだ。
「人は、自分の影を恐れるものだ。 だが君は、その影に飲まれなかった。 それだけで十分だ」
浜崎は、初めて目を伏せた。 ただ、長く張り詰めていた糸が、静かに緩むようだった。
「さて、話しは終りだ。浜崎君、ワトソンに、彼が“文化的衝撃”と呼んでいる、センチャを淹れてあげてくれたまえ」
「ホームズ……!」
浜崎は思わず吹き出した。
終わり




