第一章:「癒えぬ傷痕」
浜崎愛理は傷ついていた。
富士屋ホテルの一室で、自らの手で想い人を死へ追いやってしまったこと。
そして、恋人との心中を選んだ少女を止めることができなかったこと。
その二つの出来事は、彼女の心に深い傷を残していた。
――少なくとも、それを知る者にはそう見えた。
もっとも、浜崎本人はそんな様子を微塵も見せなかった。
朝になれば食事を用意し、掃除をし、洗濯をする。ホームズとワトソンの身の回りの世話を、以前と変わらぬ手際でこなしていた。
だが、それがかえって痛々しかった。無理をしていることが、あまりにも明白だったからだ。
ホームズもワトソンも、そのことには気づいていた。
二人は何も言わなかった。いや、かける言葉を見つけられずにいた。
ただ黙って見守ることしかできなかった。最近、ホームズの皮肉や軽口が目に見えて減ったのも、決して偶然ではないだろう。
そんなある日の午後、古民家の引き戸を叩く音がした。
現れたのは家城警部だった。
「ホームズさん。少し手を貸してほしい」
そう言いかけたところで、家城警部は台所に立つ浜崎の姿に気づいた。
「あっ……浜崎さんもいるのか」
わずかに言葉を詰まらせる。
浜崎は何も言わず、湯呑みに茶を注いでいた。
「何かあったのかね?」
ホームズが煙草を置いた。
家城警部は小さく咳払いをした。
「昨日、引退した大物政治家が亡くなった。隠居先の別荘でな」
「ほう」
「死因は心臓麻痺だ。表向きはな」
そこで警部は言葉を切った。
「……現場の状況が、少し妙なんだ」
沈黙が落ちる。
台所では、茶を注ぐ音だけが聞こえていた。
「妙とは?」
「その……」
家城警部は一瞬だけ浜崎を見た。
その視線の意味を理解したのか、ホームズの目が細くなる。
「なるほど」
その時だった。
茶を運ぼうとしていた浜崎の手が、ほんのわずかに止まった。
だが次の瞬間には、何事もなかったように歩き出す。
家城警部は気まずそうに視線を逸らした。
「それと、もう一つある」
「何かね?」
「警察じゃどうにもならない代物が現場に残されている」
ホームズの眉が僅かに上がった。
「面白い」
「詳しい話は現場でさせてくれないか?」
ホームズは立ち上がった。
「いいだろう」
そして帽子を手に取ると、今度はワトソンへ視線を向けた。
「ワトソン」
「何だね?ホームズ」
「今回は君に残ってもらいたい」
ワトソンが怪訝そうに眉をひそめる。
ホームズは答えなかったが、一度だけ浜崎を見る。
それだけで、ワトソンは察した。
そして静かに頷いた。
「ああ、分かった」
ホームズは満足そうに帽子を被った。
「では行こうか、家城警部」




