第七十七話 魔女の伝承
申し訳なさそうに俯くオレスティアを、唖然と見返す。
実母のことを、名前しか知らないなどと言うことがあるのか。
孤児ならばわかる。両親を知らぬ孤児など、別に珍しくもない。
だがこんな、名家のご令嬢があり得るのか。
普通、娘に母親のことくらい教えるだろうが、とは思うが、侯爵が決して普通ではないことを思い出す。
侯爵は本当に、親として最低だな。――否、人として、か。
「アラディア、だなんて――また随分と御大層な名前ね」
はう、と嘆息したのはルシアだった。オレステスと同じ理由で愕然としたのではないらしい。
「なんだ、知ってんのか?」
「女神サマの名前よ。ごくマイナーな、ね」
「知らねぇな」
「言ったでしょ、マイナーだって」
首を捻ると、ルシアは呆れたように続けた。
「ごく一部の信仰だしね。端的に言えば、魔女が信仰する女神サマよ」
「――魔女?」
なじみのない単語だった。オウム返しに問うと、ルシアが肩を竦める。
「魔術を使う女のことよ。どちらかと言えば呪術とか黒魔術とか、ほの暗いヤツ。蔑称みたいなものだから、一般的には使われないけど」
なるほど、一般的ではないから聞きなじみがないのか。
要するに、呪術を専門的に行う女魔術師、魔導士ってことかなと、なんとなく理解する。
「――そういえば」
ふと思い出したような口調でルシアが言う。
「この国には魔女の伝承があるみたいね。国境のあたりの森に――って。今日読んだ文献にあったわ」
「ああ、それなら私も、読んだことがあります」
ルシアに触発されて記憶を辿ってでもいるのか、左上を眺めながらオレスティアは呟くように言った。
「あんな森の奥深くに、そのような集落があるなんて到底思えなくて――それで覚えていました」
物言いから鑑みるに、オレスティアはその伝承とやらに懐疑的らしい。
たしかに、森の奥に魔女の集落があるなどとは、どこぞのおとぎ話のようだ。疑ってかかるのも無理はない。
だが、おとぎ話や伝承がバカにできないことは知っている。少なくともそこに、元ネタとなるようななにかがあった可能性はあった。
「なぁその伝承の森ってのは、どの方向の国境沿いにあるんだ?」
「辺境伯の領地内ですね」
「お、ラッキーだな」
思わず声が洩れる。オレスティアはきょとんと首を傾げた。
「ラッキー?」
「魔女伝説があるとこの近くなんだろ?」
国境とは、文字通り国の境だ。ぐるりと国を囲う境の、どの方角かは重要である。
近くとは言いがたいばかりか、正反対の方向である可能性もあるのだから、目的地の領内であるのは幸運としか言いようがない。
「もし仮に伝承が本当なら、魔女なんて呼ばれ方するくらい魔術に特化してる専門家が集団でいるってことじゃねぇか。もしかしたらこの入れ替わりの前例や、戻し方を知ってるヤツだっているかもしれない」
「――っ!」
「ま、本当にいたとしても協力を得られる保証はないけどな」
軽く首を竦めて、締めくくる。
入れ替わりが起こったのはオレスティアの感情によるものだろうとの推測は、あくまで推測にすぎない。原因は他にあるかもしれないのだし、仮に感情に起因するとして、なにか発動するためのスイッチがあった可能性もある。
現状が変わらない以上解決策は望めないが、解決を諦める気はない。
可能性を求めて行動しないのは、愚かだ。
オレスティアはオレステスを見て、それからルシアへと視線を移し、ゆっくりと頷いた。




