第七十四話 すりこみなのか物好きなのか
「――いくしっ」
「ちょっと、汚いわね。オレスティアさんの体でやめてよ、品がない」
なにやら急激に鼻がむずっとして、盛大にくしゃみをしてしまう。とたん、思い切り嫌そうに眉をひそめたルシアに怒られた。
理不尽だな。
ぷぅっと頬を膨らませて、オレステスも反論する。
「しょうがねぇだろ、生理現象なんだから」
「それにしたって、少しは控えなさいよ」
「けどよ、変に我慢して中途半端だと気持ち悪いじゃねぇか」
「うーん、まぁわからなくもないけど……」
コンコン。
少しトーンダウンしたルシアがなにやら言いかけたとき、ノックの音が聞こえた。
「えっと――私、です」
「どうぞ」
思わず、くすりと笑ってしまった。
言いよどんだのは、オレスティアとオレステス、どちらで名乗ればいいのかと迷ったせいだろう。
外では誰が聞いているかわから奈から、堂々とオレスティアという訳にはいかない。
けれど「本物」のオレステス相手にそう名乗るのも気が引けたのだろう。生真面目なオレスティアらしい。
会釈してルシアの隣に座ると、はうーと長いため息を落とす。
「なんか疲れてんな、オレスティア。鍛練、無理してんじゃねぇか?」
護衛として「オレステス」がついてくる以上、本人の身体反応だけではなく意思で動かせるようになっていた方がいい。
強いに越したものもないのだからと鍛練を続けてもらっているが、もしそれが過度な負担となっているのならば、考え直す必要がある。
「あ、いえ、それはありません。むしろ楽しいです」
心配から出たオレステスの問いに、オレスティアは意外な返答をする。
「――楽しい?」
「はい! 実は鍛練の途中で、アレクサンドルに手合わせをお願いされまして」
「――は? 大丈夫だったのかよ」
負けるともちろん大問題だが、勝っても――というか、うっかり怪我でもさせていたら大ごとだ。
そろりと尋ねるオレステスに、オレスティアはにっこり頷いた。
「もちろん、勝ちました!」
やけに嬉しそうな笑顔で続けられた。
「オレステスさんの腕力、凄いです! ズバァァンって、木刀を叩き折ってしまいました!」
いや、どんな力の入れ方してんだよ。
心の中でツッコむ。
叩き折って「しまいました」と言っているくらいなのでは、意図的ではないのだろう。
もちろんオレステスの腕力なら容易にできるが、普通、手合わせではそのようなことにはならないのだが。
考えかけて、気づく。
そうか、力の使い方がわからないから、加減もできないのか、と。
つよくなるばかりではなく、そちらも少し教えた方がいいかもしれない。加減ができるようになれば、効率の良い力の入れ方もわかる。
「強いって、とっても素敵ですね!」
目をキラキラさせて語るオレスティアに、ちらっと苦笑が浮いてくる。見ると、ルシアも面白がるような、困ったような顔で笑っていた。
「ただ、お二人と離れている間にあったのがそれだけではなくて」
はう、と嘆息する顔が、入ってきたときと重なった。
「口説かれたんです、お義母さまに」
「――は?」
ルシアとオレステスの声が重なる。
「勧誘、とは仰っていましたけど。侯爵家に仕えないかと。けれどどう見てもオレステスさんに関心を持っている感じでしたし、誘惑の方がしっくりくるなと」
「げっ」
ルシアは思い切り顔を顰め、オレステスは声を洩らす。
「あのババァそんなこと――気色悪っ」
実際に自分が迫られたわけではないが、「自分」が色目を使われたと思えば、やはりいい気はしない。
「けど大丈夫かよ、オレスティア。お前、あのババァにイヤな目に合わせられてたんだろ」
デリカシーのない質問だとは自覚している。だが心配になり、問わずにはいられなかった。
オレスティアの顔が曇ってしまうことも覚悟したが、当の本人はけろっと言ってのけた」
「それは大丈夫です。たしかにいい思い出はありませんし怖いと思っていたことも事実ですが――でも、気づいたんです。自分が強かったらあんな人、恐れる必要なんかないなと」
オレスティアの言う「自分が強かったら」は気の持ちよう、ということだろうか。
だが口ぶりや先程のアレクサンドルとの出来事を話す語り口を考えると――
「ちょっとヤだ、オレスティアさんがオレステス化してる……?」
心底嫌そうに言うルシアと、オレステスも同じ感想を抱いていた。
それを受けて、オレスティアはくすくすと笑う。
「オレステス化って……入れ替わって随分経ちますし。もうかなり、私もオレステスさんの体に馴染んだ気がします」
ルシアの言いたいことはそうじゃねぇんだけどなと、口には出さずに思う。
「ただ、思ったんです。こんなにモテてたんじゃ、オレステスさん、大変だっただろうなと」
「――――は?」
またしても、オレステスとルシア、二人が同時に間抜けな声を出す。
「おれが? モテ?」
「ないない」
アホの顔になっていることを自覚しながら呟くオレステスに、ルシアがパタパタと手を振った。
そしてそれに、オレステスも同意する。
「悲しいけどそういうこった。正直、女にモテたためしはない。あのババァが変わった趣味――ってか、周りにいないタイプだから物珍しかっただけだろ」
ソファに座り、組んだ足に肘を預けて頬杖すると、オレスティアがかたんと首を傾ける。
「そう、ですか? 素敵だと思いますけど」
正直者の顔で言われて、片眉を上げる。
「ありがとよ。けどそれ、なんかのフィルターかかってるだけだぜ」
「……トリのヒナと一緒じゃない?」
困り眉で、ルシアが言う。
「初めて優しくしてくれた男が、めっちゃよく見えてるだけ、みたいな」
「ああ、それだそれ」
ルシアのたとえは、オレステスの中ではとてもしっくりときた。うんうんと頷きながら同意を示す。
「――そう、でしょうか?」
それでもオレスティアは納得いかなさげに呟くので、つい、苦笑が洩れた。




