第七十三話 思いもよらぬ提案(オレスティア視点)
躍動する筋肉は素晴らしい。
覚えた感動は一入で、改めて鍛えることの意義に目覚めたオレスティアが、邸内を歩いているときだった。
「ちょっと待ちなさい」
調べ物を終えたら、オレステスはルシアの与えられた部屋にいると言っていた。合流すべくそこに向かっていたのだけれど、声をかけられて立ち止まる。
振り向かなくても、誰なのかはわかった。
「お――侯爵夫人」
お母様と呼びかけて、とどまる。
怖い。
咄嗟に浮かんだ感情はそれだった。
幼い頃から幾度も罵られ、手も上げられてきた。実害があった分、侯爵相手よりも恐怖心は募る。
侯爵やアレクサンドルがいる前では叩かれたことはないけれど、こうやって二人きり、しかもわざわざ呼び止められるなど、悪い記憶ばかりが思い出された。
いや、今はオレスティアではない。オレステスだ。まかり間違っても手を上げられることはないだろう。
「なにかご用でしょうか」
礼をするふりで頭を下げるのは、顔も見たくないからだ。
けれど。
「率直に言うわ」
つい、と扇の先で顎を上げさせられた。
目の前にあるのは、侯爵夫人の笑顔。ニッコリというには、どこか邪悪なものが感じられる。――気のせいでなければ。
ドキドキと、嫌な感じで心臓が高鳴った。
そういえばと、侯爵夫妻に事情を説明したときのことが頭に浮かぶ。
話を聞いている間、そして部屋を出て行くとき、侯爵夫人はなにやら意味ありげな視線を「オレステス」に向けていた。
まさか、オレステスとオレスティアの入れ替わりを疑っているなどということはないだろう。そのような非常識なことを考えるはずは、まずない。
けれどアレクサンドルは、「オレステス」相手に初めて会った気がしない、と言っていた。
侯爵夫人とアレクサンドル、関わり方はともかく、オレスティアと接する時間が長かったのは侯爵夫人だ。もしかしたら、なにかに勘付かれた可能性もあるのではないか。
幼い頃からのトラウマと、秘密がバレるのではないかという懸念、両方を抱えたまま胃がキリキリと痛む。
「あなたを勧誘しようと思って」
「――勧誘?」
発せられた言葉は、予想の範疇外だった。眉をひそめ、オウム返しに問う。
「そう。あなた、侯爵家で雇われる気はない?」
気はない? と聞かれれば答えは簡単、絶対に嫌だ。
だがなぜそのようなことを言い出すのか、魂胆が読めない。
たしかにオレステスの戦う技術は一級だろう。
だが侯爵家は今のところ、戦争に駆り出される予定も、誰かに狙われているということもない。別に腕利きの人間を今更雇い入れずとも、今いる護衛たちだけで充分だ。
「あんな小娘の護衛騎士なんかより、私についた方がイイ思いができると約束するわ」
流し目つきで嫣然と笑いかけられて、ああ、と得心する。
オレステスさんの容姿が気に入ったのか。
ただ単純に好みの男を傍に置きたいだけか、それともそれ以上を望んでいるかはわからない。
ひとつ言えるのは、どちらにせよ下品な話だということだ。
――こんな矮小な女を怖がっていたのか。
とたんに、すべてがバカらしくなる。
もしかしたらなにか勘付かれたのではないかと戦々恐々としていたことも、継母とはいえ親なのだから敬わなければならないはずだと思いこんでいた気持ちも。
そういった、幼い頃から植え付けられていた恐怖心さえなければ、こんな女、どうとでも対処できる。
オレステスの体ならばもちろん、オレスティアの体であってもきっと容易に殴り倒せるはずだ。
「せっかくのお申し出ですが、ご遠慮申し上げる。辺境伯に忠誠を誓っておりますので」
失礼。
今一度頭を下げると、もう後ろも見ずに立ち去る。なにやら背後で言っている気もするが、もはやなんとも思わなかった。
強さというのは、やはり大事なのだろう。
物理で対処できると思えば恐怖は薄れるし、なにより自信につながる。
それにしてもと思うのは、オレステスのことだった。
中身がオレスティアでこれなら、あれだけ優しくて面倒見のいいオレステス本人ならきっと、もっとモテたのだろう。
ふと、街中で変な連中に絡まれていたルシアのことも思い出される。あれと同様なことが起こっていたのかもしれない。
オレステスさん、大変だっただろうな。
――可哀想。




