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大原のこのいち柴の
志貴皇子の御歌一首
大原の このいち柴の 何時しかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
(巻4-513)
大原の、このいち柴という名前のように、いつの時に貴方に逢えるのかと思い焦がれてたけれど、今夜逢うことができた。
※大原:奈良県明日香村の大原。
※いち柴:美しく育った灌木
いち柴の「いち」と、何時しかの「いつ」と掛けている。
美しい貴方に、「いつ」お逢いできるだろうかと、恋い焦がれていた。
そして逢う、つまり共寝ができた、その夜にうちくだけた冗句として用いている。
志貴皇子は、天智天皇の第七皇子。
光仁天皇の父にして、現在の天皇系が天智天皇系であるので、遠祖となる。
壬申の乱のときはまだ幼かったために敵方の皇子でありながら命を奪われなかtった。そんな危うい境遇にあったので、天武・持統天皇の治世下で皇族としての高い地位などを求めようとはせず、ひたすらに目立たぬ生き方を貫いたとされる。
光仁天皇の即位に伴い、春日宮御宇天皇と追尊、また墓所の名にちなみ、田原天皇と尊される。