僕はそう決めた
ぱちりと目を開ける。睡眠中独特の体温の上昇によるものか、温かだった空気が肌を覆うのをやめる。
寝ぼけているわけでもないが、ほんのわずかな夢の形跡を消すように、暗闇の中で僕は肩を上下させて溜息をついた。
今し方見た夢を、反芻する。
嫌な夢。そして懐かしい夢だった。
もはや別人としか思えない僕と、前世の妻、頼子さんの話。
思い返す度に、上質なとろみのある美味しいスープを飲んだときのような気持ちになる。
前世の僕は、頼子さんが好きだったのだろう。思い返せる分の記憶をかき集めてみても、そうだ、確かに嫌う要素のない女性だ。きっと、今の僕の目の前にいても好ましい人物。
僕と同じく、本が好きだった。料理が上手というわけではなかったが、たまに家政婦がいない日は美味しい料理を振る舞ってくれた。機嫌悪い姿を見たこともあるし、僕の言葉で怒らせたこともあっただろうが、それでも人に当たり散らす性分ではなかったと思う。
好きだった。多分、僕の初恋の人だったのだろう。
そして、結婚した後に気が付いた。気が付いてしまった。彼女には好きな人がいた。多分、僕の知らない。
もうずっと昔のことだし、もう遠い世界の出来事だ。違う世界の違う時代の話。僕が何歳まで生きていたのかは覚えていないが、老年まで生きているならば、仮に享年六十歳でも今から四十年以上前の話。
もうどうにも出来ない話。母の話からすれば、きっと僕は頼子さんを生涯幸せには出来なかったのだろう。動かぬ足を言い訳にして、幸せにする努力を放棄していたのだろう。
でも、幸せにしたかった。僕が貴方を幸せにします、と胸を張って言ってみたかった。
夢の話だ。
それに、夢というものは覚めた瞬間にほとんど記憶から消えてしまうものだ。きっと僕が今覚えている夢の話も、その体験した十分の一にも満たない分だけなのだろう。
でも、確信出来る。細々とした記憶違いはあるかもしれないが、これはきっと僕の記憶に残っているものだ。荒唐無稽な作り話でもなく、実体験としてあった話。
「……似てる、かな」
目を開けて、僕は背もたれに背を預ける。やや斜め上を向いた視界の中で天井は、月明かりすら届いておらず、暗い。
僕は似てると呟いた。思わず。
だが、その主語が一瞬わからなかった。状況のことだろうか。それとも、人だろうか。だとしたら、誰が、誰とだろうか。
頼子さんが、誰かにだろうか。
たしかに、誰かに似ていると思う。いいや、もう認めよう。前世で言うなら西洋人と東洋人という種の違いはあるだろう。でも多分、髪の色も声も、頼子さんとルルは。
いや、違う。ルルは料理上手だが、頼子さんはそうでもなかった。頼子さんは人付き合いが不得意でもなかったが、ルルは人好きされるタイプでは多分ない。
いいや、違わない。
僕は僕の考えをすぐに否定する。目を背けそうになって、慌てて戻すように。
彼女らは似ているのだ。髪の色や声に性格など、そんなことじゃなくて。
その、境遇が。
他に好きな人がいるのに、そうでもない人間と結婚させられるという一点において。
そして同じだ。
僕が、その様を見て何も出来ない無力なままでいることに関しても。
何故、僕はこの依頼を受けたのだろうと以前考えた。オトフシにもからかい混じりに聞かれた気がする。
レグリス・ザブロックからの依頼。娘を守ってくれとの願い。それを断ったら、僕が嫌な気持ちになるからと。
何故だろう、とあの時わからなかった。事実、今でもきっとこれは推測だ。
僕は、見捨てたくなかったのだ。ルル・サンディアを。
僕がこの手でこの世界に連れてきた少女を。
この王城で、僕は色々なことを我慢してきた。
ルルに迷惑を掛けたくないと思った。
ザブロック家に迷惑を掛けたくない、と言い訳してきたが多分真実は違う。
僕は、ルルに迷惑を掛けたくなかった。本当はきっと、レグリスなどどうでもよかった。
勇者を羨ましいと思った。
目標に向けてひたむきに努力し、自分だけの魔法を得た彼を。
そして、いつかはルルと結婚するであろう彼を。
眼鏡のずれを直し、僕は俯く。
どこからだろう。そして、何故だろうか。頼子さんに似ていたから、などという両方に失礼な理由はつけたくないし、本当にそうだったら僕は僕に更に幻滅するけれども。
前、ルルと勇者が目の前の机で談笑していたとき、何故割って入らないのかとオトフシには何度も言われた。
出来ない理由はあっても、する理由ならいくらでも用意出来るからと。
たしかにそうだ。僕には邪魔をしたいと思う理由があって、やはりその気はないと自分に嘘をついていたのだと思う。
勇者にルルの好きな物を問われたとき、答えられなかった。
本が好きということは知っていたのに。料理が得意で好きということも知っていたのに。何も知らないフリをした。まだ知り足りないと思ってしまった。
僕は知らなかったんじゃない。勇者にそれを教えたくなかったのだ。
ルルが何に悩んでいるかをおぼろげに聞き、僕はレイトンから得た大事な権利をその解決に使ってしまった。もしもそれを有効に使えば、そして僕のために使えば、もっと何か良いことが出来たはずなのに。
良いことが出来たはず、と思っても、今以上に良い使い方が未だに思い浮かばない。彼女の顔が曇っているのが、とてもとても残念だから。
見たいと思ってしまった。
今の、陰りある笑顔ではない。十年近く前の、迷子のルルを母親と会わせたときに見せてくれた楽しげな笑顔を。
…………。
全ては遅かったのだ。
仮に僕が『それ』を手に入れたければ、三年前に気付くべきだった。
オルガさんからの初回のプロポーズにも、二回目のプロポーズにも僕は心が動かされなかった。
彼女はもちろん嫌な人間ではない。
十人いれば十人は振り返る美貌に、僕相手でも会話を続けられる話し上手。頭も回り、礼儀作法も備えて実家は国有数の大店。そんな外面的な能力はもとより、話している間に感じられた内面も非の打ち所はなかった。
むしろ、僕の出会った人間のうち、好ましい方から名前を挙げていけばすぐに出てくるだろう。彼女のような人間ばかりなら、きっと僕もこの国を嫌いにはならなかった。
だがそんな彼女のプロポーズにも、僕は心動かされなかった。
その理由。
どこからだろう。そして、何故だろうか。頼子さんへの僕の恋の始まりは、伊豆山神社を訪れたときと僕は知っている。
だが、ルルへ対しては、どこだろう。僕は知らない。
でも、確実に言える。
きっと前世と同じ、これが今生の僕の初恋だったのだろう。
多分僕は、ルルのことが好きなのだろう。未だに多分とつけてしまうが。
僕はもう一度溜息をつく。
野狐にやられたにせよ、甘露にやられたにせよ、またはその他の要因にせよ、発狂というのは大抵長くは続かない。
仮に何かしらの精神疾患を患ってしまったとしても、周囲のケアがあれば大抵の人間はそれで上手く問題なくやっていける。そしてそのケアをするのは、それに慣れた魔術師団、もしくは一等劣るようだが治療師団。
きっとこれからも、もう問題なく事は進んでいくだろう。
わずかに瑕疵は出来てしまったが、勇者は問題なく勇者で、そして国は全面的にそれを援護する。
ルルと勇者は結婚する。この滅びに向かっている国で。
このまま結婚を許せば、ルルはこの国に留まることになる。
そうすれば彼女の運命は国と共にあり、そしてこの国は滅びる。レイトンの予測は多分外れまい。何せ今のこの国には、プリシラがいるのだから。
ルルを勇者と結婚させたくない。
そう考えれば、大義名分にはなるだろう。この国に留まった彼女の運命は明白で、僕が守り続けるにしろ限界があるし、そして何より勇者と結婚したルルの姿は見ていたくない。
ルルを勇者と結婚させたくない。彼女の命や尊厳を守る気ならば。
でも、そう言い訳もしたくない。
そんな理屈ではない。仮にこの国が勝つ戦争だとしても、ルルと勇者の結婚は見たくない。
ならばその大義名分は、単なる言い訳に過ぎないだろう。
ルルと勇者の結婚を見過ごすか、抵抗するか。
もちろんこの国では勇者の意見の方が通るだろう。見過ごす理由も、見過ごさなければいけない理由もある。
だが、同じくらい、それに抵抗する理由もある。大義名分はそのためにある。
する理由もしない理由も無限に用意出来る。
ならば僕は好きな方を選べばいい。選ばなかった方の不利益は必ずある。
勇者の話の邪魔をすればよかった。勇者と僕が会話する理由もあった。
ルルが、馬車から降りる手を取ればよかった。警護の仕事と言い張れば。
頼子さんの袋の中身を聞けなかった。
聞いていれば、相手がわかっていれば、その相手と暮らさせる手ぐらいいくらでもあっただろうに。
彼女が幸せになるのなら、そのくらいの努力は僕にだって出来ただろうに。
前世では失敗した。
だが、今生では同じ失敗を繰り返したくない。繰り返してなるものか。
決めた。
今回の依頼の最終目標は、ルルの結婚を阻止すること。
それも、彼女の立場を悪くせず、ザブロック家には何の瑕疵もないままに。
そして戦後も、彼女の身が安泰なように。彼女が自由に今後を選べるように。
僕はそう決めた。
どうか、彼女が、今後の人生も幸せでいられるように。
僕の好きな人が、好きな人と結婚出来るように。
…………ならば、どうすれば?




