閑話:選択は君次第
既に見慣れた天井を見つめながら、ヨウイチはまんじりともせずに夜を明かした。
傍らに座り込んでいるのは治療師、現在はその一人の若い女。数人が入れ替わり立ち替わり見守っているが、それ以上の手出しは出来ていなかった。
沈静香のやや辛味の混じった甘い匂いがヨウイチの喉の奥を乾かすようにくすぐる。
部屋の隅からは寝息が聞こえ、いつの間にかマアムが寝ていたことを示していた。
身体が重い、とヨウイチは述懐する。身体だけではない。身体が重いだけならば、剣術の訓練で散々慣れている。腕が上がらなくなるまで木剣を振り、足が持ち上がらなくなるまで踏み込みの練習をした。
だが、これはそういった種の重さとは違う。
たとえて言うなら、精神性の重さ。不得意な試験科目を延々と復習したときのような。
腕が持ち上がらない。持ち上げる気になれない。身体が起こせない。起こす気になれない。
何もかもが嫌になった。そういった言葉が浮かんだが、それを否定する材料がヨウイチの中には残っていなかった。
もう全てが嫌になった。全て無意味だった。この城で培った魔術の授業も、今までの人生で歩んできた剣の道も。
恋の病とは青少年にとって往々にして深刻なものだ。
生活の一部という時間を奪い、思考力を奪い、意思の力まで奪う。そして病状が悪化すれば命を奪うこともある。勇者たちの世界でも、恋の病が原因で、袖無しの胴着を身につけ拳銃で頭を撃ち抜く事件が相次いだことすらある。
病というのも言い得て妙で、流行りもあれば人によっては免疫まであるため、皆軽々に考えてしまうが、本来はそんな深刻な。
全部無駄、というヨウイチの思考が、どこからか声になって聞こえてくる。
自分の声やマアムの声。それにカラスの声、ルルの声。様々な声が、ヨウイチを追い詰めるように響く。もちろん、その出所はヨウイチの頭の中なのだが。
昨日のルルが関わる騒動。手を引かれるカラスの姿。それを思い浮かべて劣等感がまた頭の中でモグラのように顔を出した。
カラス。味方だった男。
彼はきっと全てを持っている。
ベルレアン聖騎士団長とも互角と言われる腕前を見れば、ヨウイチが得たかった剣の腕を既に持っている。
ヨウイチがようやく得たはずの魔法の力を悠々と扱う。
部活と道場だけで生きてきた自分が持ち得ない話術も卓越し、この世界独特の医術とも思わしき本草学という学問でも人から頼られるほど。
自分と違うところばかりだ、と考えたヨウイチの口元が笑みを浮かべる。しかし天井を見つめる目は瞬きの一つもなく、微動だにしなかった。
カラスは、自分にはない全てを持っている。おそらく年下の彼が、自分の欲しかった全てを。
ルル・ザブロックも含めた、全てを。
今までの人生は無駄だったのだ。
何を頑張ってきたのだろう。人も殺せない剣か。得意な科目など一つもない勉強か。何一つ成していない。自分は何一つ、カラスに対して誇れるものがない。
いったい今までの人生は何だったのだろう。
自分は勇者というらしい。
勇者といわれているらしい。自分が勇者であるなどと、一度でも名乗ったことはないが。
だが勇者である気はしない。勇者であると思ったことはない。そもそも何が勇者なのだ。魔王も既に倒され、邪神もいないこの世界で。
先代の勇者は優秀だったとミルラやマアムに何度も聞いた。
召喚されてすぐに魔法を簡単に扱い、すぐに闘気も身につけた。
敵は魔物の国を作ろうとした魔王と呼ばれる存在。長い旅の末、その世界の敵を討ち滅ぼし、世界に平和をもたらした真の英雄。
大正か昭和か、ヨウイチの世界でいうところのそんな昔を生きた人。そうだ、確かに彼のような存在であれば、英雄で、そして勇者という称号を得ることも異論はない。
だが、自分は。
人も殺せない。剣も魔法の力もこの世界の人間に劣り、役立つ何かしらの知識を伝えることも出来ない。
先代勇者の絵は見事だった。先代勇者はきっとそういった教養までも持ち、『文化人』という顔も持つのだろう。
なのに自分は。
ヨウイチの視界の外側から、黒い何かが這い出してくる。
黒く濃い霧のような、煙のようなその何かは液体のような質感で、身体から染み出すように立ち上った。
「……勇者様!」
魔力により喚起されたその現象は具象化され周囲にも見えた。横で控えていた治療師はその異様な光景に慌てて立ち上がり、法術を使おうとヨウイチの手を握る。
だが、何を使えばいい? 気付けか、それとも鎮静か。そんな迷いに治療師の動きが止まった。
治療師が戸惑いを隠すように首を振る。
どうすればいいのだろうか。彼の病状を確認したヴァグネル魔術師長に、勇者は野狐にやられたと聞いている。だが、その対抗手段は。
『野狐にやられた』。ヨウイチの世界では禅病とも呼ばれるそれ。聖教会にはそういった知見の蓄積が足りない。
元々精神というのは聖教会の管轄外だ。精神に関する技術もないわけではないが、そのほとんどが禁忌に属する。脳の一部に傷をつけ、精神を操作するという禁術に至っては、手を出しただけで破門されるようなもの。
しかし、今勇者の手当は治療師が行う。
勇者の手当は治療師たちが携わると、ジュラ治療師長が王城魔術師団から権利を奪い取っている。
そして詳しい方針はジュラ治療師長も交えて現在別室で協議中。
ヴァグネル魔術師長は頼れない。勇者が倒れた原因、というもっともらしい理由で現在勇者と関わる場から排斥されている彼には。
……とりあえず鎮静だろうか。昏睡させてしまえば魔力の影響は最小限に収まる。ならば、そのように。
「命ず命ず命ず……」
治療師が祝詞を唱え、ヨウイチの意識を奪いにかかる。
ヨウイチの視界が黒い霧に覆われたように真っ黒に染まる。それから、自らが瞼を閉じたことすら感じることなく、また深い眠りに落ちていった。
ヨウイチが次に目を覚ましたときには、辺りは昼の陽光に包まれていた。
部屋の一面に開けられた窓からはちょうど光が入り込み、ヨウイチの身体を間接的にだが温かく照らしている。
じんわりとした光で、眩しいわけではない。だがその光が目に染みて、ヨウイチは目を細めて呻いた。
「目が覚めたね」
そして聞こえてきた声。治療師が近くにいるのは何となく知っていた。マアムが部屋の隅で待機していることも知っていた。だが、その二人ではない。
その上で、聞こえてきた声がどんな女性から発されたかを知っている。聞いたことがある。優しげで、包み込むような艶を持つ声。
眩んだ目を瞬きで慣らし、瞼の向こう側で微笑む女性を見る。金の髪を隠すフード付きの白いローブ。細められた目の中に見える瞳は青い。
「……プリシラさん、でしたっけ」
「覚えていてくれて嬉しいよ。オギノ様」
傍らに座っていたプリシラの声に、ヨウイチはわずかに眉を顰める。
印象が違う。声と、表情と、そこから発されている雰囲気との間に齟齬がある。そんな気がした。
ヨウイチが身を起こして周囲を見渡す。部屋の隅にマアムはいた。だが、それ以外には……。
「あの、治療師の人は……」
「席を外してもらった。お願いしたら、快く外で待機してくれたよ」
プリシラの表情は優しげだった。そして憂いを帯びている。
何も事情を知らない十人の人が彼女を見れば、少なくとも八人は何も疑わず『病人のお見舞い』という印象を持つだろう。そして残りの二人も、訝しげに思いながらも納得するだろう。そんな見事な心配の表情。
だがヨウイチの違和感は消えなかった。
笑みを浮かべている。だがその笑みは、愉しんでいるようにも見えた。
「何かご用でしょうか?」
「用といえば用だけど、そうじゃないといえばそうじゃないかな」
では、何だ。そうヨウイチの瞳がほんのわずかに訝しげに動く。
プリシラはそれを見逃さず、『ああ』と内心嘆くように納得した。
魔力とは、感受性だ。
魔法使いに限らず、魔術師も含め、魔力使いたちの多くがそれぞれ違った特異的な感覚を備えている。魔物使いが鳥獣の言葉を解することも、魔法使いの治療師が人体内部を精密に観測することも、それに関連した能力だというのが魔術ギルドの現在の公式見解だという。
勇者は自分にわずかに不信感を抱いている。自分の何かしらの態度か仕草から。
そう確信したプリシラは、自分の真摯な思いを伝えたいと口を開いた。
「きみが心配になってね。単なるお見舞いさ」
「……それは、どうもっす」
「廊下で倒れたと聞いたよ。言える範囲で構わない、何があったか教えてほしいな」
もっともそれは今から治療師がヨウイチから聞き取るはずのことで、そしてヨウイチが倒れたその場を見ていたプリシラにとってはほとんど既知のことだったのだが。
そっとプリシラが毛布越しにヨウイチの太ももに手を乗せる。重みもかけずに、ヨウイチにとっても触れた感触がない程度に接触する。事実、ヨウイチはそれに気が付かなかった。
ヨウイチは悩む。全て正直に話していいことだろうか。自分が不用意なことを言えば、誰かに迷惑がかかる気がする。
「…………何も……」
「何もなかったわけがないよ。大丈夫、私は客の秘密を絶対に守る。占い師だからね」
「…………」
プリシラの笑みが、ヨウイチにとっても柔らかなものに見える。ヨウイチも気付かずに、太ももに感じたわずかな温かさに緊張が緩んだ。
「……声が、聞こえたんです」
「声?」
「なんというか、俺を……俺を、馬鹿にするような……」
「穏やかじゃないね」
笑い飛ばしているわけではなく、相槌を打っている。そう全身で示しながらプリシラは笑う。
ヨウイチは自身の汗で湿った敷布を握りしめて俯いた。
「でも、そこにいたのは下女が一人と聞いたけど。まさか、その下女がそんな無礼を?」
「そんなことは……」
ない、と言い切れなかった。彼女は考えていた。何のこととはいわないが、カラスの方が勇者よりも、と。
そう、勇者よりも、と。
「…………」
「だったら誰が?」
「誰も……幻聴っていうんですか? 誰も言ってません。きっと俺が聞いただけの声で」
そうだ。自分に人の考えなどわかるわけがない。ヨウイチはそう思い直して首を横に振る。あの女性はそんなこと口にも出してないし、そう思ったのは自分が……。
「どんなことを?」
尋ねた言葉に勇者が更に表情を鎮める。その顔に笑みがこぼれそうになり、危ないとプリシラはそれを堪えた。今は信頼を築かねば、と。
「…………」
「教えてくれない、か」
プリシラは溜息をつく。天井を見上げたその顔は、無念を示す見事な演技だった。
「……すみません」
「いいんだよ、別に。言いたくないことは言わなくてもいいと言っただろう?」
ヨウイチが唇を引き締めてプリシラの言葉を肯定する。
言いたくない。それを自覚した今ならば、特に。
しかしプリシラは、だけどね、と続けた。
「幻聴というのはそうそう聞こえるものじゃないよ。何かしらの薬を使ったか、それとも余程長時間にわたって追い詰められるとかしないとね」
もしくは可愛い弟のような特殊な才能や能力があるか。そうプリシラは内心補足するが、あえてそれは言わなかった。
「辛かったんだろう?」
「…………」
プリシラの優しい言葉。それにヨウイチは頷きそうになる。しかし頷けなかった。その理由はわからなかったが。
(……前なら……辛いって言えたのに……)
言えない言葉の代わりに、目頭がわずかに熱くなった。
(何故言わないんだ?)
そして、声がした。また響く、内側からの声。聞いたことがない声だったが、それが自分の声だとヨウイチは確信した。
(何でだろう)
(そっちじゃない。カラスのことだ)
(カラスさんのこと?)
またしても響く幻聴に、今度は耳を塞がずに内心答える。それとするりと会話が成立したのが、なんとなく意外だった。
(言えばいいだろう。俺が倒れたのは、カラスが渡した薬のせいだと)
(言えるわけないじゃないか。あの薬は、俺が瞑想のために飲んだだけで……)
(だけど、あれがなかったらあんなことになってなかったと思わないか?)
(…………)
(何でお前は、そこまであいつに義理立てしてるんだ?)
けらけらと幻聴が笑う。しかし楽しげでもなく、怒りの代償行為という笑いだった。
その声に言い返せず、ヨウイチはまた黙り込む。
そんな内心との対話をしている姿を、プリシラが愉しんで見ているなど露知らず。
(あいつはお前を裏切ってた)
(違う)
(お前がルルさんとの仲を進めるのが面白くなくて、薬に何か混ぜてたんじゃないか?)
(そんなことは)
(してないと言い切れるのか。何も知らないお前が)
「私は治療師でもないし、心の問題に詳しいわけでもないんだけど」
前置きに、プリシラが口を開く。その声に応えて、見えていないはずの幻聴の仕草が、プリシラに何かを譲ったように感じた。
ヨウイチも力なくプリシラを見る。
「幻聴というのは、何も根拠がないなんてことはないんだよ。大抵の場合、それはその場で自分が見聞きしたことや、もしくは自分が考えていることが元になってるんだ」
「俺が、考えてることですか」
「そう。あまり聞かないけど、もしも幸せな心地のままに幻聴を聞けば、きっと自分を励ます声がするはずさ。そして自分を馬鹿にした声が聞こえた場合は、その逆」
「……俺が、考えてること……ですね」
言われて、知っていたはずのことなのにまた愕然とする。
わかっている。この今も響く幻聴は、自分が思っていることだ。自分が思っているのだ。カラスは信用出来ないと、そして自分はカラスに何も勝てないのだと。
「幻聴と言っていいのかわからないけれど、私も経験があるよ」
「経験というのは?」
「ここエッセンよりも遠く西方に、ウラテムという聖領がある。……聖領というのは知っているかな?」
ヨウイチはコクリと頷く。五大聖領と呼ばれる地域。マアムから、教養の基礎知識として聞いたことがある。
「そこには錆びない鉄や硝子で出来た山があるんだ」
「鉄や硝子の、……山ですか?」
「うん。草木も生えているんだけど、みんなそういうもので出来ててね。動物や魔物たちも独特で……綺麗だったな……」
プリシラは目を細めてその光景を思い出す。草木の命溢れるネルグや、潮の匂いと照りつける日差しに包まれたアウラも好きだが、そのおよそ自分たちとかけ離れた生物たちが暮らす非日常の光景も素晴らしいと思っていた。
しかしそれは本題ではない。思い直したプリシラは、小さく首を横に振ってその回想を打ち消した。
「その鉄山に洞窟があって、またその中にいくつか泉があるんだ。光が届かない暗闇の中で、付近の人たちには対話の泉って呼ばれてる、深さもわからない泉が」
ヨウイチは、かつていた世界で放送されていた洞窟探検のテレビ番組を想像する。探検家が水や泥にまみれて進み、時にはアクアラングなどを使って踏破し向かう洞窟の奥底。
「山から何か染み出しているんだろう、飲めもしないし潜ることも出来ない。でも、浮かべるんだ」
「浮かぶんですか?」
「そう。普通の泉より、アウラの海より簡単で……だからあまり潜れないんだけど」
「はあ」
浸かれば浮かび、潜れない。
ヨウイチの想像に、死海などの塩湖で読書を楽しむ姿が追加される。しかし先ほどの話では暗闇だ、楽しむどころではないだろう。
「光も届かないし、生き物なんかの姿も見えない。暗闇で無音、そんな泉の中でぷかぷかと浮かんで過ごす……一年に一度、そんな風習があるんだよね、その近辺では」
「やったんですか?」
「もちろん。初体験を求めるのはいつだって大事なことだよ」
プリシラは胸を張る。現地で話を聞いて、面白そうだとすぐさま向かった好奇心は誇れるものだ。
「そこで、その近辺の人間たちは、前の一年を振り返り、先の一年の方向を探る。真っ暗闇の中で、考え事をして一日を過ごす。面白いことにその行事を行った彼らの半数以上が、そこで幻覚を見るらしい。誰かの声を聞いたり、誰かの姿を見たり……」
「そこでプリシラさんも……」
うん、とプリシラは事も無げに頷く。あれは奇妙な体験だったと未だに思う。
声も聞こえず何も聞こえない暗闇の中。水に浮かんだために自分の重さすらも感じられず、冷たさに馴染んだ肌は水の感触すらも失った。
葉雨流の訓練で行う四禁忌の行。光無、花無、風無、音無。その追体験といってもいい。そして重力も方向感覚すらも失ったあとは、それを上回る感覚の消失。
「私が見たのは私自身。誰からも信用されずに、ひとりぼっちでいる私」
ふと、ヨウイチは気が付いた。表情は未だ柔和な笑み、なのにその笑みがわずかに悲しそうに歪んで見えたことを。
「もちろん、私はそうなる気もないし、今もそうなっているとは思っていない。でもそういうものが見えたということは、私はきっと怯えていたんだ。そうなることに」
プリシラは思い出す。ドルグワント家の道場で、父や兄、そして弟と一緒に鍛錬していた頃の自分を。
強さというのは相対的なもの。
プリシラは当時、強さを求めて鍛錬に励んでいた。自分がこの世で一番強くなれば、そうすれば、自分以外の全ての者が弱くなると信じて。
そうなれば、自分の望みの全ては叶うと思っていた。あの日、道場で自分がもっとも強いと確信出来た日までは。
「きみが見たものを私はこれ以上尋ねない。でも、その幻聴はきみの声だ。なら、もっと自分の声にも耳を傾けてあげてほしいよ。そして克服してほしい。私の善意からの願いだよ」
もっとも、その『声』はヨウイチの内面からの声だけではない、とプリシラは推察している。
ヨウイチには確かにカラスへ対する嫉妬心や、現状での精神的な負担があったのだろう。それがカラスの薬によって引き起こされた魔力の増幅により、『野狐にやられた』という状況を作り出した。
ならば状況は、『野狐』よりも『狐砕き』にやられたというほうが正しいのかもしれない。
だが、それ以外の要因がある。
魔力というのは感受性だ。そうプリシラは家で学び、そして同じ教えを受けた人物はそれを利用した。
人の感覚は五感だけではない。空気を読む、という言葉の通り、何かしらの方法でその場の雰囲気を読むことが出来る。
今の王城内では、カラスに対する好意的な空気が増えている。見目麗しく、礼儀正しい青年に対して。聖騎士団というこの国の武力の象徴に匹敵する力を持つ青年に対して。人のために尽くし、自身が汚れることも厭わず、他人の手当が出来る心優しい青年に対して。
もちろんそれが全ての理由ではないだろう。
だがなるほど。演武を勇者に見せるはずだ。カラスを王城へと招くはずだ。
可愛い弟の行動は、この空気を作り上げ、勇者を追い詰めるためにあった。
「……俺」
ヨウイチがぽつりと言葉を吐き出す。それから震える唇を押さえるように唾を飲んだ。
「まだ、聞こえるんです。あいつに勝てないって。あいつに、俺は何も……」
「あいつというのが誰か、聞いてもいいかな」
プリシラは、その誰かの素性を既に知っている。しかし、その言葉を勇者が吐き出せるか吐き出せないか。それがまた楽しかった。
「…………」
ヨウイチは毛布を握りしめる。口に出していいのか、口に出さないほうがいいのか、もはや判別が出来なかった。
だが、一つ胸に浮かんだ願いがある。
誰かに弱音を聞いてほしい。
「……カラス」
「…………そうか、彼か」
知っていた名前にプリシラは微笑む。その一声の向こうに、ヨウイチの心の檻が透けて見えた。
「俺、どうしたらいいんでしょう。このままだったら、ルルさんを取られてしまう。あいつに、あの男に」
「ルル・ザブロックのことなら心配要らないよ。大丈夫、きみなら」
「そんなわけ……っ」
声を荒らげようとしてヨウイチは堪える。そんなわけはない、もはや自分はこの競争に大差がつけられている。周回遅れ、とそんな言葉まで浮かぶ。
彼女の心は既にあの男のものだ。ならば、自分がもう何をしても……。
プリシラが、ヨウイチの太ももに置いた手に力を込める。ヨウイチは、そこで初めて手の存在に気が付いた。
「大丈夫。きみには戦争の論功行賞という強い味方がある」
「……論功行賞?」
「そう。多分、また誰かから聞くと思うけれど。戦後ね、戦争中に功績を得た人間はもちろん褒賞が出る。金品だったり、爵位だったり、領地だったり、色々と。もちろんその大抵の内容は、専門の官が決める。専門の官が戦場での活躍を吟味し、草案を作り王へと奏上する。そして王は、うん、と頷く」
王が臣下へ下す褒美。体裁はそう整えてあるが、実際にはそんなもの。つまらない、とプリシラは内心唾を吐く。
「でもね、その褒賞が決まらないことがある。その褒賞を受ける人間の立場が余りにも高かったり、または功績が余りにも大きかったりすれば、ね」
プリシラの言わんとしたことを、ヨウイチは読み取る。
要は、戦争で大きな功績を挙げて、そしてその功績でルルの身を望めというのだ。
……だが、それは。
そしてプリシラも、そんな勇者の反感を読み取っていた。
「愛というのはほとんどが幻想だ。彼女を手に入れ、そして幸せにしてあげれば、きっと全ては上手くいくよ。大丈夫、きみにはその力がちゃんとある」
「……そう、でしょうか」
ヨウイチに、それ以上考えさせまいと畳みかけたプリシラの言葉。仕草や表情、声音、その全てがプリシラの思うとおりにヨウイチの思考を操作する。
「……それとも、カラス君に勝ちたいかい? ルル・ザブロックのことは一旦置いても」
わずかに逡巡し、ヨウイチは頷く。
カラスに勝ちたい。ルルは関係なく、たしかにそうとも思えている気がした。
プリシラはそのヨウイチの態度に溜息をつく。もっとも、全て演技だが。
「……どうしようかな……」
「何をですか」
もったいつけている態度。そのプリシラの態度にヨウイチは焦れた。初めてプリシラの目を真っ直ぐに見れば、青く澄んだ瞳に射すくめられた気がして動けなくなった。
「いやね、言おうか言うまいか悩んでいたんだよ。実は直近、カラス君と勝負出来る機会がある。それも、誰の目にもわかるはっきりとした決着でね」
「俺が、勝てるわけが……」
「まあそうだろう」
ヨウイチの弱音にプリシラが同意する。同意という友好的な反応も、弱音に対しては敵対的な挨拶だ。
ヨウイチはプリシラを睨む。プリシラは両手を胸の前で広げ、それを押さえるように首を横に振った。
「勝てるわけがないよ。勝てるわけがない、なんて思っている限りは」
「…………」
からかうような言葉。自身がからかわれていたのだと、ヨウイチは気が付く。
そしてその言葉にそれ以上反応しては、相手を楽しませるだけだと本能的に知っていた。
「私はね、占い師。人の未来を占って、道を示すのが仕事だよ」
「俺は占いなんて信じてませんから」
プリシラの態度にわずかに苛立ち、ヨウイチは頑なになる。その心が動かされている、というのは自覚出来ていなかった。
「でもね、占いが何をするわけでもないんだ。占いというのは単なる道標。未来へと進むのは、占われた人たちが自分の足で行うことだよ」
占いというのはそういうもの。信じるも信じないもその人の自由だろう。プリシラは、真実そう思っていた。
「勝てるわけがない、と思っていれば勝てるものも勝てない。たとえ本当は勝てる勝負でも」
人は日々道を選び、ただひたすら前へと進んでいく。歩みを進めるのも止めるのも、どちらへ進むか決めるのも自分次第だと。
「明後日の夕、ビャクダン家とザブロック家の決闘がある」
「決闘というと、……戦うんですか?」
決闘。その言葉の意味をヨウイチは尋ねる。思い浮かべるのは殺し合い。
「そう、生死問わずの決着で紛争を収める。この国の貴族の娯楽の一つさ」
娯楽、とプリシラは言い切る。
彼女は思っていた。なんて野蛮な習慣だろう。
殺人は法を犯す行為と彼ら自身が決めている。なのにそれすらも、手段の一部として正当化する面の皮の厚さ。所詮、押し並べて人の世に暮らす者たちは血を求めている。その証左だと。
「争点は昨日の昼餐会での口論。ザブロック家側の代闘士はカラス君」
ヨウイチは唾を飲む。カラスが命の取り合いをする。その事実と、あるかもしれない結末に。
「ビャクダン家側の代闘士はまだ決まっていない……ビャクダン大公子息の召集は芳しくないみたいで」
「……それは、なんで?」
「みんなカラス君を避けちゃうらしいよ。彼は、彼の所属する探索ギルドではそれなりに有名人だからね」
プリシラの言葉は間違ってはいないが正確でもない。
正確には、避けさせているのだ。探索ギルド側が。
「それに、もうすぐ起こる戦争のために、めぼしい人間は既にどこかの家に所属している。今更集めようなんて時期が悪い」
戦闘に向いている色付き探索者は、もうほとんど自らの身の振り方を決めている。そしてそういったものが不得意な探索者には、その気はない。
残るは傭兵や魔術師たちだがそれも似たようなものだ。
「だから……」
「だから、俺がそれに出ろと?」
ビャクダン家側の代闘士として、カラスと戦う。戦え、とそういうことだろうか。
ヨウイチはプリシラをわずかに訝しむ。ならば彼女は、ビャクダン家からそれとわからないように派遣されたスカウトなのではないだろうか、と。
しかしプリシラは首を横に振る。
「そうは言わないよ。でも、そういう道がある、というだけ」
「そうでしょうか」
理性が、プリシラを信じられない、と言う。
けれども。
(戦えよ。戦えばお前は勝つよ)
(勝てるわけがないだろう、俺に)
(勝てる。じゃなかったら、お前は小さいときから何のために鍛えてきたんだ?)
幻聴が、願望がヨウイチを勇気づける。
もしかしたら勝てるのではないだろうか、と耳元で囁く。そんなわけない、と制止する理性を差し置いて。
魔力というのは、魔力使いにとっては万能の感覚器官だ。目の代わりに光を捉え、耳の代わりに音を聞き、鼻の代わりに匂いを嗅ぐ。
だがその万能器官は、身体についているものと違い恣意的な決定を行う。
見たいものを見せ、聞きたいものを聞かせる。
そして、信じたいものを信じさせる。
「もちろん、失敗もあるだろうね。もしもカラス君を殺してしまえばルル嬢には永遠に嫌われてしまうだろう。だから、痛めつけて降参させるか、気絶に留めることが望ましい」
プリシラは、もはやヨウイチが決闘に出るかのように話す。その言葉に、知らぬ間にヨウイチの脳内にはその図が溢れて浮かんでいた。
「私は占い師。こうしろ、とは言わないよ。私が提示するのは選択肢だ」
だが、もはやそれまで。それだけで、もう未来は自分の望む方向に進むだろう。
プリシラはそれを確信し、ほくそ笑むような笑みを顔面に貼り付けた嘘で塗りつぶす。
「でも時間切れはある。おそらく、明日の夜にはもう道は閉ざされる。選択は急いでね。時間は影よりも速く私たちを追ってくるよ」
「俺に、勝てると思いますか?」
「さて、それはわからないな」
プリシラは素知らぬ顔でそう答える。
それこそ、占ってみてほしい。ヨウイチはそうふと思うが、幻聴がそれを止めた気がした。その答えを聞きたくないと、誰かが囁いた気がした。
劣等感がある。ヨウイチもそう感じていた。カラスに対する劣等感。幻聴は全て自分の声で、そして『事実は置いておいて』、自分は勝てないと、そう思い込んでいると。
その考えに、既に希望的観測が含まれているとは気付かずに。
ならば、勝たなければ。
何かでカラスに勝たなければ。自分はルルに、近付ける気がしない。
「明日、先に試してからでもいいでしょうか」
「試す?」
「はい。カラスに勝てるかどうか。……俺が自信を持てるかどうか」
一度、頼んでみよう。試してみたい。まだカラス本人に喧嘩を売ることは出来ないが、それでも、稽古としてならばあの人も応えてくれる気がする。
プリシラは目を細めて唇の端を持ち上げる。
「……何をするかはわからないけど、やってみるんだね」
「はい」
ヨウイチの耳に届く音が減る。幻聴が消えていく。その代わりに、何かが身体の中に染みこんできた気がする。
一匹の蝿が、明かり取りの窓枠の前を歩いているのが見えた。それを見つけたヨウイチだったが、瞬きの隙に消えてしまったその蝿を、すぐに忘れてしまった。
プリシラは、部屋の隅で鎮静剤により動きを止めているマアムに目を留める。
彼女がもっと自分の意思を伝えていたら、もう少し良い方向へ向かっただろうにと笑う。
マアムはその笑みが、きちんと嘲笑に見えていた。
「……俺を止めないんですか?」
「止める? 何故?」
「危ないことをするな、とか。カラスのことを知っているふうに見えたので」
ふむ? とプリシラはヨウイチを見返す。
「知っているよ。推察の通り、カラス君とは知り合いだよ」
ヨウイチは、やはりと溜息をつく。ここにもカラスの味方がいた、とうんざりするように。
そんなヨウイチの仕草を内心一頻り笑ってから、でもね、とプリシラは続けた。
「ルル・ザブロックとの仲に関しては、カラス君の味方はしないよ。私は、決して」
「…………じゃあ、俺の邪魔もしないんですね」
「しないよ。きみは思う存分、思うとおりにすればいい」
カラスの味方はしない。素直になれない二人を見るのは楽しいが、それでも結末がわかりきっているのなら、それを応援はしない。
プリシラのその心の機微を理解出来る人間は、この場にはいない。
「選択はきみ次第さ」
そしてあわよくば、ルル・ザブロックを奪い取ってほしい。
それがプリシラの願いだ。




