閑話:いただきます
平原。草原ともいっていい薄い緑の草が地面を覆い、良く晴れた空から降りる日差しを弾く。風が吹けばそれが揺れてほんのわずかに音を立てるが、その大地に足をつけていないヨウイチには、それは全く関係のないことに思えた。
聖騎士団の移動。それは多くは騎獣と呼ばれる騎乗用の動物を伴って行われる。
「まだ慣れないだろうか」
「え、えと、ごめんなさい」
ヨウイチが騎乗しているのはハクと呼ばれる立派な騎獣だった。
白い角を持つ馬のような動物で、ただし足は虎のように立派な爪を持つ。
三頭立てのはずの馬車を一頭でも引くことが出来るし、乗って駆け足をすれば飛ぶように走る。賢く、一度慣れてしまえば人の言葉を聞き取るが如くに行動する。ある程度の戦闘も出来、小さな魔物であれば特に問題なく返り討ちに出来るほどだ。
馬よりも数段力が強く、そして速い。聖騎士たちが一般的に使う騎獣の一種だった。
初心者でも、任せておけば安心。そんな賢い獣。だが、乗馬の経験など皆無のヨウイチである。そんな騎獣に、彼はしがみつくように前屈みにもたれかかっていた。
テレーズは勇者の姿を見て笑う。むしろその格好の方が疲れる。鐙に足をかけ、鞍にゆったりと座っていれば何も問題ないのに、と。
「何度も言うが、賢い獣だ。そのように緊張しないでも、任せれば振り落とされることもない」
「それは、わかってる、んですが……」
ヨウイチは恥ずかしがるように揺られてまたハクの背にしがみつく。怖いものは怖い、と。
テレーズはその姿を見て、純朴な少年だ、と思う。
彼の国ニホン。そこでの暮らしが透けて見えるようで、可笑しかった。
そしてやはり、とちくりと胸を刺す何かがあった。今日見なければいけない血を今から想像して。
テレーズを含む聖騎士団全員は昼前に山に入り、昼を過ぎる程度まで行軍した。
無論、山の中では騎獣は使わない。荷を積んできたものも含め、おおよそ三十頭に及ぶ彼らは麓にある厩舎に収められ、次の日に帰ってくる主を待つ。
山に入ってからの行軍中の荷物は、全て騎士団全員が少しずつ分担して運ぶ。そしてそれは、客分に近い勇者でも例外ではない。
しかしそれほど苦ではないのはヨウイチにも意外だった。大きな米袋のような荷。日本にいたときには両腕で抱えて持つのも一苦労だったであろう荷物を、彼は軽々とではないが苦もなく運ぶことが出来た。これも魔力の影響だろうか、などと正解を自然と導きつつ、獣道すらない山の斜面を転ぶこともなく器用に運んでいった。
やがて、もういいだろう、というテレーズの判断で聖騎士達はようやく大休止する。何の変哲もない山の中腹。暗くなっても常人には街の明かりなど何一つ見えず、ただ月明かりだけが照らすであろう林の奥で。
大休止、といえども休憩ではない。そこは今回の訓練場所であり、皆がそこで最初に従事した仕事は、小隊ごとの寝床の確保だった。
「これ、結構……」
「黙って掘るんだ。練武場よりも簡単だろう?」
ひい、と少しだけ弱音を吐くようにしながら、ヨウイチはテレーズの指示の下、斜面を均すように掘っていく。
簡単、とはいうがそう簡単でもない。ある程度整備されてしまっている練武場と違い、この山の土は障害が多すぎる。
ネルグほどではないが、地面に張り巡らされた木の根。拳大、頭大など様々な大きさの石。土も湿り気を帯びて重たい。足場の良い悪いもある。
カツン、と金属製の円匙が土の中の何かに当たり、その度に止まる手にヨウイチは閉口する思いだった。
それでも、掘っているのはヨウイチだけではなく、本来五人一組である小隊のうち二人が手を貸している。大変ではあるものの、ヨウイチはそれでも穴掘りを続けていった。
「……こんな、こと、戦場で……やるんですか……?」
「やらん」
ヨウイチの斜め後ろで様子を見ていたテレーズが、ヨウイチの質問にさらりと答える。
それでも何か、この大変な何かをやる理由が欲しかったヨウイチは、愕然としてテレーズを見返した。
「勘違いしないでほしい。普通はやらないというだけだ。緊急時、森へと避難することも、森の中で奇襲のために待機することもある。正直、『本番』をやったことがあるのはうちの団でも半分もいないだろうが、そのときにはやったことがないよりあるほうがいいだろう?」
「そう……っすね」
「もちろん、勇者殿はこんな雑事はやらないだろうが」
テレーズは、ここにいない誰か貴族に向けての皮肉を口にする。やらせるわけがない。勇者は戦場で華々しく姿を見せるのが仕事で、こんな作業はお付きの誰かの仕事だろう。
だが、やらせないわけにもいかない。
戦争というのは、何が起こるかわからないもの。その時になって、『あの時やっておけばよかった』と後悔したとき、危険になるのは勇者だ。
無論、戦争というのは準備不足が常となる。準備万端で戦いに望むのみ、という状況こそ、こんな状況以上に起きることはない希有な状況だろう。
だが、だからこそ。経験させておく必要がある。させられるものならば。
これから行う通過儀礼などは、特に。
もうそろそろ夕餉の準備の時間だ。
それまでに、事前準備も済めばいいのだが。
そう思ったテレーズの願い通り、というわけではないだろう。だが、ヨウイチを含む小隊が斜面にくぼみを掘り終わり、そこに大きな布で覆いを掛けた簡易的なテントを作り上げたちょうどその時。
「捕らえました」
「……そうか」
周囲の食料探索に出ていた部下からの耳打ちに、はあ、と盛大にテレーズは溜息を吐いた。
「……この子を、ですか?」
ヨウイチが、地面に横たわった一頭の動物を見下ろす。暴れていた足は縛られ封じられ、たまにもがく体はうねり土の上でも胴を地面から跳ねさせていた。
「そうだ。これを、だ」
筵の上に横たえられた一頭の鹿をヨウイチと共に見つめながら、テレーズは頷く。
ヒンヒン、とまるで鳴くように鼻を鳴らしているその牝鹿は、この春大人になったばかりだろうか、などと考えつつ。
ヨウイチへの説明はもう済ませてある。
命を奪う事への嫌悪感。その払拭のためで、今日の夕飯に使う牝鹿を殺してみろ、と。
テレーズがヨウイチへと手渡したのは、小刀というよりも少し短く、分厚い短剣だった。
「狙うのは首じゃなくて胸の上辺りだ。鹿の場合、その辺りに太い血管がある」
「胸……」
ヨウイチは、その言葉にまた牝鹿を舐めるように見つめる。
野生故の、ふっくらとした胴体は筋肉質にも見え、毛皮の下がうねるよう。柴犬と同じ色をした体表には白い斑点が入り、だが薄汚れたように埃で黒くも染まっていた。
こちらを見つめるような黒い目。その顔が、確かに自分に訴えかけてきている。助けてくれ、と。
「この辺りですか?」
「そうだ」
その顔を出来るだけ見つめないように目を逸らし、ヨウイチは手の震えを押さえ込みながら指を首から下に這わせる。洗えば滑らかになるだろう毛並みは、ごわごわとした何かで固まっていた。
指先から、温かさが感じられる。昔野良猫を撫でたときもこんな感じだっただろうか、などと思い出しつつ力を入れる。その指を押し返すように、中で何かが脈打っていた。
「ここを……」
「…………」
何度も何度も確かめるヨウイチを急かすこともなく、テレーズは頷く。
そのテレーズに、代わってくれないだろうか、などと言えないこともわかっているヨウイチは、渡された刃物をちらりと見た。
分厚く重い短剣。その表面は磨かれたように綺麗に整えられており、手入れの良さが窺える。
だが、ともヨウイチは感じる。持った柄から想像出来る刃の長さと、実際の長さが違う。おそらく何度も何度も研がれているのだろう。研がれ続けて短くなった刃先が何に使われてきたのかを想像して、背筋が少しだけ寒くなった。
牝鹿がヒンと一声鳴いて体をくねらせる。
その勢いで跳ねるように動いた牝鹿に驚いたヨウイチは、小さく声を上げて這わせていた手を引いた。
生きている。
そう、ヨウイチは感じた。目の前にいる生物は生きている。そして、死にたくない。
生命の本能ともいえるそんな感情が、ヨウイチの目の前の光景から存分に溢れていた。
ほんのわずかにだが完了していた覚悟が揺らぐ。
「殺さなくちゃ、いけないんですか」
「先ほど説明したとおりだ」
心苦しさを胸の奥にしまい込み、奥歯を噛みしめてからテレーズは吐き捨てるように言う。
殺さなくてもいい、と言いたかった。
動物の殺害。猟師などが普通に行っているその行為さえ、確かに眉を顰める者すら大勢いる。勇者もその一人ならば、無理することはない。そう生まれていないのだから。
そう言いたかった。
だが、言えない。これから渦中に巻き込まれるヨウイチの生存率を下げる言葉は、吐くことができなかった。
これが、せめて熊などならばよかっただろうか、とテレーズは考える。
多くの人間は、同族である人間よりもその他の動物の命を軽く考える。そして、同じ種族ならば、自分を危険に陥れる存在の命を軽く考える。
ごく単純にいえば、人間を殺すよりも動物の方が殺しやすく、動物の中でも自分を殺しに来たもののほうが簡単に殺せるのだ。
熊や虎など、そういう動物ならばまだよかっただろうか。
自分を襲ってきた熊などに、無我夢中で反撃しなければいけない状況を作る。そうすれば、無抵抗な鹿よりも殺すことは簡単だっただろう。
しかしテレーズにも、それが難しいことはわかる。
逃げるよりも戦わなければいけない状況などを作るのは、余程器用でないと難しい。最低でも人質が必要だ。この勇者の場合ならば。
それに、熊などに襲われた勇者が、無傷で終わるとは限らない。もちろん、既に熊などを殺すことは出来るだろう。あの鍛えた腕前で、青生魂を使った宝剣を振るえばまず間違いなく倒すことは出来るだろう。しかし勇者の損傷までは保証出来ない。
それに何より、熊などは賢い。
半端な罠ならば食い破る膂力に、獲物を選ぶ周到さもある。追われるのに慣れているというのならば鹿に軍配があがるものの、追うのに慣れているのは熊の方だ。
そして追われるのに慣れていない、という事実を彼ら自身も知っている。
既にこの辺りにはいなくなっているのだ。聖騎士団という人間の群れが、姿を現した周辺には。
事実先ほどテレーズも辺りを少々探してみたものの、逃げ足に自信のある鹿や兎などはまだ遠巻きに残っていたものの、肉食のものはこの周辺からは姿を消していた。
しばらくすれば熊などもこの辺りに戻っては来るだろうが、それを待つことは出来ない。
単純に、熊を捕まえようとしてもこの辺りにはいないのだ。
(……やはりいっそ、手に剣をくくりつけて魔物の巣にでも放り込んだ方がよかっただろうか)
行き詰まった思考に、自分が今まで考えていた全てに反するようなことを考えてしまう。
もちろんすぐにそれに気が付き、テレーズはいやいや、と首を振った。
分厚く重たい短剣。それを手に、ヨウイチは唾を飲む。
見つめる先には、先ほどまでは見つめまいとしていた牝鹿の顔。キュウン、と鳴くその顔が、何も知らない無垢な小動物にも見えた。
殺さなくてはいけないのだ。
殺すことに慣れなければ、自分や周りの人が傷つくことになる。そうテレーズが口にしたその言葉に、ヨウイチも半ば同意する。
確かに必要なことだろう。
これから自分が参加しなければいけないのは、戦争。
そこは剣道の試合のように、当てれば勝ちで即終了、というような場所ではない。
今自分の周りにいる聖騎士達は、皆命を奪った経験がある。
彼らの中に混じり戦うのならば、自分も同じでいなければいけない。
やらなければ。
そう決意を新たにする。
しかし。
ブルル、と吠えるように鹿が鳴く。
その声に、ヨウイチは怯んだ。
生きているのだ、彼女は。
自分に捕まらなければ、まだ今でも野山を跳ねるように駆け巡っていただろう。ここで捕まったのは予想だにしなかった不幸な出来事だろう。
手が震える。
重たい刃物が、命を奪うという嫌悪感から更に重たくなる。
その嫌悪感がどこから来るのかヨウイチは知らない。
どこからか、蝿の羽音が聞こえた気がする。
ヒンヒンと何度も鳴いて、牝鹿は命乞いをするように濡れた鼻先をヨウイチに向ける。
牝鹿の濡れた目に射貫かれ、ヨウイチは何故だか泣きそうになった。
「…………ごめんよ」
言われた場所は覚えている。胸の上、血管が触れる辺り。
厚い毛皮を裂くように、ヨウイチはそこに刃先を押し当てる。まだ抵抗を感じるそこに力を入れれば、ゾブリという筋繊維を裂く感触が手に確かに伝わってきた。
ピイイイイ、と甲高く、か細く牝鹿が声を上げる。
痛みにビクンビクンと大きく体を揺らすが、手足が縛られたその状態ではそれほどの移動距離は稼げなかった。
ヨウイチは、ごめん、ごめん、と何度も繰り返しながら、震える手を滑らせるように力を入れる。中にあるゴムチューブのような感触のものを断ち切ると、血管が千切れ血が噴き出してきた。
ヨウイチの手にかかる血。
温かで、少しだけべとべととする粘る液体。その感触を指に覚えたヨウイチは、「ひっ」と声を上げて刃物ごと体ごと飛び退いた。
「本来は川などで血を洗い流すんだが……不味い肉を食べるのも訓練だ」
重たい荷物を運んだように息を切らせるヨウイチ。彼をわずかでも励まそうと、テレーズは後ろから諧謔を混ぜたつもりの声をかける。ヨウイチの耳には、自身の鼓動しか聞こえていなかったが。
牝鹿から噴き出た血が山の土に血溜まりを作る。すぐに地面に吸収されていった赤い血は、それでも土に何となく黒いような色を残していった。
吸収されなかった血が斜面をわずかに伝い駆け下りていく。その下にどの小隊も基地を作っていなかったのは、テレーズの不始末を凌ぐ単なる幸運だった。
動いていた牝鹿が、ぐったりと四肢を投げ出し止まる。
先ほどこちらを見ていた目。それが、中空を見つめるように停止し、そして光が失われていくのをヨウイチはじっと見つめていた。
血の臭いを嗅いだ蝿が、二匹牝鹿に止まる。それを追い払う気もなかったが、ヨウイチが牝鹿の腹に手を当てると、それに驚き蝿はまた宙を舞った。
ヨウイチの掌の先。
先ほどまでは命を感じる脈動が、その先にあったのに。
温かみが失われていく、とヨウイチは感じた。実際には、そこまでの早さで体温が下がるわけではないが、確かにヨウイチには。
「……ごめん……」
何度呟いても何も変わらない。目の前の牝鹿は身動き一つ出来ない肉の塊となる。
動きが止まり、ヨウイチは改めて牝鹿が呼吸をしていたことを感じた。
今までは息をしていたのに。先ほどまでは心臓が動いていたのに。
首下の血管を断ち切っただけだ。それだけだ。なのに、簡単に死ぬ。
そんな実感に、深呼吸を繰り返しながら持っていた刃物を見れば、伝う血で汚れていた。
匂いに釣られ、集まってくる蝿が地面の血に集る。
「…………猟師のように上手にはいかないが、食あたりを出さないためにここからも捌き方にコツがある。今回は見てるだけでいいが、簡単でいい、覚えておいてくれ」
「…………た」
テレーズの言葉に、いつもならば『わかりました』と明瞭に答えられるのに。自身の変化に、ヨウイチは戸惑った。声すらも出ない。出さなければいけないと思っているのに。
それでも咎めずにテレーズは担当の部下に指示を出し鹿を解体させる。
見慣れた『動物』から『食肉』に変わっていくその様に、何故だかヨウイチは安堵した。
訓練中でも、食事はやはり楽しみの一環だ。
血抜きも洗浄も不十分で、本来食肉には適さない鹿。それを辺りから摘んだわずかな香草と塩で煮た簡単な料理を、聖騎士達が啜る。小隊ごとに焚き火を囲み、小休止も兼ねた食事に皆が舌鼓を打つ。その一角で、もちろんヨウイチも。
「…………案外、大丈夫そうだな」
「……もちろんです」
精神的な消耗で口数少なかったヨウイチも、夕飯時ともなれば多少回復はしている。
だが、完全に復活とはいかなかった。今自分が啜っている汁物の肉。それを、自分が殺したものと思えば。
テレーズはその言葉の主語を誤魔化すように笑う。幼馴染みならどうするか、などと考えつつ。
ヨウイチも、虚勢を張るように無意識にそれに同意する。血の味がする肉を匙で掻き出し噛み砕けば、いつもの料理では感じない野趣溢れる素材の味が口内に満ちる。端的に言えば、不味いのだが。
「美味しいですね」
「そうか?」
ヨウイチの目の前に、先ほどの解体の光景が浮かぶ。
毛皮が剥がされ、内臓が掻き出され、洗われ小さく切り取られ、スーパーマーケットでよく見かけるパック詰めにされた肉と変わらなくなってゆく姿がありありと。
血に集る蝿が、ドンドンと増えていったのが印象的だった。
もう一口、とヨウイチは鹿肉を口に含む。出汁も何もなく、食事というよりも蛋白質の補給という印象のその料理を。
不味いとは言えない。あのつぶらな瞳を思い出せば。
不味いと思ってはいけない。その瞬間に、吐き出してしまいそうで。
「本当に、……美味しいです」
何度も自分にそう言い聞かせるように口にする。
そうすれば、何となく口の中の味も変わってきた気がする。日本にいたときに食べた、美味しい肉の感触がする気がする。
だが何故だろう。
いないはずの蝿の羽音が、耳から離れなかった。