am 9:00
巻き込まれたような気がする。
我の意志とは無関係に、協力させられるような気がする。
我は、昨夜から消えない悪い予感を振り払い、壁にかけられた時計をみた。
散歩の時間を迎えている。
我は大きく欠伸をして、警戒しなくてもよい幼女の姿を探した。
いつも元気な幼女ではあったが、今朝は一段とテンションが高かった。昨夜のこともあるが、それだけではない。起きてみれば朝食の席で、廃人がコーヒーを飲んでいたのである。予期していた我とは違い、幼女の驚きと喜びようはなかった。
すっかり甘え上手になってしまい、いまは駄々をこねている。
いっしょにポチのお散歩にいこう、というお願いで『パパ』を困らせているのだ。
ちなみに、わがままを言っちゃダメでしょ、と説得している『ママ』もまた、廃人と腕を絡ませて離れようとしない。『母娘』ともども連れてゆくことしか考えてはいない。廃人に勝ち目などあるわけがない。
(おい、廃人。とっとと諦めて準備をしろ)
我の一声で解決である。
我々は散歩に出かけた。
幼女と、その小さき手にリードをつかませて先導する我と、『パパ』と『ママ』との散歩である。
幼女は幾度も後ろを振り返り、ときには後ろ向きで歩いた。
眠たそうな廃人は、陽射しを浴びても冴えない顔をしていた。それでも、久しぶりの屋外運動に鈍った身体が喜んでいるのだろう。首や肩を回しながら感触を確かめている。
「どうしたの、ママ、おいてっちゃうよ」
幼女が言うように、『ママ』は立ち止まりこちらを眺めていた。屋外にでると廃人の隣を離れ、恥ずかしそうに後ろを歩いていたのだが、いまは呼吸を乱して震えている。あれの脳内でどんなことが起こっているのか、考えることさえ恐ろしい。
ふと我は、『妻』がもうすぐ妻となることを思い出した。
昨夜、廃人が言ったのだ。役所に書類を提出しよう。指輪もなくて、式も挙げてはいないけれど、それでもいいなら結婚しよう。ちゃんとした家族になろうと。
廃人は、夫となり、父となり、『兄』であることを捨てる。それは愛する女の願いを叶えるためであり、己の覚悟を決めるものでもあったのだろう。『妹』の方がお兄ちゃんを捨てられるのかは怪しいものだが、女の返事に迷いなどなかった。
おやすみ、と伝えて廃人が幼女の部屋から立ち去ったあと、身悶えながら結婚式や新婚旅行のプランを考えていた女を、我は一体どうすればよかったのか。あのとき我は女をみていた。幼女の寝言で正気に返り、我に向かって照れ笑いを浮かべるまで、我は、己が自失していたことに気づかなかった。
女が去ったあと、眠気のとんだ頭で状況を整理し、推測ではない正しい情報を欲した。
念を入れて記憶を読み取りたいところだが、あの女はいろいろと危ない。知らない方がよいことも多々あるであろう。廃人は我を疑っている。これも下手に動いては危険だ。少し調べてみよう、などと考えて薬を盛られ、拘束されるかもしれん。
我は、長い夜を過ごしてしまった。
もはや『家族』のなかで安心できるのは幼女だけであった。べつに、本性が判明したというだけで、我に危害が加わることはないのだが、言い知れぬ不安が渦巻いていた。
なぜか、巻き込まれた気がする。
我の意志とは無関係に、無茶な要求を突きつけられる予感がする。
廃人が罪を償うために何を為すとしても、我に関係などあるはずがない。関係があったところで何ができるというのか。嘆かわしいことではあるが、いまの我は一介のマメシバに過ぎぬ。マメシバとして真に気に病むべきは、廃人がゲームをやめてしまうのかどうか、それであるべきはずではないのか。
「ポチ、お散歩いかないの?」
幼女の声に、我は嫌な予感を振り払った。
なに、できることぐらいはしてやろう。いつも通り、幼女の先導くらいならしてやろうではないか。
遠出をした。そこは公園内にあるドッグランと呼ばれる場所であった。
我の仲間たちと、その世話人たちが集まってくる。上流階級の人間たちが暮らしている地域であり、その多くがマダムであった。『母娘』とは二度ほど来たことがある。我々は目立つ存在であるらしく、今日もマダムリーダーが挨拶にやってきた。
「いらっしゃい。きょうはパパともいっしょなのね」
「うん」
「……ああ、はじめまして」
「はじめまして……やっとご挨拶が叶いましたわ。お会いできて光栄です。奥様と娘さんからお話は伺っておりましたが、御身体のほうは、もうよろしいのかしら」
「ええ、お気遣い、ありがとうございます。それに……いつも、娘が、お世話になってます」
「とんでもありません。うちのダルちゃんと遊んでもらって感謝してますのよ。ダルちゃんったら、娘さんとポチちゃんのことが大好きで大好きで、ああん、わかったわ。はやく遊びたいのね。いいわ。遊んでらっしゃい。向こうでみんなともみくちゃにされてきなさい」
マダムリーダーの許可を得て、ポメラニアンのダルヴィッシュは走った。『パパ』と『ママ』に見守られ、幼女も我とともに仲間たちのもとへ向かい、我々は大いなる歓迎を受けた。
仲間たちは我をボスだと認識している。我が魂の波動に感じるものがあるのだろう。流石である。これに比すれば人間など、我が生き血を狙わんとする、ノミやダニと同レベルの存在に思えてくる。
幼女は、わんこわんこと歌いはじめた。
仲間たちはどうか。ダルヴィッシュは一緒になって歌っている。秋田犬のゼニガタは守るように身体を寄せている。トイプードルのコナン、ミニチュアダックスのアケチは、跳びついて顔を舐めている。マルチーズのスケキヨなど、嬉しさのあまり転げまわっている。
幼女のことは仲間たちに任せて、気晴らしに全力で駆けてみようか。
我は思い立ち、リードが外れていることを確認した。
力強く大地を蹴る。
全身を駆使して走り出せば、風を感じ、風となった。
心地よい。
よみがえるは故郷の景色。血湧き肉躍る地獄の荒野。
ああ、たしかに我らは疑問を抱いた。なぜ我々は三頭でひとつの身体を共有しているのか。他の種族と比較してバランスが悪いような気がする。なにか一頭一身で困ることはあるのかと。
だが、王よ。
べつに転生させてくれと頼んだ覚えはない。喰って眠るだけの気楽さ、痒いところを狙い澄ますブラッシングの心地よさはよいとしても、このままでは我の誇りが汚れてゆく。それともこれは罰なのであろうか。疑問を抱くことが罪であるならば、たしかに我々は罪深いといえるだろう。
ともに転生したと思われる、右頭と左頭は無事であろうか。
それとも地獄へ帰還して、愚者どもと遊んでやっているのだろうか。それはそれでおもしろかろう。我が帰還したときには、二頭一身で出迎えてくれるかもしれん。
なんであれ、いずれ再会のときはくる。
そのときは存分に語り合おう。
ああ、無事に帰還したそのときには、紹介できる者がいるかもしれない。
高揚をそのままに、我は徐々に速度を落とす。
思いつめるな廃人よ。貴様が地獄に堕ちたならば、心ゆくまで勝負してやろう。『母娘』がともに堕ちたとしても、我らのブラッシング係に任命してやる。心安らかに悟るがいい。我のテクニックが貴様以上であることを、『母娘』のまえで知るがいい。
勝利の感覚を手にした我は、覚えのあるようなないような、子どもの匂いを察知した。
二人いる。
いや、二人しかいない。
犬の世話もできぬ分際で我の領域に足を踏み入れるとは、一体どこのガキどもか。近づくのも不愉快ではあるが、確認しておく必要がある。
「ああ、やっぱりそうだ。こいつだよ、こいつ」
「へぇ、この小さいのがポチか」
見つけたガキどもは我を見ながら話をしていた。無礼にも、一人は我を指差しながら。
「おい、はやくジャーキーを出せよ。お前ちゃんと用意してきたんだろうな」
「ちゃんとあるから、ちょっとぐらい待ちなよ」
「はやくしろよ。逃げられたらどうすんだよ。いいか、こいつを手懐けたら俺たちの勝ちなんだ。あの子は俺のものになって、なんでもいうことを聞くようになんだよ」
「……いや、ちょっと警戒がゆるむだけで」
「うるせぇな。そんなもんどっちだっていいだろうが、はやく、それをよこせ。よし……ほら、ジャーキーだ。これがお前の好物なんだろ、喰えよ、ほら」
この我が、貴様のようなクソガキの手から受けとるなどありえるわけがなかろう。
我の鼻先にジャーキーを突きつけるという、この侮辱……許せんな……貴様のような愚か者が我を手懐けようなど……いったい誰が、貴様のものになると……。
(おまえもジャーキーにしてやろうか)
我の怒気に恐怖を感じて、クソガキは身を縮めた。向こうにしてみれば、我は小さく、弱々しい存在に違いない。おもしろいように顔色が変わる。マメシバに唸られてビビるという己の醜態に気づき、暴力的になったクソガキが我を狙う。
よかろう。眼球をピンポイントで燃やしてくれる。
迎え撃つ、が、あと半歩のところでガキの片割れが邪魔をした。
そして、気配を感じて振り返れば、秋田犬のゼニガタが全力で迫ってもいた。
ゼニガタは勢いを落とすことなく我のもとを通り過ぎ、逃げ惑うクソガキを追いかけ回している。いや、引きずり倒して泣かしている。傷跡を残さぬ見事な手際。幼女のボデイガードを自認するだけあって、じつにいい働きをしてくれる。
もっとも、大型犬ともなれば食欲も旺盛である。頭が回るらしい片割れが、ジャーキーをばら撒いてゼニガタの注意をそらすことに成功すると、クソガキは泣きながら逃げ去ってしまった。
ゼニガタは、逃げずにいた片割れから匂いを探り、ジャーキーの有無を確かめている。もうおしまい、と言われても諦めはしない。すべてを出し終えるまで付きまとう気でいる。
戦いを観賞しているうちに幼女がやってきた。
仲間たちもいる。
戦利品を食べ終えたゼニガタも戻ってくるようだが、なぜか片割れもついてきた。
「……お兄ちゃん、ゼニガタのお友だち?」
幼女は不思議そうに問いかけた。
片割れは困った顔で笑い、ゼニガタの唾液にまみれた手で頭をかいて、ひどく嫌そうな顔になった。
(寄るな、触れるな、今すぐ失せろ)
我が警告してやると、片割れは我に向かい、ごめん、と告げて離れていった。
もちろん謝ったところで許すつもりはない。要注意人物として二度と忘れぬよう、匂い、姿形、声質をしっかりと脳裏に刻み込み、同時に、小さくなっていく後ろ姿を監視した。
見えなくなって警戒をゆるめ、横にならんだ幼女を見上げる。
どうやら幼女も監視していたらしいが、あっ、と声をあげて我を見下ろした。
「もう、ポチったら、ひとりで走りまわったらあぶないよ、迷子になったらどうするの」
そして、我は幼女に拘束されて連れ戻された。
「そんなことを心配なさる必要はありませんわ。男の子は、犬に襲われてもみくちゃにされて、泣きながら家に帰ることで大人の階段を上っていく……この地域の皆さんは、それを重々承知のはずですもの」
テーブルには五人いた。大人たちも騒ぎがあったことには気づいていたらしく、ゼニガタの世話人マダムを相手にマダムリーダーが話をしていた。
「ふふっ、おかえりなさい。まぁ……ダルちゃんったら、こんなにハァハァしちゃって」
我は幼女の拘束から解き放たれ、仲間とともに用意されていた水を飲んだ。
幼女にはジュースと菓子が与えられるらしい。ありがとうございます、と廃人たちが礼を述べるなかで、『パパ』と『ママ』の間に座っている。
水分補給を終えた仲間たちは、テーブルの周りで休息するものと、菓子を狙うものとに別れた。
我は睡眠を選んだ。
しばらくはどうでもよい雑談が続くだろう。廃人たちも動けまい。ならば、ここはひとつ寝不足の解消を図ろうではないか。
「ええ、コナンもアケチもスケキヨも、みんな主人が拾ってきた子です。いつもいつも、わたしが寂しくないように、なんて言ってますけど、ほんとは見捨てたくないだけ……だから、わたしも文句をいってやりました。あなたが仕事でどこに行こうともかまわない。ぜんぜん帰ってこなくてもかまわない。ただし、つぎに捨て犬を連れて帰ってきたときは、絶対にわたしが名前をつけますからねって」
「こちらのご主人、世界各地で活躍されている探偵さんなの。本来なら企業のトップとして落ち着いていなければいけないのでしょうけれど、難しそうな事件には、どうしても血が騒ぐらしくて……たしか今回の依頼では、火星に出向かれるとか」
「はい、なんでも死因調査の特別チームに参加するとかで……あの魔女が参加する以上、僕でなければいけないと張り切っておりました」
「魔女、ですか?」
「ええ、たしかに魔女と……ああ、いけません。これってみんな機密情報でしたわ」
「この方々なら問題ないのではなくて? それに機密情報を漏らしているのはご主人ですもの……かの名探偵も、愛しい方には何でも話してしまうのね」
「……はい、何度か注意してみたんですけど、夫婦の間に隠し事はできないと」
「ふふっ、いけない御方ですね。あら、どうなさったのかしら、顔色がよろしくありませんわ」
「……大丈夫です。少々、頭がふらついただけですので」
「きっとまだ本調子ではないのね。どうか御身体を大切にして、無理をなさらないでくださいね」
「ええ、お心遣い、感謝いたします……しかし、魔女と呼ばれるような人が死因調査に参加するのはわかりますが、名探偵が同行するというのは妙な話ですね。過労死や風土病だけでは説明のつかない、不可解な事件が起きているのでしょうか?」
「はい、主人の推理では、大量殺人の可能性もあると」
「あらあら、そんなに興味を惹かれるなんて、天才と呼ばれる方は探究心が違いますわ」
「いえ、わたしは」
「ほんと、素敵なパパね」
「うん、わたしね、大きくなったらパパのお嫁さんになるの」
「パパのことが大好きなのね。あら、奥様どうかなさって?」
「……いえ、この子の、願いが、あまりにも微笑ましくて、つい、気持ちが昂ってしまいました」
「まあっ、なんて可愛らしい奥様なのっ」
「ほんとに素敵な御家族ですわ」
ああ、まったく眠れん。廃人を警戒させている魔女とやらも気になるが、なぜ『奥様』は幸せそうに興奮しているのだ。もうすぐお嫁さんになることを思い出したのか、それとも別種のなにかを思い出したのか。せめて前者であることを祈りたいが、両方である可能性が濃厚……。
マダムたちは『家族』の真相を知らぬ。
我がそうであったように、真相を知らぬ者にとって、この『家族』は家族にしかみえない……いや、真相を知る者も同じかもしれんな。『妻』はもうすぐ妻となり、妻と娘が同質の存在であるにせよ、廃人は幼女を娘として接している。また、幼女も廃人を父であると認識している。
若き天才科学者。
美しく可愛らしい女。
愛らしい幼女。
この三者が親愛の情で結ばれているのは確かだ。そもそも家族という集まりなど、奪い合う世界で生まれた血縁の約定。幸せオーラを全開にしている女に警戒はすれど、夢を叶えた女としては、我も素直に賞賛してやろう。
この『家族』は、たしかに家族なのだと。
気がつけば雑談は、家族写真の話に変わっていた。マダムリーダーがお気に入りの写真店を薦めているようだ。集合写真はもちろん、夫婦だけで撮るのもいいとか、幼女だけで撮ってみようとか、我だけの写真も撮っておきたいと、母娘とマダムたちで盛り上がっている。
どうやらここにいる誰もが、この我を家族の一員だと認識しているらしい。
まあ、我としてもボスの地位にこだわるつもりはない。
我に迷惑をかけないのならば、一員になってやってもよいだろう。
我は大きく欠伸をした。妙な予感は相変わらずだが、不思議と嫌な気分にはなっていない。いまなら心地よく眠れるだろうか。いまの我は一介のマメシバに過ぎん。幼女の面倒をみてやるためには、体力の回復を図らねばなるまい。
我は今度こそと身体を横たえ、幼女の嬉しそうな声を聞きながら眠りについた。




