ひた走る恋の行方 第一部
【 題 名 】――『ひた走る恋の行方』
第一部( 儚き青春 桐子永遠の愛 )
《 プロローグ 》
おっぱいの魅力に勝てるものはない。チラリと目に入るだけで、とても眩しい。
誰しも、オッパイと共に育ち、しかもある年齢まではオッパイを意識しないまま大人になっていく。そうして、中学校に入って、即ち思春期に入るころから、男子は異性に目覚め女子の胸の膨らみが気になりだす。そのうちに、いつしか、そう遠くない時を経て、オッパイそのものの存在が気になって……。
この世で最も美しいもの、最も聖なもの、最も崇高なるもの、最も神秘なもの、最も妙なるもの――それは紛れもなく汚れなき女性の胸の膨らみではないだろうか。
オッパイ――その響きの何とシンプルで美しいことか。心の奥底まで沁み入る淡くセクシーな響き……清楚で恥じらいを含んだ魅惑のシンフォニー。
また、これを漢字に置き換えてみると、『乳房』――その持つ、たおやかな、しっとりとした味わい。何といじらしく、愛おしく、ときに狂おしく、そして哀切を含んだ魅力的な言葉であろうか。
山之内貴志は今にいたっても折に触れてそんな思いに浸ることがある。
(第一章) 浅き夢みし
一
今や懐かしき甘酸っぱい昭和の香り、一九五X年七月。瑞々しき混沌の未成熟な世代。
貴志の初恋は人より少し遅れて高校一年生の時だった。相手は同じクラスにいた髪の長い、優しい瞳をした、控え目な女の子だった。何となく眺めているだけで貴志の心臓は高鳴った。その子も貴志と目が合うたびに恥ずかしそうに微笑み、そっと俯くのだった。
彼女の名前は、小酒井桐子。一見小柄で華奢に見えるが、バレー部に所属していて結構目立つ存在ではあった。バレー部とはいっても、戦後の復興途上の時期でもあり、本格的な部活動とはほど遠く、仲良し同好会といったようなお手軽なものだった。
もうすぐ夏休みで一学期も余すところ僅かとなったある日のこと、この日、貴志は学校の図書室で調べものをしていて、いつもより二時間ばかり遅くに学校を出ての帰り道――。校庭を出て、七、八分歩いたところで、突然の豪雨に見舞われた。空が暗い、重苦しい、と感じたのも束の間、それもあっという間に猛烈を極めた雨足となり、数歩歩いただけでぐしょ濡れになるほどの勢いだった。貴志は取りあえず小脇に布製斜め掛け鞄を抱え、十メートルばかり先にある文房具店の青い張り出しテントに向かって駆け出していた。テント下に辿り着いたとき、時を待たずその先から逆向きに引き返し走りこんできたポロシャツ姿の女子生徒とばったり一緒になった。彼女は見るも哀れなほど、頭から水を浴びた状態だった。薄くて白っぽい半袖シャツが彼女の肌にぴったりと吸い付いていた。貴志の視線は思わず彼女の胸のあたりに……。彼女の肌が恥じらいを含んで透き通って見えた。成熟より一歩手前の胸のふくらみとその乳首までが透けて見えた(ように感じられた)。貴志は何故か彼女に懐かしさのようなもの、加えて親しみに似たものを覚えた。それとなく横顔を観察し、声をかけなくては、と思った。ずっとむかしの幼き日の、あの出来事に対するお礼をまだ言っていなかったのを思い出した。あの日以来、彼女は貴志にとってずっと気になる特別な存在になっていた。
「すッごい雨……」 先に、彼女が誰にともなく呟き、貴志を見て、はにかんだように微笑んた。すっきりと整った顔立ちの中に人懐っこい表情が魅力的な彼女だった。雨は斜めに降り込み、足許から水飛沫が飛び散った。彼女の持つ小さな傘は壊れて骨が剥き出しになっていた。文房具店はこの日は休業で店のシャッターが下されていた。
「山之内さん、びしょびしょよ」と、彼女はあらためて貴志を見て伏し目勝ちに呆れたように呟いた。彼女は、というと、それこそ長い髪の先端から流れるように雫が滴り落ち、何とも気の毒な様子だった。
「ほんとにスッゴイよね、小酒井さんの方こそずぶ濡れだよ」と貴志は鞄から手ぬぐいを取り出し、それを彼女に差し出した。彼女はびっくりしたように受け取り、軽く会釈をして水を拭き取ろうとして頭を下げた。彼女のぴったりと吸い付いたシャツから盛り上がる胸のふくらみが瞬間上下に揺らぎ、貴志は思わず目を逸らしていた。
「お願い、見ないで! 恥ずかしいから」 桐子は、はっと気付いたように照れ笑いをし、鞄を胸元に抱え、くるりと背を向けて貴志の視線をかわす素振りを見せた。
「ね、お願い。誰にも言わないで、……ね」
「……何を?」と貴志ははにかむ。
「何んにも――」
「何んにも、って?」 貴志は戸惑い気味に桐子を見た。桐子は肩を竦めて「山之内くんの見たこと、全部……わかって」と言って恥じらうような仕種を見せた。
このとき初めて貴志は、異性の素晴らしさというものをいたく感じた。
貴志の通っていた高校は、省線(JR)横須賀線田沢駅から歩いて一五分程のところにある神奈川県立の男女共学の高校だった。一学年三〇〇名ほどで元々男子校だったためか男子がおよそ七五パーセントを占めていた。貴志のクラスは全部で五二名、そのうち男子が三七名に対し女子一五名で構成されていたが、男女間の交流は殆どなかった。お互い表立って異性への好意を示し合うことは、男子にとっては軟弱と言われ、とても勇気のいる反面、恥ずべき行為だった。男女共学校でありながら、男子は男子、女子は女子で固まって行動するのが常だった(今とはあまりにも違っていた)。
この日の桐子は掃除当番の日にあたり、そのため放課後まで居残りをしての帰路、突然の雨に見舞われたという。桐子と貴志は家が同じ方角で、桐子の方が五、六分先にあった。此処は閑静な住宅街で商店が少なく普段でも人影の疎らなところだった。
ふたりは初めて逢った間柄のように、ぎこちなく、そしてたどたどしく言葉を交わし合い、お互い緊張した。……七、八分も経ったであろうか、雨がまるで嘘のように小降りになってきた。固まった状態から先に行動を起こしたのは、桐子の方だった。
「じゃ、先に行くね……ありがとう。この手ぬぐい、お借りします」桐子はそう言って貴志を残して駆け出した。
「あゝ、気を付けて……タオルは返してくれなくっていいから」と貴志はそう声をかけるのが精一杯だった。思えば、幼き日の〈或る忘れがたき出来事〉に対する、桐子への感謝の思いを、折角訪れたこのチャンスに伝えたいと瞬間思ったが、その勇気がなく逃してしまった。
次の日、貴志は教室で桐子と会ったが、お互い声を掛け合うことを遠慮したように目で会釈し合うに留めた。その翌日も同じだった。この日手ぬぐいはきれいに洗濯され、小さく折り畳んで〝山之内くん、ありがとう。助かりました〟のメモとともに貴志の机の中に入れられていた。メモに桐子の名は特に記されてはいなかったが……。
二
そのまま、夏休みに入っていった。
その頃の高校一年生といえば、今の時代とは違ってまだまだ子供の域を脱してはいなかった。言い換えれば〈少年少女プラス〉だった。
そしてこの時期、まだ至るところに戦争の傷跡が残っていた。道路は未整備状態で凸凹したままで石ころやコンクリート片が転がり、砂埃りが立ち、周辺の家々はトタン屋根のバラックが目立っていた。道行く人々は勤め人風の人は少なく、むしろ野良着、作業着姿の男女が多く見られた。駅には、時々、松葉杖に支えられた傷痍軍人がアコーディオンを携えて座っている光景が目について痛々しかった。
貴志の家から桐子の家に向かって暫らく歩くと、ちょっとした小高い丘があった。此処も未整備の状態で、工事の資材置き場として、材木の束に混じって長さ三~四M直径一~二Mもあるかと思われるコンクリート管がいくつも無造作に転がっていて、この付近の少年たちの恰好の遊び場であり溜まり場になっていた。貴志のクラスメイトや近所の仲間たちも集まってきては女の子の噂話をしたりして……、此処はガキどもの一種の社交場になっていた。
この丘の一番高いところに位置するてっぺんに横たわるコンクリート管の上に座って下方に目をやると、そこから立ち並ぶ家々を眺めることが出来た。桐子の家の様子も何となく見てとれる。クラスメイトの中には父親の旧軍用双眼鏡を携えてやってきては桐子の家のある辺りにピントを合わせる。桐子の家の塀越しに風呂場らしき窓が見える。日が暮れてくると、風呂場と思しき辺りの屋根の上から突き出た小さな煙突から、煙が立ち昇る様子が見えることがある。磨ガラスの窓から明かりが洩れるのを、彼等は息を殺して待ち構える。望遠鏡を奪い合っては、……〝見えた、否、見えなかった〟の大騒ぎになったりする。貴志もそんな仲間の一人には違いなかったが、内心いたずら心とはいえ、あまりにも馬鹿げた幼稚な行為ゆえに、一種のおぞましさを感じていた。
何故なら、あの突然の大雨で偶然とはいえ、桐子の透けた肌の胸のふくらみを見てしまったがためだったのかも知れない。貴志が感動した桐子の恥じらいを含んだ仕種を、その日以来ずっと忘れることが出来ないでいた。崇高なものを見てしまったのだから、ほかの連中とはわけが違う、そんな優越感にも浸ることが出来た。
◇ ◇ ◇
桐子と貴志は同じ小学校の出身で、五年生のとき同じクラスになったことがあった。まだ戦後間もない頃で、その頃はまだ給食制度が整っておらず、生徒各自で弁当らしきものを携えて登校していた。学校近くに住む生徒は昼休みにいったん家に帰って食事を済ませて戻ってくるものもいれば、昼食を抜いて外で時間をつぶしてくる子もいた。
時に厭なことだが弁当泥棒もあった。
そんなとき、教室は重苦しい雰囲気に包まれた。
「君たちの中にはそんなことをするものはいないとは思うが、万一自分のものが見当たらなくなることがあっても決して騒ぎ立てたりしないように。……弁当がなくなってお腹が空いても、先生にそっと知らせるだけに留めて欲しい」と先生も事が事だけに相当気を遣った対応をしていた。
学校のほん近くに二〇軒ばかりのつぎはぎだらけのトタン屋根のバラック建て住宅の集落があり、何かあるごとに其処の子供たちに疑惑の目が向けられたり、あらぬ噂になったりした。真相はともかく、こんなときにはクラスの中では、そこに住む生徒は言わずもがなの白い目で見られ犯人扱いにされた。みすぼらしいバラック住まいの、そこの生徒は、噂にもイジメにも耐えながらひとりポツネンと離れて、いつも淋しげに見えた。それを見て面白がったり喜んだりする者もいたが、貴志は仲間を疑うことに気持ちの悪さを覚えたものだった。
ある日のこと、またしても、そのおぞましい事件が起こった。
いつもつつましく控え目で、それでいてとても愛くるしいく、少女っぽい少女(と貴志の目には映っていた)小酒井桐子持参のお弁当箱が消失したのだった。各自が持参した弁当箱には名前札を貼り、教室後方に置かれた長テーブルに並べることになっていた。お昼の時間とともにそれぞれが自分の持参した弁当を手にして席に付き、みんなで手を合わせ「いただきます」と唱和したとき、桐子の机の上には何もなかった。
それに気づいた隣の席の子が「どうしたの?」と桐子に尋ねたところ、桐子は微笑って「……お弁当忘れてきちゃったみたい」と応えた。
隣の席の子(仲良しの田島麗子)が「じゃ、あたしのを半分ッこしようね」と桐子を見て自分の弁当を開いた。
「どこかに置き忘れたってことないかい?」と別の男子が桐子を見て言った。
そのとき「おい、あったぞ。ここにあるじゃないか。これ、ちがう?」と、後ろの方の席から声がした。彼が、隣の席の机の上蓋から白っぽい布らしきものがはみ出て見えたので、何気なく蓋を持ち上げてみたところ、偶然に中から弁当らしき包みを見つけたということらしい。その席は、バラック住まいの例の生徒(E君)の席だった。彼は食事をとりに自宅に戻っていて不在中の出来事だった。
「……どれどれ、その弁当は君の?」と担任教師が、発見された弁当を手で示して桐子に尋ねた。桐子はどうしたものかと戸惑いつつも、遠慮がちに「……はい」と頷いていた。このときクラスの殆どのものは、やっぱりアイツ(E君)が犯人だと思ったようだった。教室中がざわつき、奇妙な雰囲気に包まれたのは言うまでもない。
「……なあ、みんな、想像だけで人を疑ってはいけないよ。……小酒井さんはこのこと、どう思う?」と教師は桐子に尋ねる。
「あたしがいけないんです。名前も付けずに、いいかげんにその辺に置いたことから、こんなことになってしまって」
「そうだったのか、それで、みんなは納得?」と教師は皆を見て問いかけた。「先生は思うんだけど、これはどう考えてもE君の仕業ではない。E君に罪をなすり付けようとした誰かのイタズラだとしか思えないんだが……。どうだ、君たち、そうは思わないか?」教師の目には、誰がこんな卑劣なイタズラをするんだ! との非難めいた思いが込められていた。
……暫くの沈黙が続き、クラスのみんなは下を向き、ことの成行きを固唾をのんで見守った。最初に静寂を破ったのは当の桐子だった。
「やっぱり、あたしがいけなかったんです。誰も悪くなんかないと思います」と桐子は目頭を押さえて涙声で訴えた。
「小酒井(桐子)くんのせいじゃないよ。何も謝ることなんかないと思うよ。……小酒井くんは被害者だろう。なあ、みんな、そうじゃないか」と、どこからともなく、そんな声が交わされた。「ねえ、先生、ちがいますか?」
「その通り、みんなの言う通りだ。小酒井君が謝ることではない。……悪気があったとは思わないが、こんなイタズラはよろしくないね。こんなことをしたのはいったい誰なんだ? 心当たりがある者は勇気を出して、みんなの前で、自分がやりました、と名乗って欲しい。今なら誰もイタズラをした者を咎めたりはしないと、先生は思う。なあ、諸君」
……再び沈黙が続く。誰ひとり、手を挙げようとはしなかった。こんな場合、イタズラの張本人でない者が、「私がやりました」と言ってその場を繕おうとする英雄的行為に逸る者がいてもおかしくはない。そんな空気に包まれたが、なかなか名乗り出る者は現れなかった。
緊迫したその場の雰囲気にのまれ、桐子が肩を落とし机に突っ伏す様子が痛々しく見え、……考える時を得ず、貴志が手を挙げていた。
「僕です。僕がやりました。小酒井さん、そしてみんな、ごめんな!」
いつもの貴志なら事はどうであれ、目立った行動を起こすようなことはしなかった。何事にも謙虚で控え目な少年と思われていた。そのためか「……嘘つけ!……いい格好するな。……それともアイツ(E君)を庇っているのか?……」などの声が飛び交ったり、誰が見たって山之内(貴志)くんじゃないよな、とのひそひそ話が交わされたりもした。
そんな中で担任教師は
「わかった、もういい。……この話はここまでにしよう。これからは絶対にこのような、人を陥れるようなイタズラはしないように。みんな、この場でそれを約束して欲しい。わかったら解散しよう。……山之内くん、君は先生と一緒に職員室に行こう」
職員室に入って、直ぐ貴志が尋ねられたことは
「なあ、山之内君、どうして君が被らなければならないんだ? 君は誰かを庇ったつもりかも知れないが、その誰かにとっては君の行為は大変迷惑なことなんだぞ。わかるか?」
「……?」
「君が手を挙げたことによって、そのイタズラの張本人は自分の罪を認めるという折角の機会を逃してしまったんだぞ。そうだろう? それじゃ、あまりにも彼が可哀想じゃないか。自分がやりました、こんなイタズラをしてごめんなさいを、言えずにいるということは彼にとって大変苦しいことなんだぞ。……君のことだから、わかるよな?」 教師は諭すように貴志の肩をたたいて言った。
「はい、先生。でも、わかりません」と貴志は、思わず答えていた。
「何故かな? 言ってごらん」と教師は穏やかに貴志を見た。
「僕はこう思います。E君の机のなかに弁当を入れたのは、小酒井さん自身だと思うんです」
「ううん……それは、どういうこと?」教師は思いもよらないことを聞いたように貴志を見た。「……意外だな、君は何故そんなふうに思うんだ? 」
「小酒井さんは、とても心の優しい人です。絶えずE君に同情していました。……だから、名前の付いていない自分のお弁当をそっとE君の机に入れたんだと思います。E君が戻ってきたら、このお弁当、持って帰って食べてね、と耳打ちしようと思っていたに違いありません。ぼくはどうしてかそう思います。……それに」
「それに何だ?」
「このことは言いたくないんですが、小酒井さんは食べ物に好き嫌いが多く、偶に、わたしのお弁当、誰か食べて、……などと言ったりしていましたので、……それで、今日の弁当には食べたくないオカズか何かが入っていて……そういうことを思いついたんだと、ぼくは思います」と貴志は必死になって自分の思いを述べた。「それに、小酒井さんは弁当を残して帰ると家でとても叱られるそうなんです」と付け加えた。
対して教師は半ば呆れたように「君の考えはよく解った。しかし、やっぱり君、それはちょっと考え過ぎじゃないかな?」
そして次の日の朝、貴志が登校し教室の自席に着いて、机の上蓋を開けたところ、折り畳んだ紙片が見つかった。それには、「山之内さん、きのうはありがとうね。小酒井」と小さな字で丁寧に書かれていた。昨日の貴志のとった行為は一種の弾みから出たもので、桐子にありがとうと言ってもらえるほどの行為ではなかった。にもかかわらず、桐子からの一言は貴志の胸に沁みた。
ところで、他にもあった。弁当イタズラ事件の僅か三日後、今度はマクリ騒動だった。
当時未だ化学肥料がなく、食用の野菜・芋・果物などの肥料には(今では全く考えられないことだが)人糞などが多く使われ、そのために人々の体に回虫が寄生した。人の胃や腸に巣くって数センチにも成長した回虫が腸を伝ってお尻から、時には喉を通り口から排出されることも珍しくなかった。これは、経験した者にしか解らない何とも言いようのない気持ちの悪さで、正に青天の霹靂だった。
騒ぎのあった日は土曜日で授業は午前で終り、帰る前に教師も含めて皆に、虫下し薬マクリが配られる。カップ半分くらいの白いドロッとした気味の悪い液体マクリをゴクリと一気に飲み干す。その前に、別室で黒板にスクリーン幕を張り、幻燈機で回虫の写真や図柄が映し出され、教師によって、回虫が体内に寄生したらどんなに厭なものかが説明される。月一回のこの大事な時間を前にして、貴志のクラスで事件が起こった。その日の授業が終って皆が別室に異動した際に、隙を見て誰かが教室の隅の机に用意されていたマクリ入りの薬罐を床にぶち撒いてしまったのだ。また、その行為を偶然に見てしまったものもいた。
この日のマクリ配布(みんなのカップに注いでいく)の当番は、弁当事件の被害者、小酒井桐子と他一名だった。幻燈を見終わり皆が教室に戻ってきたとき目にしたのは、桐子が床に雑巾掛けをしている姿だった。
「どうしたんだ……」とみんなが桐子に問いかける。それには答えず、桐子は教師のいる別室へと走った。
結局、この日のマクリ配布は中止となった。みんなが喜んだのは言うまでもない。マクリを教室の床に故意に流してしまった『誰かさん』は、他でもない貴志だったが、これに対する追求はなされなかった。目撃した桐子がそのことを何も語ろうとせず、自分がマクリをそれぞれのカップに注ごうとしてヤカンを持ち上げたとき、急にめまいを覚えてふらつき、「床に取り落としてしまったんです」と説明。「……ごめんなさい」と涙を流す彼女の訴えが信用されたものだった。思えば。まったく不思議な出来事だった。
弁当事件で貴志の言い分が担任教師によって軽くあしらわれたことに対し、貴志は何とも言えない寂寞の思いと教師への不信感みたいなものが渦巻き、心ならずも発作的に今回のマクリ騒動を引き起こしてしまったものだった。ただ、マクリ当番が桐子だったとは、うかつにも知らなかった。桐子にまたしても迷惑をかけてしまったことになる。
「お咎めなし」は桐子の咄嗟の判断による行為が功を奏したが為だった。その意味では、今回は貴志の方から桐子に「ありがとう」を言う番だった。
小学生あの日、そんなことがあったにも拘わらず、二人はお互い顔を合わせても、この二つの件に触れることもなく、……そして、六年生はクラス替えで桐子と貴志は別々になり、二人だけで言葉を交わす機会がなかった。ただ同じ学校にいる以上、二人はよく顔を合わせたがそれとなく視線を送り合う程度だった(当時はまだ男女が言葉を交わすこと自体、恥ずかしい行為だった)。
桐子はいつも控え目であったが、貴志の目にはいつも眩しく華やいで見えた。中学に入っても三年間、ちがうクラスになり、会っても目で頷き合うくらいの関係に終始した。ただ貴志は桐子の存在がずっと気になっていて、常に桐子を意識しながら時を過していたのだった。
◇ ◇ ◇
高校に入って初めての夏休みのある日のこと、クラスの希望者だけの海水浴で片瀬江の島海岸に一泊で出掛けることになり、貴志を含めた男子一二名、女子六名の計一八名が参加した。貴志のホームルーム担任教師は病気療養中だったため、五月から、代わって特別教育研修生として大学生の田中英子先生が教鞭を執っていた。宿舎は特別教育研修生の英子先生のご両親の経営する旅館『湘南あさひ荘』に先生の好意でお世話になることになった。ここ江の島の海岸線は関東でも一、二を誇る風光明媚な景勝地――空はあくまでも碧く波静か、水平線と空が一体化した遥かな眺望、広い砂浜にきらきらと光る白い砂地、照りつける真夏の太陽……陽が沈む頃には、遠く富士の頂きがピンクに染まって見えることがある。
貴志たち一行は朝早くから省線(今のJR)横須賀線に乗り込み鎌倉へ、……江ノ島電鉄に乗り継いで現地へと向かった。普段、学校では男子生徒、女子生徒の交流は殆どなく、それぞれが別々の世界を築いていたが、この日は少し違っていた。お互いを意識し牽制し合いながらも、おずおずと言葉を交わし合ったり、冷やかし合ったり、ふざけ合ったり、冗談を言い合ったりして、ある程度うち溶けていった。
目的地に着くや殆どの者は早々と着替えをし、砂浜に跳び出していった。当時遠浅だった海で泳いだり、波打ち際で打ち寄せる波しぶきと戯れたり、男女混合のドッチボールやビーチバレーをして遊んだりして、男女の壁は少しずつ取り払われていった。途中から研修教師の田中英子先生も加わってきた。英子先生は大学生だけのことはあって、溌剌として若々しく、そして大人を感じさせた。優しく、聡明で、生徒たちの憧れの先生でもあった。
小酒井桐子はどちらかと言えば細身で小柄だが、バレー部に所属しているだけのことはあって、遊びとはいえ球技は得意だった。普段の控え目な挙措に対し今日は活発に動きまわっていた。貴志はそんな彼女を見て、今更ながら何と美しく素敵な人かとの思いを新たにした。自分の視線がいつの間にか彼女の姿を追っている。こんな経験は初めてだった。なるべく彼女から目を逸らそうと意識しても、それは叶わなかった。ついつい自然に彼女の動く様子を目の端に捉え、遠く近くに眺めていた。
それだけではなかった。貴志は、桐子の胸の大きさやその形が気になって仕方がなかった。頭の中で彼女以外の五人の女子と較べたりもしていた。どの子が一番発育しているのか、桐子は何番目くらいか、を無意識のうちに観察していた。また、颯爽として動きまわる英子先生の、水着姿の胸の深い谷間にも圧倒され、とても眩しく感じられた。貴志は、父から小型カメラを借り出していたので、適当にスナップを撮りながら、桐子を何とか画面に収めようと試みたがその機会はなかなか訪れなかった。
ために、思い切って桐子に近寄り、さりげなく
「君の、写真撮らせて――」と言ってはみたものの、桐子は貴志からの突然の申し出に困惑し、「恥ずかしいから、今はやめて、ごめんね――」と、恥じらいながらその場を足早に離れていった。
明くる日は、英子先生の案内で江の島の展望台、植物園、岩屋洞窟などを散策し、お弁当を食べてから自由解散というスケジュールになっていた。
朝八時、英子先生も一緒になっての大広間での朝食会のとき、ちょっとした騒動が巻き起った。
一同が席に着いたとき、二人の女子生徒の姿が見えなかった。桐子と、彼女の大の仲好しの田島里美の姿がなかった。一〇分ほど過ぎてから、英子先生が入ってきた。
「お早う、みんな……。よく眠れた?」
「は~い」という生徒たちの声。
それを受けて英子先生は一同を見回して
「……お食事の前にちょっと聞いて欲しいことがあるの――」と言った。「小酒井桐子さんと田島里美さんのお二人が急に今日の予定は取り止めて、もう帰られたのよ。〈みんなに、勝手してごめんね〉とあたしから伝えて――と言って早々に発たれたの。何だかとっても寂しそうな感じだったわ。何があったのか知りませんが、一応みんなにお知らせしておきますね」
「はい!」それを聞いて男子生徒の一人、白井正人が手を挙げた。「理由は何と言ってましたか? 先生」
「尋ねても何も言われなかったのよ。ただ、二人ともしょんぼりしていたみたいよ。君たちに何か心当たり、あるんじゃない?」心なしか英子先生の瞳に非難めいた思いが込められているように見えた。
「もちろん、あります。多分、それは……」男子生徒のひとり白井正人がみんなを見て、言おうか言うまいか、どうしよう? というように首を傾けつつ問いかけた。「実は……僕たちに原因があるかと思います。おい、みんな、そうだろう?」
「黙って」英子先生は正人を手で制し、「今は言わないで。何も言わなくていいのよ」と一同を見やり、「さあ、その件は後にして折角だから先にご飯をいただきましょう」と言った。
このことでこれ以上、話合っても、誰が? どうして? 何を? と、質問や告発や議論が百出するだけで、あまり時と場に相応しい話題ではない、と判断したからだろう。貴志は英子先生の生徒への思いやりに何故か暖かさを感じた。
……男子も女子も、〈いただきま~す〉と手を合わせて朝食にとりかかった。湘南名物の生シラスの和えもの、香ばしいぱりぱりに焼かれた海苔、金目鯛の煮付け、サザエの壺焼き、ピンクの半熟卵、アサリの味噌汁、角切りキャベツのお新香、熱々の麦御飯……。すげえ!どこからともなく、そんな声が聞こえる。……忽ち、もう、夢中。
一時間経って、和気あいあいの食事が終り、ふ~と一息ついて、皆はお互いに顔を見合わせた。むろん席を立つ者はいなかった。
「さあ、出掛ける用意をして」と英子先生は明るく皆に声をかけたが、誰一人として立ち上がろうとするものはいなかった。「どうしたの? みんな」彼女は訝し気に優しく皆を見廻した。
「皆で話し合った方がいいのでは? なあ、みんな」再び白井正人が起ち上がり一同に問いかけた。一同はそれに応えて頷く。
〈この際、英子先生にも聞いてもらった方がいいのでは?〉との意見と、〈これは僕たちの問題だから英子先生には外してもらった方が……それに女性群にも外してほしい……〉等々と意見が飛び交った。――結局、〈先ずは男子だけで相談しよう〉とのことで纏まった。即ち、英子先生と女子生徒には退席してもらって男子だけの話し合いの場と相成った。時間は今から一時間きっかり、午前一〇時に、英子先生と女子生徒が加わることで一致した。
「じゃ、そうしましょう。そして、三〇分間意見を交換して……結論は出るか出ないか、あたしにはわかりませんが、……出発は一〇時半にしましょう。これは厳守よ。みんな、いいわね」 英子先生を含む女性群五名は別室でアイスクリームをいただきながらゲームでもしましょうということになった。
そもそもこの問題は、男子生徒の、思春期の好奇心とイタズラ心がもたらしたもので、決して悪気から出たものではない。が、あまり気分の良いものでないのは明らか、というのは誰もがよく解かっていることだった。
真相は、昨夜午後一〇時半の消灯三〇分前に、小酒井桐子と田島里美が連れだって温泉に浸かり、終わって髪の毛を拭いながら脱衣場に戻ってきたとき、悪戯好きの山田健一とその子分でオッチョコチョイの相川次郎の二人組が女湯の暖簾を潜って入り更衣室の引き戸を少し開けて、恐る恐る中を覗いたから堪らない。気配を察して桐子と里美は、それこそびっくりして立ち竦み、慌てて身体の向きを変え、彼らの視線を避けようとした。ほんの一瞬の出来事だった。声をあげる余裕もなく、里美が低く抑えるような悲鳴とともに「行って! 早く」と追い払うように叫び、二人の男子は部屋へと逃げ帰った。
部屋は、続きの間を三つの部屋に襖で仕切り、男子各四名ずつが一緒だったが、このときは開け放たれて、みんなが一緒に騒いでいた。女子は三名ずつが一部屋で、里美、桐子が浴場へ行ったとき、もう一人の子は別室で喋っていたので、この事件については何も知らなかったし、知らされてもいなかった。
一方、あたふたと戻ってきた張本人、山田、相川のふたりが、意気揚々、喜色満面……息を弾ませながら自慢気に語ったところによると、
「俺たちは見てしまったんだ、何もかも」……里美ちゃんは黒々と繁り、桐子さんは薄く生えていて……、また里美ちゃんは桐子さんよりもちょっとだけグラマーだったな、と皆を前にして自慢気に感想を述べた。貴志はそんなことを喋る二人の悪ガキに、嫌悪感を覚えたが、ここで喧嘩をする訳にもいかず、わざと興味がない風を装って黙っていた。替わりに、いつもは寡黙で超然としている白井正人が話に割って入り、皆を窘めた。彼は皆より背が高く落ち着いていて何となく大人びていて、威圧感も説得力もあった。
「なあ、みんな、今夜のことは此処だけの話にして、以降絶対に誰にも喋らないことにしないか」 賛成だ――とみんなは同意した。
従って、日が替わったとはいえ、今更この問題をこの朝食会で持ち出そうとした白井正人の意図が皆には理解できなかったようだ。正人は「昨夜はこのことは、以降は話題にしないということで終わったけど、被害者のふたりが早々に引きあげ、しかも寂しそうだったとなれば、果たしてこのままで済ませてしまってもよいものだろうか? それをみんなに聞きたいんだ」と真面目に提案した。
「俺たちがいけないんだ。なあ、相川、そうだろう?」首謀者の山田健一が頭をかきながら立ち上がって子分の相川次郎に同意を求めた。「ふざけ過ぎたんだ。帰ったら彼女たちの家を訪ねて、謝るしかないよなあ。赦してくれるとは思えないけどなあ」
「赦してくれるかどうか――なんて、そんな問題ではないだろう。悪いのは悪いんだから謝るべきだと思う」白井は、そう言って皆を見廻した。
「いや、そんなことをすれば却って彼女たちを傷つけることになるんじゃないかな? 僕はその方が心配だよ。な、ちがうか?」 白井正人とはちがって所謂優等生タイプの関根淳一が尤もらしく蘊蓄のある意見を出した。「山田、相川にはすっきりしないかも知れないが、何よりも彼女たちの気持ちを慮って、そっとしておいてやった方がベターだと思うが……」
「そうだね、新学期になれば、そんなことはケロッと忘れて、平気な顔して出てくるよ」と誰かが言った。
「そんな単純なものではなかろう? 繊細な乙女心を傷付けて、それで知らんぷりはないよなあ」と他の誰かが言った。
ここから、様々な意見が飛び交ったが何れも堂々巡りで結論らしきものは何も出なかった。なかには、ただ面白半分で興味本位も手伝って山田、相川に向かって、そのときの彼女たちの恥ずかしがる様子を「詳しく話してみてよ」などと好奇心むき出しの不届き者もいた。
貴志も何か意見を言わなければ、と思ったが、あれ以来、桐子への特別な想いが芽生えていたので、取りあえずは沈黙を守ることにした。それにしても、山田、相川の二人は断じて赦せないとの思いが強かったのは言うまでもない。
結局、議論に火を付けた白井正人が代表して締め括った。
「じゃ、こうしよう、山田、相川は充分に反省しているとして、この件は俺に任せてくれないか。名案は浮かばないが、彼女たちの気持ちになって俺なりに真面目に考えて対処してみよう。それでいいかな」 一同は不承不承、承知したように頷き合った。
「それよりも……英子先生や女の子たちに何と説明すればいいのか、黙っているわけにもいかないし、それも心配だね」と優等生関根淳一が言葉を継いだとき、英子先生プラス女子生徒五名が広間に戻ってきた。
「どう? 結論出ました?」と英子先生は男子生徒を一瞥して優しく且つきっぱりと問いかけた。「ではみんなで話し合いましょう」
「はい、白井君に一任することで一致しました」関根淳一が皆を代表して応えた。
「私たちも、英子先生も交えて話し合おうって決めました」と女子を代表して、一番お茶目な、けれど勉強の良く出来る女番長、山岸あかりが男子をひと睨みし腰に手を当て睥睨するようにして言った。
「きみたちが小酒井さんや田島さんに、いったい何をしたのか知りませんが、知ろうとも思いません。だからと言って私たちは決して君たちを赦したりはしませんからね。分かった?……男子はこれからは私たち女子の言うことは何でも聞きなさい。そして私たち女子の家来になりなさい。そしたら、今回限り桐子、里美に赦してもらってあげるから。それで、いいわね!」
「は~い」男子生徒全員がおどけて平伏した。
「あかりちゃん、カッコいいぞ!」誰かが野次を飛ばした。たしかに、そういえば山岸あかりは格好よく見えた。少し太めで、そのせいか体を反らすと胸が大きく膨らんで見えた。貴志はふと思わず彼女の胸に視線を這わせていた。と同時に、どうしたことか、あの日の桐子の、発育途上の胸の白さが貴志の脳裏をよぎっていた。
それからは、英子先生の案内で江の島の名所旧跡、名刹を訪ねた。皆でガヤガヤ言いながら江の島弁天橋を渡り、江の島神社で手を合わせ、島の頂上に向かった。そこにはサムエル・コッキング苑があり、様々な植物や四季の花々が咲き、人々の心を和ませてくれる。
「あの二人(小酒井桐子と田島里美)がいないのは残念だね」と誰かが言い、一瞬しゅんとなった。悪ガキの山田、相川が女子からまともや睨まれ、項垂れる。そんな一幕もあった。
庭園から展望灯台に上ると、そこからは、遠く相模湾が一望でき、大島、伊豆大島、さらに富士山がぽっかりと浮かんで見えた。「あの二人がいれば、きっと喜んだろうに……」とまた誰かが言った。そのあと、岩屋洞窟を見学し、龍恋の丘に足を延ばした。通称ここは『恋人の丘』と言い、愛を誓い合う南京錠が所狭しとぶら下げられていた。貴志は先に帰ってしまった桐子を思った。必ずや桐子と訪れ、愛を誓い合い、〈抱擁と接吻〉を繰り返す姿を想像した。再び頂上に戻り、そこで美味しい空気とお弁当をいただいて、その後流れ解散となった。男子、女子の間は、英子先生を中心に少しずつ親密度を増し、……ほろ苦い有意義な小旅行となった。参加費は実費として一人当たりお米二合だった(この頃はお金よりもお米の方が重宝がられる時代だった)。
貴志は帰るや早速、写真館を訪れ、浜辺で撮ったスナップ写真を現像――その中から桐子が写っているものを選び出し、桐子の部分のみを大きく引き伸ばしてもらった。まあまあそれと判る写真は三枚撮れていたが、うち二枚は遠過ぎて被写体が桐子と判別困難なもので、辛うじて残り一枚のみが真ん中あたりに桐子の全体が収まっていた。水着の桐子が、ビーチボールを追いカメラに向かって跳躍して笑顔を見せていた。写真屋の親父がニヤニヤしていたが構うことはない、この部分を大きく引き伸ばしてもらった。小柄だがスリムで整った躍動的な体形……ふくらんだ胸の動きまでは見えないが、貴志はその一点に集中して眼を凝らした。この一枚は浜辺での唯一の収穫で、貴志の『宝もの』……机の引き出しに大事にしまい込み、折に触れそれを何度となく眺めて過ごした。そればかりではない、写真の彼女の唇や胸の辺りに、そっと繰り返し口づけしてみる始末だった。
夏休みも終盤を迎えた八月二〇日、この日は登校日になっていた。先生たちの給料日とか言われていたが、長すぎる夏休みの中で唯一みんなの顔が揃い、生徒たちの消息や生活状況を知るという意味で大切な日だった。
九時三〇分に教室に集合。ホームルームのクラスメイトが一同に顔を合わせる。貴志は約二〇分早く教室に入り、それとなく桐子を待った。江ノ島での海水浴の明くる日、しょんぼりとして早々に立ち去って行ったという桐子が、どんな表情でやってくるのか気になって落ち着かなかった。わだかまりのない元気な姿を見せてくれるだろうか、と貴志は知らず知らずの中に全神経を集中させて桐子の現れるのを待った。……暫らくして桐子と、仲好しの田島里美の二人が何やら喋りながら入ってきた。桐子は貴志を見て、ちらと微笑み、俯き加減に会釈してきたように思えた。桐子と里美は余程仲が良いのか、お揃いの濃紺の半袖ポロシャシャツを身に着けていた。桐子の二の腕が眩しい。ポロシャツは肌にぴったりと密着し、ふたりの胸のふくらみを想像させた。貴志は桐子の胸に視線を送り、透き通ったあの日の神聖なオッパイを思い、思わず視線を外していた。この日、英子先生の姿はなかった。
三
あれから一カ月、夏期休暇も終わった九月二十三日秋分の日の前日、英子先生の特別教育研修の期間が終了となった。
英子先生はこころを込めて
「短い間だったけど楽しかったわ。みんなに逢えてほんとうによかった。この思い出、先生は一生忘れることができません。みんな、本当にありがとう。先生はみんなが大好きよ……もしよかったら、皆でまた会いに来てね」と目にいっぱい涙をためて挨拶した。
英子先生の顔は美しかった。憂いと優しさをたたえた綺麗な瞳でみんなを眺め、そして教壇から降りて皆の席を廻り、一人ひとりの手を取り一言二言声をかけ握手して回った。貴志の番が来て、先生は
「山之内くん、しっかり勉強して一次志望の大学に受かるのよ。……先生、こころから祈ってるわ」と言い、貴志の頬を軽く撫でた。
「はい、先生??」貴志は彼女の盛り上った胸の形を見て、ある種の恥ずかしさと時めきを感じたものだった。
英子先生がいなくなる寂しさを思い、涙する生徒もいた。いたずら坊主の山田、相川も泣いていた。
教壇に戻った英子先生に
「お元気で! 頑張って! また来てね……先生大好きです……」等々と誰からともなく別れを惜しむ声が飛び交った。感極まっての啜り泣きの声が聞こえる。
(この当時の高校一年生と謂えば、概して、まだまだ真面目で純真、純情且つウブだった)。
そして二年半が経ち、卒業を間近に控え、校内は頗る慌ただしくなっていった。
二年生では桐子と貴志は別のクラスになり、近所に住んでいるとはいえ殆ど顔を会わす機会がなかった。道で擦れ違うことがあっても軽く会釈する程度で、お互いに意識し合っているのか言葉を交わすことが躊躇われた。
三年生になってもそれは変わらなかった。加えて、違う進路を目指すため、それぞれの当面の目標に向かって突き進まざるを得ない状況に追い込まれ、ふたりの距離は近づくことはなかった。貴志は、遙か遠きにある手の届かない目標と知りつつも、見栄を張って最難関と言われる東京大学(文Ⅰ)を目指して挑戦することになった。
貴志の父親は旧東京帝国大の出身でエリート官僚の道を歩んできたためか、貴志にも過度の期待を抱き、文系に進むなら、「旧帝大及び旧三商大以外は大学に非ず」といった偏った考えを息子に押しつけ付けて通してきた。それをごく自然に当然のこととして受けとめ、貴志は、常に、人に出来ることなら自分にも出来ないことはない、出来ないとすれば為さるからだ、という、父親譲りの固定観念と自己暗示に取りつかれ、自分の真の実力を知らないまま、背伸びをし、格好をつけて受験期を過した。それでも、年に二回ある全国学力コンクールでは、二度までも運良くマグレが重なって数学が全国三〇位内にランクされ、先生はじめ皆を驚かせたものだった。が、それが大きく災いした。数学を制す者は全てを制す、と思い込み、自己過信にも陥り、油断してしまった上、弱点の英語や国語を甘く見てしまい、著しくバランスを欠く成績が続いた。
それでも貴志は気にしなかった。〈一心不乱に、とことんやれば叶わぬものはない〉と自分に言い聞かせて臨んだ結果、受験はものの見事に失敗した。
後になって振り返って見ると、果たして貴志は、意気込みだけが空回りし、実際には、一心不乱に取り組むことをしてはいなかった。にもかかわらず当たり前のように第一志望校一本やりを押し通したので、貴志は否応なく浪人することとなった。
一方、桐子はいともすんなりと国立の名門お茶ノ水女子大(文学部)に合格した。仲良しの田島里美も一緒だった。
(第二章) 恋のめざめ
一
「残念だったな。まあ、あと一年お互いに頑張ろうや。よろしく頼むぜ」と、一番の親友、白井正人はそう言って余裕の表情で見せた。彼は貴志とは違って官僚志向よりも民間企業を目指し、そのため自分に最も合った一橋大(経済学部)に挑戦したが叶わなかった。彼の場合は、戦争の影響で父親を戦地で喪い、遺された家族は生きるためにバラバラになり、彼は大手鉄鋼に勤める兄の世話になりながら、アルバイトに明け暮れ、充分な時間や対策もとれないまま受験期を過さざるを得なかった、というハンデがあった。しかし彼は、焦ることなく、明るく、ゆったりと構え、そこそこの成績を維持してきたが今一歩のところで届かず……。そして、二人揃っての浪人生活を送ることに相成った。
卒業式まであと一〇日余りとなったある日のこと、学年最後の行事として、この学校独自の粋な計らいで映画鑑賞会が行われた。まだ受験最中の者もいるので勿論自由参加だった。ホームルームのクラスごとに日程が組まれ二クラスずつ一組となり、三日かけて横須賀中央の映画館カシオペヤ座に繰り出した。
映画はソ連邦初の総天然色映画で、戦後我が国で初めて見るカラー映画として話題を呼んだ、幻想的で詩情あふれる恋物語『石の花』だった。
総天然色という美しい色彩に魅せられ、うっとり眺めていると、いつしか溜息が出るような、何とも恥ずかしいような場面――接吻、接吻、接吻の連続……初めはくすぐったくって、どこからともなく男子生徒の中から、失笑をまじえた軽い冷やかしにも似た声が洩れる。熱い抱擁と繰り返される大写しの接吻シーン。単純な筋立てに拘わらず、映画そのもののストーリーや内容は頭の中を素通りし、唯々、悩ましくも美しい愛の世界に圧倒され、そのシーンに痺れ、酔ってしまって、映画館を出るときには、自分が自分でないような奇妙な錯覚に陥ってしまったのは、貴志ばかりではなかったと思われる。接吻という、実際に見たことも具体的に思い描いたこともない場面に、新鮮な驚きと時めきと息苦しさを感じたものだった。
そして身体の中から湧き出る熱き血潮と滾る(桐子への)思い……そんな感情が貴志の脳裡を交差し、場面、場面がそのまま貴志を圧倒した。
映画が終わっても誰ひとり起ちあがろうとするものはいなかった。起ち上がって周りを見渡すことが気恥ずかしくもあり、憚られた。
貴志の場合は特に、映画の中の青年が自分であり、可憐でひたむきな少女が桐子だった。爽やかで香り高い純粋な愛のかたちは、そのまま貴志の憧れの恋のかたちだった。桐子もこの映画を観ただろうか。ぜひ観て欲しいと思う。
思えば、貴志にとって桐子とは、どういう存在だったのだろう? 淡い片想いの、空しい恋に過ぎないのか? 桐子は自分のことをどう思ってくれているのだろうか。
今や卒業とともに、桐子とは完全に離れ離れの生活に入ってしまう。貴志には、浪人生活――人生の第一歩を無事踏み出すことが出来るか否かの熱い闘いが待っている。桐子は大学生となり、真っ直ぐに迷いのない人生を歩んで行くことになるだろう。ただ、このまま、〈さよなら……〉ではあまりにも切なく哀し過ぎる。貴志はこの夏の江の島の浜辺で撮った桐子の写真を毎日飽きずに眺め続けた。
いろいろ思案してみた結果、貴志は勇気を振り絞って桐子に手紙を書くことを決意した。自分の気持ちを正直に文章に認めること自体が大変な思考力を要する。その上、どのようにして桐子に届けるかも大いに迷ってしまう。少々照れくさいが学校からの帰途、どこか適当なところで待ち伏せし、果敢に桐子に手渡すのがベストな方法だとは思っていた。だが反面、もし桐子に受け取りを拒絶されてしまったら、それこそもう万事窮してしまう。貴志の恋はそこで完全なる終止符を打ってしまうことになりかねない。それだけは何としても避けたい。そこで考えられるのは、郵送または桐子宅への直接投函はどうか。ただ直接の手渡しとはちがって、この方法では桐子の家族に見つかってしまう懼れが充分にある上、特に彼女の父親に知られてしまうと却ってマイナスにならないとも限らない。というのは桐子の父親は、貴志の出身中学の現役の校長であり、見るからに威厳があり近寄りがたい印象を受ける。が、その実、気さくで生徒思い、尊敬される教師ではあったが……。ただ、今の貴志にとっては何となく煙たい存在でもあった。
特に印象に残るのは、先生の何気ない行動や言葉の中から迸る『気骨』の教えだった。『気骨』、それはあくまでも謙虚で強い意志を持ち、自分の信じることに真っ直ぐな生き方のようであった。貴志の中学では、担当の教師が何らかの理由で授業を休講せざるを得ない事情が生じたとき、代わって校長の講話が行われることがあった。
そんなある日の校長講話の時間――。先生を待つ教室の扉が開く。と一瞬、緊張が走る。そこへ校長先生がゆったりとした歩調で登場し、教壇に立った。そしておもむろに私たち生徒を睥睨……優しいが強い光を放つ眼。その眼が私たちの頭上を通過し、次いで教壇の机の上を見て、次に何を思ってか、入口近くに置かれていた掃除用バケツに掛けられていた雑巾を手にとって、そして教壇の机の上を丹念に丁寧に拭いていく。私たちはその動きを身を硬くして見守っていると、先生は一言も発せず、教室を出て行った。このときの光景が貴志の脳裏に鮮明に焼き付いて離れなかった。一つ間違えれば、これほど手強い存在はないと、貴志には思えた。
もうひとつ忘れられないのは、日本史の代行授業での一幕。……悠然として教壇に立ち、「起立・礼・着席」のあと、先生はまず私たちをひと睨みし、次に黒板に向かって「政治」と二文字を認ためる。「君たち、政治とは何か考えたことがあるか?」と問いかける。誰か答えてくれ、とその眼は語っていたが、誰にも答えられない。政治とは国民を不幸にしないための施策を司ること、決して国民を幸福にすることばかりではなく不幸にしないこと……。そんなようなことを先生は語り、歴史を学ぶためには、史実を学ぶことも大切だが、その中味、幹を学ぶことがさらに大切なのだとも言われた。思うに先生の授業は教えるということではなく、多くを考えさせるという正に骨太の授業であったように思う。
果敢なひたむきさ、恐れぬ勇気、やり遂げる根性を、私たちは先生の教えの中から学んでいったと言っていい。担任教師とはちがって、校長先生とはそれほど接触の機会はなかったものの、貴志の中では、いつの間にか校長先生への畏敬の念、尊敬の思いを持つようになっていた。この先生の愛娘である桐子。
さて、どうしたものか?と、ひとり逡巡し、迷った挙句、親友の白井正人に思い切って相談を持ちかけてみた。
白井正人は最初「そんなことは、自分でやれよ。本来、恋は秘密にすべきもの……それが相手の女性に対する礼儀だぞ」と言って相手にしようとしなかったが、貴志の必死の思いが伝わったのか、あるいは貴志のひたむきさに哀れを覚えたのか、ついに重い腰を上げ、
「よっしゃ――」と渋々、だが力強く引き受けてくれた。「しょうがない奴だな、吉と出るか凶と出るか保証しかねるが、それでもよければお前さんの為じゃ、思い切って橋渡し役をやってみるか」と言ってくれた。「どのようにして?」と尋ねると、「そうだな、今考えられることは、小酒井桐子姫の親友、田島里美くんから桐子嬢におまえのラブレターなるものを手渡してもらうのが良さそうに思うが……。彼女ならきっとうまくやってくれそうな気がする。よかったらオレから頼んでみよう。それでいいかな?」ということで話が纏まった。田島里美と白井正人とは住まいが比較的近くにあり、また小学校、中学校、高校が同じで謂わば幼な馴染み。一緒のクラスになったことも何度かあって、結構親しく口の利ける間柄のようだった。
貴志の書いた恋文の内容は、というと次のようなものだった。書き出しは、〈愛する桐子様〉とか〈大好きな桐子さんへ〉としたかったが、そんなことを書けば、却って敬遠されてしまうだろう。思いや感情は極力抑え、短く簡明に要件のみを書くべきだと自分に言い聞かせた。書き出しは、ありきたりに〈親愛なる桐子さんへ〉と書いてみたが、少々厚かましいかな、と思い直し、親愛の文字をも削除した。
小酒井桐子様――
お茶の水女子大学に合格、おめでとう。心からお祝い申し上げます。
実は、失礼とは承知の上で、居ても立ってもおれなくなり、思いあまってペンをとりました。
突然の便り、どうか赦してください。
私たち折角、中学校から高校までの長きにわたって同じ学校で過ごしながら、殆ど親しくお話する機会に恵まれませんでした。思えば、あっという間の六年間でした。
桐子さんとはこのまま違う道を歩み、これから先、お目にかかることも、語り合うこともなく年月を重ねていくのかと思うと、あまりにも悲し過ぎます。僕は勝手にそう思っています。
そこで身勝手な、誠に厚かましい提案ですが、四月二九日(土)から一ヶ月間、東京有楽町の日比谷芸術劇場で宝塚少女歌劇団のシェイクスピア『夏の夜の夢』の東京公演が催されます。男でありながら宝塚歌劇は一度ぜひ観てみたいと思っていましたが一人では何だか恥ずかしくて……。そこで、〈この世で一番一緒に観賞したい人は誰?〉と思いを巡らせてみましたところ、桐子さん以外には、いないことに気がつきました。
決してご無理に、とは言いませんが、何とかご承知いただきたく、……祈る思いで良き返事をお待ちしています。
山之内貴志 (拝)
(追伸) この手紙は信頼する友、白井正人君に頼み、あなたのお友だちの田島里美さんから桐子さんにお渡しくださるようお願いしました。あなたに直接お届けするのが正しく勇気ある行動とは知りながら、その勇気がなかった非礼をどうかお赦しください。
白井正人によれば、卒業式の前々日に田島里美くんに手渡したので、卒業式までには小酒井桐子嬢の手許に届いているだろう、と言う。……とすれば、もう読んでくれただろうか。読み終わって桐子はどんな反応を示すだろうか。貴志は心配で眠れぬ夜を過ごした。中味を白井正人に見てもらったところ「奇跡でも起こらないかぎり、そんなに簡単におまえの誘いを受けてくれるとは思えないが、この手紙読んだら、彼女、絶対にジ~ンと来るとは思うよ」と貴志を冷やかした。
三月二〇日卒業式当日は早目に登校し、講堂入口付近でうろうろして桐子を待った。貴志の誘いを受けてくれるなら桐子は早めに登校してくるにちがいない。……十分、二十分と経過するに従い、生徒たちの数が増していった。こうなると桐子をちょっと呼び止めて話しかける訳にもいかない。仕方なく諦めようかと思い、講堂の入口に向かったとき、桐子が急ぎ足でやってきた。思わず反射的に、貴志は声を掛けようと体の向きを変えたとき、桐子と目があった。「お早う――」と貴志。桐子はちらっと貴志を見て恥ずかしそうに目を逸らせ、軽く頭を下げて、足早やに通り過ぎた。いつの間にか、大人になっていた桐子……スリムな体形の中にも丸みを帯びて、女っぽくなっているように見受けられた。上着の上からではよく判らないものの、何となく形よく盛り上がった胸のふくらみ……なだらかな肩の線。一瞬ではあるが貴志はそれだけを見て、頭の中に刻み込んだ。美しい人になる、と貴志は思った。
二日間、クラス仲間との懇談会、担任の先生への感謝の会などで結構忙しく、貴志の神経は桐子から遠のきはしたものの、帰宅すると、桐子からの返事は未だかと気になって仕方がなかった。待つことは辛いこと……。卒業して三日目、ようやく郵便受けに待ちに待った愛しい桐子からの便りが届いた。一見して彼女から、と分かる繊細で女らしい筆致で住所と氏名が書かれていた。
貴志 様――
お手紙ありがとうございました。
予期せぬお誘いをいただき正直言って困惑いたしております。
あなたって幸せね、と里美が冷やかすものですから、あたし、なぜが気恥ずかしい思いでいっぱいです。
結論を先に申し上げますと、あたし、貴志さんのお気持ちを今お受けする訳にはいきません。貴志さんは、今が貴方の人生の中で一番大切な時期にあるのを、よ~く知っていらっしゃることと思います。
あなたには、気持ちを引き締めて、今度こそ第一志望を目指して着実な一歩を踏み出していただきたいと思います。
父も、山之内君なら来年はきっと合格するだろう、と言っていました。
わたしはわたしで教師になるための道を一歩また一歩と歩んで行きたいと思っています。
最後に、貴方の努力が報われることを祈っています。こころから。
かしこ。桐子
こうして貴志の恋は終わった(と思った。)
桐子の文面から察するに、「貴志さんの気持ちを今お受けする訳にはいかない」とあるのは、今だけではなく、この先も受けられないと言っているように感じられる。あなたにとって今が一番大切な時期――何も考えずに受験に向かって頑張りなさい、とやんわりと《激》をとばしているように思えてならない。そして、それ以上の感情は込められていないみたいに思えた。(心のこもった?)実にあっさりとした文面だった。また、見方によっては、〈この先のY字路を別々の道を歩んで行きましょう〉との別れの宣言のようにも見て取れる。
ならば、無念だが、潔く、今を起点に一年間は桐子のことも忘れて受験に向かって邁進しよう――貴志はそう決意した。
受験という人生最大の難関を、黙って越えてこそ、次の目標が生まれる。貴志は素直にそう思うことにした。
二
一旦は、桐子のことは忘れて受験に専念しようと、大いなる決意をしたものの、どうしたことか貴志の浪人生活に所謂「背水の陣」なる感情が湧いては来なかった。自分でも不思議だがどうしたことか、貴志のこころには余裕すら生じはじめていた。
親友の白井正人も落ち着いていた。彼とは時々会い、お互いの進捗状況を報告し合ったり、他流試合と称して一緒に有名予備校の公開模擬試験を受けに行ったりした。成績は思いのほか良かったり、意外にも悪かったりしたが、思い上がったり、落ち込んだりもしなかった。本来なら、予備校に通ってプロの指導を受けるのが合格への近道であり、最善の策だとは思う反面、予備校に通う時間そのものがもったいなく、また授業そのものにもそれ程の価値を見出さなかったと言っていい。何故なら、予備校は受験生同士の競争意識を煽り立てることにこそ価値があり、それ以上のものは期待出来そうにない。予習や復習に費やす時間だけが実のある時間であると思う。それを考えると、自宅学習の方がどんなに効率的か。
白井正人に言わせれば、予備校に於いては〈幅広く奥深く学び、その上完全を期するということは至難の技〉……それよりも自宅に籠って、教科書と問題集の合計二冊のみを何度も何度も、本がボロボロになるまで繰り返し、二冊に関する限りは一字一句まで自分のものにしてしまう、即ち〈完全を期する〉――そうすれば、どんな難関校でも七十五点は取れる。七十点以上あれば合格する。そのほうが時間を有効に使えるので、これほど効率的な勉強法はないと断言する。その証拠に、過去の入試問題をひもとくに当たって、教科書を見ながら回答すれば、どれほどの正確率があるかを試してみたところ、その結果は明らかだった。従って、他の受験生とは違って、親友二人組は自宅にこもっての独学を極め込んで切磋琢磨した。特に国立大学の受験科目は五教科(八科目)であり、私立の英数国三教科(三科目)に較べて不利な状況にある。それだけに八科目を完璧に制覇することは難しく、それよりも教科書の範囲内で着実に八科目全体のレベルアップを図る方が合格への近道かと思われる。
他流試合は、白井正人、貴志ともにアップダウンを繰り返し、勝ったり負けたりして、お互い喜んだり悔しがったり……。だが徐々に合格圏に近付いていることは確かだった。ただ、白井正人は独自の方法論による勉強法を押し通して安定感を増していったが、逆に貴志は好不調の波が激しく何とも心許なく不安定な状況が続いた。貴志の勉強法は、七十五点狙いの教科書中心主義に何となく不安と焦りを感じ、そのため一冊、二冊と参考書を増やし、場当たり的な勉強法で最後の追込みを図った。これを見て、白井正人は、「おまえは気が多いな」と笑って批判した。「何も満点をとらなくても、最低ラインさえ確保出来ればそれでいいじゃないか」と。
言われてみれば、その通りではあった。
白井正人は、貴志と違って〈単純にして明解〉な心情の持ち主だった。一旦決めた方針に対して途中、疑うことをこころよしとしなかった。教科書一本主義を貫いた。
果たして結果はどうだったか?
併願した私立の名門大に白井正人は不合格、貴志は合格した。この時点では、貴志が先行したことになる。だが、肝心の第一志望(本命校)については、白井正人は悠々と第一志望の一橋大(経済)に合格したが、貴志は残念ながら東京大(文Ⅰ)に不合格となった。白井は第一志望校に受かったのでそれで初志貫徹出来たことになるが、貴志は〈浪人すべきかどうか〉を決めかねて、親友白井正人に相談を持ち掛けた。〈こういう場合、君ならどうする?〉
「忌憚のないアドバイスを受けたい」と親友の白井に相談してみた。それに対し白井は、
「君が合格した中法大に取りあえず籍を置き、その上で東大に再挑戦するのがベターだと思う」との即答だった。「俺なら再挑戦なんてことはしないだろうが、君はちがう」
「どうして? 何がちがう?」
「??それは目的がちがうのが第一。あとは君の進むべき方向性の問題が第二。更に謂わせてもらうと、君の性格の問題が第三。こんなところかな?……」との進言を受けた。
貴志の性格から察するに、〈たった一度の挑戦で敗北を認めて将来の方向性を変えるなんてことは断じて許容出来ないだろうし、それでは自尊心が許さない〉
第二次世界大戦にあって、我が国は恐らく〈敗けると知りつつも戦わねばならなかった〉のではないかと思料される。日本が敗けたのは〈己を知らずして自己過信の中で国民感情を鼓舞して戦った結果の敗戦〉ではなかったのか。
「??失礼だが、今の君を見ていると、現時点では〈再び浪人という立ち位置のない無謀な挑戦〉をしようとしている。??そうじゃないか?」と白井は言った。謂われてみるとその通りだった。貴志は親友のアドバイスに素直に従うことにした。即ち、中法大生となり、その上でもう一度東京大にチャレンジする。浪人しての受験一辺倒とはちがって、中法大の勉学と受験生としての勉学との二つを同時にこなさねばならない。たしかにハンデキャップはあるが、それはそんなに難しいことではない。何故なら、万一受験にしくじっても大学生であることに変わりはない、という心理的な安心感がある。したがって、悠々受験に備えることが出来る。〈現時点の実力プラスこれからの積み重ね〉これによりも他の受験生に較べて心理的に有利に戦える。
「そうは思わないかい?」と白井は言う。
もう一つ、考えてみれば、貴志の受かった中法大は法曹界にめっぽう強く、毎年多くの司法試験合格者を輩出していた。従って、ある意味で貴志に向いていると言えないこともない。誰もが憧れる東京大にこそ入れなかったものの、それはそれで良いではないか、と自身を慰めてはみたものの、貴志の自尊心は著しく傷付いていた。中法大は、貴志にとっては、あくまでも万一を考えてのつっかえ棒的併願校であり、第二志望でも第三志望でもなかった。
桐子なら、こんな貴志を見たらどのように感じるだろうか。
中法大に進むことを、桐子に伝えれば、桐子はきっと、〈おめでとう〉と言って喜んでくれるだろう。もしかしたらデイトにも応じてくれるかも知れない。だが、貴志は、そう祝福されると余計に惨めになってしまう。そう考えると、この際やはり桐子には何も知らせない方がいい。いいに決まっている。
そして、中法大生として来年も東京大(文一)に挑戦してみよう。貴志はそう決意した。かくして愛しい桐子への思いはあと一年間お預けにしようと涙を呑んだ。
今の貴志にはこのままではどう考えても将来が見えて来ない。東京大なら、在学中に上級公務員試験か司法試験を受け、尊敬する父と同じように省庁を目指すか、あるいは法曹界に身を投じるか等、自分の将来をある程度見通すことが出来る。そうなれば、桐子に猛烈アタックして……桐子を一生幸せにすることだって決して夢ではない。
貴志のとった道。それは、取りあえず中法大に入学し、そこに在籍しながら東京大に三度目の挑戦を試みること、それ以外にはなかった。そして希望通り第一志望に合格したときこそ、桐子に知らせようと思った。桐子からの手紙に「あなたの人生の中で今が一番大切な時期」と書かれていたではないか。――与えられた人生の最初の試練に破れたままでは済まされない。気丈にも貴志はそう考えた。
貴志の恋は彼女からの、あのたった一通の返信で一旦は終わってはいたものの、しかし沸々とその想いは貴志の中で燃え上がっていった。
三
恋のために(恋を成就するために)何が何でも新たなる一歩を踏み出そう。
絶対に曲げてはならない。それこそが、桐子の父、小酒井校長から学びとった気骨そのものではないか。そう自身に言い聞かせた。格好良く身構えてはみたものの、情けなくも〈貴志には人としての弱さがある〉そのことを知っていた貴志の父は、〈おまえの一生はおまえ自身で決めれば良い。その時その時を後悔しないような選択をして行きなさい〉と、ある意味で突き放したような接し方をしてきた。父は概して貴志に対しては放任主義を貫き、良い意味で貴志自身の自主性を重んじてきた。《謙虚に……あくまでも謙虚に、そして慎ましく。それでいて人知れず高み高みを目指す》そんな生き方を貴志に期待しているようだった。
本来なら、この際背水の陣を敷き二浪してでも東京大一本に絞って闘うべきかも知れない。だが、そこまでのリスクを冒す勇気が貴志にはなかった。結局、貴志の選んだ道は、白井正人のアドバイスもあって、大学生でもあり受験生でもある二足の草鞋を履くことにしたのだった。
それでも、決めたら迷わず最後の最後まで自分を信じてやり通してみること――偉大な友、白井正人の言うように、教科書一本主義(プラス問題集一冊のみ)を貫けば必ず勝利を掴み取ることが出来る、と繰り返し貴志は自分に言い聞かせた。親友のことばを借りれば、「お前のやるべきことは、お前の得意とする数学と理科のレベル維持することと苦手科目の和文英訳と古文の攻略に尽きる」との助言を受けた。「特に古文は、お前の親父の頃からの伝説的名著、塚本哲三の『国文解釈法』と副読本一冊に頼るだけで十分。おまえにとって、この名著こそ価値ある一冊になると思う。和文英訳は、お前の心の恋人、小酒井桐子嬢への切なる思いを英文で毎日一文ずつ綴ることを心がければ、お前ならやり遂げられる」と冗談っぽく言う――その説に、敢えて異存はない。
これを信じてもう一年間闘い抜こう。……桐子への燃える思いと受験への闘いはこうして第二幕を迎えた。
(第三章) 息抜き〈ギアチェンジ〉
一
貴志の生活は一変した。
これまでの浪人生活の一年間は、近くを歩くほか殆ど外出もせず、家の中に引き籠って毎日を過ごしてきた。だが、今はちがう。というのは、大学での必須科目の英語、第二外国語のドイツ語や体育実技などはどうしても出席する必要があり、従って週に、最低二日は登校しなければならない。
そんな日は大概帰る途中に横浜駅西口鶴屋町界隈の、広い喫茶店『フロリダ』に寄って、ノートをとったり参考書をひろげたりして時間を費やした。コーヒー一杯でいつまでも粘ることが出来、やわらかな照明と静かなBGMの中、ゆったりとしたスペースで気兼ねなく寛ぐことが出来た。親友の白井正人もよくやってくるので、二人の所謂溜まり場になってもいた。貴志は大学に席を置いているとはいえ、未だ受験生の身であり、世間を知らない謂わば中途半端な位置に身を置いていたが、親友の白井正人は、その点最早や大人の雰囲気を身につけていた。
この日、二人は、夜の探索を兼ねて〈酒でも飲もうや〉ということで、前もっての打ち合わせ通り、学生服を脱いでいた。
会うなり、白井は貴志の青白い顔色を見てか、
「おい、大丈夫かい? 入試まで先が長いんだぞ。今から全力疾走すると神経が持たなくなるぞ。……どや、予定通り、気分転換を兼ねて一杯やろう」と積極的に誘ってきた。待ってましたとばかり貴志はOKと応えた。
クルマに譬えれば、アクセルペダルを踏むに当たって、少しの間があってから動き出す。所謂、〈遊び〉が必要だった。遊びがなく少し踏み込んだだけでクルマが発進してしまったら事故を招いてしまう。それと同じだった。物事には〈遊び〉が」必要だった。〈遊び〉は、貴志にとって〈余裕であり、必要な息抜き〉だった。
「じゃ、出ようか」と白井が先に立ち、高島屋デパート裏側に位置する北幸町の飲食店街へと向かった。
「どこへ行く?」と貴志が問うと、
「女性探求に」と、白井はしゃらっと応えた。
「ええっ!どういうことだい?」
「決まっているじゃないか。おまえの背中には桐子嬢の影が貼り付いて見える。一般に言う『恋患い』のようなものだと思う。それを払拭するためよ。……ところで、その後、彼女から何か言ってきてはいないかい?」
「ああ、何も。もっとも期待してはいないが……今は何も考えたくはない。出来たら彼女のことは受験までは封印してすっきり忘れていたい。どうせ終ったも同然(と思いたくはない)の哀しい片想いだからな」と貴志はいくぶん投げやりに応えた。
「悲観することはないと思うよ。友だちとして俺なりの手は打ってあるし……。と言うのは、彼女の友だち、そう、例の田島里美くんにおまえのことはチラホラ吹き込んである。彼女の話では、桐子ともども二人とも元気でやっているらしい。……時々おまえの噂をすることもあるみたいだぞ。これ、嘘じゃないからな」と白井は言う。
「桐子嬢から何も言ってこないのは、おまえのこころを乱したくないからじゃないかな。間違いないよ。彼女は彼女なりにおまえのことを真剣に考えているんだと俺は思う。俺には何となく解るんだ……だから、彼女の気持ちを察して、当分の間、お前の言うように忘れることだな。苦しいかも知れんが、それがおまえのためでもあり、彼女のためでもあると思うよ」
桐子は中学の名物校長の娘であることを思い起こすと、彼女の気持ちがわかる筈。他の同年代の女性たちとは違って、深い思考が彼女の行動を支えている。白井はそんな風に桐子についての感想を語った。
「言われてみると、そうかも知れん、白井。おまえが俺のことに気を遣ってくれているのはとても嬉しい。感謝している。だから、俺は何が何でも、受験一筋でやってみるよ。本気で」
「いいから、あまり入れ込むんじゃないぞ。偶には息抜きだって必要な時もある。よかったら、いつでも付き合ってやるからな」
細~く、じめじめとした薄暗い通りには、ところどころネオンが灯り、誘い込むような看板が目立った。勤め人、商店主らしき風情の男たちが格好の店を探してうろつく。貴志には多少の違和感があり、少しく腰が引けてきたが、好奇心がそれを上回っていたと言っていい。
暫らく歩いて、曲がりくねったところにある、蔦の這った古風な建物の二階に女性バーテンダーのカクテルバー『コンパ憩い』があり、そこへ足を踏み入れた。学生や若いサラリーマンが気軽に入れるこの手の店は結構あちこちにあった。
扉を押し開くと、ざわざわした一瞬の騒音。加えて音楽と喋り声。
「いらっしゃい」のかけ声。半円形カウンターが全部で三ヶ所あり、女性バーテンダーがそれぞれ三、四人ずつカウンターの中で忙しく泳ぎ回っていた。ホールの真ん中にある円形カウンターに二人は席を占めた。
「いらっしゃい……お久しぶり」と女性バーテンダーの一人が白井を見て親しげに微笑んだ。白井はいつの間にか知られる存在(常連?)になっているようだった。この時間帯はまだ宵の口のためか勤め帰りのサラリーマンや学生らしき若者で店は賑わっていた。白井はトリスのハイボールを注文。女性バーテンダーが、迷う貴志にジンフィズとやらを奨めた。出てきたのは大きめのグラスにレモンが添えられ、気泡が爽やかな透明な液体。貴志は一口飲んで、その喉こしに、これはイケると思った。家では特別の日に日本酒やワインを口にしたことはあるが、こういった流行のカクテルは初めてだった。シェーカーを振る女性たちの動きとリズミカルな音の響きに、貴志はうっとり……ついつい見とれてしまった。透明に泡立った液体を恐る恐る時間をかけて喉に流し込み、おかわりを所望した。……すると頬が徐々に火照ってくるのがわかる。
カウンター越しに見える女性バーテンダーの赤い制服の、深く抉られた胸元の谷間が生きもののように揺れ動き、すごく眩しい。今は遠い桐子の胸の白さが貴志の脳裏にダブって映った。
四、五〇分女性バーテンダーとのやり取りに費やして、白井が三杯目を空けたところで、
「さあ、もう一店、行こうか。……イイトコ、見つけたんだ。そこへ行こうや」と貴志を促した。「勉強、勉強、何事も勉強……大人になるための、ほんの入口に案内しよう。いいか、この際割り切って、心を解き放つんだぞ。桐子嬢を一旦忘れることが、おまえには不可欠なんだ。わかった?」白井のアドバイスに、貴志は頷いた。友って、ほんとうに有り難い。
アルコールのせいか、足許がふわっとして、軽く感じられた。白井の後について少し歩いたような気がした。橋を渡り左に曲がったところに青や赤のネオンがちらちらと煌めくアルバイトサロン『青い海』の看板が目に入った。通称アルサロといい、これは西の大阪から伝わってきた、素人っぽいホステスが売りものの、キャバレースタイルの店らしい。ただ、キャバレーに較べるといかにも狭い。そして簡便な感じがする。建物一階に喫茶店とスナックと寿司店があり、二階が目指すサロンだった。入り口の扉の脇に『明朗会計』とあり、〈一セットいくらの料金〉が明示されていた。〈未成年者お断わり〉〈学生さん歓迎〉なる相反する文字が見てとれる。足を踏み入れると、思いのほか暗かった。ボーイに導かれて、二人は奥まったところの深々とした六人掛けシートに案内された。いくぶん緊張しながら揃って腰を下ろした。白井はアカネというホステスを指名した。間もなく、ボーイによってビールとおつまみが運ばれてきた。と同時にアカネがもう一人別のホステスを伴ってやってきて二人にビールを注ぐ。
「この子、絵美ちゃん、って言うの。新人よ。可愛いでしょ。絵美、ご挨拶して」
「はい」と絵美が二人に小型の名刺を差し出してにっこりと微笑んた。「あたし、エミンといいます。今日で七日目です。……お客さんは学生さんですか?」
「イエース、よく分かったね」と白井が代表して応えた。白井はグレーの背広をうまく着こなし、見方によっては若手のビジネスマン程度には見える。貴志は親父のお下がりの紺の背広を裏返して丁寧に仕立て直したお古を着用し、それなりに格好を付けていた。髪が丸坊主から五部刈り程度にまで伸びてはいたが、やっぱり学生に見えるらしい。それはともかく、白井、貴志とも今や二〇歳になっていた。ある意味で、国が認めた立派な成人男子だった。
ビールをおかわりした白井は、横にぴったり寄り添ったホステスのアカネを抱き寄せて胸の辺りに手を当てた。アカネは「ダメよ、お友だちが見てるでしょ」と体を捩じって形ばかりの抵抗を試みるも、直ぐに諦めて白井の手を握りそのまま自分の胸の上に、そっと置いた。……「感じるわ」と白井の耳許でアカネが囁く。その様子を見て、貴志は呆気にとられた。白井のヤツめ……。
いつの間にか絵美が貴志の手をとって甘える。特別キレイではないが表情にある種の魅力があり、微笑うと結構可愛い。
「あたしたち、お邪魔みたい。向こうへ行きません?」と絵美がホールに誘う。
「どこへ行くの? 俺、出来ないよ。ダンスなんて」
「大丈夫よ。行きましょ」と手をひかれ、言われるままに立ち上がった。
貴志は「じゃ、行って来る」と白井とアカネにことわって、フロア中央のホールに向かった。何だか大人の世界への足を踏み入れた瞬間のような感じがした。
五人編成のバンドが入っていて、緩やかなテンポの甘いメロディーが流れ、何組かの男女が踊っていた。中には、ぴったりとくっつき、ゆらゆら揺れているだけの男女もいた。
絵美に手を取られて貴志もホール隅の目立たぬところに立った。貴志は思い切って、恐る恐るだが腰に手を回し、そして引き寄せてみた。それに反応して絵美が体を預けてくる。暫くはそのままの状態で絵美のリードに合わせて動いてみる。絵美の方から積極的に頬に頬をくっつけるように寄せてくる。これってチークダンスなのか?
そして、白井を真似て、思い切って、左手で絵美の右の手を掴み、そのまま彼女の胸のあたりに這わせて反応をみる。手の甲で絵美の胸の隆起に触れると柔らかくて円い感触がそのまま伝わってきた。こんな風に女性の象徴的な部分に手を触れてしまって良いものだろうか。これまでの貴志には、思いもよらぬ思い切った振る舞いだった。
愛しき桐子の胸はどんな感触だろうかと貴志は想像した。いかん、彼女のことは、この際、忘れないことには!
席に戻ると入れちがいに、今度は白井、アカネ組が立ってホールに向かった。腰を下ろすと絵美は貴志の内腿に手を置き
「今度いらっしゃったら、あたしを指名してくださる?」と貴志に甘えるように囁いた。
「ええっ、何のこと?」と貴志……。彼女の囁きをもう一度聞き、「ああ、そうか、いいよ」と応えた。
と、絵美は「ほんとよね? 嬉しい! 必ず来てくださいね」と言って貴志の内腿深く、股間近くにまで手を伸ばし、指先で軽く捻るように押さえて喜びを表した。絵美の行為は恐らく、どの店にも通用する「接客の心得」かと思われたが、これまでにこういう経験の全くない貴志にとっては、否応なく自分の中心部が硬く持ち上がりそうになるのを如何とも防ぎようがなかった。知ってか知らずか彼女は身体をぐっと密着させてくる。絵美のさり気ない誘導(?)で、それでも勇気を振り絞って、貴志は、彼女の深くえぐられた胸元の隙き間に手を差し入れ、その乳房にふと触れた。盛り上がった柔らかな感触が貴志の脳裡を刺戟した。――これが、夢にまで見た、かの有名なるオッパイなのか。生まれて初めて触れるオッパイの感触に貴志は大いに痺れた。少し湿り気を感じさせる官能的で煽情的な、それでいて神秘のベールに包まれた、かのオッパイ……。
一週間経ってみて、貴志の中で、何か落ち着かない奇妙な感情が沸き起こり、それが少しずつではあるが鬱積し、堪らず今度は貴志の方から白井正人を誘ってみた。
「もう一度、例のところに連れていってくれないか……」と貴志が言い、
「おいおい、それ、本気かい? 勉強の方は大丈夫かい?」と受け流しながらも、白井は簡単に応じてくれた。
「それはそうと、カネ、ある?」と白井。
「大丈夫、親父から小遣いをもらったばかりだからな」と貴志は答える。
「俺も少しはある。奨学金が出たからな……」と白井はニタッと笑いながら気軽に応じてきた。「気をつけろよ。ちょっと見では、おまえに女難の相が出かかっているみたいだぞ」とからかってくる。
次の日、同じ喫茶店フロリダで待ち合わせ、二人はサロン『青い海』へと足を向けた。このとき、フロリダのレジ係の女性が何を思ってか、時々二人の方にチラッと視線を送ってくる。貴志に対しては、微かではあるが親しみの籠もった熱い眼差しを投げかけているようだった。
「あのレジのお姉さん、おまえに気があるみたいだぞ」と店を出るなり白井が宣うた。「なかなかイカス子じゃないか。……」そう言われても、貴志にはピンと来なかった。何故なら、異性にもてるなんて、貴志には考えられない、まるで異世界のことのようだった。
「青い海」では当然白井はアカネを指名し、貴志は絵美を名指したが、アカネだけがやって来て、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、絵美ちゃん退店してしまったみたいなのよ」
「退店? どういうこと?」
「お店に来なくなったの。辞めちゃったんだと思うわ」
「辞めたって、どこへ行ったの?」と白井は訊いてくれたが、曖昧な返事しか得られなかった。気軽に勤め、気軽に辞めるのが、この世界ではごく自然の現象なのかも。
折角、久しぶりに絵美の神秘なオッパイなるものに触れることが出来ると意気込んで来たのに、まこと残念至極だった。替わりにあらためて、別のホステスを当てがわれたが、彼女のこころの籠もったサービスにも拘わらず、貴志にはどうにも身が入らなかった。
「……却って、良かったと思うよ」と帰り道、白井が感慨深げに感想を漏らした。「おまえは、どうやら惚れっぽいタイプのようだからな。下手をすると受験そっちのけになりかねない。……そうなると、俺だって責任を感じるよ。実はおまえを見ていると、気が気で仕方なかったんだ。もちろん、たまには息抜きも止むを得ないとは思うが……」
思えば、大学に籍を置きながらの受験生活とはいえ、浪人生と何ら変わりはなく、真に味気ないもの。人によっては受験地獄ともいう。貴志はこれぞ神が与えし試練だと思うことにして、一生の中でこのような切羽詰まった貴重な時期があってもいい、と割り切って考えてはいたが、その禁欲生活たるや苦しく且つ忍耐を要するものだった。スポーツも出来ない、映画やコンサートにも行けない。自転車旅行やハイキングも然り、勉強のみの虚しい生活……。愛しい桐子に声をかけることすら出来ない中に身を置く自分が、実は情けなくもあった。桐子に逢いたい。……貴志の想いは募る一方だった。
二
そこで、気を取り直して、自分流の受験までの大まかな計画を立ててみた。今やもう四月というこの月もあと僅かの日数を残すのみ。受験生には関係ないが、もう直ぐ五月のゴールデンウイークに差しかかる。焦燥感はあるが、それに左右されては却ってマイナスになる。
受験までの日数を数えれば、考え方次第では、先は長い。時間は充分にある。
これからの二ヶ月間即ち五月及び六月はむしろ今ある大学生活を素直に受け入れ、それに慣れることに意を注ぎ、受験生活は焦らずじっくり腰を据えて構える。少しは受験勉強からの距離をおき、受験の呪縛から解き放たれて、精神的にも動じない強い自分を創る。
そして七月からは猛ダッシュ、一二月までの六ヶ月間は、それこそ死にもの狂いになって勉強に集中……臨戦体制に持ち込む。翌一月、二月は軽く流す。貴志はそんなふうに、ざっくりと自分なりの考えを纏めてみた。入学試験は年にたった一度、その日に向かって照準を合わせる。それは謂わば長距離競争、だが短距離競争の要素も大いにあると、貴志は思っている。計画的に、息切れしないように走ることが要求される。
そこには他の受験生とは違って悲壮感なるものが見られない。それが貴志の大らかさであり、自分への甘さでもあったのだが……。
焦ることはない。先は長く切ない。
今から焦っては逆効果になる、と再度自分に言い聞かせる。こころを落ち着かせるために、軽くウオーミングアップのつもりで受験勉強と併行して、受験とは無縁の本を読んだりして、こころに余裕を持たせることを始めてみた。
はじめに、母の愛読書、谷崎潤一郎及び与謝野晶子の「源氏物語」(これは古文の副読本として部分的に拾い読みした)や、父の書斎から見つけた坪内逍遥のシェイクスピア全集の中から「リア王」「リチャード三世」「じゃじゃ馬馴らし」「夏の夜の夢」などを選び、これらを一気読みした。次いで夏目漱石の「坊ちゃん」「三四郎」「草枕」をひも解き、芥川龍之介、太宰治、久米正雄、泉鏡花、菊池寛などを、手当たり次第速読していった。……二ヶ月間が経過したとき、ふと手にした伊藤左千夫の『野菊の墓』を読み、〈政夫と民子の叶わぬ純真な愛〉に触れ、貴志の心は締め付けられた。
そこまではよかった。
次に手にしたのは、三島由紀夫の『潮騒』だった。
ページを捲って読み進む中に意表を突く〈ことば〉に出合ってしまった。こんな言葉が一体全体正しい単語として存在してよいものだろうか? と貴志は驚愕した。手許にある辞書を引いて見たが当然この言葉は載っていなかった。少なくとも文学書たるものの中で使われる言葉ではないと思った。貴志だって真面目一筋の堅物ではない。親に内緒で猥褻な雑誌やいかがわしい本を手にすることだってあるが、これ程に衝撃的な言葉に出会った験しはなかった。名手の作品だけに、あまりにも衝撃的な文言だった。通常、友だち同志でワイ談を語らうときであっても、この用語だけは恥ずかしくて品がなく、到底言えたものではない、と貴志は思っていた。
吹き荒ぶ嵐の夜、燈台の廃墟に等しい番小屋の中で、若者(新治)と少女(初江)がお互い素っ裸で抱き合い、初めての長い淨福の接吻をかわす記述がある。後日、噂を聞いた宗やんという仲間の一人が新治の弟の宏に
「宏。おまえは知らんのか。おまえの兄の新治が、宮田の娘の初江と交接(おめこ――と振り仮名がうってあった)したからだぞ。それを神が怒っておられるのじゃ」との記述があり、貴志はその言い回しに、度肝を抜かれた。……兄のことを言われた宏は、激怒して宗やんに喰ってかかった。
「兄が初姉とどうした?〈おめこ〉(ここでは何と平仮名そのもの)したったら何や」
「知らんのか。〈おめこ〉したったら、男と女が一緒に寝ることや」……そんなことがあってから、我が家に帰って宏は夕食の時間に事もあろうに母に尋ねる。
「なあ、母」
「何や」
「兄が初姉と〈おめこ〉した、言うとった人があるが、何のことやろなあ」との際どい表現がある。……純朴で美しい恋物語に相応しい表現かどうかの疑問が残る。貴志がこれまで見たり聞いたりした『潮騒』評に、このあたりの指摘が全くないのが、これまた不思議だった。さらりと素直に読み流してしまうほど普通の言葉なのだろうか? それが大人の世界なのか。それとも、解説すること自体が憚られる言葉だからだろうか。
三島文学の中にあって異色の存在と謂われるこの『潮騒』に触れてから、貴志はあらためて言葉というものの正体を考えてみた。辞書によると「交接とは、男女間の性の交わり」とあり、同意語に「交合、性交」があって、更に「性行為、性交渉、肉体関係」がある。今語では、ごく当たり前のようにSEXとか性行為が使われている。交合は何となく馴染みのない響きがあり、性交は如何にもそのものズバリで淫媚な感じが漂う。文章の中の「交接」なる文字に隠語〈おめこ〉の振り仮名さえ打たれていなければ、それほど衝撃的ではないのかも知れない。敢えてこの言葉(ふり仮名)を使うに当たっては、作者は作者なりに考えに考え抜いた末の表現であったものとは思う。結果、文学としての評価はともかくとして、貴志はそんな風に感じて、こころが慄えた。
貴志は、過酷な受験戦争の中に身を置いているにも拘わらず、折にふれてはこの手の雑念が頭を擡げてくる。そんな自分を思うと自己嫌悪に陥るのを防ぎようがなかった。
三
やるせない悶々の日々を持てあましていたとき、親友の白井正人がぶらりと久しぶりにやってきた。
「おい、どうしてる? 元気?」白井は偶に訪ねてきては貴志を励ましてくれる。このところ横浜の溜まり場である喫茶店『フロリダ』にも足が遠のいていた。「……気晴らしに横浜で一杯どうや?」 白井は顔を綻ばせながら、右手の手のひらを閉じたり開いたりして、それを胸に当てオッパイを揉む仕種をして微笑った。無論、貴志には直ぐに通じた。異論があろうはずはなかった。
「いいね、大賛成。俺もそう思っていたところだ……ところでこれ(資金)ある?」
「バイト代が入ったところだ。任しといて」白井には家庭教師の報酬が入ったようだった。白井と貴志は、お互い気の置けない、遠慮のない間柄で真に親友同志――〈俺の金はおまえの金、おまえの金は俺の金〉……といった物欲を超えた近しい間柄。
例によって横浜北幸町の歓楽街をうろつき、当然のようにサロン『青い海』へと吸い込まれていった。この店は、こういった種類の店では価格が良心的で、店の質的レベルもまあまあだった。それ以上に、ホステス及び客層が若く、安心感と開放感があった。学生といっても臆することはなかった。
白井は慣れたもので、席に案内されるや、例によってアカネを呼んでもらった。アカネは歳の割には落ち着き、面倒見がよく、お姉さん格といった感じで、白井のお気に入りのようだった。まだ時刻が早いせいか彼女は直ぐにやって来た。
続いて
「ヘルプです。妙子と言います」と横に座って名刺を差し出した女性を見て、貴志は目を疑った。すっきりとした冷やかな顔立ちの、ちょっとした美人だった。切れ長の瞳にはハッとする耀きがあった。胸元が開き気味の紫紺のドレスが目を惹いた。内側にあるオッパイはそんなに大きくはなさそうに思えた。少し濃い目に施した化粧のためか特に素人っぽさは感じられないが、この道のプロでもなさそうだった。とにもかくにも、至って魅力的な女性に見えた。貴志は迷わず彼女を場内指名することにした。妙子が喜んだのは言うまでもない。
「ね、踊りません?」と彼女はいきなり貴志の耳許で囁いた。「はじめてなのに、指名してくださって、ありがとうございます」
妙子に手を取られホールに出た。照明はいくらか暗かったがそのほうが落ち着くように感じられた。
「俺、ぜんぜん踊れないよ。それでもいいかい?」とまたしても念のために貴志はそうことわった。ふたりはホールの隅っこの目立たないところに移動した。……遠慮がちに彼女の身体を包み込むようにして引き寄せてみた。彼女はごく自然に身体を預けてくる。ふと感じる髪の微かな匂い。いい感じだった。さらに試しに思い切って、そろりと彼女の胸のふくらみに手を当てようとすると、妙子は体を捻るようにしてさらりとかわしてくる。次に頬を寄せると妙子は素直に応じた。チークダンス、これなら出来なくはない。妙子の身体はすっぽりと貴志の腕の中に吸い込まれて……。彼女の身体は柔らかだった。曲はスローなバラードが流れていた。
席に戻ると、今度は妙子の方から貴志に身体を寄せてくる。貴志は彼女を軽く抱きよせ、ごく自然に胸に手をやった。彼女はその手をまたしても優しく払い、
「いけない手ね」と言って微笑った。……貴志の手を包んだまま彼女は貴志を仰ぎ見て「また、来ていただける?」と甘える仕草を見せた。
「ああ。ただ、今は親の脛かじりだから……頻繁には来られないよ」貴志は正直に答えた。「よければ外で逢ってくれないかな?」と、ごく当たり前のように直截な言葉が湧いて出た。
「ほんとうに?」と、彼女は顔を向けて、にっこり。「デイトへのお誘い?」
「そう」
「知り合ったばかりなのに、あっさりおっしゃるのね。でも、あなたなら、いいわ」と彼女は貴志の目を見て、躊躇らうことなく応えた。
思えば不思議なやり取りだった。――貴志のこれまでの人生の中でこんなに簡単に女性にもてた験しがなかった。
はからずも、貴志と妙子のデイトは三度、四度と続いた。
最初のデイトは、好天に恵まれた五月後半の日曜日。そもそも、女性とのデイトは初めての経験だったので、一緒に歩くのは照れてしまうと判断し、現地集合を提案。従って一〇時半に山下町のマリンタワー前で待ち合わせた。待たせてはいけないと思い、貴志は三〇分以上も早く目的地に到着し、彼女を待った。一〇分経ち、二〇分経ち、今か今かと胸締めつけられる思いに耐え、……〈ひょっとすると彼女は来てくれないのでは? 〉との不安に駆られはじめたとき、どこからともなく妙子がすっ~と姿を現わした。
「お待たせ……貴志さん」と妙子がおどけた様子で腰をかがめ貴志を仰ぎ見た。「お待ちになりました?」
「いいえ、今着いたところです」腕時計に目をやると、約束の時刻を一分と過ぎてはいなかった。「ホントのところ、妙子さん、来てくれないんじゃないかと心配ばかりしてました」
今日の妙子は、意外なことに『青い海』のホステスとしての彼女とは、別人と見間違えるほどに素人っぽく、どこのお嬢さんかと思われるほどに清楚で品の良さが感じられた。薄いピンク色のブラウスにからし色のカーディガン。白のプリーツスカートにピンク色の靴。その姿は初々しく、すっきりとしていて、それでいて心なしか華やいで見えた。綺麗な女なんだなと、あらためて貴志は思った。
ふたりは指先だけ触れる程度に手を繋いでエレベーターで展望台に上り、遙か海と碧い空を俯瞰し、その後、「赤い靴をはいてた女の子」像や異国を感じさせるいくつかの記念碑のある山下公園や氷川丸を散策した。
すれ違う人たちは、必ずといっていいほど美しい妙子を見て、羨望の眼差しを向けてきた。公園のベンチで妙子の手作りサンドイッチに舌鼓を打ち、夜まで語り合って過した。妙子の本名は、和泉妙子といい、広島の高校を卒業して直ぐ横浜の会社に就職したが事情があって二年で辞め、ブティックや喫茶店などを渡り、今に至ったという。年齢は貴志と同じ二〇歳。父親は広島で被爆して、妙子が中学一年のときに亡くなり、以降母の手一つで高校まで育てられた、と身の上話を聞かせてくれた。……嘘か本当かは別として〈ホステスは初めてのお仕事なので無事にやっていけるかどうか自信がないんです〉とも語った。住まいは学生の多い東横線「白楽駅」から歩いて一〇分……高校二年生の弟との二人暮らしとのことだった。
貴志も自分の置かれている立場を隠さず語った。
貴志のことを聞いて、妙子は、尊敬のまなざしで貴志を仰ぎ、もしお願い出来るなら弟の勉強を見て戴けないか、と甘えて懇願した。学費の関係で国公立の何処かに入ってくれなければ……という。貴志自身が受験生の身ゆえ確約は出来ないが、来年の入試に無事受かったら本気で考えようと答えた。その日はそんな話をして別れた。
二度目は、休日の午後二時に根岸線の関内駅で落ち合い、馬車道の東陽会館で外国映画を観て、伊勢佐木町通りをブラついて、何事もなく別れた。若い男女の二人連れは当時『アベック』と謂われ、何だか気恥ずかしいような、くすぐったいような気分に支配された。妙子は遠慮勝ちに貴志の腕に軽く手を添えて歩いた。微かな妙子の匂い……。
三度目は平日五時に横浜西口の喫茶店で待ち合わせ、「同伴出勤」ということで妙子の勤める『青い海』へ連れだって入店した。月一回の同伴出勤が義務付けられていると言う。お金が心細いというと、「今回は任せて……」と彼女は言った。店では、貴志を一人ぽっちにしないよう気を使い、他の指名客のお呼びがあっても直ちに戻ってきては貴志を退屈させないよう気を遣ってくれた。
席で、またホールで妙子の乳房に触れようと試みたが、何故かその都度、貴志にくしゃみが出て、手を引っ込めてしまった。
「くしゃみって、誰かさんが噂しているのよ」と言って、妙子は可笑しそうに微笑った。瞬間、恋しい桐子の、優しいが非難を込めた眼差しが貴志の脳裏に浮かびあがっては消えた。
(第四章)アクシデント
一
四度目――。六月に入って後半の日曜日。この日も晴天だった。
今度は、根岸線石川町駅からお洒落な街、元町商店街を散策した。高級そうな構えのブティック、宝飾店、靴店、洋食器店、煌びやかな輸入雑貨の店、フランス料理店などなど……ふたりはしっかりと腕を組んで歩いた。肘のあたりに妙子の乳房が微妙に触れる。絶世の美女(と貴志は思うようになっていた)とのデイトに貴志のこころは昂ぶっていた。中華街で軽い夕食を共にし、喫茶店でアイスクリームを食べ、お互いを語り合い、夜暗くなって、外人墓地、港の見える丘公園を散策した。
横浜港を見下ろす小高い丘の公園。海からの潮の薫り。洋館に象徴されるエキゾティックな佇まい。所々にあるベンチには、何組かのアベックがいたが気にならなかった。それぞれがそれぞれの世界に浸っている様子が伝わってくる。
ふたりは空いているベンチを捜して腰掛けた。妙子がバッグからハンカチを取り出しベンチの汚れを払い、それを貴志の位置に敷いた。妙子の甲斐甲斐しい気遣いが嬉しい。貴志は勇気を出して思い切って妙子を抱き寄せ、ぎこちなく唇を近付けてみた。思いのほか何の抵抗もなく妙子は貴志の口づけを受け入れた。唇と唇が微かに触れる。異性の唇の、ソフトで妙なる感触。……焦らず、ゆっくりと唇を押しつけてみる。そして、重ねる。吸ってみる。ふんわりと、やわらかい妙子の唇。ほのかな紅の香り。繰り返される口づけ……長い、終わりのない接吻。はじめての接吻。貴志は高校卒業間近に観た映画『石の花』のシーンを頭に思い浮べた。
……長い接吻の間中、何故か貴志は絶えず《桐子》を感じていた。
時間を忘れた。
ふと気がつくと、ベンチの背後に人の気配が感じられた。
二人の男。年の頃はわからなかったが、瞬間、厭な予感がした。男の一人が貴志の頸の下あたりに冷たく硬いもの、ナイフか何かを突きつけてきたように思えた。貴志は反射的に危険を察知して、先ず何よりも妙子を助けたいと、思いきり妙子を突き飛ばしていた。不意を食らって一瞬、妙子は転げるように横転した。
「逃げるんだ! 早く!」貴志は叫んだように思うが、声になったかどうかはわからない。
「静かにしな!」という、低く押し殺したような女の声が聞こえた。男の仲間のようだった。女が妙子をかかえて援け起こそうとしている様子が貴志の目の端に飛び込んできた。妙子は蹲ったままでいた。
妙子のバッグが放り出されていた。男の一人が素早くそれを拾いあげ、抱えて逃げた。女も一緒だった。「カネ!」残されたもう一人の男が鋭く言って迫った。
貴志は、ズボンの内側にある隠しポケットにお守りとして緊急用のお金が入っているのを思い出し、それを取り出そうとして焦り、咄嗟にベルトを引き抜いた。男が貴志に迫ったのと、貴志がベルトを手にしたのと同時だった。男は貴志のベルトを見て脅えたのか一歩下がった。貴志はベルトの先端部分を持ち無我夢中で振り廻した。男の悲鳴。貴志のベルトのバックルが偶然に男の顔面を直撃、強打したものらしい――鮮血が飛び散った。男は吠えるがごとく何か捨て台詞を残して、走り去った。
見ると、妙子は蹲ったままブラウスの裾で顎を押さえていた。血が滴っているように見えた。辺りを見渡すと、いつの間にか誰もいなくなっていた。一瞬の出来事だった。
妙子を抱きかかえるようにして、公園脇のベンチに座らせ、貴志は傍の公衆電話ボックスに飛び込み、救急車を依頼した。妙子は顎を押さえたまま動こうとしなかった。目を瞑り、声も出せない様子だった。妙子は、貴志に突き飛ばされてベンチ近くにあった大きな置石に激突し、顎を強打したものらしい。
「妙ちゃん、妙ちゃん!……大丈夫?」と貴志は何度も声をかけ、懸命に呼びかけた。
妙子は三ツ沢公園にほど近い市立総合病院に搬送され、顎の緊急手術を受けることになった。二日後、救急病棟から一般病棟に移ったが、尚三週間の入院が必要とのことだった。やはり顎が複雑骨折していて、その上頭部の損傷もあってか、予断を許さない容態とのことだった。
此の間、救急車からの通報で地元警察からの事情聴取を受けた。貴志はありのままを丁寧に説明した。
妙子の希望で彼女の弟にだけは知らせた。田舎の母には「心配をかけたくないので知らせないで」と妙子は強く懇願するように言った。彼女には他に親しい友だちもいないようだった。勤務先『青い海』には三週間の休暇届けを送るに留めた。
貴志はいたく責任を感じて、毎日、病院に見舞った。妙子とのデイトは、いくら気の置けない友とはいえ、白井には内緒にしていたので心苦しかった。
病室での妙子は下顎を石膏のようなもので固め、その上から包帯を巻き、なんとも痛々しく見えた。左頬の内側にも裂傷を受け十五針ほど縫ったという。口が開き難く、言葉も発し難いようだった。食事は看護婦さん(当時そう呼んでいた)によって流動食をスプーンで少量ずつ流し込まれた。看護婦さんが去ってから、貴志はそれを自分の口に含み、念のため細かく噛み砕いて口移しで妙子の口に運んだ。妙子は申し訳なさそうに遠慮しつつも、それでも嬉しそうに、口を窄めながら受けた。
妙子の症状は日を追うごとに順調に回復していった。
ただ脳挫傷などを心配したが、頭の傷は脳にダメージを与えるほどには至っていなかった。むしろ心配なのは下顎の傷の具合だった。左側の唇の下から顎、頸にかけて、傷の縫合痕がどの程度残るかが案じられた。美しい人だけに、心配で心配でたまらなかった。あのとき、貴志がもっと落ち着いて対処してさえいたら、こんなことにはならなかったのではないか。妙子にとっては、一瞬の偶発的な災難だったとはいえ、それがこともあろうに、信頼する貴志によって引き起こされたのだ。貴志は彼女に何とお詫びしてよいのか、どのようにして償えばよいのか、思い悩むばかりだった。
貴志が詫びるたびに妙子は首を横に振った。
口が利き難い状態の中で妙子は
「貴志さん、あたし今が一番幸せよ」と何度も言って泣いた。ベッドに起き上がった妙子を支え、肩を抱き、貴志は彼女の唇にやさしく何度も唇を重ねた。
貴志はいつしか妙子が限りなく愛しく感じられるようになっていた。包帯をしていて妙子の顔の全てはよく見えないが、化粧をしていないときの、その素顔はとても綺麗だと思った。
そんな妙子を失いたくないと強く思う反面、唇を合わせる度に、貴志は今は遠い桐子を想った。桐子とキスしているような甘い錯覚に捉われるのはどうしたことか。
妙子の入院・治療費については、貴志は恐る恐る父親に事情を説明し、
「僕が働くようになったら必ず返すから……」と懇願。全額を立て替えてもうことになった。父には、それでも受験生か!と、こっぴどく叱られるのを覚悟して臨んだが、思いのほかあっさりと承諾してくれた。
二
そんな中で、貴志は白井正人の訪問を受けた。
「おい。しっかりやってるか?」白井は開口一番そう言って疑わしそうに貴志を見た。「大丈夫か? 順調にいっているだろうな」
このところ、貴志はフロリダに顔を見せていないうえ、妙子に付き添う日々が続き、その間、白井とは連絡を取っていなかった。それゆえ白井には心配をかけたことになる。
「いいや――」と貴志は応える。「ご存知の通りさ。……もうそろそろピッチを上げないと、とは思っているが……」
この日の白井は貴志と妙子の間に起こった様々な事柄を、どこまで知りどこまで察しているだろうか。貴志の外出時、自宅に訪ねてきて母から何らかの情報を得ていたかも知れないが……。白井はそのことに直接的には触れなかった。
「おまえも大変だな」と白井は言い、何が大変といっているのかわからないまま、貴志は「うん……」と頷いていた。
「実はな、……」白井が改まった口調で切り出した。「きのう、偶然、おまえの彼女の親友、田島里美くんに遭ってな、彼女が言うには、桐子嬢はこの四月に東京・二子玉川の方に引っ越したそうなんだ。なんでも親父さんが日吉の高校の校長として転任になったらしい。……君には何れ機会を見て、桐子くんから知らせることになっているそうだ」
〈今度こそ夢を叶えて欲しい〉と、貴志に伝えてくれるよう桐子嬢から頼まれていたとも言った。〈父も貴志さんのこと、期待しているみたいよ〉とも……。
「だから、もう後がないと思って、そろそろエンジンをかけないと……それをおまえに伝えたかったんだ。油断大敵だぞ」
白井の言う通りだった。もうここに至っては確かに後がない。今回の妙子のことは、貴志の母からは未だ何も知らされていないようだった。白井に隠すつもりは毛頭ないが、何となく言いそびれた状況が続いていた。
白井の訪問をきっかけに、貴志は妙子を見舞うときにも病室に本やノートを持ち込み、妙子が眠っているときにそれを開いたが、身が入らず且つ落ち着かなかった。
「貴志さん、無理しないでね。あたしのことはもう大丈夫だから――」妙子は妙子なりに、貴志の重荷になってはいけないと気を遣っているようだった。
「僕のことは気にしないで……」と貴志は妙子の手を握り、瞼に軽く口づけして言った。「もう直ぐ退院だろう。……だから、それまでは毎日来させて」……そしてその瞬間、「妙ちゃん、君が好きだ、もう絶対に君を放したくない」と口まで出かかったが、桐子を意識してか、それだけは堪えた。
たしかに今では、手の届くところに妙子がいた(と思う)。彼女との間に最早や距離感はなくなっていた。妙子の未知なるオッパイに触れることも出来なくはない。むしろ触れておきたい、との強い願望が頭をもたげ貴志を悩ませたが、それこそ、この場に相応しい行為ではないと思い直し、辛うじて自重した。
妙子、退院の三日前。
「貴志さん、お願いがあるの」と、妙子が改まった口調で貴志を見つめて言った。「どうしても聞いて欲しいことがあるんです」
「何?」と貴志は身構えた。
「思い切って言います。……あしたこの包帯が取れそうですから、貴志さん、ここにはもう、いらっしゃらないで。――」と寂しそうに微笑った。「包帯を取ったときの、あたしを見てほしくないの」と言って、彼女は涙ぐんだ。
担当医によれば、片方の下顎から頸筋にかけての手術痕がある程度残るが心配はいらない、若いうちは活発に細胞が入れ替わっていくので、傷はそのうち目立たなくなっていくだろう――との見通しだった。
「お願い、少しだけ待って」と妙子が泣きながらも強い口調で訴えてくるので、貴志はそれに従うことにした。
「様子を見て必ず連絡しますから……そのときは逢ってくださいね」と言って、妙子は貴志をじっと見つめた。目に一杯涙を溜めて――。
「わかった。ちょっとの間なら、辛抱しよう。……ねえ、妙ちゃん、僕はもう君から離れられそうにないんだ」 ここに至って、貴志は本気でそう思うようになっていた。妙子と一生共にしてもいい、とまで思った。
貴志は、妙子の肩を慈しむように抱き寄せ、壊れものでも扱うかの如く、そっと唇を重ねた。一度、二度、三度……。そして何故か頭の片隅で、妙子とはこれが最後の別れになってしまうかも知れないとの強い思いに捉われていた。
念のため「連絡、待ってるから。必ず、してよ」と貴志は幾度となく強い口調で言った。そして妙子はその都度頷いた。
三
七月もそろそろ終わりにさしかかっていた。
貴志の大まかな計画では、七月から一二月までの六ヶ月間は本格的に受験に向き合って専念すべき大切な時期。――これを逃すと、本当にもう後がなくなる。それは誰よりも貴志自身がよ~く解かっていた。にも拘わらず貴志は勉強に集中が出来なかった。机に向かっても、本の文字が上滑りし、文章が素通りしてしまう始末だった。これはどうしたことか。
理由はただ一つ、妙子との、暫しの別れが辛かった。
妙子が退院してからもう一週間近くになるが、連絡はまだない。
貴志のこれまでの勉強方針は、『教科書プラス標準的な問題集』の二冊完全攻略法だった。親友の白井正人はこの方法を実行し、一浪して見事に一橋大(経済)に合格した。貴志もそのつもりでやってきたが、受験日が近付くにつれて、こんな方法だけで 本当に大丈夫なのか? との疑問と不安に駆られ、つい新たな参考書に手を出してしまった。参考書が一冊から二冊そして予想問題集へと増え続け、……挙句、一浪しての結果は、東大不合格となってしまったのだった。こういう勉強法はどちらかと言えば、科目数の少ない私立大向きであり、国立大向きではなかった。白井正人は力試しに受けた私立大に落ち、貴志は併願した中法大に受かったのも頷ける。
ここに至って改めて、貴志は思う。――国立大向きの勉強法は唯ひとつ、初心に戻ることだった。一、二月までは後四ヶ月しか残されていないため、今こそ最高に効率的な方法で乗り切って行くしかない、と自身に言い聞かせた。
和泉妙子、彼女のことは、いやでも暫らく忘れなければならない。
心に何かしらのざわつきと不安を覚えるが、今はそれに耐えるしかない。……それでも勉学は遅々として進まず、一ヶ月経ち二ヶ月が過ぎた。
妙子からの連絡は依然として、まだない。
妙子の弟からも何も言ってこない。
致し方なく、貴志は意を決して妙子の住まいを訪ねようと思い、念のためサロン『青い海』に電話してみたが、妙子は既に辞めていた。思い余って事の次第を白井に打ち明け、彼に頼んで同店のアカネに訊いてもらったが、どこへ移ったかは知れなかった。となると直接妙子のアパートを訪ねるしか方法はない。貴志は重い心を引きずりながら、妙子に教わった住所を頼りに東横線白楽駅に降り立った。
長い庶民的な風情の駅前商店街を通り抜け、そしてようやく目指すアパートに辿り着いたものの、そこには妙子は居なかった。弟も居なかった。ひと月ほど前に引っ越したという。引っ越し先を両隣りの住人と不動産店に当ってみたところ、引っ越したという以外何の情報も得られなかった。せめて、弟の通っていた高校は何校だったのかを聞いておくべきだったと悔やまれる。
それにしても、何故妙子は黙って消えてしまったのか。少なくもその後の消息くらいは知らせてくれても良さそうなものを。短い間だったとはいえ、妙子は何を思って連絡を絶ってしまったのか。
恐らくは、妙子の顔の傷痕が治り切らず、貴志に見せたくないとの女心からか、あるいは単純に、責任感の強い(?)貴志の重荷になっていけないとの気遣いからか、――考えれば考えるほどに貴志の心は散り散りに乱れた。しかし、思えばこのことで却って貴志にとっては、ある種の踏ん切りが着いた、と言えなくもない。
帰宅して、気を取り直して机に向かった。
もうこうなっては一心不乱にやるしかない。これまでの貴志なら、ついつい余分の参考書に手を出していたであろう。が、親友の白井の言うように、新たな参考書をひもといて完全読破し自分のものにするには少なくとも三ヶ月はかかるとみなければならない。とすれば、使い慣れた教科書ならその間六回以上は読める筈。一回目より二回目、二回目より三回目、三回目より四回目……そしてその度に加速度が付き、理解するスピードも倍加していく。とにもかくにも、この方法でやるしかない。
また、雑念が入ってくるのを防ぐため、耳栓をして、そのうえ声に出して読み進む。そのことによって、その本に書かれた範囲内での中味は完全に自分のものにすることが出来るだろう。信じてやりきれば必ずや最大の効果をもたらす筈だ。
「何も迷わず俺のいう通りにやってみろよ」と親友の白井が励ましてくれた。白井はこのやり方で家庭教師のアルバイト先の中学生を二人まで難関高校に合格させている。この際、白井を信じて、やり切るしかない。
思い返してみるに、この一年間は何だったのだろうか。長い苦しい、正にトライアスロンのような険しいマラソンコースを、たった一人で栄光のゴールを目指してひた走る。そんな思いで駆け抜けてきた貴志にとって、あまりにも色々とあり過ぎたような気がする。結局、集中力を欠き、何もしなかったに等しい、あっという間の一年間だった。
年が明けての三月初め国立大の入試が行われた。
これまでに、現役、一浪と、二度の受験を経験してきた貴志にとっては、これが三度目。慣れた試験場での受験ゆえ、余裕をもって臨めるという優位差がある。今度こそ負ける訳にはいかない。
四
そして、その日がやって来た。
試験日の三日とも、風が強く、雪が舞い、手が悴むほどに寒かった。
貴志はそれでも最後の挑戦とばかりに奮闘した。あたりの気配をうかがうと、みんなは懸命に取り組んでいるようだった。用紙を捲る音と消しゴムを使う音がする。試験官の靴音が伝わってくる。どうしたことか試験官に見られているような気がしてならない。これまではそんな気持ちになったことはなかった。試験官が通り過ぎるのを身を固くして待つ。落ち着け、落ち着くんだ、と自分に言い聞かせる。初っ端から緊張の連続だった。そのうえ、この朝は気負いのあまり排便が出来ず、お腹が張ったままの状態で出かけてしまい、不快感と気持ち悪さを敵としなければならなかった。この敵は何よりも手強かった。しくしくと下腹が痛む。波のように排便感が引いては押し寄せてくる。たまらず、締め付けていた腰のベルトを緩めて堪えなければならなかった。こうなっては日頃の思考能力が麻痺してくる。遂には、もう限界線を越え……こともあろうに絶対落としたくない得意科目の数学のときに、冷えを伴った急激な腹痛に見舞われ、耐え切れず一問を残したまま途中退場し、トイレに駆け込まなければならないオマケまで付いた。こんな具合だった。
三日に及ぶ試験がようやく終わって、貴志は敗者のごとき重い心を引きずりながら横浜西口の喫茶『フロリダ』に向かった。親友の白井と落ち合う約束だった。
「どうだった?」と顔を見るなり、白井は尋ねてきた。「鬱陶しいツラして……どうだったんだ?」
「……う~ん、ダメだった。ついてなかった。運にも見放された。……これが最後の闘いかと思うと却って緊張し過ぎて、おまけに腹痛にも悩まされた。言い訳がましいが腹痛ほどの強敵はなく腹痛と切迫した排便感に翻弄された感じだった」と貴志は正直に答えた。「そのためか稼ぎ頭の数学でも、焦って三問を確実に落してしまった。英語も国語も思ったほど良くはない。あとは理社とも正解は七〇パーセント前後で基準すれすれか、それ以下だと思う。……トータルすると無念だが完全にアウトだろうな」
「間違いが読めるくらいなら可能性はなくはない」と白井は慰めてくれたが、貴志は「まあ、いいや。もう、諦めるよ」と肩を落とした。
白井の言葉を借りれば、
「手応えがあったと自信を仄めかす輩ほど、蓋を開いてみれば、何のことはない、合格にはほど遠く、……むしろ落ちているものなんだ」と言う。
翌日、自分で自分の体の持っていき場がなく、何を考えるでもなく足は横浜へ……いつもの喫茶店『フロリダ』に向かっていた。
ガラスの扉を押すと柔らかな照明が店内に広がり、聞き慣れたいつものBGMが流れていて、貴志にちょっとした安心感をもたらした。席に付くや、いつの間にか馴染みになっていたレジ係の奥村陽子が貴志を見つけてやってきた。年の頃、二十七、八かと思われる愛想のいいお姉さんで、いつしか親しく冗談を交わし合える間柄になっていた。あっさりとした、感じのいい女性だった。貴志はモーニング(コーヒー+ゆで卵)を注文した。
「お久しぶりね。……どうかなさったの? 何だか顔色がよくないわ」と、奥村陽子は貴志を覗き込むようにして言った。「試験、もう終わりました?」
「すべて終わりましたよ。だけど出来が良くなくって、……どうやら不合格確実……親や学校の期待を裏切り、多分恋からも見放されて……あ~あ、僕はもうお先真っ暗ナンデス」
「元気を出して。恋が、どうかしたんですか?」奥村陽子は大人っぽく、からかうように微笑みかけてくる。続いて「実は、わたしネ、今月一杯でお店辞めることになったんです」と寂しそうに付け加えた。
彼女の実家は静岡の片田舎にあって、年老いた母親が体調を崩したため帰らなくてはならなくなった、と言う。
「じゃ、その前に一度どこかでお会いしませんか? コーヒーでも」と貴志は冗談交じりに誘ってみたところ、
「デイト? そうね、何か美味しいものでも食べにいきましょうか」と彼女はいともあっさりと承諾。
「本当? 真に受けていいんですか?」と貴志。
「そうね……貴方さえよければね」
「ぼくに異存なんてあるはずがありません。あなたと二人っきりで会えるなんて、ぼくはうれしいです」
「お口がお上手ね。うれしいのはあたしも同じよ。……できたら今日の午後がいいわ。今日はお昼までのお勤めだから」との答えが帰ってきた。
とんとん拍子で話が決まってしまい、何だか拍子抜けしたくらいだった。桜木町駅で一時半に落ち合う約束をして店をあとにした。初めは冗談のつもりで、からかい半分で誘ってみたものの、こんなに簡単にOKしてくれるなんて、貴志にとっては全くの予想外の成り行きだった。愛しい桐子を一時的にも諦めるためにも、また、あの傷を負った和泉妙子との距離を置くためにも、貴志にとってこれは必要なデイトかもしれない(と自分に言い訳することを忘れなかった)。どうにでもなれ、とのやけ気味の気持ちも手伝っていた。
桜木町駅近く、旧き良き野毛の飲食店街にある、カウンター式の小綺麗な洋食店で並んで食事をした後、陽子は
「よかったら、これからあたしのうちへ来ません?」 と気軽に貴志を誘ってきた。
貴志にしてみれば思わぬ展開だった。陽子の住まいというと、ここから野毛の商店街を歩いて十分そこそこのところにあり、一軒家のような門構えをしたちょっと洒落た感じの二階建てアパートの二階だった。陽子が玄関の鍵を開け扉を開くと、直ぐのところに六畳くらいの居間と台所の流しがあり、その先にもう一部屋あるだけのこじんまりとした二DKが陽子の住いだった。
陽子は貴志に、
「どうぞ、散らかしていますけど」と言って先に入り、手早く部屋を片付けて、「狭くって、びっくりでしょう」と恥ずかしそうに微笑って振り返った。パステルカラーの壁紙がさり気ない女性らしい雰囲気の部屋だった。電気ストーブで暖をとり、ソファーに並んで腰掛け音楽を聴きながら語り合い、どちらからともなく軽く抱き合った。
どのくらいの時間をそうして費やしたであろう? 気が付くと、いつの間にか外が暗くなっていた。折角訪れた二度と来ないであろう絶好のチャンスと知りつつも、貴志はじっと耐え、逸る心を抑えて起ち上がった。
「そろそろ僕、帰らなくっちゃあ……」と言ってみた。
「ね。……もう少し、帰らないで」と陽子も立ち上がり、貴志の首にぶら下がるようにして両手を巻きつけてくる。「熱いお茶入れますからね。もうちょっと居て」と哀願する。
「折角いらっしゃったのだから、もう少しゆっくりしていって。ね、お願い……」と何度も言った。
陽子は異性に尽すタイプのようだった。暫くは貴志の機嫌をとるようにして、甘えた。
それから……押入れを開きマットレスを取り出しそっと畳の上に置いた。その上に蒲団を敷く。
いよいよ、来るものがきた。貴志はある程度予期はしていたものの、やっぱり困惑を覚えた。
陽子は貴志に「見ないで」と背を向け、スリップ一枚になって先に蒲団に潜り込み、貴志を誘う。貴志も思い切って下着姿になって、陽子の横に体を滑らせた。陽子の肌は心なしか薄く赤味を帯び、思いのほか暖かかった。お互い素肌を密着させてから彼女の乳房を掴み、擦るように揉んでみた。つるりんとした張りのあるオッパイに貴志はある種の感動を覚えた。
もう、我慢出来そうにない、これが忍耐の限界。それからというもの、貴志の脳の中には、この世のすべてが消失してしまい、夢と現実が交叉し、入り混じり、……その中で陽子の咽ぶような甘い囁きを聴いていた。「……やさしく、……してね」と陽子。
終わってみて、陽子は泣いた。
貴志は何もかも忘れて、その夜は陽子のうちに泊まることになった。母には、心配しないよう外泊を伝えた。……その翌日は朝から午後遅くまで、ふたりは抱き合って過ごした。接吻を繰り返し、オッパイをこころゆくまで愛でた。その感触を手のひらに感じながら、ふと、貴志の脳裡に、今は消えていなくなった妙子の、触れる機会を逃したオッパイを想像した。妙子は今、どうしているだろうか。
別れるとき、陽子は
「田舎に帰るまでに、もう一度来てね」と重ねて哀願した。
「ほんとうに、いいの?」
「もちろんよ。必ず、ね」そして
「貴志さんとなら安心だから……」とも言った。「よかったら、田舎にも遊びに来て。森や川があって、森林の香りがして、とっても素敵なところだから」と言って、陽子は何度も貴志にキスをせがんだ。こんなにモテていいものだろうか……貴志はそんな思いにとらわれた。
貴志は陽子に送られ、帰路に着いた。
頭の中は空っぽになって考える力を失っていた。ただただ歩いた。その中どうしたことか、体の中からこれまで経験したことのない不思議な充実感が湧き起こり、満たされ、広がっていった。自分が一回りも二回りも大きくなったように感じられた。昨日までの自分はいかにも幼く、今の自分は大人の男に成長したような、これまでとは違う自分を感じるとることができた。陽子と過ごした時間は、貴志にとっては、かけがえのない、得がたい時間となった。ある種のうしろめたい思いと時間を過ごしながら、どうしたことか、あの妙子や恋しい桐子に対してさえも、何故か罪の意識は感じなかった。
(第五章)たゆたう生命
一
貴志の志しは、父母の期待を背負って東京大に入り、その上で上級公務員試験に合格して省庁に入る。オーバーに言えば、自分のためとはいえ、お国のために身を投じることであった。だが、今回の挑戦で、力及ばずして敗れ去ったのを悟った。親友の白井正人は、合格発表前から希望を捨てることはない、と言って慰めてはくれたが、奇跡でも起こらない限りそれはない。
今の貴志にとっては、このところの集中力を欠いた状態の中では、これ以上の戦いを更に一年間継続する気力がどうしても湧いてこなかった。このまま中法大法学部の二回生となって、卒業までに司法試験を受け、判事か検事または弁護士を目指そう、と考えを新たにした。東大という大きな目標をこそ喪ったものの、この敗北感を糧とし、より大きな目標を掲げて邁進してこそ、貴志にとっての明日がある。
ほんとうに、今更ながら中法大に席を置いていてよかったと思う。今や、この時点で受験という人生初の試練に、脆くも敗れ去ったということは、男子として真に不甲斐なく、そして情けない。本当の自分を知らずして、見栄を張り続け、自分を過大評価し、届かない目標に向かって無謀なる闘いを続けたことに、貴志は今になってようやく気が付いた。
負け犬。――従って、心の恋人、愛しい、あの懐かしい桐子には、もう逢う資格がない。
苦しいが、潔く諦めるしかないのだろうか。どうせ儚くも悲しい片想いに過ぎなかったのだから――。
そして、連絡もなく消えてしまった妙子にも、この先恐らく逢うことは叶うまい。哀しいがこの現実を受け入れるしかないのだろうか。
二日経った。
即ち貴志がオトナになって二日後の昼過ぎ、何するでもなく自室に籠ってぼうっとしていたとき、思わぬ人物が訪ねてきた。今は遠き桐子の一番の友であり同じお茶の水女子大に通っている田島里美がたった一人でやってきた。抑えた色調のモスグリーン系のスーツに身を包み、……全体的に少し丸みを帯び、心なしか大人の女を感じさせる出で立ちだった。外見からは定かでないが、その胸は結構豊かそうに見えた。
「いやあ、久し振り」と言って貴志は、里美を迎えた。
「こんにちは」里美は黒い手提げ鞄を持ったまま頭を下げた。
「里美さん、いや失礼、田島さん。暫くのうちに随分綺麗になられましたね」貴志の口から、そんなお世辞めいた冗談が飛び出すとは。大人になった貴志は自分の中で何かが変わっていくのを感じた。これまでの貴志なら、女性を目の前にすると多分に緊張して、ぎこちない言葉しか発することが出来なかったのに……。
「突然お伺いして申し訳ありません。ちょっとお願いしたいことがあって来ました」と里美は他人行儀に改まった口調で切り出した。「桐子、……小酒井桐子ちゃんのことで、どうしても山之内くんにお願いしたいことがありまして」
桐子のことで、お願い? それはどういうことだろう。唐突な里美の言葉に何かしらの不安がよぎった。
「小酒井さんが、どうかしたんですか?」と貴志。
田島里美によれば、桐子はここ半年程前から急に体調を崩し、検査と治療とで入退院を繰り返し、今は二子玉川の自宅にて加療中と言う。なんでも、膵臓か脾臓に疾患があるらしく「とっても辛そう」とのことだった。
「桐子ちゃんは山之内くんのこと、随分心配しているわ。〈試験、どうだったかな?〉とか、〈今はどうされているかしら?〉とか、〈あたしのことなんか、もうとっくに忘れてしまっているでしょうね……〉とか、桐子を見舞う度に、控え目ながらも山之内くんのことを話題にしたがるのよ。あたし、彼女の気持よく解るわ。……是非、逢ってあげて。山之内くんの顔見たら、桐子きっと元気になると思うわ」
里美は、貴志に「山之内くん一人で見舞いに行ってあげて、……それも、早くね」と何度も念を押して帰って行った。わざわざ里美が貴志を訪ね、桐子の病気を知らせてきた。ということは、桐子の症状が思いのほか悪いからだろうか。貴志は急に桐子が心配になってきた。
桐子が自分のことを覚えてくれている。
それだけでも感激だった。そのうえ、貴志のことを話題にすることがあるという。
懐かしい桐子。一刻も早く駆け付けたかったが、その日はもう時間的に遅いので、貴志は翌日の午後一時半に二子玉川の小酒井邸を訪問した。まだ空き地が多く未整備の道を、里美に書いてもらった地図を頼りに一〇分ほど歩くと、桐子の家があった。玄関の呼び鈴を押して一呼吸すると、上品な、桐子の母親が出迎えてくれた。
「山之内君とおっしゃいましたわね。はじめまして、桐子の母です。……山之内くんのこと、桐子からいろいろと聞いています。桐子は、あなたを心待ちにしていましたのよ」と言って貴志を一階居間に招じ入れ、二階にいる桐子を呼びに行った。
暫らくして桐子が顔を見せた。随分、久しぶりに見る桐子。昔に較べて心なしか顔が少し痩せて見えた。
恥ずかしそうに微笑みながら貴志に挨拶した。
「こんな格好でごめんなさい」と言って俯いた。桐子はピンク柄のパジャマ姿のままだった。薄く口紅を施したほかは殆ど素顔に近かった。桐子は改めて炬燵のある二階の和室に貴志を案内した。桐子の病状は、里美が言うほどに辛そうには見えなかった。ただ、病気のせいか、頼りなく寂しげに見えた。
「……きのう田島麗子さんから聞いて、びっくりして来てしまいました。身体の具合はいかがですか?」と貴志は畏まって尋ねた。
「里美、どんな風に言ってました? ……でも、今日はとっても気分がいいようです……」と桐子は目を伏せ気味にして応えた。そして、しばし沈黙した。そこには清純で可憐な桐子がいた。桐子の母がお茶とお菓子を炬燵の上のテーブル台に並べ、暫くお喋りして後、
「ゆっくりしていってくださいね」と言って、襖を閉めて階下に降りて行った。
「逢えてよかった。もうお逢いできないかと思っていました」桐子の瞳が心なしか潤んで見えた。透明で深い哀愁を帯びた美しい瞳が貴志を見つめた。「あたしが貴志さんにどうしてもお逢いしたいって、里美に頼んだのよ……」
「ほんとうですか。ぼくは、とっくに忘れられた存在かと思い続けてきました」
「忘れるはずないでしょう。あんなお手紙戴いて。……貴志さんのこと、忘れるわけにはいきません」と桐子は恥ずかしそうに俯いて応えた。控え目で奥ゆかしい桐子の口から出た、愛を感じさせる言葉を聞いて、貴志の心は微妙に震えた。
「そんなふうに思ってくれていたなんて、ぼくはうれしいです」
「それより受験はいかがでした? 今回も東京大学をお受けになったんでしょう」
「はい。ですが、恐らくは、いや絶対に駄目でしょう。だから桐子さんにお逢いする資格なんてないと思っていました」
「資格? あたしこそ、こんな体で貴志さんに会っていただける資格なんてないと思うわ。……何も東大がすべてじゃないでしょ。中法大って東大以上の価値があると思っている人たちも沢山いるでしょう。お役人を目指すよりも弁護士とか民間会社に目を転じた方が、これからの時代には向いているんじゃないか、って父が言ってました。あたしも、そう思います」
「僕も、今ではそんな風に思うようにしています。でも負けは負け。桐子さんに会わす顔がない、というのはそういう意味なんです」 言い換えれば負けた哀れな姿を誰にも(まして桐子には)見せたくはなかったと言っていい。
「お願いだから、そんな風には思わないで。……それに、まだ決まった訳でもないでしょう。受かっているかも知れないわ」桐子は縋るようにして貴志を見詰めた。闘病生活のためか桐子の様子がやはり何となくやつれて見える。肌の色が薄く青味を帯びて見えた。
「二年間、充分過ぎるほど待ったわ」 桐子の口からそんな言葉までが出てこようとは――。
「それ、ほんとう? だったら、どうして一度も連絡してくれなかったの」と思わず貴志は尋ねる。
「嘘は言わないわ。お逢いしたかったの、とっても。……でも、お会いすることで、貴志さんの受験のお邪魔になるかも知れないでしょう」
「僕も、桐子さんのことを、ただの一瞬たりとも忘れたことはありません」
「逢えないと思うと、貴志さんが段々遠くに行ってしまうような気がして寂しかったわ」
貴志だって同じこと、桐子を強く想う一方、逢わない期間が長くなればなるほど、彼女が手の届かない遠くへ行ってしまうような心許なさを感じていた。
「ほんとうのことを言うと、ぼくは実は、はかない片想いだとばかり思っていました。……今の今まで」
「そんなことないわ。あたしは貴志さんだけを想って、耐えて待っていたのよ」 お互い悪びれることもなく、こんな会話ができているのが不思議といえば不思議だった。恐らく二年の歳月が二人をこんな風に成長させたのかも知れない。
そんな、きわど過ぎるやりとりが続いた後、貴志は恐る恐るそれでも勇気を出して、それこそ思い切って、桐子の方に身体を寄せ気味に、左手で彼女の肩をそっと抱き寄せた。桐子は覚悟していたように身をかたくして身体を貴志の方にもたせかけるようにして預けてきて、そして眼を閉じた。
「綺麗だ――」と貴志は思った。素顔が何と清楚で美しいことか。喋ったり微笑ったりする表情、慎ましやかな仕草。総てが奥ゆかしく、可憐で魅力的に見えた。貴志はやや緊張しながらも勇気を出して、やさしく控え目に、彼女の小さな唇にそっと唇を押し当てた。初め彼女は戸惑ったように顔を横にずらす素振りを見せたが、特に避ける様子は感じられなかった。貴志はごく軽く桐子のか細い肩を引き寄せ、もう一度唇を重ねた。少し力を入れて抱き寄せると、薄く透明なガラス細工ように、危うく壊れてしまいそうな脆さが感じられた。
「ぼくは高校一年のときから、いやそれよりも、もっともっと前から桐子さんのこと好きでした」
「ほんとうに? 本当なら嬉しいわ。……あたしも、です」
貴志は小学校五年生のときの「桐子のお弁当消失事件や虫下しマクリ騒動」についての
思い出を語り、あのときには言えずにいた感謝の気持ちを今伝えて、「そんなこともあったね」とお互い笑いあったりもした。昔にタイムスリップしたような思いだった。もはや二人の間に距離感はなくなっていた。
貴志の手はいつの間にか彼女の胸元に……。だが、貴志は一瞬躊躇いを覚えた。病気見舞いに来たことを忘れ、事もあろうに彼女の家で、……自分は何と愚かで大胆で不謹慎なことをしようとしているのか。貴志がこれまで出会った種類の女性とは違って、彼女は花も恥じらう清純派。
時間が容赦なく過ぎていった。
襖の外から桐子の母親の声がした。薬の時間がきたので「外に置いておきますからね」と。
これを機に、貴志は桐子宅を辞することにした。
「あら、もうお帰りになってしまうんですか? ……また近いうちに逢って戴けます?」
「喜んで。ね、それより早く元気になって。……身体が良くなったらデイトしよう」
「愉しみにしているわ。……でも、あたし、いつかは良くなるかしら?」 貴志は桐子を軽く抱き締めた。力を入れると崩れてしまいそうな危うさを感じながら……。
桐子の母に見送られ、貴志は桐子宅を後にした。
田園風景の広がる駅までの仄暗い道のりを、貴志は桐子と過ごした時間を振り返りながらゆっくりと歩いた。今日の総てがまるで別世界の出来事のようだった。桐子は思っていた以上に元気そうではあった。ただ、疲れやすく、けだるく、動くと動悸そして息切れがするという。それでも
「こんなに気分のいい時間を過ごせたのは、何年ぶりかしら」と桐子は言って頬笑んだ。
一日は我慢した。
その日は一日中、桐子のことを想って過した。
そしてその次の日、貴志は居ても立ってもおれなくなり再び桐子を訪ねていた。そんな貴志の心を知ってか知らずか、桐子は慎ましくも全身に喜びを表して貴志を迎え入れた。桐子の母もどうしたことか目に涙を浮べ、貴志に喜びを伝えた。
「この子、山之内君が来てくださったお蔭で見違えるように明るくなったのよ。主人も喜んでいたわ」 そう言われると貴志は却って恥ずかしい思いがした。
予告なしの訪問のためか、桐子はこの前と同じようにパジャマ姿のままだったが、その上に明るいカーディガンを羽織っていて、いくぶん華やいで見えた。表情も豊かで魅力的だった。
「うれしいわ。こんなに早く来て戴けるなんて――」
「実は、桐子さん。毎日でも逢いたかったんです」
「あたしも、です」と言って桐子は貴志の指をそっと握った。貴志はそのまま二階の部屋へと誘われた。桐子の母がお茶とお菓子を乗せたお盆をテーブルに置き、「ゆっくりしていってくださいね」と言って襖を閉めた。
石油ストーブで部屋中暖かくなっていたので、ふたりは三人掛けソファーに腰掛け、ごく自然に抱き合い、そっと唇を合わせた。
体調を気遣うと、桐子は「もう大丈夫、こんなに良くなったわ」と言って、はにかんだ。
言うまでもなく、もう二人は恋人同士だった。暫らく二人ともお互いの《恋》を身体の中に感じながら、将来の夢を語り合った。貴志は正面に向き直り、もう一度桐子をやや強く抱き寄せた。
胸が合わさり、貴志は桐子の胸の膨らみを肌で感じた。叱られるかもしれない、と思いつつも、貴志はパジャマ越しに桐子の胸にそっと手を置いてみる。いけないことと思いながら、どうしてこうも大胆な行動に出られるのか?――貴志は我ながら不思議だった。
「怒った?」と貴志は桐子の耳もとに口を寄せて小声で囁いた。
「いいえ……」と桐子はそう答えたように思う。
「ちょっとだけ……(触っても)いい?」と貴志は遠慮勝ちに尋ねる。
「う、うん――」と桐子は声にならない声で小さく頷き、恥ずかしそうにパジャマの胸の襟をかき合わせて俯いた。
貴志は躊躇いながらも彼女のパジャマの裾から手を差し入れ、その乳房をまさぐった。
そこには充分に発育したと思われる神秘の乳房があった。貴志にとって経験したことのな
い一途で、ひたむきな乳房。――手の平にぴったりと吸い付いてしまいそうな、湿り気を
帯びた優しい、たおやかな乳房。その中に桐子の切なる思いが詰まっているのを感じて、
貴志は芯から痺れてしまった。乳首に触れたときの感触は何ものにも代え難く、崇高なも
のだった。
桐子は貴志の肩越しに顔を埋めて、
「ね、貴志さん、あたしから離れないで……」と囁くように訴えた。貴志は強く頷く。
貴志にとって桐子は、待ちに待った愛しい恋人だった。
「桐子ちゃん、ぼくは君がほんとうに好きだ。ぼくは決して君を離さない。約束する」貴志は今度こそ本気でそう思った。
二
桐子との二度目の逢瀬から戻る途中、貴志は自宅最寄駅からの帰り道で突然の雨に見舞われた。細かく冷たいがどこか心地よい氷雨だった。雨足は強くなかったのでそのまま濡れて帰ることにした。暫らく歩くと桐子との恋が芽生えたあの文房具店の前に差しかかった。いつも通る見なれた店がこの日はどうしたことか普段と違ってくすぶって見えた。自宅に帰り着いたのは午後八時を回っていた。衣服は重く、ぐっしょりと濡れてしまっていた。
その所為かどうかはわからないが、翌朝から貴志は身体の節々が痛く、頭痛と発熱に見舞われた。体を持ち上げようとしても起き上がれない。夕刻には体温が三九度まで急上昇した。更に頭痛、肩こり、腹痛……嘔吐まで伴う始末だった。これまで受験という緊張した生活を続けてきたため風邪ひとつひいたことがない貴志だっただけに、その糸が切れてしまった今となって、疲れがどっと出たのかも知れない。母が、かかりつけ医に往診を頼み(このころは往診が普通のことだった)、診てもらったところ、風邪は風邪でもどうやら流行性のものらしかった。太い注射と、五日分の煎じ薬が与えられた。
どうしたことか三日三晩、貴志は腑抜けのようになって眠りに眠った。五日目、ようやく起き上がることが可能となり、桐子に連絡しなければ、……と焦った。が、桐子宅には回線不足で未だ電話が引かれていなかったため、どうすべきか迷った。自分が風邪で寝込んでいることを手紙で知らせると却って彼女に心配をかけてしまいそうで、それは控えた。明後日は大学の合格発表日。不合格と知りつつも確認だけには行き、その帰途桐子を見舞おうかと考えていた。
合格発表の一日前になっても今だ熱は三八度台をキープしたまま、そのうえ腹がよじれるほどの強烈な咳をも伴った。これまで風邪でこんなに長引いた経験はなかっただけに、この調子では合否確認に出かけることすら出来そうになかった。
増してや、発表を見ての帰りに、桐子を訪ねることで病身の彼女に風邪をうつしてしまっては、それこそ大変なことになる――それを思い、貴志はただただ自重することにした。思えば、万一合格していれば一日遅れの新聞情報で知ることができる。本来なら、他の多くの受験生のように、合否結果を電報で知らせてくれるという手続きをしておくべきだったと、今にして思う。が、その時点では、即ち受験終了直後の気分では、またしても〈さくらが散った〉なんて決まりきった文面に出会う屈辱を味わうことに耐えられず、その手配をしなかったと言っていい。
幸か不幸か、明日が運命の日という発表前日の新聞(朝刊)に次のような記事が掲載された。
明日が東京大学の合格発表という日になって、発表日が約一週間『延期』になるという異例の事態が発生した。その理由として、数学(解析Ⅱ)の設問の一部に正解不能な問題が含まれていたことが、複数の高校教師や塾講師の指摘によって発覚した。また、この問題について多方面の関係者から模範解答が寄せられてはいるが、何れも独自の前提条件や仮説によって解かれたもので、その解き方や結論は多岐に渉っていることから、大学側として、この問題の取り扱いに関しては、慎重且つ公平を期するため、やむなく合否発表を延期せざるを得ないことになった。このことによって、採点基準がどのように調整されるのか注目に値するとの報道がなされた。
このことを貴志が知ったのは、早朝、出勤前の父によって知らされた。
今回、指摘された数学の問題は、貴志が急な腹痛に見舞われて「無解答」で中途退場を余儀なくされたもので、大学側がどういう結論を出したとしても、貴志にとってはマイナス材料になることはない。しかし、全体的な、貴志の出来具合から言っても、東大合格という奇跡は起こりようがなかった。
翌日(本来の東大の発表日)になって何とか貴志の風邪の症状も下降線を辿り、熱も三七度台後半まで下がったが、依然として体の節々が痛く起き上がるのも大儀だった。
更に二日が経過して、貴志の風邪は一見恢復したかに見えたが、替わりに咳が続き、咳き込むと止まらないというやっかいな症状が続いた。この調子では到底桐子を訪ねる訳にはいかない。桐子に風邪でもうつしてしまっては大変なことになる。
恋しい桐子と、二年の歳月を経て、ようやく逢って以来、都合七日間も彼女に会うことが出来ないでいる。桐子はどう感じ何を思っているだろうか。寂しがっているかも知れない。悲しんでいるかも知れない。そして桐子はきっと一日も早く逢いたがっていることだろう。今直ぐにでも行って、桐子を抱きしめたいと思うとともに、焦りに焦った。
考えてみるに、自分は何のために東大(文一)にこだわってきたのか。
それは貴志にとっては偉大なる父と肩を並べるための、果たさねばならない最低限の目標だった。加えて、貴志を知る多くの人たちに対して、堂々胸を張り、また見栄を満足させる手段としても有効であった。……しかし、思えばそれだけのことじゃないか。東大であろうが中法大であろうが、貴志にとってはどうでもいいこと、それよりも、これからどう生きるかの方が大切だとの思いに至った。大学での貴志が目指す方向が法曹界と決めたなら、第一関門が司法試験であり、ならば東大も中法大も同じこと。この際、東大合否は別にして官僚への道は除外して考えるべきだと思うようになっていた。官僚になっても、政治家の下請け仕事(?)なんて、あまりにも自主性がなさ過ぎる。《上司の指示は絶対》の世界なんて、考えただけでも抵抗がある。自分に必要なのは、信じたことを真っ直ぐに突き進む率直さとそれをやり遂げる根性と気骨。桐子の父親の教えだった。
……これからは官僚への道を断ち切って法曹界一本に絞って戦い抜こう。貴志は気負って、そんな風に考えるに至った。中法大(法)は法曹界にめっぽう強く毎年多くの司法試験合格者を輩出している。このまま中法大の二回生に進み、この際一年でも早く社会に出て、愛しい桐子と一緒になって、桐子を幸せにして、……毎日毎日桐子のオッパイを愛でて、桐子の唇に触れて、……。貴志は夢の中で、そんな思いに浸った。
ああ、早く桐子に逢いたい。可憐で聡明な桐子と将来を語り合いたい。桐子と思いを一つにして理想に向かって手をとりあって生きていきたい。また、桐子の病がどの程度のものかが分からないが、一日も早く依然の健康を取り戻すべく桐子に寄り添って支えていきたい。
たかが風邪とはいえ、何日も蒲団にくるまって過していると、元気なときとはちがって、色々な妄想や思考がとりついて頭の中を駆け巡る。
そんなことをあれこれ思い描きながら、その日は悶々として過した。風邪に見舞われたことによって、こうして将来を見据えてみることも思えば久しいことだった。
三
翌日は日曜日、ようやく長引いた風邪の症状も嘘のように収まってきた。
その日の午後、桐子の親友、田島里美が何の前触れもなく訪ねてきた。
その様子が少し変だった。
「田島さん、どうされました?」
「何度も考えましたが、来てしまいました」と里美。いくぶん肩を落とし、体を小さくして語ったところによると、桐子は、五日前に体調が急変し病院に搬送され、翌々日旅立ったという。
旅立った? それ、どういうこと? 嘘だ! と貴志は叫んだような気がする。そんな筈はない。あんなに桐子は調子が良さそうに見えたのに……冗談ではないにしても俄には信じ難いことだった。田島里美はいったい何を伝えようとしているのだろうか?
貴志の見舞いを受けてから見違えるように良くなったと、母親が驚くくらい桐子の病状は恢復したかに見えた。
田島里美によれば、――貴志の合格発表の二日前、桐子は少し歩いてみたいと言い、優しい母親に付き添われて渋谷に出たと言う。桐子の外出に、彼女の母親は最初大いに反対したものの、桐子の具合があまりにも良く、医者に尋ねても、無理しない程度なら外出も大いに結構と言われ、また、母として、桐子の切ない思いもよくよくわかっているだけに、思い切って、自分も同行することで桐子に外出の許可を与えたのだった。
里美が言うには、道玄坂を登り中程にある有名文具店で、桐子は母の推薦するウオーターマンの万年筆を買い求め、貴志への合格プレゼントとして二人の頭文字『T&K』の文字を彫ってもらい、自分の手で丁寧にリボンを掛け、心を込めて包装した。そのあと駅近くの美容院に母娘仲良く収まり、桐子は思い切って髪をショートカットにしてもらった。病人というひ弱なイメージを払拭し、初々しく爽やかな雰囲気を出したいと期待してのものだったと思われる。
「桐子ったら、あなた、とっても綺麗よ」と母親に褒められ、
「ほんとうに? 嬉しいわ」と桐子は大いに照れたという。
そして、母娘は果物やパンケーキが美味しいと評判のお洒落なフルーツパーラーに入り、軽いランチを愉しんだ。あさっては貴志の合格発表日、この日はパジャマ姿ではなく明るい装いで迎えたいと桐子は語ったと言う。
「貴志さん、うれしい知らせをもって逢いに来てくださるかしら?」 桐子は心配そうに母に尋ねた。
「大丈夫よ。きっと。貴志さん、良い知らせを持って来て下さるわ」
「貴志さん、あたしのこと忘れてないかしら?」
「バカね。どうしてそんなことを気にしているの?」
「当然でしょ、お母さん」
「あなたを見て、貴志さん、びっくりするでしょうね」
「どうして?」
「綺麗になったね、って」
「ね、お母さん。貴志さん、いつか、あたしをお嫁さんにしてくれると思う?」
「さあ、それはあなたの心がけ次第よね」
「そうね、お母さん、応援して。……お父さんも許してくれる?」
「それは決まってるわ。お父さんはあなたの味方でしょ」
久しぶりの母娘揃っての外出――母娘は寄り添って家路に着いた。その翌日の夜、桐子の容態が急変したのだった。
病院に救急搬送されベッドに寝かされ、桐子はか細い声で
「あたしのこんな姿、貴志さんには見せたくないの。だから、絶対に知らせないで」と涙ながらに母親に訴えたと言う。辛うじて桐子の親友里美にだけは知らせ、……里美は病室に駆けつけたのだった。
そのとき、桐子は「あたし、もう助からないかもしれないよ」と言って里美を見つめて涙ぐんだ。
「桐子、そんな弱気なこと言わないで。あなたらしくないわ、きっと良くなるから元気を出して。きっとよ。山之内さんのためにもね」
「〈あたし貴志さんに逢えて幸せだった〉って彼に伝えて――」
「早く良くなって、ご自分で言いなさい」と里美はいたずらっぽく、わざと突き放したように言った。
「そうね。頑張ってみるわ」そう言って桐子は仲良し里美の手をにぎった。
桐子が息を引き取ったのは、翌々日の未明だった。
桐子の両親と海外から急遽帰国した兄、そして里美の四人に看取られて――。その日は期せずして貴志の「本来の合格発表日」だった。
里美は、桐子から託されたイニシャル入の万年筆と、渋谷で撮った桐子のさっぱりとしたショートカット姿の写真を、そっと貴志の手に握らせ言葉を詰まらせた。写真の桐子は、貴志に語りかけるように頬笑んでいた。美しく素敵な笑みを浮かべて――。
「これ、桐子から……合格おめでとう、って。……桐子って、ほんとうに山之内くんのことが好きだったのね」
瞬間、貴志の思考は停止した。
合格発表日は延期になり、この時点では合否は未だ決まっていなかったが、桐子の気持ちを受け入れて、〈ありがとう、桐子〉と心のなかで呟いた。
他に何か言おうとしても言葉が出て来そうになかった。口が渇き、眼が渇き涙も出て来なかった。
貴志はその夜、蒲団に潜り、はじめて桐子の死を思って泣いた。この歳になって泣くという現象は理由の如何を問わず考えられないことだったが、涙が溢れて止まらなくなっていた。
桐子を見舞ったあのとき、桐子は病床にありながら、貴志に心配させまいとして無理して気丈に振舞ったのではないか。それをいいことに、貴志は桐子を何度も抱き寄せ、抱き締め、唇を重ね、オッパイにまで触れた。奥床しい桐子は、恥じらいながらも貴志の為すがままだった。……そのことが桐子の病状に悪い影響をもたらしてしまったのでは? 考え過ぎかも知れないが貴志は責任を痛感した。
今はもう、いない桐子。愛しい桐子。桐子は貴志を残してひとり旅立ってしまった。貴志の恋は儚くも消え去ってしまった。
桐子の母は、ハンカチを目に当て
「桐子、山之内くんと再会することが出来て、どんなに幸せだったか、……山之内君にそのこと、お伝えくださいね。それと、桐子のことは忘れていいのよ、って」と桐子の親友里美に語ったと言う。
桐子の、愛らしい豊かな表情、細い肩の線、唇のソフトで微妙な感触、オッパイの神秘的で優しい質感。乳首に触れたときの感動と貴志の全身に走ったあの電流……その総ては恋。この先、絶対に訪れることのない真実の恋。生涯たった一度の恋、切ない恋、悲しい恋。その恋は、桐子と共に旅立ってしまった。
桐子にとっての、貴志への想いは如何ばかりだったであろう?
実力も中味もないのに、人に出来ることは自分にも出来ると自らに言い聞かせ、暗示をかけ、思い込みを強くし、常に背伸びをして突っ張ってきた貴志のこの生き方。独りよがりで中途半端。自分では気が付かないまでも父親を超えたい思いだけが先走りし、踏ん張り、追い続けた、今日までの貴志――。謙虚さの微塵もない、こんな自分を慕ってくれたなんて、桐子の恋は、思えば奇跡に近かった。否、奇跡そのものだった。
「桐子、君が好きだ。死ぬほどに……。(君を)愛している。……いつまでも」と貴志は胸の中で、そっと何度も何度も呟いた。
(第六章)愛のしじまに
田島里美の訪問を受けたその翌日、二子玉川のキリスト教会にて、小酒井桐子の葬儀・告別式がひっそりと、しめやかに執り行われた。
正面の祭壇には、桐子が高校生のときのセーラー服姿のものと、今回、母親に伴われて渋谷の美容室で髪をショートカットにした爽やかなポートレートの二枚が飾られていた。
式典は、形式にとらわれず、厳かに、??且つ哀しみを伴いつつ、粛々と進められていった。
礼拝堂には親族も礼拝者も入り混じり、讃美歌のオルガン演奏とともに、ゆったりとした時間がたゆたうように流れていった。
初老の牧師が、静かな口調で、桐子の生い立ちを語っていく。知らない桐子の一面が語られて、何処からともなく、すすり泣きの声が聞こえてくる。
桐子は、お茶の水女子大学を卒業したら、キリスト教団の主宰する聖水女子学院の教師になって国際的な教育事業に取り組みたい、という夢を持っていたと謂う。
桐子は、争うことがキライだった。人を押しのけて前に立つことを潔しとしなかった。常に控え目で謙虚だった。人の前に出るよりも、人に寄り添うことを好んだ。目立つことよりも、ひっそりと佇む姿勢を是とした。桐子の性格を、そんな風に牧師は表現した。
今日のミサに参加した女子大生の友だちの一人が、こんな桐子のエピソードを披露した。
同じお茶の水にある男子校との共同ダンスパーティーに、桐子はどうしても参加したがらなかった。恋人がいるから? と尋ねると、桐子は決ってそうだと答える。どんな人? と訊くと〈素敵な人よ〉との答えが返って来る。その人何処に居るの? と重ねて尋ねると、桐子は〈さあ、心の中に〉とはぐらかす。更に問い詰めると、桐子は泣きそうな顔をして〈??だって、ほんとうなんだもの〉と仰る。よほど、好きな人がいるにちがいない。〈顔も形も見えない素敵な人よ〉と桐子は困ったように答えるばかりだった。〈桐子にはその人以外では、ダンスのパートナーは存在しないようだった〉と桐子の友人は結んだ。
〈東京大学〉~山之内貴志の頭の中には、それしかなかった。
にも拘らず、東京大学は貴志を快く迎えようとはしなかった。一年間そればかりを思い戦ってきた最後の決着をつけるべき日に、腹痛に見舞われ大事な数学の一問を放棄しなければならない事態に追い込まれた。
今、桐子の友人から聞かされて初めて知った桐子の健気な精神世界。これは、貴志にはない世界だった。それを知り貴志は己のこころの矮小さを恥じた。桐子は、ほんとうに何も語らず、ずっとこんな貴志を待ち続けてくれていたのだった。
祭壇に掲げられている桐子の写真を見上げた。
桐子は貴志を見て微笑っていた。
「ばかネ??」と桐子は呟いた。「お馬鹿さんね」
「君だって馬鹿だよ。??こんな頼りない私を待つなんて」
「でもイイの。??貴志さんのお馬鹿」
「君だって、もっと馬鹿。??何の前触れもなく、黙って旅立ってしまうなんて、絶対に赦してやらないから」貴志は祭壇の桐子をチラと睨んで毒づいてみる。
「そんなに怒らないで。だって、最後は、あたし、とっても幸せだったから。貴志さん、ありがとう」
牧師の声が礼拝堂に微かに柔らかく響きわたる。
「素敵な、すてきな小酒井桐子さんは、今日ここに、天に召されて??」
手元の歌詞を見ながら、讃美歌の合唱。続いて祭壇に手向けての献花。名残りを惜しむかのように思い思いに桐子に語りかけ、別れを告げる。
参列者一人ひとりに感謝の言葉を伝え、握手をして送り出した後、桐子のご両親が貴志の許に近付いてきて、
「ありがとう。君が来てくれて、桐子は本当の意味で召天できたと思う」と桐子の父は言った。「そうよ、桐子は貴志君が大好きだったのよ。よく来て下さったわ。桐子は最高に幸せな瞬間に天に召されて、ほんとうによかったわ。だだね、桐子のことは忘れていいのよ、無理しないでね」桐子の母はそう言って涙ぐんだ。
第一部 ( 完 )




