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ひた走る恋の行方 第二部

第二部( 理不尽な掟 妙子愛のさだめ )             

                     

 

(第一章) 尽きせぬ想い  

           

               

          一 

 

 この先自分はどう生きていけば良いのか、思考は宙を彷徨うばかりだった。 

 東大? 司法試験? そんなものは最早もうどうでもいい。法曹界への夢と希望そして挑戦。そんな情熱は今の貴志には、微塵も沸いてはこなかった。仮に再び意欲が沸き出て来たとしても、二回生としての残り一年の教養課程を修め、三回生からの専門課程に進み、それから本格的にスタートしても充分に間に合うと思われる。従って二回生という、またとない一年間は、何ものにも代え難い貴重なる日々と時間であり、出来れば何もしないで過したい。仮に何かをするにしても受験とは距離をおいた何かでなくては意味がない。受験に明け暮れるだけが青春であってはならない……残念ながら自分に言い訳するようにそんな思いにもとらわれた。

 かくて中法大法学部二回生となった迷える羊、山之内貴志がいた。

 これまでの受験一辺倒の生活から解放されたものの、あの聡明で慎ましやかな、愛しい

桐子を喪ってからというもの、貴志は何をするでもなく腑抜けのように頼りない毎日を過していた。東大受験にあれほどの闘志と情熱(本当は腰が引けて、独りよがりとも謂える中途半端な情熱)を注いできたこともまるで嘘のよう……遠き昔の出来事のような心細い心地だった。

 桐子のような初々しくて素敵な女性は二度と再び貴志の前に現れることはないであろう。真珠のような淑やかさと品の良さを備え、それでいて厳かで優美な情感に満ちた、そんな女性に貴志はもう決して巡り逢うことはないであろう。奇跡でも起こらない限りあり得ない。

 桐子の恥じらいを含んだ香しいオッパイはもうこの世には存在しない。手のひらに残る桐子のしっとりとした乳房の感触は貴志にとって、忘れようとて忘れられない記憶となった。今一度桐子の淡い花の蕾のような魅力的でゆかしい唇にも触れてみたい。


 横浜駅西口、駅構内には靴磨きを職業とする年輩の男女が数人、靴磨き用の足置き台を並べて客待ちしていた。駅を背に飲食店の点在する鶴屋町界隈の午後遅く。大方はまだ仕事の流れ、その中に夜の準備に急ぐ人々も混じる都会の街角。……貴志の足はごく自然に、あの奥村陽子のいた喫茶『フロリダ』に向っていた。この前この店に足を踏み入れたのはいつだったろうか。つい昨日のようでもあり一年も二年も前のことのようにも思えてくる。

 途中、囲碁道場や相気道ジムの入った古い建物の前を通り過ぎ、行ったり来たりしているうちに、久しく遠のいていた『フロリダ』の入り口に立っていた。いつもと少しも変わっていなかったが、当然レジに陽子の姿は見当たらなかった。別の女性が手持ちぶさたな様子で、それでも愛想笑いを浮かべて「いらっしゃいませ」と貴志に奥の空席を指し示した。

 あのとき陽子は、その月(三月)いっぱいで店を辞め静岡の実家に戻って年老いた母親の世話をしなければならなくなった、と告げ、そして貴志と初めてのデイトをした。年上のあっさりとした気持ちの良い女性だった。〈ここにいる間にもう一度お会いしましょうね、……静岡の田舎って土や緑の濃い香りがいっぱいで、とってもいいところだからここにも是非遊びに来てね〉と言われながら、貴志は熱と咳を伴なった風邪を引いてしまい、その上〈桐子の不幸〉も重なって、思いは実現しなかったのが残念と言えば残念だった。

 そして此処『フロリダ』にはもう陽子の姿はない。思い切って、店の人に彼女の消息を尋ねてみようか、とも考えたが、そんなことは今やどうでも良いと思いそれは抑えた。愛する桐子を喪った今、彼女以外の女性(奧村陽子)のことを頭に浮かべるなんてこと自体、何て不謹慎なことか。貴志はそんな思いにも捉らわれた。

 奥まった席について重い腰を下ろし、運ばれてきたコーヒーに口を付けたとき、ふと斜め前方に目をやると、何とそこに親友白井正人が本を開いたまま居眠りをしているのが目に入った。貴志はコーヒーを手に持って白井の正面に移り、「やあ!」と声をかけた。

「よう」と白井は目をこすりながら貴志を見て言った。「いやぁ生きていたのか? 心配してたんだぞ……実のところ今日あたり此処で会えるんじゃないかとは思っていたんだ」

「ああ、もう大丈夫だ。これからもよろしく頼むよ」と応えて貴志は白井を見た。

「あれだけ待ちに待った彼女、桐子嬢に先立たれたお前の気持ち、察するにあまりあるが、ただ、いつまでも引きずっていては彼女のためにもならないと思うよ」 白井は貴志の心の中を覗き込むようにして遠慮勝ちに言った。

「どう? 行くかい? 気分転換に。お前の再出発に向けての荒療法に。……今回は奢らせてもらうが如何? それともお前にとっては今はそんな気持ちになれないかな?」 白井は手のひらを閉じたり広げたりして二人だけの合図を送ってきた。

「カネある?」と貴志は訊いた。「俺はこのところ金欠病なんだ」

「心配するな。これでも家庭教師の口は結構あるんだ」

 それでは、ということで貴志は白井の好意を素直に受けることにした。たしかに、桐子を喪ってまだまだ傷心の身。そんな中でのお誘いだけに若干躊躇するものもあったが、この際割り切って白井の友情を受けることにした。そうあらねば貴志の明日に支障を来すことにもなりかねない。そんな身勝手で都合の良い解釈が頭をもたげた。

「但し、例の〈青い海〉だけは行きたくない」と貴志は言った。。桐子への思いとは別にあの和泉妙子という女性のことが脳裏をよぎり、そう断ったが白井は織り込み済みのようだった。

「お前は女で苦労するなぁ」

 ふと白井を見ると、早くもひとまわり大人になったような落ち着いた雰囲気を身につけていた。貴志の頼りなさとは違って、何故か堂々としていて自信に満ちているように見える。国立大学最難関、一橋大二回生の白井正人と、中法大二回生の貴志とではだいぶん差がついたようにも感じられる。しかし、白井正人はそうは思っていないのか、むしろ、貴志を尊敬に似た眼差しで仰ぎ見る。中法大は法曹界に強く司法試験合格者数でも東大・京大を遙かに凌ぐ。何も東大にこだわることはない、自由で一途な校風こそが貴志に向いていると白井は思っているようだった。超難関大に自己流勉強法で堂々と合格したことを誇りとしないばかりか、白井は少しも〈自分は人よりも優れている〉とは思っていない。ごくごく当たり前で普通のことだと思っているようだった。白井はほんとうに謙虚で逞しい男だった。羨ましいと貴志は思う。

 その白井と暫しのお喋りをして喫茶『フロリダ』を後にする時分には、いつの間にか薄く夕闇が迫っていた。今通ったばかりの駅への道を白井と肩を並べ、ゆっくりと歩いた。少し行くと先ほど通った囲碁道場と相気道ジムの看板の前にさしかかった。相気道ジム入口は意外にさっぱりとしていて明るい雰囲気が感じられた。同時に貴志の脳裏で《何か》が弾けた。

「ちょっと、覗いてみないか?」と貴志。


 入り口の扉を押し、靴を脱いで中へ入り、受付の窓越しに見学を申し入れると、〈どうぞ……〉とあっさり通してくれた。見通しの良い真っ直ぐに延びた長い廊下からガラス越しに見る道場は、奥行きがあって明るく広々としていた。畳はなく艶のある木の床と部分的にゴム製のカーペットが敷かれていた。

 五、六人がひと塊りになり、道場の真ん中で稽古が行われていた。壁に沿って一〇人以上の柔道着姿の武者たちが自分たちの出番を待って、稽古を見守っている。奥に目をやると、五組の〈一対一〉での乱取り稽古の最中だった。

 見ると、静寂感に包まれた雰囲気の中での緊迫の申し合い。中央の塊が、ぱっと散り、うち四人が床に投げ出された。替わって、出番を待っていた中の四人が、するっと前に出て、残る立ち姿の二人に体を寄せた瞬間、その四人も床に這っていた。続いて、また三、四人がすーっと近寄るや、いとも簡単に飛ばされた。二人が数人を相手に同時稽古を付けている恰好だった。次から次へと、めまぐるしく挑みかかり、二人はそれを受けて、体を躱し、且つ捻って相手を這わせる。動きは滑るようになめらかで、それでいて素早い。……何と華麗で美しいことか。

 奥の一対一の五組の申し合わせは、一方が攻め手で一方が受け手、これを交互に演じている様子だった。初め、攻め手側が前に進み、相手の襟を掴もうとする、その手の指先を軽く握って受け手側が体を前に倒すようにして捻ると、攻め手の方が崩れるようにして一回転して床に這う。……が、軽く受け身の姿勢をとり、そのままスイと起ち上がり、今度は受け手側の姿勢に入る。この繰り返しを、何回も何回も行っていた。次々に、攻守を変えての攻防。見ていて飽きが来ない。静謐とさえ謂える両者の動きに、貴志は我を忘れてうっとりと見とれてしまった。〈凄い!〉と貴志は思った。

 


           二


 気が付くと、いつの間にか三十分ほどが経過していた。

「じゃ、そろそろ行こうか」との白井の合図をきっかけに、興奮冷めやらぬまま道場を後にした。

 相鉄口のある北幸町のこじんまりとした歓楽街のド真ん中に位置する飲食店ビルの三階に、白井が最近開拓したというその手の店、サロン『みゆき』があった。白井はこれで二度目だというにしては落ち着いていた。席に案内され、黒服に蝶ネクタイ姿の女性スタッフが姿勢を低くして丁寧に挨拶し、店の会計システムを一通り説明し、次いで「ご指名は如何いたしましょう?」と聞いて来た。二人は「ない」と答えた。「かしこまりました」と黒服。「暫くお待ちください」と礼儀正しく腰を折りその場を離れた。

 黒服が去って入れ違いに、華やいだ衣装のホステス三人が現れた。

「さゆりです」「みどりです」「恵子です」とそれぞれが名乗り、名刺を差し出した。暫し他愛もないやり取りをしている中に、ホステスが一人ずつ入れ替わっていく。三十分もすると最初の三人の顔ぶれが全て入れ替わっていた。名刺が六枚になっていた。

「お気に召したホステスはおりましたでしょうか?」と黒服の女性スタッフが聞いてきた。どうやらこの店ではホステスの顔見せを行い、気に入った女性がいたら場内指名のできるシステムが組まれているようだった。白井は今付いている明るくちょっと抜けたような感じの若い子(ひな乃と称した)を場内指名した。貴志はどうでもいいという表情をしたところそれに呼応して、ひな乃は「じゃ、あたしに任せて。最近入ったばかりの、とっても気のいい美人さんを紹介しますから」と言って女性スタッフに耳打ちした。

「えり子と申します」 数分も経ったろうか、たしかに美形の何となく雰囲気のある女性が席について普通サイズの名刺を差し出した。「よろしくお願いします。……」と言って、ぺこりと頭をさげた。一見、学生風の爽やかな雰囲気とほのかな色香を感じさせた。

「ね、いい子でしょ。あたしのお友だち。ね、えり子」と、ひな乃はえり子を紹介した。

 それから四人であれこれと喋り合った。

 ひな乃は入店して一年半の少しだけお姉さん株で、とにかく明るく、何でもないのにずっと笑いっぱなしで、話も多岐に渉り飽きさせることがない。おバカさんにも見えるし、実は頭の回転が早くて賢くも思えた。一方、えり子は大人しくお澄まし屋さん。言葉のひとつひとつに相槌を打ち、それでいて飽きさせることはない。いい感じ。……本当に控え目で、感じの良い子だった。短い時間で聞き出したことは、現在、某専門学校の二年生で洋裁を勉強中とか。そう言えばそんな感じがしないでもなかった。これまでの貴志なら、えり子のようなタイプの女性なら恐らく異性としての好意を抱いていたかも知れない。が、今の貴志は冷めていて相手を観察してしまい、いまいち、遊びに没頭出来なかった。

 帰り際、えり子は、もう一度お会いしたいです、と言って、熱いまなざしを向けて、貴志の指に己が指を軽く絡ませてきた。貴志のこころは微かに動揺した。約束は出来ないが多分また来ることになると思う、と少々曖昧に答えた。本当に来ることになったとしても、えり子はそのとき、果たして在籍しているだろうか?……そんなことを思ったりもした。   白井を見ると、結構ひな乃とふざけ合い意気投合している様子だった。

〈必ずまた来るから……〉と約束している風でもあった。


 帰り道、「どうだった? 少しは気が紛れたかな」と白井。

「ああ、それなりに楽しませてもらったよ。……少なくともこの時間は桐子のことを、考えなかったから」と貴志は応じたが、こころの隙間はどうしようもなかった。この空虚さはいったい何だろうか。容易に埋まることはないであろう何とも言えない喪失感。しかし、この思いがいつまでも続くなんてことは女々しくて、男として、あり得ない。

「俺は思うんだけど、人は」と白井は横浜のどんよりとした黒い空を見上げながら言う。「忘れることの出来る動物なんだ。忘れるといっても、記憶から消えてしまうということではない。記憶に残っても、その思いは薄れていく。冷たい言い方だが、それが人というもの。……違うかな?」

「その通りだと思う。桐子の死を知らされたときの衝撃と今の感情とは相当質的に違ってきているように思う。この間に諦めという要素が浮遊して取り付いてきているように感じられる。残念だがそれを思い知らされつつあるよ」 貴志はそう応えた。

「そうか……それでいいんだ。おまえがある程度、苦しみから解放されつつあるのを知って安心したよ。実はおまえには話しておきたいことがあるんだ」と白井は貴志を振り返った。「聞く気があるかい?」

「なんだい、改まって?」

「もう一度、引き返そう」との白井の誘いを受け、二人は再び喫茶『フロリダ』へ。


「……これは話すべきかどうか、今の今まで迷っていたんだが、おまえの様子を見て、やっぱり今話しておくべきだと思ったんだ」

 白井によれば、貴志の東大入試の第二日目、たしか雪の舞う寒い日だった。頭からスカーフを被り、顔の下半分を覆い尽すような大きめのマスクをした美しい女性が貴志宅を訪れたと謂う。応対したのは貴志の母だった。彼女はコートとスカーフをとり(但し、マスクはしたまま)礼儀正しく、且つ遠慮勝ちに名乗った。

「貴志さんのお母さまですか。わたくし、和泉妙子と申します。……その節は貴志さんに大変ご迷惑をおかけいたしました」

「ご挨拶は抜きにして、寒いでしょう、……さあ、どうぞお上がりになって。あなたのことは貴志から伺っていますよ。……貴志の方こそ不注意からあなたに」

「いいえ、お母さま。貴志さんにはとってもよくしていただきました」と妙子は言い、そっと瞼を押さえた。

「お傷のほうはどうなんですか。貴志、随分あなたのこと、心配していましたよ」

「ええ、お陰さまで、……もう大丈夫です。もうすぐ元に戻りますから。それを申し上げたくて。それと……」と妙子は言って、バッグからそっと封筒を取り出して、遠慮勝ちにテーブルに滑らせた。

「こんなに遅くなって大変申し訳ございません。却って失礼かとは存じますが、あのときの入院治療費の一部に、と思いまして……」と言って差し出した。

 勿論、貴志の母は、〈お気持ちだけ戴きます〉と言って受け取らなかったが……。

 僅か四、五十分ほどの時間だったとはいえ、貴志の母と妙子は初対面にも拘わらず何故か充分に気脈の通じる間柄になっていた。妙子は、今は叔母が経営する神戸・岡本の西洋菓子のお店に、見習いとして世話になっていると言い。「まだお菓子作りの基本を学んでいるところですが……ゆくゆくは、和洋折衷の創作菓子を作ってみたいと思っているんです」と意欲の一端をも覗かせた。

「もう受験も明日で終りますから、いつでもいらっしゃってくださいね。貴志、きっと喜びますよ」

「有り難うございます。でも……」

 貴志の母が妙子の連絡先を尋ねたところ、

「貴志さんにこれ以上のご迷惑をおかけしたくありませんので……」と遠慮勝ちに、「お母さまには、もし、よろしければ、また私の方からご連絡をとらせていただきたいと思います」と言って貴志宅を後にしたと言う。

 このことを貴志の母は夫(貴志の父)に話したところ、

「貴志には言う必要はない、言わない方が良い。……その方がお互いのためにも良いと思うがね……」と言われ、それもそうだと思いつつも、この秘密を自分一人の胸の内にしまっておくことには耐えきれず、貴志の親友である白井正人に相談を持ちかけたという次第だった。

「よ~く解りました。僕なりによく考えてみます」と白井は応え、……「このことが後になって彼の耳に入るより、折を見て僕の方から意を尽くして貴志くんに話してみたいと思います。それでよろしいでしょうか?」

。「白井くんを信頼して、お任せします」と貴志の母は語ったという。


「……という経緯があって、今おまえに話しているところだ」と白井は貴志をじっと見据えるようにして言った。

「おまえのお袋さんはどう感じたか分からんが、恐らく、妙子さんはこれから先おまえの前には姿を見せることはないと思う。彼女は元気だし、あのときの傷痕もほぼ完治したようだから、その報告かたがた感謝の気持ちを伝えたくておまえの家を訪ねたんじゃないのかな。一つのケジメとして、それはそれで良かったんじゃないかと思うよ」

「うん。……知らせてくれてありがとう。感謝する。たしかにひとつのケジメかも知れないな」……〈ケジメ?〉 納得はできないものの、その日はそれで終わった。

 思えば、一浪しての受験戦争の真っ只中、親友白井に誘われて、気分転換に大人の世界(アルバイトサロン『青い海』)に足を踏み入れたのがキッカケで、美しい類まれなホステス和泉妙子と知り合い、デイトを重ねた。そして、横浜『港の見える公園』で、男二人女一人の不良三人組に襲われ、咄嗟に貴志は妙子を逃すため、〈逃げて!〉と彼女を突き飛ばした。弾みで妙子は傍にあった大きな置石に頭をぶっつけ、裂傷を負い、顎を骨折。横浜中央病院に救急搬送され、数週間の入院生活を送ることになった。貴志は、罪の意識と美しい彼女への思慕の情も手伝って、毎日のように妙子を見舞った。??そして、父に事情を説明し、責任上治療費の全額を貴志が支払った。その後、妙子は貴志への連絡もないまま姿を見せなくなってしまった。その妙子が、貴志宅に姿を見せたと謂う。



          三


 親友の白井に会い、あの美しい妙子の消息を聞いたことから、どうしたことか妙に落ち着かない日々が続いた。つい今しがた桐子を喪って傷心の身にありながら、貴志は妙子の存在が気になって仕方がなかった。妙子は貴志の不在を勘案してわざわざ貴志の受験日に貴志宅を尋ねてきた、そのことに妙子の不憫さが感じられる。

 妙子に逢いたい。会ってその後の様子を聞いてみたい。出来れば、貴志のことをどう思ってくれていたのか、その思いを尋ねたい。今でも貴志のことを想ってくれているだろうか。妙子、僕はあのとき以来いつの間にか君を好きになっていた。いや今でもその思いに変わりはない。逢いたい、……逢って心ゆくまで君を抱き締めたい。君の香りのする唇を、今一度思いきり吸ってみたい。そして、あの状況の中で、充分にその可能性があったにも拘わらず、触れることが躊躇われた君のしっとりとした神秘のオッパイに、今度こそ思う存分に触れてみたい。もし赦されるなら、神がそれを認めてくれるなら、今は亡きあの可憐で知的な桐子の分までも、妙子、君を愛したい。愛しい桐子を喪って間もない今、いけないことかも知れないが、貴志はいつしかそんな思いに捉われつつあった。

 何とかして妙子に会う手段はないものだろうか。

 白井から聞いたところによれば、妙子が貴志宅を尋ねたとき、貴志の母にも自分の住所や連絡先を語らなかったと言う。だが、住み込みで神戸・岡本の洋菓子店で働いているという以上、その住所や菓子店名を手繰ることから彼女の所在を突き止めることは、決して難しいことではない。しかし、そんなことをしてまで妙子の住所を調べ上げ、そして訪ねることが果たしてお互いにとって望ましいことといえるだろうか。妙子は果たして喜んでくれるだろうか? 折角、落ち着き先を見出し、彼女なりに新たな人生を歩もうとしているにも関わらず、貴志の出現によって動揺させてしまうことだって、ないとは言い切れない。

 妙子は、〈もし、よろしければ自分の方から貴志の母親に連絡を取らせていただきたい〉とも語ったと謂う。妙子と貴志の母とは、何かしら気心が通じあったのかも知れない。従って、いずれまた妙子のほうから連絡してくることだって充分あり得る。待って、待って、待つことでそのチャンスを掴み取るのが、今の貴志の立場では最善の生き方ではないか。……そんな風に貴志は考えた。

 

 だが、自分の思いとは裏腹に、またまた、それで良いのかと迷う日々が続いた。そんな消極的とも謂える待ちの姿勢で何が生まれるというのだろう。何も生まれないのではないか。やっぱり、この際、白井に相談を持ちかけ、自分の気持ちの整理をつけることも必要且つ近道かも知れない。……彼なら、恐らく一緒になって考えてくれて恰好の知恵を惹き出してくれるだろう、と貴志は考えた。白井の考えを聞いてみよう。

 その白井はというと、家庭教師を三つも掛け持ちし、その中で一家庭で三兄弟の面倒を見なければならないものが含まれているなど、その時間と手間に追われ、大学での剣道の部活もあってこのところ多忙な日々が続いているようだった。あれから横浜西口の喫茶『フロリダ』にもあまり顔を見せなくなっていた。

 貴志は、妙子のことはともかくとして、これまでの受験という切羽詰まった闘いの日々が去ってから、何かしら気の抜けたような、何とも物足りない空虚さと緊張感のない中に身を置いているような頼りない日々が続いていた。何とも奇妙な毎日を過していた。これで良いのだろうかとの焦りに似た思いが頭を擡げてくる。しかし今はまだ何も考えたくはなかった。まだ二回生の身分でありながら司法試験を標的とする、いくつもの司法研究会からのお誘いもあるが辛うじて断り続けている。周りを見ると、張り切って一回生の中から首を突っ込む者も多いと聞く。

 

 この日久し振りに下校途中で横浜に降り、いつものフロリダに足を向けた。白井は来ているかな、なんてちょっぴり期待はしてみたものの、彼の気配はなかった。


先般、白井に連れて行かれた北幸町のサロン『みゆき』にでも寄ってみようかとの思いもあったが、ふところ具合を思料するに少々心細くもあったし、白井抜きの単独では面白くもないし、またその勇気もなかった。折角、あの愛しき妙子が姿を現したという喜びと、また会えるかも知れないという、はかない期待感はあるものの、その思いはともすれば薄れ勝ちになりつつあった。それだけに何か刺激があってもいい。そこで、サロン『みゆき』のあのときに最後に付いてくれた、即ちちょっと素人っぽい〈えり子なる女性〉にもう一度会って語り合うのも悪くはない。そんなざわついた思いにも取り憑かれたのだが……。

 まあいい、次回白井を誘って、行くことにしよう。……結局、『みゆき』までの途中、この前ふと立ち寄った『相気道』(横浜道場)まで行き、受付で見学を申し出た。午後六時、すでにあたりは暗かった。学校帰り、仕事帰りの練習生らしき男女がチラホラ入っていく。前回は気が付かなかったが入り口を入って正面上の壁には、開祖『植木幹一』なる人物の厳かな顔写真が額になって掲げられていた。〈優しい眼光、端正な面立ち、白く長い顎鬚〉練習生たちは開祖に深く一礼してから奥に進む。貴志も一礼して吸い込まれるようにして続いた。

 その時だった。奥から一人の女性が足早に向かってくるのが目に入った。丁度、貴志が長い廊下に足を踏み入れたのと同時だった。女性と貴志が擦れ違い、どちらからともなく目が合った。女性の方から軽く頭を下げたように見受けられた。年齢的には貴志よりいくぶん年上に見えた。稽古着か何かが入っているのか大きめの布バッグを、襷き掛けに肩にかけていた。そのためか女性の胸がはち切れそうに張って見えた。目が合ったとき、貴志は何故か以前にも遭ったことがあるような懐かしい気がした。女性の目に親しみのようなものが込められているように見えるのは何故だろうか。

 入って直ぐのガラス越しに見える稽古場では、指導者と覚しき年輩の、小柄で華奢な体つきの黒袴の男性が、五人の若者と一人の女性を相手に稽古をつけている様子が見てとれた。

 若者の一人が両腕を突き出し、黒袴の襟を?もうと早足に歩を進める。襟に手が掛かるまえに若者の手首に黒袴の指が触れたように見えた瞬間、若者の体は宙を舞っていた。続いて四人が思い思いに黒袴に挑みかかるが、ほぼ同時に床に投げ出されていた。目に見えない何とも、素速い動きだった。投げ出された若者はすぐさま起き上がり、繰り返し何度も挑みかかる。次々に若者たちが交代して挑み、それぞれが宙を舞い、床に這い、そして瞬時に起ち上がる。このあたりが柔道の受け身とは少々違うように見える。柔道の受け身では投げられた瞬間、片手で畳を打ち、ゆっくり立ち上がり体制を整える。だが、この相気道では軽々と宙を舞い、床に手を突くや瞬時に立ち上がり次の動作に備える。まるで武道とは思われない美しい動きだった。さて、それまで動きのなかった一人の女性が、すっーと黒袴に寄り添い、その背後に廻る。若者が一斉に黒袴に向かって、左右から囲い込むようにして体ごと取り押さえようと仕掛けるも、一瞬にして黒袴が身を沈めたため、若者たちは標的を失い、……替わって背後に回っていた女性が彼らの受けに入る形が出来あがっていた。が、これも瞬時にして、女性の手によって若者は次々に投げ出されていた。女性の動きに凜とした品格が感じられる。流麗にして美しい動きだった。武道というよりも演舞に近かった。

 奥に目をやると、数人の男女が入り乱れての攻防が繰り広げられていた。形に嵌まっての無駄のない軽やかな動き。受け身の捌きが際だって鮮やかに見える。思うに、通常攻め手が相手のふところに飛び込む場合、反射的に受け手はそれに応えて攻め手を押し返そうとする力が働く。ところが、こちらの稽古では、そういう動きは全く感じられない。むしろ受け手は攻め手の力の方向をそのまま受け入れ、両者の力の方向を一致させることで、受け手がほんの少し体を捻るだけで、攻め手は宙に舞う。道場にトーントーンと心地よい音が響く。全体に動きがリズミカルで躍動的だった。練習生に荒い息遣いや疲れた様子は微塵も感じられなかった。それどころか彼らの表情に険しさはなく至って穏やかに見えた。 

 貴志は憑かれたように見入っていたが、意を決して練習生としての入会を打診してみることにした。面接をしてくれたのは、師範代と称する背広姿の細身の紳士だった。『大原真』と名乗った。

 開口一番「あなたの目的は?」と訊かれた。

「はい。特にこれといったものは何もありません……」と貴志は答えた。「稽古の様子を見て、僕もやってみたくなりましたので」

「今のあなたの生活の中で、何か足りないものはありませんか。何を求めたいですか? 例えば将来何になりたいとか、そのために今やるべきことは? 今悩んでいることは? 迷っていることは?」 師範代から矢継ぎ早に、しかしゆったりとした口調で質問が浴びせられる。その表情と言葉に包み込むような大らかな優しさがあった。

 貴志は最初身を硬くしていたが、師範代の醸し出す柔和な雰囲気に接し、この人なら頼ることが出来そうだと思い、今の頼りない自分について素直に答えていった。来年三回生になって、もし闘志が戻り、精神的にも安定した状況が確保できそうなら、これまでの受験の経験を生かし今度こそ司法試験に賭けてみたい。受験に負けたままでは、この先の人生に自信が持てなくなるような、至って心細い思いがする。従って、二回生であるこの時期は、何が何でも全てを忘れて何かに没頭したい。貴志はそんな風なことを訥々と訴えた。

「体力に自信は?」との師範代の問いについては、「あります」とだけ答えた。

 貴志は大学の受験に際し、浪人中は殆ど引きこもりがちの生活をし、体力作りには至って無頓着だった。元々はといえば、走ったり跳んだりが得意で 中学・高校を通じて運動会では主役を務めるなど人一倍の俊敏性と強さを誇っていたが、受験を控えてはそれもなるべく出さず、控え目に行動してきた。体を動かすことから遠ざかっていたとはいえ、今でもまだまだ人に遅れをとるとは思えない。思いっきり体を動かしてみたい。そんな思いもあった。

 暫くじっと耳を傾けていた大原真師範代は、最後に

「大変失礼だがお見受けしたところ、山之内君の心と体には、必要以上の力みが感じられますね。言い換えれば肩に力が入り過ぎているように見えます。この力みを取り払って精神と身体のバランスを整えることから始めたいと思いますがどうですかな?」

「はい」 最初思っていたより具体的に話が進んでいくので、貴志の中でこれまでとは違った何か強い思いが弾けた。

「やってみます」咄嗟に貴志はそう答えていた。

「君にとっての当面の目標は気を沈めること。道場の真ん中で、心を無にして瞑想すること、それと体を動かして柔らかくすること、この二つから始めるとよいでしょう。何も焦ることはありません。相気道の技の修練はそれからで充分間に合います。何も心配はいりません。それでよろしいかな?」 もちろん貴志は「はい」と力強く応えていた。

 そこで、毎週、水曜午後五時と土曜午前九時の二回、各二時間の道場通いをすることになった。期間は、取りあえず一年間。やれるだけのことはやってみたいと貴志は思った。

 入会金とそれ相当の月謝がかかることもあって、父にその旨を率直に相談したところ、父は「結構じゃないか」と賛成してくれた。父も貴志には何か物足りなさのようなものを感じているようだった。……貴志に期待するところ大のようだった。貴志には人として大きくなってもらいたい。それが父の切なる思いであることは言うまでもない。それが貴志にもひしひしと感じられる。

 

 

        


   


















(第二章) いのちの洗濯



         一

 

 初日は土曜日、朝九時に道場の門をくぐり、大原真師範代及び周りの人々に挨拶をし、師範代の講話から始まった。

 先ず、最初に知っておかなければならないことは、「相気道」は争わない武術、即ち「競う武道」ではないということ。文字通り「相気道」は、「相」プラス「気」を合わせた道であり、言い換えれば、「体と気の力学」から成る「武術」であって且つ「哲学」でもある。……「相」は姿、真の姿、……飾らない、背伸びをしない、ありのままの自分。「気」は心であり、それは平常心、動揺のない平らで静かなる心の流れ。

 大原師範代の噛んで含めるような説法は、貴志がこれまで経験したことのない精神世界であって、解るような解らないような感覚に支配されたが、

「今は理解できなくとも、そのうち解ってくる。 理屈ではなく自分を知り、自分を磨くことから始めて少しずつ身につけて欲しい」と言われ、当然貴志は大きく肯いていた。

 指導する側の熱意と学ぶ側の情熱が一つになることが、上達への早道であり、そのためにはたゆまぬ努力と思索が必須条件となる。それがこの道場での教えだと言う。……初日はそれで終わった。あとは自由見学だった。見学にも多くの教えがあるようだった。


 座しての〈瞑想と思索〉それ以外では柔軟体操のみの一か月が過ぎたところで、いつもの喫茶店『フロリダ』で親友白井正人と落ち合った。

「一皮むけたようだな」と彼は貴志を見るなり言った。「受験から解放されたための落ち着きかな? それとも何か新たな目標でも見つけたのかな」

「いや、実は……」 相気道の道場に通うことになった経緯を話した。「これまでの生き方はあまりにも安直で主体性がなく、いい加減だったのが道場に通ってよく解ったよ」

「ほう。それは大きな収穫じゃないか。……だだし、あまり入れ込むなよ」と白井は言う。「おまえの親父さんが心配してたぞ。お前は、何にでも夢中になり過ぎて、それしか見えなくなってしまうきらいがあると」

「うん。よくわかってるよ。気を付けようとは思う」 貴志は素直にそう答えていた。言われてみるとその通りだった。

「それと、白井よ、おまえに知恵をかりたいことがあるんだ」

「何だ?……難しそうな顔をして」

「頼む。聞いてくれ。いろいろ考えた末の相談なんだが、……俺は、どうしても、あの和泉妙子に逢いたいんだ。逢って、彼女の様子を知りたい。……あのとき、予期せぬ不意の出来事とはいえ、俺の不注意から、うかつにも彼女をあんな目に遇わせてしまった。その責任は重い。今もその責任を感じるんだ」

「責任? おまえ、まだそんなことを考えていたのか。彼女は、あんな事件があったとはいえ、おまえのことを少しも恨んでなんかいないと思うよ。むしろ、おまえに感謝していると思う。彼女がおまえの家にやって来たことでもよく解るじゃないか」と白井は宣う。

 その通りかも知れないが、貴志の思いはそればかりではなかった。そんなことより、なんとしても妙子に会いたい。会って抱き締めたい。実はあのときから君が好きだった、と伝えたい。だが、そこまでの気持ちを、いくら親友とはいえ白井に明かす訳にはいかなかった。

「……そう言えば、前におまえの親父さんが言っていたな。……自分たちの時代には、女性連れのときは、何が起こっても、自分の身よりも連れの女性を護り通さなければならない。その覚悟と勇気がなければ、女性を気安く連れまわしてはいけない。大事な相手であればあるほど慎重に行動すべきで、古風な言い方だがそれが男子たるものの心得でなくてはならない、という風な話だった。……そんなことを教えられた記憶がある。まだ高校生のときだったかな、たしか、おまえも一緒だったと思うが……それがおまえの心に引っ掛かっているんじゃないのか? と心配だ。……だから、おまえは今だに責任なんて言葉を口にするんだ。ちがうかい?」

 貴志の父は、貴志の友だちである白井が訪ねてきたときには、よく一緒になって、そんな情操教育のような、人としての生き方などを説いて聞かせた。白井に指摘されるまでもなく、貴志自身、あのとき妙子をしっかりと守り切れなかったばかりか、自らの不手際から、あの従順な妙子をあんな酷い目に遇わせてしまった。無念としか言いようがない出来事だった。

「言われてみるとその通りかも知れない。実は、その思いが心の底に沈殿していて、それから抜け出せず、何かを求めてこの度の相気道を志すことにしたんだ」と貴志はそう言って唇を噛んだ。白井は一言、「そうか、しかしなあ」と言って貴志を見た。

「責任と言っても、おまえは少なくとも彼女を助けようとした。その心は十二分に彼女に伝わっている筈だ。だから、もう妙子さんがお前のウチに来てくれたのを機会に彼女を解放してやれよ。それがおまえのためでもあり、彼女のためでもあると思うよ」

 白井は、ほんとうにいい奴だ。友の苦悩を自分のこととして受け取ってくれる。頼り甲斐のある親友。その白井の結論は、こうだった。

 その一つ。今の時点でどうしても彼女に会わねばならない必然性があるとすれば、おまえが彼女を生涯かけて愛する自信がある場合のみに限られる。その気持ちに変わりがなければ、先ず君のお袋さんに話して解ってもらうことから始めねばなるまい。次におまえの親父を説得出来るかどうかにかかってくる。おまえの親父は物わかりのよいお人だから理屈が通れば意外にあっさりと認めてくれるかも知れない。あくまでも反対された場合は、おまえは、何もかも捨てて彼女の手を取って駆け落ちしてでも生き抜く覚悟があるかどうか? よく考えてから、行動すべきだ。彼女の勤める洋菓子店を見付けることなんてそんなに難しいことではないから焦ることはない。

 その次。先ず彼女の気持ちを汲んで、今はおまえはじっと我慢をする。彼女の洋菓子作りの夢をつぶさないように陰で心からの応援をする。今は彼女の人生に踏み込まない。もし、彼女に佳き人が出来ても、彼女の幸せのためにおまえは身を引く。そして……ここからが俺のおまえへのアドバイスだ。よく聴いてくれ。……俺たちは目下大学二回生の身分で、謂わば、まだ半人前。……いくら偉そうなことを言ってみたところで社会的にはまだまだ未熟もの。よくよく考えて行動しなければ大事な人の人生を左右するような大きな間違いを犯すことになる。従って少なくとも、あと二年間、おまえには「待つこと」を奨める。四回生になって司法試験を突破するか、民間会社に勤めるか、……おまえの将来の見通しを立ててから妙子さんのことを考えればそれでよいではないか。おまえにだって、新たに好きな女性が現れることだって絶無ではないはずだ。おまえの最も愛した今は亡き桐子嬢が、二年の長きに渉っておまえを待ち続けたのを思ってみるがよい。それと同じこと……今度はおまえが待つ番だと俺は思う。

 尊敬する白井は以上のように力説した。

「おまえには今や相気道があるじゃないか。そして司法試験だって控えているし、その意味ではおまえは恵まれていると思う。有り難いことじゃないか」白井にそうまで言われて見れば、親友の言葉だけあって、その重みが伝わって来る。

 話している中に、貴志の気持ちは揺らぎながらも徐々に固まっていった。

「わかった。よく言ってくれた。……おまえの助言に従うことにしよう」と、今度こそ貴志はきっぱりと言った。

「じゃ、行こうか?」と白井は、貴志にだけに通じる合図を送ってきた。

「何処へ?」と、貴志は一瞬とぼけてみせた。

「わかってるじゃないか――おまえの好きなBREAST(胸)タッチへ」と、白井は再び、手の平を開いたり閉じたりして、……。


 もう、外は暗かった。ジワリとした湿気があたりに漂ってくる。ひょっとすると雨に見舞われるのかも知れない。途中、『キッチンかとう』という、何だか学生向きの旨そうな感じのする店があったので、軽く食事をしてサロン『みゆき』に向かった。


 サロン『みゆき』では、白井はこの前と同じ「ひな乃」を指名。貴志も同じく「えり子」

を指名した。運良く二人とも在籍していた。白井はあれから彼の友人と一度来ているようで、ひな乃の愛想は格別だった。えり子は貴志の予期せぬ出現に対し、控え目ながらも喜びを一杯に表して「お久しぶりです」と言って、貴志の横の補助スツールに腰かけた。貴志がソファーの中程に腰をずらして、えり子を手招くと彼女は遠慮がちに貴志の横に移動した。

「お逢いできるなんて思いませんでした。とっても、嬉しいです」と言って彼女は懐かしそうに微笑んだ。感じのいい子だった。ちょっと爽やかで学生のような雰囲気をまとい、この前と変わりはなかった。サロンは活況を呈し、狭い中央ホールにも何組かの男女が踊っていた。目的があって、貴志の方からえり子を誘ってみた。一曲が終わったとき、照明が落とされ、スローなブルースに変わった。二人はどちらからともなく頬を寄せ胸を合わせた。右手を腰に当て、左手をえり子の胸の膨らみの上に置いて軽く押さえた。何となく柔らかな感触が伝わってきた。席に戻って、貴志はえり子を抱き寄せると、彼女は吸い込まれるように貴志の懐に収まった。そっとごく自然に、上着の下から手をさし入れ、えり子の乳房を探ってみる。えり子の乳房はしっとりと汗ばみ、柔らかかった。

「いけない人ね。……」と言って、えり子は貴志を優しく睨んだ。こうしていると、いつの間にか、貴志は先ほどから白井と話題にしていた妙子の、触れることのなかった乳房を思った。……どうしても触れておきたい乳房だった。

 白井に目をやると、ひな乃とは結構意気投合し、ふざけ合っていた。白井が物言う度に、ひな乃は全身で笑い転げる。ちょっと抜けているようでもあり、逆にその反応の速さから見て、頭の回転が天才的とも思えた。というのは、白井の言葉の裏にある冗談や真意を即座に見抜いて、笑いに変えているような心地よさが感じられた。白井はふざけながらも、ひな乃のオッパイを探っていた。ひな乃は敢えて逆らわず、からだを預けるようにして白井に甘えているようだった。



           二


 『相気道』二か月目、いよいよ実技に入っていった。

 それまでは普段の体操着でよかったが、この日からは道場所定の稽古着が義務付けられた。一歩前進したような気分になる。見た目は柔道着に似ているが、胸の合せ目に違いがあるようだった。女性でも抵抗がないように胸が開きにくくなっている。相気道は力を必要をしない武術であり、護身術として女性にも向いていると謂われている。

 初めは、もっぱら受け身の形からだった。それには、体の柔軟性が何よりも必要であり、この一か月の成果が問われる。相気道の受け身は独特のものがあり、投げ出され宙に舞うも、直ぐに起き上がる。押さえつけられない限り、即、次の態勢に移行する。投げられながら体を横に向かせるよう意識する。

 投げられることによって、投げる技を身体に覚えさせる。手の使い方、肘の使い方、指の捻り方、体重のかけ方、体の開き方等々を順次身に着けていく。指導は師範代のときもあれば、先輩有段者のときもある。主に、形の取り方から、その技を学ぶ。そして道場内においては、教えられた形の稽古は同レベルの練習生同士がグループ別に別れて自由に行うことが出来た。


 この間、最初に道場入り口ですれ違って、どこかで見かけたことがあると気になっていた女性とは以降都合三度会う機会があった。一度目は道場の長い廊下で、だった。お互い目が合い、たしかに彼女の方から頭を下げて挨拶してきた。もちろん無言だった。次に会ったときは、どちらからともなく「こんにちは」と声をかけあった。すっきりとした輪郭の目と張りつめた胸の隆起は、やはり見覚えがあった。まさかとは思うが、もしかして、忘れもしない、あの日の「港の見える丘公園」での、妙子とのデイト中にからんで来た不良三人組の中の一人では? ……貴志に突き飛ばされて転倒し蹲る妙子を助け起こそうとした女? そのとき貴志は一瞬、その女の胸のふくらみを目の端にとどめていた。瞬間に刻み込まれた記憶であって、何とも心許ない限りだが、それだけに印象が概念化しつつあった。とすれば、いったい何処で見かけたのだろうか。

 三度目は、道場までの途中にある、先般白井と立ち寄ったことのある、ちょっと小綺麗な店構えの洋食店『キッチンかとう』での出会いだった。店内はカウンター十席少々の、小ぢんまりとした店で、午後四時という時間帯のためか、貴志のほか客として誰もいないような様子だったが……。貴志はカウンターの中央に腰を下ろし、正面の手書きメニューからチキンライスを注文。その声に反応したかのように、カウンターの隅の方から「あらッ!……」と言って顔を向け、親しげに近付いてきた女性がいた。

「これから道場ですか?」と気やすく彼女は言ってきた。こんなところでこんな風に顔を会わすなんて思いもよらなかっただけに、貴志はちょっとうろたえ気味に彼女を見た。

「は、はい。ここで腹こしらえをしてから道場に向かうつもりでいます。この店、前に友だちと来たことがあって、……あなたは? どうして此処に?」

 彼女は微笑を浮べ、

「私、道場は、今日はもう終わりました。……申し遅れましたが、〈かとう〉と言います。父がこの店をやっているんです。それで、ここで休んだり手伝ったりしています。……どうぞ、よろしく……」と言い、貴志にぺこりと頭を下げた。彼女は加藤千早と名乗った。

「そうでしたか。ぼくはこの店、二度目です。ぼくの方こそ宜しくお願いします。ぼくの名は山之内貴志」 貴志はそう応え、思い切って気になっていることを尋ねてみた。「……あのう、……前にお見かけしたことがあるようなんですが……どうしても思い出せなくて」

「わたくしは先日道場で一、二回お目にかかったのが初めてです……」 見かけによらず色々と話しかけてきた。話好きのようだった。

 加藤千早、彼女の語ったところによれば、道場通いは丸々五年で、いやいやながら昇級試験を受けさせられ、現在、『初段』とのことだった。相気道の段位の取得は大変難しいとされており、女性の有段者は貴重だった。それだけに相気道の大会やイベントなどがあるたびに、師範や師範代の助手を仰せつかり、基本的な形や技を披露する役を務めることが多いと言う。〈特に、男性から身を守る護身術などは大勢の注目を浴びてしまいます〉とも言って、千早は照れ笑いした。

「……恐れ入りました。そのうち僕が上達したら、手合わせしていただけませんか? あなたの護身術の相手をしてみたいです」と、貴志は冗談っぽく言ってみた。

「ほんとうですか、期待しています」と千早は応じて微笑んだ。今に見る千早の胸はやはり、貴志の目には眩しく感じられた。

 道場に着いてからの稽古では、何だか先程の千春との会話が思い出され、再三しくじってしまった。この日の指導者である大原師範代からは、「今日の君は雑念が多すぎるようだな」……「無心になれ」との注意を受ける始末だった。

 先ほどの千早の、邪心のない自然な振る舞いから見て、どこかで見たという記憶は、どうやら間違っていたように思われる。ましてや、あのとき妙子を襲った一味の中の女であるなんて、そんなバカな、との思いを強くした。

 それから何日か経って、貴志は何気なく、母の机の上に置きっ放しになっている大判の『装美苑』なる雑誌を手に取ってみて目を見張った。何と、表紙を飾っているのは、着物姿の加藤千早かと思しき女性だった。本棚から既刊号を引っ張り出してみたところ、やはり表紙に加藤千早の和服姿があった。髪をアップし大人びた感じの加藤千早――雑誌の目次の隅に、「表紙 かとう千早」と印字されていたのを見て、貴志は確信を得た。そうだったのか、どこかで見たことがあると思ったのは、これだったのか。彼女が着物のモデルをしているなんて思いもよらなかっただけにびっくりだった。それにしても、これまで見てきた颯爽とした彼女と、しっとりと和服に身を包んだ彼女とのギャップの大きさに、貴志は女性の凄さのようなものを見た思いだった。

 

 精神のバランスと体の柔軟性の向上に取り組んで一ヶ月を経て、ようやく実技に入ってのひと月は受け身、受け身、受け身の基本を学ぶ。道場に入るや受け身の体勢をとり、師範代や有段者から連続的に投げられる。受けては投げられ宙を舞い、同時に自ら起ち上がる。それも素速く瞬時に反応することが要求される。練習を積む中に周囲の様子、相手の動きがはっきりと見えるようになる。投げられ空中に舞いながらも、自身の動きが見えてくる。

 今の一瞬の自分がどのような形で宙を舞っているのかが鮮明に見えるようになる。例えば、拳が自分に向けられ迫ってくるのがスローに感じられると言う。所謂、相気道で謂う動体視力の鍛錬が技を大きく向上させるとの教えが、貴志にもようやくわかってきたところで、入門して三ヶ月が経過していた。ここからが本当の技の修練に突入する。攻め手、受け手、一対一、一対二、一対三、そして一対複数における形や技の数々を学んでゆく。貴志は、もう一心不乱だった。道場通いが貴志の意識を大きく鼓舞させた。加藤千早とも時々顔を合わせ、親しく挨拶を交わし合うようになったのも、貴志にとっての愉しみのひとつだった。『キッチンかとう』にもよく顔を出したが此処では何故か千早に会えていない。いつか千早と手合わせしたいとは思うものの、お互いの技量から見て、まだ先のように思えた。

 

 大学の受験という人生最初の試練から早や一年が経過。中法大三回生となった今、貴志にとって第二の試練が待ち受けていた。当初の考えでは、二回生である一年間は気負うことなく、ごく軽い気持ちで、しかも楽しみながら「教養課程」をこなし、勉学以外のことでも新たな価値ある世界を見つけ出して、それに没頭して、その中から人生の何かを掴み取りたい。……そんな風に考えていた。

 その何かが、くしくも『相気道』だった。勝ち負けのない武道、争わない武道、闘わない武道、競わない武道、そして思考する武道と謂われ、貴志には、またとない精神面での修練の場となった。その目的は人間形成にあり、貴志の魂の襞を否応なく刺激した。

 

 一方、それと矛盾するかのごとく、およそ一年後に司法試験が控えている。現役合格でなければ中法大(法)に入った意味がない。東大に三度も挑戦し、尤もな理由があったにしても三度までも失敗し、親友白井の勧めもあって中法大に落ち着いた貴志だったが、それはそれでよかったと思う。目的は大学ではなく最難関の国家試験『司法試験』にある。受験という過酷な世界から逃避して一年、ここでこれまでの敗北感を払拭し、新たな闘いに挑まねばならない。試験の日程は、短答式(憲法、民法、刑法の三科目)が五月、これに合格してはじめて七月の論文式(主要三科目プラス商法、行政法、刑事訴訟法、民事訴訟法)が受けられる。大学受験も司法試験も同じこと、基本書のみを何度も何度も繰り返し、その上で過去三年の問題集に当たる。問題集では必ず満点を取るように繰り返す。これ以外の参考書や予想問題集に関しては、決してどんな理由があっても手を出さない。迷わず、焦らず、落ち着いて、しっかりとやっていこう。貴志はそう心に決めた。こうして貴志の新たな闘いがはじまった。

 憲法・刑法・民法の主要科目の授業にはなるべく出席し、法の精神を理解することに努めた。それ以外は出来るだけ自宅に籠もっての勉学に集中しだ。相気道の教えの中で学んだ、気負いのない精神、……ライバルたちとの闘いではなく自分自身との闘いに克つことを目標に邁進した。もうひとつ、相気道での大きな収穫は「動体視力」の著しい向上だった。速い動きのものをゆっくり落ち着いて見ることが可能になった。これは即ち、速読法に繋がった。本のページを眺めて読むと同時に理解を深め、次のページに進む。ページを繰る速度が加速度的に倍加する。これは大きい。


 相気道に於いても、毎日が新しい技の修得が出来るようになっていった。相気道の連続技は、本人はもとより見ている人の目をも惹き付けた。攻め手の動きに合わせるように相手の懐に入り込み、同時に体を転換させての体捌きで、技を仕掛ける。相手は軽やかに宙を舞う。技を仕掛ける側も、技を受ける側も、呼吸の乱れがないのも、この武術の特徴。更に、円の動きが加わると、まさに円舞のような華麗さ。しなやかな動き。貴志は不器用なりに技の一つ一つを心して覚えていった。師範代から褒められることも偶にはあった。


 そうして一年が瞬く間に過ぎた。大学最後の年……貴志の将来を決める年。第一関門である五月の司法試験短答式は、当たり前だが難なく通過した。これまでの貴志は、何事も中途半端で、気負いだけが先行し実力が伴わなかったきらいがあったが、今回は謙虚に対処し、実力通りの力を発揮することが出来たと言っていい。

 七月後半に行われる論文式本試験まであと僅か、ここに至っては必死なって追い込みをかけざる得ない状況に追い込まれて普通だったが、どうしたことか貴志にはそこまでの闘志が沸かなかった。やり足りないこともいっぱいあるような気もしたが、もう開き直るしかなかった。

 ただし、司法試験一本に賭けてよいのかと言えば、それは許される状況ではなかった。貴志の性格を知る父は、貴志の司法試験浪人は絶対に「ノー」であった。人には、浪人して力を付ける者とそうでない者に別れる、貴志はどちらかというと後者だった。貴志の持つ中途半端な弱さが貴志の最大の欠陥だった。それを貴志の父は当然見抜いての発言だった。

 この時期、就職戦線は真っ只中。司法試験に強い中法大にあっても、国家公務員試験や民間大手企業への志望者や併願者も結構多い。貴志の場合、あくまでも司法試験一辺倒と考えてはいたが、浪人が許されない以上は民間企業への併願もやむを得ない。そんな中で、貴志の父の昔からの友人で大手超優良建設会社『安中総合建設株式会社』の重役をしている人の勧めもあって、同社の縁故採用枠の選考試験に臨むことになった。

 ところが、運というものは不思議なもので、後日郵送されてきた入社試験案内書によれば、試験日が七月十二日(火)とあった。これは司法試験論文式の二日目と完全にダブってしまっていた。二社択一……これまでの貴志の闘いの経緯から見て、当然に司法試験を選ぶべきかと思われたが、貴志は一瞬躊躇するものを覚えた。安中総合建設は未上場ながら超優良会社と言われ、司法試験以上に狭き門。学生にとっては学校推薦枠に入るために大勢が殺到する憧れの企業だった。貴志の場合、幸運にも縁故募集採用枠の中で勝負する機会が与えられた。これを放棄してまで司法試験を選んでしまうにはあまりにも惜しい。何故なら司法試験に受かるという保証はどこにもない。勿論、安中総合建設に内定することも至難の業ではあるが……。

 そのことを貴志は父に相談すると、父は一言のもとにこう言った。「貴志、それはおまえが決めること。……おまえの人生なんだから」と。また、母は、「あたしは、司法試験を薦めるわ。折角、二次試験短答式に受かっているのだから、勿体ないでしょ。……それに貴志には裁判官がお似合いよ。……大丈夫、論文式だって受かるに決まってるわ」

 そんな具合で貴志は大いに迷わされた。人生の分かれ道、これもある意味では大いなる試練だった。

 

 

      三


 安中総合建設の試験科目は、英語と数学(解析・幾何)と適性検査、そして面接……今更そのための準備は必要ではなかった。最終決断は後にして、貴志は司法試験の準備は怠りなく進めていった。あとは精神の安定と気負いのない冷静な決断が待たれる段階にあった。

 何れにせよ、人生を賭けた試験の日まで二か月足らずに迫ったこの時期にあっても、貴志は時間を惜しまず、「相気道」の道場に足を運んだ。一つは自己の弱さの克服のためであり、もう一つはあの爽快で麗しき女性武道家、加藤千早の相気道演武に出会うためであった。このところ度重ねて彼女の姿を見かけるばかりか、彼女の方から貴志の時間に合わせて道場の稽古に臨んでくる気配が伺えるのは貴志の思い過ぎだろうか。

 そして、彼女の方から声がかかった。

「山之内くん、時々お稽古拝見していますが、随分上達されたみたいですね。……大原師範代も目を細めていましたよ。……」と言い、何故か、うっふっふと笑った。

「加藤さん、からかわないで下さいよ。ぼく、本気にしてしまいますから……」

「だって、本当だもの。よかったら、このあたりで一度手合わせいたしません?」と彼女の方から待望のお誘いがかかった。彼女からのこんな言葉は予期しなかっただけに

「是非」と貴志は即断、即答していた。


 大原師範代の許しを得て、貴志は千早と向かい合うことになった。

 道場には二人以外にも何組かの練習生が稽古に励んでいたが、貴志、千早組の登場とともに二人の周りだけが一瞬にして静寂に包まれた。空気の流れがぴたりと止まっているかのような、張りつめた二人だけの空間。……床に座して二人は向き合い互いに見つめ合い、深く一礼し立ち上がった。

 静かな緊張感。初めは貴志が技の仕掛け人、即ち攻め手側を受け持ち、千早が受け手に廻った。貴志が軽く千早の襟元に手を回す。襟に手がかかると同時に千早は、貴志の手首を軽く握り、その手のひらを裏返すようにして持ち上げ、入り身の姿勢をとり、体を斜めに捻ると、貴志は空中に浮き一回転していた。これを三度、四度、五度と繰り返した。一呼吸置いて更に同じことを何回となく繰り返す。貴志の意識に何故か疲労を伴った心地よい陶酔感のようなものが訪れたところで、攻め手と受け手は交代。気を引き締めて見詰め合う。千早は、最初は貴志と同じく正面から仕掛けてくる。貴志はそれを受け、千早の手を取り、体を半回転させると、千早は美しく宙に舞った。続いて斜めから、横から、正面から、……千早は矢継ぎ早に仕掛けてくる。受け手に一瞬の遅れも許されないその中で、貴志は都度懸命に自己の体を反応させた。それに即応するように千早の肢体は空中を飛ぶがごとく華麗に舞う。これを何度も何度も反復し続け、二人の呼吸と体捌きの完全な一致を体感したところで、本日は終了と相成るところだったが、千早はもう一つ違った試みの申し合わせを提案してきた。

 人の『気』の流れは、一般に、正面が「知性の空間」、横が「感情の空間」、背後が「恐怖の空間」とか言われている。これからの技法は恐怖の空間からの攻撃に対する解放術の手合わせが目的だった。暴漢が後ろから攻めてくることを想定し、貴志の方が、千早の背後から両手を伸ばして、彼女の両腕両胸を力ずくで抱きかかえ、拘束する。それを千早がいなして反撃する、というものだった。

「そんなことして、よろしいんですか?」と、貴志は千早の胸の膨らみを意識して、どぎまぎしながら問いかけた。

「気にしないで」との、千早の軽い調子の声が返ってきた。

 貴志は千早の背後に回り、言われた通り抱え込むようにして彼女の胸に手をやった。大きめに膨らんだ千早の両胸に貴志の手がたしかに触れたところまでは意識を集中させていたが、胸に手が届いた瞬間、千早は軽く貴志の懐に背を委ねながら、相手の力を利用して身を沈めて入り身の姿勢と左右の転換を図って、無力化した貴志の体を放り投げた。貴志は心得たもので、大きく一回転して着地した。それを三度繰り返した。そこで小休止して今度は貴志が背後からの襲撃を受ける。千早は、貴志の両腋の下から腕を伸ばし貴志の背中に自分の胸を預けてくる。この瞬間も貴志は、はっきりと千早の胸の隆起を感じた。貴志は右手を使って千早の左手首を持ち上げ、もう一方の手で千早の右腕の肘を上から軽く押さえる。と、千早は膝を着き、受け身の姿勢を取りながら床に這った。これをもう一度繰り返す。……そして最後は、千早が少し離れた位置から俊足で貴志に迫り、貴志の背後を襲う。これを受けて貴志は身を逸らせ千早を抱くようにして持ち上げて、……千早は空中に吸い込まれるように二度舞い、ひらりと着地した。そして千早は擦り足で貴志に近付き、貴志はそれを受け、軽く抱擁し合って互いを讃え合った。……周囲の練習生たちも、暫し動きを止め、貴志・千早の演武に目を奪われたようだった。周囲に普段のざわつきが戻ったところで二人は大原師範代に向かって一礼し、そして左右に別れた。


更衣室で裸になり、貴志は鏡に自分の全身を映して見た。相気道に通うようになってから、たしかに少しは体が締まったように思われる。シャワーを浴びながら貴志は千早の裸体を想像した。形良く膨らんだ千早の、さりげない胸の隆起を思い、ある種の感動を覚えた。

 着替えて二人は揃って道場を後にした。

 千早から、

「……『かとう』で何か召し上がりませんか?」と気軽に誘ってきた。貴志にことわる理由は皆無だった。「よろこんで……」と貴志は肯いた。気が付くと、目の前が『キッチンかとう』だった。千早のおごりだと言う。

 少し明るめのスポーティな服装に着替えた千早は、颯爽としていて誰の目にも魅力的に見えた。笑うときの表情に意外な色気があった。その彼女から

「今日はとっても良かったわ。……久し振りに緊張しました」と言われた。

「ぼくの方こそ緊張の連続でした。……これからもよろしくお願いします」


「そうね。月に一度くらい今日みたいな手合わせが出来たら嬉しいわ」

〈ほんとう言うと、毎日でも今日のように千早さんのオッパイにお目にかかれば最高に嬉しいです〉と言ってみたかったが、そんなことを言ったら、瞬く間に〈はい、さようなら……〉となってしまうに決まっている。そこで貴志は

「ぼくでよろしければ、是非」と応えて、さりげなく話題を変えた。

「千早さん(と親しみを込めて言ってみた)、決まった方がいらっしゃいますか?」

「う、うん? 何のことでしょう?」

「フィアンセと言ったらいいのかな」と、ドギマギしながら聞いてみた。

「気になる?」

「ええ、とっても」

「……いません。こんなおばあちゃんで、お転婆な女なんて誰も相手にしてくれないでしょ。解る?」

「そんなことは絶対にありません。……」(もし、ぼくでよかったら……)」と口に出かかった自分の言葉に貴志自身がたじろぐ……。実際、千早の乳房の谷間に顔を埋める毎日が送れたら、どんなに素晴らしいだろうと考えた。この瞬間、ふと愛しい和泉妙子の寂しそうな笑顔が浮かんだ。遠くから妙子は貴志を見ていた。逢いたい、……妙子に逢いたいと貴志は強く意識した。


 話はごく自然に貴志の就職活動に移っていった。

 貴志は、今の置かれている自分の立場を説明した。千早に聞いてもらえば、今の迷いは意外にあっさり吹っ切れるかも知れないと思った。

「どちらも難しいでしょうけど、貴志さん(と名前で呼ぶようになっていた)にとっては、どちらに人生を賭けたいとお思いですか?」と千早。

 これまでの貴志は、言うなれば司法試験を視野に闘ってきた。しかし今回の試験に絶対受かるという自信はない。一方、安中総合建設は民間最難関と言われ、受験生にとって憧れの的、高嶺の花だった。しかし貴志にとっては縁故枠での選考であり有利であることは間違いない。貴志の心は試験が近づくにつれ、その実、安中総合建設に傾きつつあった。

「人生を賭けてというほどの思いはありませんが、今回は何となく、安中総合にしたいと思っています」と貴志は応えた。

 確かにこれまでの貴志の思いでは、人生を賭けてまで司法界に身を投じるとの強い決意とは別に、偉大なる父を超えたいとの強い思いと人の羨む仕事に就きたいとの自己顕示欲から来るもので、それ以上のものではなかった。その上、人間社会の創られた規範の中で人が人を裁くことへの懼れや、人の集団の中にあっての権威なるものへの危惧などを考えると、必ずしも司法界へ進むのが最善とは言えない。貴志にとって、将来はまだまだ見通せない世界、……現在の、国家建設途上の社会情勢を思うとき、建設業界の役割や発展性は計り知れなく、夢の多い業界であった。むしろ貴志に向いているのでは……そんな思いが頭を擡げてくる。どちらに人生を賭けたいのか、その答えは今の貴志にはなかった。

 相気道の中では、難しい道とそうでもない道と易しい道があったとすると、そうでもない道を選ぶのが最も成功率が高いと言われている。安中総合建設を選んだ理由はそこにもあった。即ち、難しい道は、最初の突入が困難だが、入ってしまえば平坦な道に変る。一方、易しい道は、入り口は入り易いかも知れないが、入ってからが殊のほか厳しい。人生には何度も何度もY字路が控えているが、その時の選択の仕方によって将来が違ってくる。

 今回は素直に、肩の力を抜いて考えるに、安中総合建設が最良の選択のように思える。そう、〈肩の力を抜いて〉??自分の望む方向へ。

「それが良いと、あたしは思いますよ」と千早はあっさり言った。千早の言葉がきっかけで貴志は決断した。人は話すことによって迷いを断ち切ることが出来るとは本当だった。


 貴志にとって、決断した以上、もう迷うことは何もない。

 しかし、差し迫った司法試験(論文式)の準備だけは怠りなく淡々と続けよう。

 そして、七月十一日(月)司法試験第一日目は、憲法と刑法。何れも知識のみならず、学説や考え方を問う形のものが多く出された。貴志は気負わず学習で得た知識と立法精神に鑑み、思い通りの答案を作り上げることが出来た。それだけにこのまま二日目の民法、商法及び三日目の民事と刑事訴訟法へと駒を進めたい誘惑に駆られたが、これは潔く断念した。

 七月十二日(火)こそ……貴志の運命の日。安中総合建設の筆記試験は英語、数学、適正検査ともに、思いのほか骨のある問題が多かった。面接は七、八人の面接官による質疑応答形式で和やかな雰囲気に終始した。あとは結果を待つのみ。……終わった、と貴志は思った。

 そして、安中総合建設を受験して五日目に、同社の人事部の担当者が何の前触れもなく貴志宅を訪れ、貴志の母が卒なく応対した。家庭調査だった。三日待って内定通知が送られてきた。

 

 

 

 

 

 

 


(第三章) 運命の再会




 それから、暫くして白井からの連絡で、いつもの喫茶店『フロリダ』で落ち合った。

 

「どうだった?」と白井は当然のごとく訊いてきた。貴志はあれだけ憧れていた法曹界への夢と希望を断念し、民間へと舵を切った経緯を白井に説明した。

「そうか……」と白井は頷き、「良かったじゃないか。前から思っていたんだが、おまえは、どちらかと言うと民間に向いていると思うよ」と言った。

「与えられた仕事を黙々とこなすよりも、民間で創造的な仕事を探求していく。おまえには、

ぴったりじゃないか」

「そうかな。そう言ってくれるとありがたい」とは応えたものの、何故か貴志の頭の中は敗北感に包まれて仕方がなかった。貴志のこれまでの道程で、自分から何かを掴み取ったという達成感のようなものが沸いてきた記憶が一度もなかったからかも知れない。

 白井の方はもともと経済界を目指しており、在籍する一橋大学にあっては、今の就職難時代にも拘わず、一流企業からの求人も引く手あまたのようだった。その中で白井は敢えて一流半の商社「山岩交易株式会社」を選んだという。成長著しい新進気鋭の会社にあって若い中に活躍の場を確保したいというのが白井の狙いだった。

 

 「ところで……」と、白井は言いにくそうにして切り出した。「これまでおまえには黙っていたが、お互い新たな人生を生きるにあたって言っておきたいことがあるんだ」

「何? それ……」と貴志。

「この一年、おまえもよく耐えて頑張ってきたと思うよ。……おまえが相気道をやるようになって、一皮むけて、見違えるように成長したように見える。……だから、もう言ってもいいだろう」

「あゝ、何のことか分からんが、言ってみてくれ」

「じゃ、言おう。それは、おまえが一番気になっている彼女、和泉妙子さんのことなんだ」

「何だい? 唐突に……」と貴志は思わず白井を見た。

「親友の間で隠しごとはしたくなかったが、もう良いだろう。おまえも吹っ切れたようだから……」

 白井曰く。

 「この前、おまえのおふくろさんから、妙子さんの訪問の情報を聞いて、おまえに伝えたよな。このとき、妙子さんは自分の住まいや連絡先については何も語らなかったと謂う。実際、妙子嬢は何も明かそうとはしなかったが、一つのヒントを置いていった。何か分るか? それは彼女が手土産として持参してきたお菓子にあると思う。それには、〈神戸・岡本の文字〉と店名『西洋菓子 黒船本舗』が記されていた。この包装紙を、おまえのおふくろはそっと隠し持っていた。この意味わかるかな?」

「ああ、勿論わかる。??おふくろの気持ち有難いと思う」


「だから、妙子さんはきっとその店にいるんじゃないかな。おまえのことだから、いつか彼女に逢って、何らかのアクションを起こしたいと思っているだろう。違うか? 俺の見る限り、おまえは妙子さんへの責任と彼女に対する好意とが入り交じって、その決着をつけたいと望んでいる。そんな思いを抱えたままでこの先、何事もなかったかようにして過ごしたくはない。そう思っているんだろう?」

「よく言ってくれた。その通りなんだ。ようやく自分の将来が見えてきた気がして、ほっとしている。今の中なら時間がある。彼女を探し出して、彼女の傷の具合を確かめ、彼女に謝罪して、お互いの思いを語り合いたい。それだけはやっておきたい」 

 まだ時間はある。時間のある中に神戸を訪れて……。それには資金がいる。このことで父に小遣い銭をせびる訳にもいかない。貴志はそんな風に思った。

   

 思えば。大学を卒業するまであと半年余り。……今のうちにやっておかなければならないことが、いっぱいあるような気がする。そうだ、アルバイトをしよう、と貴志は考えた。白井とは違って、これまで貴志はお金を稼いだためしがない。口では偉そうなことを言いながら、親の脛かじりオンリーでは一人まえとは言い難い。そうだ、大学の学務課に顔を出せば、家庭教師をはじめその情報は多岐に渉る。

 結局、バイト先に選んだのはデパートのギフトセンターでの包装係で、他大学からも大勢の男女学生が来ていた。その中で男女とも見かけと愛想が良ければ売り場に回された。約一か月勤め、自分で背広を買った。この間、二人の女子学生及び一人の女店員とデイトをし、食事を共にした。どの子もまあまあの器量の持ち主で魅力的なオッパイをしていた。デパートの期間を終え、続いて、千代田区の区商店連合会事務局で雑用や数ある商店街の共通催しのポスターや景品見本を配布する業務を行った。この仕事は残業や夜の業務があり結構お金になった。そればかりか、ちょっと格好の良い年上の女性がいて、貴志に盛んにモーションをかけてきた。ブラウスの下にある乳房が動くたびに上下に揺れ、貴志の目を惹きつけた。それを彼女は意識しているのか、していないナチュラルな仕種なのか。そして、バイト終了日に、二人だけの送別会よ、と彼女に誘われるオマケまでついた。またアルバイトに来てね、待ってるわ。と彼女は言った。学生たるもの、何故こうも持てるのか不思議だった。何故なら〈多分、学生だから〉なのだろうとは思う。

 

 そうこうしている中に日が容赦なく流れ、軍資金もある程度貯まったし、……〈もう、待てない、早く妙子に逢いたい〉と貴志は焦りにも似た気持ちになっていた。〈一日遅れれば、それだけ妙子は遠くに行ってしまうのでは……〉そんな焦燥感にも似た思いに支配された。バイト中、何人もとデイトをしても深みにはまることのなかったのは、妙子への切ない思いがあったから。……それ以外の何ものでもなかった。

 

 東海道本線の夜行列車『銀河』号に乗り、貴志はひとり旅立ったのは、それから暫くしてからだった。

 早朝の省線(国鉄)大阪駅からチョコレート色の阪急電車に乗り換え、岡本駅に降り立ったのは通勤客でごった返す午前八時過ぎだった。地図を片手に、岡本駅から少し南に下ったT字路を左に曲がる。この通りは水道筋と言われ、この付近では主要な道路だった。十分ほど歩くと道路に面して北側に小学校があった。生徒たちが連なって登校してくる。道路を隔てて学校正面に文具店があった。ここまでの間では洋菓子店らしきものはなかった。まだ早い時刻なので道行く人や商店の人に聞いてみる訳にもいかず、もう少し足を延ばした。左側を見ていくと保久良神社の案内版があったので、どうせまだ早いためその方面に歩いた。神社までは曲がりくねった結構きつい坂道が続き、三十分ほどかけて登り切ったところで、真っ赤に燃えた広大な紅葉林に遭遇した。境内のベンチに腰掛け夥しい落ち葉を踏んでみる。

 自分は今何をしようとしているのだろう。妙子が持参したというお菓子の包み紙だけを頼りに、ここまで来てしまった。果たして愛しい懐かしい、あの日の妙子に逢えるだろうか。期待感と寂寥感が入り混じった複雑な思いがする。目を閉じると自然、涙が沸いてきそうだった。小一時間ほど境内の紅葉林を散策し、貴志は両手を広げて大きく息を吸った。

 今来た道を引き返し、先ほど通った水道筋に出る手前で。朱塗りの頑丈な塀に囲まれた大きな洋館建ての屋敷が目に入った。大きかった。入り口横に『倫・一心の会』なる表札が掲げられ、正面扉は厳めしくしっかりと閉じられていた。この辺りだけが、どうしたことか人の気配が消されたように静寂の雰囲気に包まれていた。時折、暖かくふんわりとした空気が頬を撫でる。貴志はちょっと気になって内部を覗いてみたいと思ったが、特に変わった様子は見られなかった。目的地とは少しずれてはいるがエキゾティックな神戸の一端を垣間見た思いがした。

 結局、岡本駅までの道のりに、それらしき洋菓子店は見つからなかった。駅の斜め前に交番があったので、貴志はそこで尋ねることにして足を止めた。尋ねてみて良かったと思う。……今通った道とは違って、線路に併行して神戸三宮方面に歩いて一〇〇メートルほどのところに西洋菓子店『黒船本舗』の看板が目に入った。この通りは甲南大学に続く学生街といった趣きの、狭い商店街だった。

 こじんまりとした近代的な佇まいの洋菓子店で店の奥の方が喫茶スペースになっていた。

 貴志はいったん様子を見るために通り過ぎた。ショーケースの向こう側にピンク色の制服と斜めに帽子を被った女店員が二人居て、うち一人が客の相手をしていた。妙子の姿は見えなかった。

 思い切って、貴志は声をかけてみようかと思ったが、一呼吸置くために喫茶室に入って店先の様子を覗うことにした。喫茶入り口近くの席について紅茶(ケーキ付)を注文。……と、丁度そのときだった。店先にグリーンの自転車が停まり、赤いバンダナを首に巻き、ふわりとした長いスカートを穿いた女性が降り立った。彼女は、目の端に貴志を捉えると、驚いたかのように一瞬瞬きをし、続いて貴志に頭をさげたように見えた。彼女は自転車を脇に留め、そのまま店の奥に消えた。妙子に違いない。彼女の方でも貴志を認めたのだろうか。

 声をかけるまでもない。

 彼女の行動を待ったが、なかなか姿を現そうとしなかった。もう少し待とう、焦ることはない。彼女はきっと現れる。

 そうは思ったものの、三〇分ほど経過したところで、貴志は売り場の人に、和泉妙子さんに会いたい旨、声をかけた。それがきっかけとなって妙子が姿を見せた。一見して、とても美しかった。前よりも更に美しく見えた。日時の経過のせいか、落ち着いた、しっとりとした雰囲気を身に付けていた。胸も適当に、でも大きめに膨らんで見えた。

「妙子さん」思わず貴志の方から声を発した。「元気?……」

「貴志さん。……貴志さんでしょ。びっくりしました。……お変わりになられたわ」と妙子は言葉を詰まらせた。「何処にお泊まりですか?」

「三ノ宮の駅前ホテルに予約してあります。三、四日居て神戸の街を歩いてみたいと思っています。本当は、妙子さんにどうしても逢いたくて、それが目的でやって来たんです」

「あたしの方こそ、貴志さんにお逢いしたかったわ……来て下さって、とっても嬉しいです」

こんなところでは何ですから、近くの喫茶店にでも……と妙子は岡本駅南口にあるお洒落な店構えの紅茶専門店『アダージオ』に案内してくれた。店内の装飾は至ってシンプルで、それが却って優雅な雰囲気を醸し出していた。このお店はうちのお得意さまで、ケーキやクッキーを納めているんです。アダージオって、イタリアの音楽用語で「二人でゆっくり……」という意味だそうですよ、と妙子は説明した。品の良いマダムが挨拶にきて、貴志にチラリと目をやった。

「妙子さん、あれほど約束していたのに、連絡先も言わず消えてしまわれたので、心配で、心配で……随分捜しました。どうされていたんですか?」

「あのときは……どうぞ事情をお察してください」と妙子は目を伏せ、それ以上は語ろうとしなかった。

 妙子はこの日は午後六時半にお店が終ると言うので、七時に三ノ宮駅東口で落ち合うことにして一旦別れた。

 阪急三ノ宮駅は省線(国鉄)三ノ宮駅と直結しており、神戸で一番乗降客の多い駅だった。約束の七時はまだ通勤時間帯だったので妙子の姿が直ぐつかめるかどうか心配だったが、美しい妙子は直ぐに見つかった。花模様のワンピースに薄いピンクのカーディガンを羽織った出で立ちで、首に赤いバンダナを捲いていた。とにかくも綺麗だった。

「妙ちゃん……」手を挙げ貴志は近寄る。

「ああ……貴志さん、お待ちになって?」と妙子は頬笑む。

「ええ、待ちましたよ。とっても……」

日本一美しいと謂われるアーケード商店街『三宮センター街』を西に向かい、左に大丸百貨店を見て、真っ直ぐ元町通りを神戸駅付近まで散策し、途中引き返して有名な南京町に足を踏み入れた。最初、人目も気になり、お互いに硬くなっていたのか二人の間には明らかな距離感があり、言葉も少なかった。が、そのうち、妙子が貴志の腕にそっと手をかけ、ぶら下がるようにして歩いた。貴志の腕に妙子の胸の膨らみが伝わってきた。いつまでもこの状態が続いて欲しかったが、そうもいかなかった。……ようやく清潔そうな店構えの中華料理店を見付けて、個室をとってもらった。店内の照明は落とされていていくぶん暗かった。ここなら落ち着いて過ごせそうだった。二人は向かい合うのではなく、肩を寄せ合うようにして腰掛けた。チャイナー服の中国人女店員の笑顔とともに料理が次々と運ばれてきた。二人は先ず食べることに専念した。ミニコースとはいえ豪華だった。ジャスミン茶の香りを嗅ぎ、貴志は改まって妙子を見た。

「妙ちゃん、怪我の具合はどう? 君に一度、改まって謝罪したかったんだ。ぼくの過ちで君に大変な思いをさせてしまった。心から、本当にごめんなさい」

「もう、いいのよ、貴志さん。貴志さんはあたしを助けてくださったのよ。本当よ、だから、もう忘れて。お願い」 妙子はあのときの病院生活がそれまでの人生の中で一番幸せを感じた日々だった、とも言って、貴志をじっと見つめた。心なしか何かを訴えようとして涙を溜めているようにも見えた。

 貴志は思い切って妙子を抱き寄せ唇を重ねた。受け入れるでもなく抵抗するでもなく、妙子は貴志の胸をそっと押した。

「そのバンダナ、取ってみて」と、貴志は気になっていたので唐突に言った。

 妙子は黙ってバンダナを外した。照明のせいか、妙子の頸の傷は殆ど目立たなくなっていた。ただ、よく見ると顎から首にかけてカミソリの痕のようなか細い線が明かりの中で瞬間浮き上がって消えた。

「妙ちゃん、ごめん……」貴志は思わず言った。妙子によると、これは傷の痕ではなく手術によるもので、そうかからないうちに?消えてしまう。「だから、心配しないで」と言った。その言葉を聞いて、これまで背負っていた「責任」という文字が少しずつ薄れていくのを貴志は感じた。「妙ちゃん、ありがとう……」

「いっぱい聞いていただきたいことがあって……明日は商店街が休みですから、よかったら時間をつくっていただけません? いろいろ神戸もご案内したいわ」

「ぼくは、妙ちゃんとなら、一分でも一秒でも多く一緒にいたい」

 この日のお勘定は妙子が支払った。


 次の日はケーブルカーで六甲山頂に登った。

 この日の妙子は薄いグリーンのロングドレスに身を包み、ことのほか美しかった。神戸まで来て、こんなに素敵な女性に逢えて、……貴志はある種の感動と充実感を覚えた。もう、決して手放すまい。出来ることなら妙子をこのまま貴志の住む神奈川まで連れて帰りたい。神戸滞在中に妙子との時間がどれほど許されるだろうか。その短い時間の中で、貴志の全知全能を傾けて、心のうちを妙子に伝えたい。……貴志はそう思った。

 ハイキング気取りで六甲山頂をそぞろ歩いた。歩きながら二人はお互いに何を何から話して良いのか戸惑いながらも愛を語り合ったように思う。美しい妙子を伴って歩くことに、貴志はある種のためらいと誇りを感じたものだった。二人はケーブル山頂駅から程よい距離にある六甲山ホテルのお洒落なラウンジでランチタイムを過すことにした。

 昨夜、いろいろお話ししたいことがあると妙子は言っていたので、それとなく貴志は誘導してみた。

 妙子は現在叔母の経営する西洋菓子店『黒船本舗』に世話になり、パテシエの勉強中だと言う。またお菓子の配達や時には新規顧客獲得のための営業も受け持ち、忙しく過していますとのことだった。岡本駅前の紅茶専門店『アダージオ』も妙子が開拓したお得意先様だという。

 妙子の話は核心に入っていった。妙子は顔を伏せ、苦しそうにして喋った。

 黒船本舗の売り上げ構成はもともと一般顧客が半分強で、あとは贈答品としての需要、それから業務用卸で占められていたが、ここ半年ほどはある団体への特需が急速に大きくなっていったと言う。

 ある団体。……それは店から歩いて十分そこそこのところにある『倫・一心の会』という一種の宗教団体だった。この団体の集会(聖会という。キリスト教でいうミサのようなもの)の参加者への贈り物として黒船本舗のお菓子が選ばれ、大変喜ばれ、重宝されるようになった。貴志がはじめて神戸の地に降り立った朝、見かけた大きな洋館のことのようだった。

 『倫・一心の会』の代表は聖師と呼ばれ、信者の信頼を一心に集めていた。

 ここまで語って妙子は一息入れ、ハンカチを取り出し、目頭を押さえた。会には「頭の良い子孫繁栄」という大きな目標が掲げられていた。これに賛同する者(未婚の女性に限る)は『聖の会』に登録し、自分の月経周期を告知し、その上で毎月の月経日を予測し、『聖の会』に知らせる。また、それによって『聖の会』の登録者は毎月一回、聖師の直接の講話会に参加する栄誉を与えられる。この講話会は聖師の教えの基本概念を修得するためのもので、その理念は、結婚してから一年以内が〈二人の愛の最も充実し沸騰する時期〉にあたり、この間に行われる愛の行為によってこそ『頭の良い子』が授かる。その子は神の子として、人の世を幸せに導く力を備えている。『頭が良い子』であって初めて、美しい社会を創ることが出来る、という教えだった。〈結婚後一年以内に授かった子は頭が良い〉……これには科学的な根拠も示されている。

 そこで、登録者は毎月の月経二,三日前に『聖の会』特別聖浄室で聖処女による女体の洗浄という儀式が行われる。〈綺麗な肉体には綺麗な魂が宿り、その美しさがやがて生まれてくる子に伝承される〉という教えに基づいての式典だった。

 

 初め、妙子は『倫・一心の会』からお菓子の特別注文を受け、これを届けることから、度重ねての自由な出入りが許されるようになった。聖師にも何度かお目にかかることが出来、その都度の若干の会話の中で、聖師のお人柄に触れ、何故か惹かれ痺れるようになったと言う。

 ここまで語って、妙子は、はたと面を伏せた。妙子の目から涙がこぼれ落ちた。

「貴志さん、何もかもが半年遅かったわ。ごめんなさい。……もっとこれ以上、話してもいいんですか? 聞いていただけます?」

「話してください」と貴志は残酷を承知で先を促した。妙子には何か秘めごとがあるように思える。知りたい、と貴志は思った。


 妙子は、聖師の甘い言葉に誘われるままに、『聖の会』に登録してしまった。聖師は、世界最高水準との誉れ高いカリフォルニア科学技術大学(人間工学科)修士課程を卒業し、帰国後は日本の会社に三年間勤め、そこで人間の持つ限りない力を学び、これを具現化して人類未来永劫の幸せと平和を希求すべく、ここ神戸岡本に『倫・一心の会』を起ち上げたと謂う。創立十二年、男女の正会員数約二〇〇〇名。聖師は目下三十九歳、独身(独身主義)。聖師の言葉、生き生きと理想に燃えて話す聖師の表情の何と魅力的なことか。

 そんなある日のこと、妙子は聖師の招待で『倫・一心の会』を訪れることになった。〈日頃、こころの籠もった美味しいお菓子を届けていただき、ささやかなお礼がしたい〉との申し出だった。妙子の月経予定日の二日前の夕刻の指定だった。妙子は本能的に何か普通ではないものを感じたが、お断わりする理由もなく、むしろ光栄と思い直し、『倫・一心の会』を訪れた。

 聖師と二人きりの晩餐会、質素でシンプルなお膳だった。ただ料理に工夫が凝らされ、色の配置が美しかった。聖師は思いのほか静かで寡黙だった。

「貴女と同じ姓なんですね」と聖師は感慨深げに言った――聖師の名前は和泉倫中。「……偶然とはいえ、不思議なご縁ですね」その声は爽やかで優しく心地よく響いた。

 食後、カクテルグラスにピンク色の液体が注がれ、二人は乾杯した。これから起こるであろうことに対し、二人は長く見つめ合い、無言のまま、互いに目と目で誓い合った。それが愛なのか何なのか妙子には解らなかった。

 妙子は夢うつつの中で和泉倫中の神の口づけを受けた。

 彼に抱きかかえられ、妙子は初めて特別聖浄室に運ばれた。これを聖処女三人が迎え入れ、妙子の衣装を剥ぎ、素っ裸にして体の隅々まで丁寧に清浄した。この段階で妙子の意識は体外へ浮遊し、考える力を喪っていた。

 妙子は意識下の中で何とも言えない甘い香りに包まれ、心地よい微音とリズムを感じながら眠ってしまっていた。

 三ヶ月後、妙子は妊娠していた。

 聖師が喜んだことは言うまでもない。妙子の子は性別に拘わらず「次代の聖師」が約束されていた。即ち、妙子の子は、必然的に聖師に引き取られ、後継者としての教育を受けることになる。そして妙子は子の母として、『倫・一心の会』との?がりを持つことになる。但し、聖師は独身主義者を標榜しているため、妙子との婚姻関係はなく、妙子は未婚のまま母となる。

 ――妙子はここまでの経緯を、途切れ途切れに語り、目にいっぱい涙を溜めて貴志を仰ぎ見た。

「ごめんなさい、貴志さん。……あたし、貴志さんにこうしてお会いする資格なんて、もうありませんよね」

 そうだったのか? そんな事情で二人の間に目に見えぬ壁が出来てしまっていたのか。二人の間に一歩踏み込めない何かを感じていたのは、そのためだったのか、と貴志は肩を落とし、あらためて妙子を見た。項垂れながら口にする妙子の言葉を聞いて、貴志は却って彼女を身近に感じていた。妙子を責めたい気持ちもあったが、それよりも妙子に《哀れ》を感じた。同時に、妙子を愛おしく感じていた。

 やはり妙子は美しかった。心なしか憂いを含んだ妙子の瞳は深く沈んで見えた。思わず貴志は妙子を抱き寄せ、存分に接吻し、思い切り彼女の泣くに委せたいと思った。

「ねえ、妙ちゃん、もう少し聞きたいんだけど、……君は戸籍上では未婚の母であっても、実際には和泉聖師とは同棲関係になるのかな?」と貴志は尋ねた。

「いいえ」と妙子は彼女に似合わず断乎とした口調で否定した。「聖師と一緒に暮らすことはありません。……あたし未婚の母となっても、この先どなたとでも結婚する自由は残されています。そういう約束になっています」

「じゃ仮に、ぼくが妙子さんにプロポーズしたとしたら、妙子さん、僕と結婚してくれますか?」と、遂に貴志は一歩踏み出したことを言ってしまった。

「ご冗談でしょ。……仮に、であっても、貴志さんのそのお言葉、嬉しいわ」と、妙子は言って起ち上がった。いつまでも、この状態で語り合うことも出来ないので、続きは明日にしようということになった。お互いにとって今夜一晩の、考える時間が必要だった。妙子は、「明日はお店を早く終らせてもらうわ」と言って……午後五時に昨日と同じ三ノ宮駅で落ち合うことになった。



         二


 二人は六甲山頂の道をゆっくり歩いた。近くに牧場があり、落ちかけた太陽の光を浴びながら絞りたての牛乳を味わった。暫く歩くと『恋歌畑』という一面コスモスのお花畑の感動的な光景が広がっていた。妙子によれば、

「コスモスの花言葉は『愛』『純粋』『誠実』など色々あるみたいよ」という。

 石の階段を上がって畑に足を踏み入れるや、「わッ、きれい!」と妙子が感嘆の声を挙げた。辺りには二人のほか人影はなかった。

 貴志は思わず妙子を抱き寄せる。微風とともに妙子の香りが漂う。木陰で妙子を抱き締め、唇を求めた。何度も重ねた。妙子は抗うことなく貴志の唇を受け入れた。妙子の肩は思ったより薄く、全体的にも華奢だった。このとき貴志は、どうしたことか今は亡き桐子の影を想った。

 そのまま、ぶらぶらと、しっかりと支え合って歩いた。ケーブルカーの山頂駅に着く頃には、もう陽はとっぷり落ちていた。駅のデッキから眺める神戸の街はキラキラと輝き、まるで箱庭のように美しかった。二人は小指と小指を絡ませてケーブルカーに足をかけた。


 翌日、即ち神戸三日目。三ノ宮駅で待ち合わせた二人は、妙子の案内で、山の手方面に向かって十分少々歩いて大通りから一本入ったところにある老舗のパン屋さん『フロインドリーブ』に入っていった。一階が文字通りパン屋さん、幅広の円形階段を昇ると、二階が軽食レストランになっていた。元、キリスト教の教会だった建物をそのまま利用したもので、天井が高く、荘厳な雰囲気を漂わせていた。NHK朝ドラの舞台となった知る人ぞ知るパン屋さんだった。ここで軽くお腹を充たし、そのあと、二人はしっかりと腕を組んで北野の異人館のある街を散策し、続いてタクシーで須磨駅近くの高台にあるお洒落スポット『藤山ガーデン』に向かった。勿論、妙子の案内だった。  

 大きな土の塀に囲まれた広大な屋敷と庭園。……博物館を思わせる門構えの入り口を入り、ここで入場料を支払う。入り口には、〈未成年者及び男性のみのお客様の入場は固くお断わり申し上げます〉との表示が掲げられていた。屋敷内にはいくつもの部屋に別れて、日本料理の店、洋食の店、寿司店、蕎麦店、喫茶室、土産物店、展示室などがある。大広間の中央ホールには、学生の音楽バンドが入り、男女が思い思いに踊っていた。北野にあるような高級ナイトクラブとはちがって、一見、開放的な雰囲気を醸し出す、大人の素敵な社交場だった。こんなお洒落なスポットを知っている妙子が何とも不思議に思えて、貴志は尋ねてみた。

「妙ちゃん、良いところ、知ってるんだね」

「ええ、以前ここで少しの間アルバイトをしいてたことがあるんです」と妙子は悪びれることなく答えた。

 二人はホールでごく自然に抱き合っていた。

 妙子は白のツーピースに身を包み、赤いネッカチーフを首に巻き、とても上品で華麗だった。笑うと尚可憐に輝いて見える。こんなに美しい女性と一緒に居られるだけで、この上なく誇らしく、貴志を有頂天にさせた。スローなリズムアンドブルースに身を委ね、三曲踊ってから、庭園に出た。夜の散策に相応しく所々に柔らかい照明が配置され、やさしく足許を照らしていた。どこまでも続く庭園は限りなく大きく思えた。小道は曲がりくねり適当な起伏があり、随所にベンチが据えられてあった。奥まって目立たぬところにある石造りのベンチに二人は腰を降ろした。妙子がハンドバックからハンカチを取り出し、貴志の側に敷いてくれた。このとき貴志は、妙子とのデイトで横浜の『港の見える丘公園』での所作を思い出した。妙子は甲斐甲斐しく貴志の下にハンカチを敷いてくれた。この場面には共通するところはあったが、所謂暴漢は出てこなかった。もし、万が一のことがあっても、この日のために相気道を学んできたような気がする。貴志に怖いものはなかった。

「貴志さん。……昨日お話したことで、がっかりなさったでしょう。ごめんなさいね。でも黙っていることが出来なかったのよ」と妙子は、これまで耐えていたかのごとく、肩を落として、縋るように貴志を見た。「貴志さんとこうしてお逢い出来るのも、これが最後になるかと思うと何も言い出せなくって」

「どうしてそんな風にマイナスに物事を考えるの?」

「だって、あたし貴志さんにこんなに良くしていただけるなんて。そんなあたしじゃなくなってしまったのよ」

「ぼくは、あれから色々考えてみたんだけど、やっぱり、ぼくは変わらない。変わる必要もないし、変わることが出来そうにないんだ」と、貴志は言って、妙子を強く抱き締め、その唇を塞いだ。ここでは誰にも見られないという安心感と、妙子への切なる思いが交差して、貴志を大胆にしていた。ここで何としても妙子の心を掴んでおかなくては……。

 微かに漂う妙子の紅の香り。貴志は、もうブレーキが利かなくなり、何度も何度もその唇を吸い続けた。そして、どうしても触れておきたかった妙子の胸の膨らみに手を伸ばし、上着の上から押さえてみた。妙子は特に抗う仕種を見せなかった。妙子の胸に手を添えたまま何度も唇を重ねた。妙子が横浜の病院で何度も貴志の唇を受け入れたように素直で従順だった。貴志は、これまで耐えて控えていた行動を、今度は思いきって試みてみた。……貴志は妙子の胸に置いていた手を、彼女の上着の裾から差し入れ、直接に触れることに集中した。ブラジャーが胸をガードしているのか、指がなかなか届かないもどかしさを感じたとき、妙子が体をすっとずらし「ちょっと待って」と言ってブラジャーのホックを外してくれた。妙子の思いもよらぬ行動だった。貴志は手を伸ばした。……妙子の胸は思っていたよりも意外に大きく豊かに張っていた。湿り気のある、しっとりとした妙子のオッパイを優しく丁寧に揉みしだき、貴志はもう妙子は誰にも渡すまいと強く意識した。

「もう君を、決して離したくはない」と貴志は囁いた。

「ほんとう? ほんとうなら嬉しいわ」

「出来れば、このまま君を連れて帰りたい。けれど、……」と貴志は答えた。お袋はいいにしても、親父がどんな反応を示すか判らない。「……だから、じっくり話して納得させてからの方が良いと思う。その自信もあるから、少し待って!」 

 実は、貴志の両親は学生結婚で、二人は駆け落ち同然にして一緒になり、貴志を育てたのだった。だから、貴志と妙子のことは、話せばきっと解ってくれるに違いない。貴志はそう考えた。

 時間が流れる速さは格別だった。午後九時半、園内に、時を惜しむかのように美しいショパンの調べ『別れの曲』のメロディが流れて、二人は抱き合い腰を上げ、この日最後の接吻を重ねた。

 これが妙子との最後の接吻、別れの接吻になるかも知れないと、貴志は心の何処かでそんな〈悪魔の囁き〉を耳にしていた。

 

 

  三

 

 貴志は、帰路は寝台車を使わず、急行列車を乗り継いで東京へと向かった。

 神戸での三日間は、貴志にとってこれまで経験したことのない充実した時間の連続だった。それにしても、妙子の歩んできた道は、貴志の想像を遙かに超えたものだった。それ故に、貴志の思考能力は麻痺し、考える力を喪ったまま過してきた三日間だった。

 

 妙子は『倫・一心の会』の主宰者である和泉聖師の子を宿していると言う。生まれた子は聖師に差し出され、聖師の許で育てられ、やがて二代目聖師となる運命を背負うことになる。妙子は未婚のまま、聖師の子の母となるが、将来に渉って聖師とは婚姻関係を持つことはない。同棲もない。子を差し出した時点で、聖師とは他人となる。従って妙子は自由の身であり続け、誰とでも結婚することが許される。――暗黙の中に妙子と聖師の間にはそんな約束が交わされていた。

 妙子と聖師の間に『愛』は存在しない。ということは、聖師の承諾なく貴志の伴侶となって貴志とともに暮らすことが可能ということになる。

貴志は帰りの列車の中で、外の景色を眺めながら、ここまでのことを整理して考えた。あとは心の問題だけが残った。

 妙子ほどに可憐で美しく、やさしく、思慮深く、従順な女性は、もうこの先、貴志の前に現れることは断じてあり得ない。運命に翻弄され続けてきた美しい妙子を、何としてもこの手で救い出し、幸せにしたい。妙子との暮らしが可能なら、もう何も言うことはない。帰って、早いうちに尊敬する父を説得することから始めよう。……万一強硬に反対されたら、そのときは家を出て独立するも辞さない。……そう貴志は固く決意したのだった。


 思い込んだら、それ一途。それは貴志のこれまでの悪しき生き様だった。幼稚な生き様と言えるかも知れない。車窓から流れるのんびりとした田園風景を眺めていると、今の自分が本当の自分ではないような気がしてくる。そんな中で、貴志はふと耳を澄ました。「貴志よ、平静になれ」との叱声が何処からともなく聞こえてくる。〈気負うことなかれ〉と言いつつも、ついつい気負ってしまう。これでは、父を説得するのは困難であるに違いない。


 〈平静に、落ち着いて、気負うことなく〉考えなくてはならない。

 今の妙子は、どう見ても美しい。控え目で、奥ゆかしく、従順……。実に、ろうたけた女性だった。一緒に居ても、疲れない。一年先もその先も変わらないと思われる。ただ、これから先の七ヶ月はどうであろう。妙子は、『倫・一心の会』の聖師という、謂わば《得体の知れない》男性の子を孕み、そのお腹は段々に膨らんでくる。彼女自身がいくら美しく艶やかであっても、大きなお腹をかかえ変貌していく中にあって、果たして貴志と行動を共にすることが出来るだろうか。妙子の意識はやがて《生まれてくる赤ん坊》に集中して当然と言える。そんな思考を辿って見ると、ともすれば貴志の中にある種の迷いのようなものが生じてくる。……妙子への思いに揺らぎが感じられる。あれほどの固い決意がこうも簡単に揺らぎ始めるとは……。

 また、妙子の子供が無事出産されて、その子は聖師に差し出され、聖師の許で育てられる。ただ、妙子は同居することは出来なくとも、少なくとも子供が幼児期を超えるまでは子供の母として生きなくてはならない。従ってその間、妙子は神戸岡本の地を離れることは不可能と考えなくてはならない。……そういった諸々の障害を二人は乗り越えることが出来るのだろうか。考えれば考えるほどに、貴志の思考は混迷を極めていった。決意とはこんなにも脆いものなのか、と貴志は肩を落とした。

 

 貴志に課せられた試練は、これまでとは違って、とてつもなく大きく、危険で、重たいものだった。貴志の決断次第では、一人の女性の運命が左右される。

 そのため、帰宅後、直ぐには、父母に何の報告も口にする勇気が沸いて来なかった。妙子から託された『黒船本舗』のお菓子だけは母に手渡した。

「神戸はどうだった?」と母は聞きたそうにしたが、曖昧に答えることしか出来なかった。妙子との恍惚の時間は、〈現実から離れた非現実の出来事〉のような、つかみどころのない思いが詰まった時間だった。

 平静な心を取り戻して考えようと思い、翌々日貴志は相気道の道場に向かった。そこには颯爽とした女流武道家、加藤千早が待っていた。千早には、貴志の神戸行きは、言っていなかった。ただ、〈アルバイトに明け暮れていた〉とだけ言った。

「如何されました? 何だかいつもの貴志さんではない人みたい」と、千早は貴志を見て言った。「どう? 久し振りに、申し合わせをしません?」

「ええ、お願いします」と貴志は答えた。

 今日の千早は、道着ではなく、肌にぴったりとくっついたスポーツシャツを着たままの姿で稽古場に現れた。千早の胸の膨らみが殊のほか強調され、息づいて見えた。俯くと、明らかに深い谷間がよりくっきりと見えた。眩しい! と貴志は感じた。

 この日の貴志は明らかに平静心を喪っていた。

 千早との呼吸が合わない。最初、貴志が千早の胸めがけて本気で手を伸ばした。これを予測していたかの如く、千早の動きは素速く華麗だった。貴志の手が千早の胸に触れた瞬間、貴志は宙を舞っていた。着地が少々乱れた。これを何度となく繰り返した。そのうち双方の呼吸が合うようになったところで終了した。約一時間が経過していた。貴志は汗にまみれた。反対に千早は悠然として見えた。……千早の方から貴志を抱き寄せ、

「何があったの?」と言った。

「何も……」と貴志は答えた。千早との申し合いで、貴志はようやく本来の自分を取戻しつつあるのを感じた。

 何もかも暫く忘れよう、と貴志は思った。

 


 それから三日後、和泉妙子からの手紙が届いた。


 山之内貴志 様 ――

  あなたに再会できて、あたし、とっても嬉しかったわ。

  思えば夢のような三日間でした。最高に幸せな時間を過させて戴き、ほんとうにありがとうございました。

  でも、あたし、貴志さんの御言葉を素直にお受けできる立場にはありません。どうか、貴志さん、あたしのことは、お忘れになって、これからの人生を精一杯生きて戴きたいと願っています。……貴志さん、さようなら。お母さまに宜しくお伝えくださいね。

                               ( 和泉妙子 )


――貴志の恋と青春は、こうして終ったのだった。


                            第二部 ( 完 )

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