菊の花が咲き始める頃(9)
「お義姉様、常春宮に女道士が出入りしてるのはご存知ですか?兄上はその話をどこからか聞いたそうです」
「女道士……?」
昕はひそひそと瑛に話し始めた。
「莫云というのですが、女人しか相手にしないそうで」
「当たり前ではなくて?女道士も尼僧みたいなものだわ」
瑛が呆れたように言うと、昕は人差し指を立てて、それを横に振った。
「莫云を招いたご夫人方は彼女の虜になったのか、もう引っ張りだこですよ。きっと、怪しい何かがあるのでしょうね。房中術でしょうか……」
昕は声を潜める。
「莫云は房中術を心得ていると?ありえないわ。女人どうしで……そんな宮女たちの対食ではあるまいし」
房中術とは陰陽の交わりで長寿になるための健康術である。陰は女性、陽は男性の気を表す。その2つの気が和合することが健康を保持すると信じられていたのだ。
「お義姉様、それ以上は口に出さないように。あとは私と秦姨娘とで何とかします」
「そう言わせたのは昕殿でしょ?胎教に悪いことをしたわ」
瑛の足元に飼い猫の阿好がまとわりついてきた。
「阿好と遊んでいてください」
昕はそういうと颯爽と部屋を出ていった。控えていた冬梅が瑛の足元にいる阿好を抱き上げた。阿好は昕と秦姨娘、冬梅にしか自分を抱かせなかった。
「奥様、昕若様の話を聞いて漁陽長公主のことを思い出したのですが……」
「長公主がどうしたの?」
「確か……その莫云を斉国公府に招いていた、と」
「莫云、莫云って。太子妃様のお気に入りで……」
瑛はため息をついた。冬梅は瑛に言葉をかけようとしたが、それははばかれるような言葉だった。なぜなら、胎教に悪いからである。胎教は胎児のときから美しいもの、音楽、言葉を聴いたり見たりすることが望ましいとされていた。
秦姨娘が瑛を案ずるように冬梅も胎教として彼女を玻璃の杯のように丁重に扱っていた。割れないように、ひびがはいらないように。それが冬梅にできる瑛への気遣いだった。
「冬梅、玉儀は何しているかしら?この件は董蓉の耳に入っている?」
「臨香軒から何も。采玉さんも采容さんも普段通りです」
(この騒ぎに普段通りでいられる?単に関心がないのか、耳に入っていないのか)
「姨娘たちを呼んできて」
「え!何をなさるおつもりですか?!」
冬梅の声がうわずった。
「この騒ぎはいづれ誰の耳にはいるわ。なら、今のうち伝えないと」
冬梅は瑛に言われた通りに姨娘たちの部屋を回って彼女たちを貞観軒に集めた。董蓉は相変わらず華美な装いで何もかもが鼻についた。陳姨娘、張姨娘は騒ぎを聞きつけてはいたものの、それが何かまでは知らなかったようだ。秦姨娘は瑛の座る椅子の隣に立って彼女に代わって事情を告げた。
「魚選侍様のお加減が悪く、今は休まれています。急なことで騒ぎになりましたが、ご安心くださいませ」
張姨娘は騒ぎがそれだけの事と胸を撫で下ろす。だが、董蓉と陳姨娘だけは違った。彼女たちは太子妃を支持する一派の1人だ。魚選侍は目障りな女人であった。
「選侍様は今日中に皇宮にお戻りになるの?」
董蓉が秦姨娘に質問をする。
「相当、お加減が悪いようなので皇宮に使いを出してお泊め出来るか尋ねています」
すると陳姨娘も質問をする。
「秦姨娘が看病なさるの?選侍様なら、それなりに対応しませんと」
董蓉は俯いていたが、その口元には微笑が浮かんでいた。陳姨娘は秦姨娘に少し強い口調で話し出した。
「奥様は懐妊中で看病は難しいわ。残る妾でも4人で交互に看病するのはいかがかしら?でも、子どもがいる董姐様や張姨娘、秦姨娘には負担になるのでは?」
そこで初めて瑛が言葉を発した。
「なら、陳姨娘にしか任せられないわね。それではあなたが一番、負担になるわ。それを見越して何か考えがあるわけね」
陳姨娘は得意げな笑みを浮かべて返事をした。瑛はその笑みに嫌悪感を抱く。そして、「嫌な予感」がした。
「漁陽長公主の侍女を何名かお連れしようと」
「できないわ!」
瑛は思わず立ち上がって陳姨娘に怒鳴った。しかし、陳姨娘は怯まなかった。
「できますとも。張姨娘ならできますわ」
名指しされた張姨娘は目を丸くして陳姨娘を見つめる。陳姨娘はそれに気づいていたが話を続けた。
「漁陽長公主の婿君である張謹(ちょうきん)は張姨娘の異母兄ですもの」
瑛は張姨娘に目線を送る。張姨娘の表情は困惑に満ちていた。きっと、この話を張姨娘は知っていたのだろう。だが、誰にも触れられたくなかったのかも知れない。そして陳姨娘は張姨娘の心を土足で踏み入ったのも同然であった。瑛は陳姨娘に歩み寄ると、
彼女を平手打ちした。
「お黙り!本当に失礼な女ね!」
「事実を述べたまでです!」
頬に手を当てながら陳姨娘は叫んだ。
「奥様、陳姨娘、おやめ下さい……」
小さな声で張姨娘が2人を止めに入った。董蓉は黙って様子を伺っていた。張姨娘が突然、跪くと神妙な面持ちで話し出した。
「確かに張謹様はわたくしの異母兄です」
「奥様、本人が認めてますわ」
「ですが、わたくしには関係のない方たちです!」
大人しい張姨娘が瑛の前で初めて声を荒らげた。それには瑛以外の姨娘たちも驚いた。だが、一番、動揺しているのは張姨娘だった。自分の身体のどこにこんな大声が眠っていたのだろうと感じていた。
「わたくしの生母は博平縣公にお仕えする侍婢でした。ご存知の通り、博平縣公は張謹様の父君です。生母の身分が低すぎた為、わたくしは繍房に預けらて庶女の地位すら与えられませんでした。与えられたのは丹芍という名前だけです」
張姨娘は立ち上がった。
「陳姨娘はわたくしの生い立ちまで知っていましたか?」
「それは……わたくしは張謹の異母妹ということしか……」
陳姨娘は俯いた。それを聞いていた董蓉は陳姨娘に助け舟を出さなかった。陳姨娘の浅はかさに辟易していたからである。
「陳姨娘、あなたは人の心情に鈍い人なのね。真実だけが全てではないの。真実を秘めて生きている人間もいるのよ。その真実が自分自身を傷つけていることもある……宜花は鮑姨娘に預けるから陳姨娘は秦姨娘と一緒に魚選侍様の看病に当たるように。解散するわ」
姨娘たちが部屋を後にする。すると董蓉だけがその場に残った。丸い瞳が瑛をとらえている。
「張姨娘はどうするおつもりですか?わたくしたちや公爵様も欺いていたのですよ。いくら宜寧や宜荘の母親でも許せないと思いますが……」
「欺く?欺いていたから追い出せとでも言うつもりかしら?」
「さようです」
瑛は笑った。それに董蓉は動じる性格ではない。
「董姨娘は張姨娘を追い出したいの?そう言っているようにしか思えないわ」
「どうにでも思ってください。ただ、宜寧や宜荘には立派な母親が必要になりますわ。失礼します」
董蓉は軽く会釈をするとゆっくりと部屋を後にした。瑛は董蓉の言葉の意味を探る。
(立派な母親……自分が宜寧、宜荘の養母になるということ?いや、董蓉には桓がいる。娘は必要ないわ……)
とりあえず瑛は椅子に腰をおろした。
「また、何か企んでいるの?」
瑛は目をつぶる。張姨娘のあの神妙な面持ちが脳裏に浮かぶ。そして陳姨娘が張姨娘との間に何か問題でもあったのかと推測する。
お屋敷で貴族出身の姨娘といえば、陳姨娘だけだ。身分では陳姨娘の方が董蓉より上である。董蓉は商家、秦姨娘は医師、張姨娘は繍房と貴族出身者ら陳姨娘以外はいない。
「博平縣公にしたら娘を手放すのは辛かったはず。張姨娘の存在を認められない何かがあったのね」
瑛はすぐに張姨娘の部屋へと足を運んだ。