菊の花が咲き始める頃(8)
輿に乗り込んだ魚選侍の気分はますます悪くなるばかりだった。太子妃と莫云の関係が深窓の令嬢にはあまりにも衝撃的だったからだ。
「思好、思好……!」
魚選侍は自分が信用する宮女で侍女の思好を呼んだ。思好はそれに気づいて輿持ちたちにその場で止まるように命じた。
「選侍様?どうなさいました?」
思好は輿の帷の隙間から声をかけた。
「水が飲みたいの……少し休める場所は?どこでもいいから!」
「選侍様は皇太子殿下のご側室です。場所は選びませんと……この辺りなら潭国公様と斉国公のお屋敷がございます」
魚選侍は潭国公と聞いて、瑛のことを思い出した。
(潭国公夫人は宛国公の令嬢だわ……もし、もし……)
魚選侍は太子妃が金城伯の姪であることを思い出した。魚家は北趙出身でも微州出身でもなかった。それ故に選侍に選ばれたのである。
娘が選侍に冊封されたことにより、父親は長寧縣侯を与えられた。そして魚選侍が皇孫を産めば、もっと高位に就くのも簡単だった。
だが、皇太子は静樂を愛していた。それに焦燥感と悲壮感に繋がっていた。それは太子妃も同じだったはずだ。
しかし、その焦燥感も悲壮感も内に秘めるべきで、それを理由に道をはずれてはいけない。太子妃は対食に走ったのだ。対食は同性愛である。皇族において対食は大罪であった。子を産まない、子を持てない、家を継ぐ者がいないのは最大の不幸であったからだ。
対食に似た意味で菜戸という言葉がある。これは一緒に食事をとるという意味と同性愛と太監と宮女が結んだ夫婦関係の意味も持っていた。そして綰児の養祖父のように養子を迎える太監もいれば、宮女を妻に迎える太監もいた。
「斉国公の屋敷へ」
「はい」
思好は輿持ちたちに斉国公の屋敷に向かうように命じた。斉国公は漁陽長公主の婿である。漁陽長公主は先帝の娘たちの中では莒国長公主と並ぶほど可愛がられている。それは婿選びにも現れていた。漁陽長公主は2回結婚していた。1回目の結婚は殷家の息子は真面目であったが、その裏で好色であった。それを知った先帝は自ら離縁させた。2回目の結婚で斉国公に嫁いだのである。
斉国公は地味で異国の歴史書を買い求めるというのが唯一の趣味であった。酒も女も全く縁のないような人物である。妻である漁陽長公主は愛嬌があり、その笑顔で先帝を和ませていた。しかし、高飛車な性格でもあった。
魚選侍の一行が斉国公の屋敷の前まで来ると門番が訝しげに彼女たちを見つめた。思好が門番に事情を話す。
「こちらのお方は魚選侍様です。お加減が悪く、水と休憩できる場所をさがしているのです」
「困りましたね」
「何故です?」
門番があごひげを撫でながら申し訳なさそうに話し始めた。
「実は旦那様も長公主様も不在でして……いくら選侍様でも勝手にお通しする訳にもいかないのです」
「そんな……」
「潭国公のお屋敷なら奥様がいらっしゃるのでは?ご懐妊中ですし、在宅しているでしょう」
「わかりました。潭国公のお屋敷を当たります」
思好は門番に軽く頭を下げると直ぐに輿持ちへ潭国公府に向かうように命じた。
潭国公のお屋敷はそう遠くはない。太鈺大路に出て、小路を直ぐに曲がると潭国公府が見える。その遠くない道のりが思好にはとても遠く感じた。
魚選侍はずっと目をつぶっていた。どこでも良いから身体を横にしたかった。身体に鉛が入っているかのように重い感覚に襲われていた。それと同じように心も重かった。
「選侍様、もうすぐです」
「何回目?何回言えば潭国公府につくの?」
魚選侍の声には弱々しさの中に荒々しさが混じっていた。
「もう着きましたよ」
見かねた輿持ちの1人が2人に声をかけた。
「選侍様、直ぐに取り次いで参ります」
思好が門に近づくと、お使いに出ていた春蘭と出くわした。立派な輿に春蘭は直ぐに皇宮の人間だと気づいた。それと同時に急にやって来た皇宮からの客に驚きを隠せなかった。
「選侍様のお加減が悪いのです」
思好は春蘭に手短にそう述べた。慌てて春蘭は直ぐに内院へ走り、瑛の元へと向かった。瑛は秦姨娘の診察を受けていた。
「奥様!」
春蘭はなだれ込むように寝所に入ってきた。その様子をみて秦姨娘はまた何かが起きているのだと察した。瑛が嫁いでから潭国公府は様々な事が起きている。秦姨娘は春蘭を起こして事情を問いただした。
「春蘭、何があったの?」
「秦姨娘、門前に選侍様の一行が……」
「もしかして李選侍様?」
秦姨娘の言葉に春蘭は首を横に振った。傍で座っていた瑛はいささか安堵した。そして瑛は春蘭に誰が来たのか聞いた。
「選侍は2人いるわ?黄氏、魚氏?」
「申し訳ございません……聞きそびれてしまって」
「まあ、いいわ。急いで秋菊に客間を掃除させて。それまでは貞観軒に案内して。掃除がしてある部屋があるわ」
「はい!」
春蘭は裙をたくしあげて出ていった。秦姨娘は憂慮しながら瑛に話しかけた。
「きっと、大したことございませんわ」
「そうかしら?玉儀、きっと何か大きなことがあったんだわ」
「奥様、今は懐妊中です。あまり首を突っ込まないでくださいね?わたくしと張姨娘に任せてください」
瑛は少し考えてから秦姨娘に言った。
「それも考えたのだけれど、何だか自分が関わっているような気もするのよ。虫の知らせというのかしら」
「気のせいですわ!」
秦姨娘は珍しくぶっきらぼうに言った。秦姨娘は瑛と胎児を守ることに細心の注意を払っていたから、身体に触るようなことから彼女を遠ざけたかったのである。
「玉儀、どちらの選侍か分かったら教えてくれる?」
「それが分かったら、わたくしに任せてくださいませ」
「わかったわよ」
秦姨娘は椅子から立ち上がると彼女に雑な礼をして部屋を後にした。秦姨娘は魚選侍に一行を見つけると、彼女は魚選侍と思好に深々と礼をした。
「選侍様、姑娘、秦姨娘と申します。奥様の代わりにご案内いたします」
「ありがとうございます。魚選侍様、参りましょう」
秦姨娘は彼女が魚選侍だと呼ばれたのを聞き逃していなかった。秦姨娘は魚選侍の一行の後ろをついて行った。
その様子を心配そうに潭国公の弟である昕が見つめていた。彼は何かを確認しようと瑛の元へ向かった。
そのころ瑛は頬杖をついて秦姨娘が戻ってくるのを待っていた。
(黄氏、魚氏、どちらの選侍かしら?黄選侍は最近、寵愛を賜っていると聞いているし……なら、魚選侍?どちらにせよ選侍たちが出かけるとしたら常春宮だわ。春蘭のあのただならぬ様子は……)
瑛は秦姨娘の言いつけを破って貞観軒から出ようとした。その時である。
「お義姉様!?」
「昕殿!」
貞観軒の前にちょうど昕が立っていた。
「気になりますか?それより秦姨娘に何か言われていませんか?」
瑛は秦姨娘の言葉を思い浮かべる。
「なんでもないわ。それより昕殿はどうなさったの?」
「気になるのでしょう?」
昕の言葉に瑛の好奇心が刺激される。だが、頭の片隅には秦姨娘の言いつけがこだましていた。瑛は冬梅を呼んで昕を貞観軒に招いた。冬梅は2人に茶を出した。
「お義姉様、私が聞き間違えていなければ、あの方は魚選侍様ですね」
「長寧縣侯の娘の?」
「そうです。まあ、お義姉様も考えていると思いますが、常春宮の帰りでしょうね」
「太子妃様のお見舞いの帰りでしょう?でも、引っかかるのよ」
「探りますか?実は面白い話を兄上から聞いたのです」
「公爵様は意外と地獄耳なのよね……」
瑛はぽつりと呟いた。




