菊の花が咲き始める頃(7)
それからというもの、皇太子は足繁く黄選侍の元に通った。それに不満を抱いたのは魚選侍だった。魚選侍は黄選侍と共に家政を預かっていたが、気が強く彼女とそりが合わなかった。
魚選侍は太子妃の見舞いと称して静養中の彼女を訪ねることにした。太子妃は先代の大長公主の屋敷である常春館で静養している。常春館は太子妃が使っていることから、「常春宮」と呼ばれていることを魚選侍は宮女の口から聞いた。
彼女が常春宮の前で輿から降りると、白檀の香りが漂ってきた。思わず魚選侍は宮女に尋ねた。
「太子妃様は本当にこちらにいるの?寺院ではあるまいし、なぜこんなに白檀の香りがするのかしら」
「さあ、わたくしめにも分かりません」
「とりあえず、太子妃様にお会いしないと」
魚選侍は常春宮に入っていった。常春宮の草木は手入れが行き届いているも、所々に茶色い葉が見えていた。季節の花はなく、とても殺風景であった。
客間に通された魚選侍に太子妃の宮女が現れた。彼女からも白檀の香りがした。
「魚選侍様、ごきげんよう。今、太子妃様に来客がありまして……少々、お待ちいただけますか?」
「太子妃様に来客?」
「はい。何でも女道士の莫云とか……」
「この白檀の香りはその莫云から言われたの?」
宮女の目が泳いでいる。魚選侍は彼女の様子から、白檀の香りが莫云の指示だと分かった。太子妃が太子宮にいた時に莫云は彼女のもとに出入りしていたのは知っていた。だが、静養中にも莫云に会いたいのには訳があるように思えて仕方なかった。
「分かったわ。莫云は来たばかりかしら?」
「二刻前に訪れました」
「そうなのね。莫云はよっぽど太子妃様から信頼されているのね」
(太子妃が女道士を招き入れるとはね……静樂の懐妊で焦っていたのかも。いや、殿下が静樂ばかりを寵愛していたのも原因だとしたら?)
魚選侍は出されていた茶を口に運んだ。すると宮女が当たりを気にしながら魚選侍に告げた。
「実は……莫云が怪しい術を……」
「怪しい術?!」
魚選侍は思わず声を荒らげた。
「あなた、いくらなんでも!間違いだったら太子妃様への不敬よ!」
「お許しください!お許しください!」
宮女は跪くと何度も床に額を打ち付けて魚選侍に許しを得ようと必死になっている。
「その術とは何?」
「その、あの……巫蠱や媚薬など……口に出すのもはばかれるものでございます」
魚選侍は唖然としてしまった。あの勝気な太子妃がこうも女道士や怪しい術にのめり込んでいるのが信じられなかった。もっと彼女は聡明な女人だと思っていたから、その衝撃は大きかった。
「嘘よ!間違いだわ!太子妃様に会うわ!」
魚選侍は立ち上がると1人で太子妃の部屋に向かった。太子妃の部屋は最奥にあり、行けば行くほど白檀の香りが強くなって行った。
翡翠色の領布をたなびかせながら魚選侍は早足で向かった。握った手はじわりと汗をかいている。
(絶対、嘘よ!太子妃様がそんなことをしたら!)
そう強く思いながら、魚選侍は太子妃の部屋の前までやってきた。部屋の前には無表情の男装をした宮女が控えていた。魚選侍の姿を見るなり、鷹揚のない声で彼女に言った。
「今はどなたも入れるなと太子妃様が仰せです」
「莫云がいるのでしょう?」
「……」
すると部屋の中から微かに嬌声や笑い声が聞こえてきた。それに魚選侍はゾッとした。そして、その場で崩れ落ちてしまった。部屋の前に控えていた宮女が彼女を抱えると小声で魚選侍に囁いた。
「誰にもお話になりませぬよう……」
魚選侍の後を追ってきた宮女が彼女を見つけると慌てて駆け寄った。
「選侍様はお加減が優れないようです。お戻りになってください」
彼女を抱えていた宮女がまた鷹揚のなく告げると、今度は魚選侍付きの宮女が彼女を抱えた。魚選侍は真っ青な顔をしていた。宮女に抱えてもらいながら、弱々しい足取りで客間に戻った。
「誰?」
衣服を乱した太子妃が現れた。控えていた宮女がそれに答える。
「魚選侍様です……」
「まさか……?」
「ご安心を。始末させます」
宮女は冷たく言い放った。
「あたな、そう簡単にいくと思うの?!」
「ご心配なく」
そこでようやく宮女は微笑を浮かべた。彼女が太子妃には不気味で想像のつかない思考の持ち主だと思った。彼女を信用して魚選侍を始末させることができたら、自分自身が抱きしめている秘密が露見することはない。
「名前は?」
「阿蔦と申します」
阿蔦は色白で細眉が似合っていた。男装のせいか凛々しくも見える。
「阿蔦は上官婉児みたいに私に仕えてくれる?」
「上官婉児以上にお仕えします」
上官婉児とは女帝武則天の腹心であり、詞に精通しており、目を引くような男装をしていたという。のちに妃嬪の位を与えられて「昭容」になった。これは長年、女帝に仕えていた恩賞なのかもしれない。
「今日から女史を名乗るといいわ」
「ありがたき幸せにございます」
女史とは下級の女官の地位である。それが無品の宮女に与えられるのは最大の名誉であった。しかも、太子妃の女史とはそれなりの地位を得たことになる。
「それ以上は?」
「欲しいとは思いません。ただ……」
「何?」
「殿下が即位なされたら、わたくしめを尚儀局の女官にしていただきたく存じます」
阿蔦は拱手をした。拱手とは手を組んだ礼のことだ。
「わかったわ」
太子妃は手短に告げると再び部屋の中に入っていった。
太子妃が信用する莫云には秘密があった。身体は女人だが、心は男だったのである。普段は女道士として接しているが、実は下心があったのだ。
それを阿蔦は勘づいていたが、目を伏せた。これを理由に太子妃と取引がしたかったのである。自分の地位のためや、尚儀局で書籍を管理する女官になることを取引したかったのだ。この秘密を太子妃と共有することは、彼女と同じ船に乗ったようなものである。
阿蔦は太子妃を守ることが、自分を守ることであるとも自覚していた。
魚選侍は激しい動悸に襲われていた。そして微かに聞こえた嬌声が頭から離れなかった。太子妃がいかに自堕落になり、すさみ、そして奔放になったと思ってしまうのが罪なように感じてしまう。だが、それが目の前の事実であった。信じたくない現実に蓋をしたい気持ちだった。
「選侍様、お水をもらいました」
「飲むわ」
宮女から水を手渡されると、魚選侍はそれを一気に飲み干した。あまりの勢いで飲んだせいか魚選侍はむせてしまった。
「皇宮に帰るわ」
「かしこまりました」
宮女に支えられながら、魚選侍は客間を後にした。客間を出た瞬間の冷たい空気を胸いっぱいに吸った。
未だに落ち着かない心をどうにかしたかったが、今の魚選侍にはその手段はなかった。というより、見つからなかった。
太子妃の秘密を知ってしまった以上、これは皇帝や皇太子に訴えるべきた。その前に手を下されてしまったら、秘密は闇の中に葬られてしまうだろう。
(ここで正義感だけて動いたら?)
幾重にも重なった感情が魚選侍の心を重くする。
「選侍様、何があったのです?」
「なんでもないわ……」
魚選侍はふと、着物に染み付いた白檀の香りを嗅いだ。
「帰ったら湯浴みの支度を。だめ、この匂いに耐えられないわ」
「かしこまりました」
魚選侍と宮女は常春宮を後にした。