6.束の間の別れ
エルネストが長期の遠征に発ってからしばらくしたある日。
「カメリア嬢、君はもう領地に帰っていいよ」
一週間ぶりの、しかしいつもと変わらぬお茶会の席で、前ぶれなくシリルはそう言った。
突然の宣告に動揺しカチャリと音を立ててティーカップを置いてしまったカメリアを、穏やかな微笑みが見つめている。
「君の歌は確かに素晴らしいものだったが、不誠実な人間は国母として相応しくない」
シリルは全て知っていたのだ。
約束を破ってシリル以外の男性と言葉を交わしたことも、エルネストとガゼボで何度も会っていたことも。
シリルは第一王子らしい笑みを湛えたまま、何も言えず俯いたカメリアをじっと見つめながら話し続ける。
「エルネストと随分仲良くしているようだね。不慣れな王宮で心を許せる友人ができたようで何よりだが……自分の立場を忘れたわけじゃないだろう?」
今まで聞いたことのない冷たい声にぞくりと背筋が震えた。
シリルも女遊びをしているのだから少しくらい構わないだろうと一歩踏み出したのは確かだが、どんな理由であれ約束を破ったのはカメリアだ。
エルネストとの逢瀬に浮かれて見えていなかったが、もしかしたら第一王子と第二王子の両方を誑かす悪女として投獄される可能性すらあるのではないかと最悪の想像が脳内を駆け巡る。
「とはいえ、この程度で重い沙汰を下すつもりもない。カメリア嬢には今日中に荷物を纏めて出ていってもらうが、それだけだ」
想像していたよりも何倍も軽い処分にカメリアは目を丸くした。
シリルはカメリアが自らエルネストに近づいた訳じゃないことを側近の報告から知っていた。
そして自分に関する様々な噂話がカメリアの耳に入っていたことも。
気に入った女性を王宮に囲っているのは紛れもない事実だし、ポイ捨てとまではいかずとも、飽きたら関係を解消し実家へと送り返していることもまた事実である。
美しいものが好きなシリルにとって、全ては水面下で進んでいる宰相の娘との婚約が公になるまでの遊びのつもりだった。
もちろん、カメリアについても。
「約束を破ってしまったこと、誠に申し訳ございませんでした。……殿下の寛大な御心に深く感謝いたします」
カメリアは立ち上がると、深く深く頭を垂れた。
続けて席を立ったシリルが使用人達を伴って去っていくのを見届けると、ようやく崩れ落ちるように椅子へと腰掛けた。
そばではニナが今にも泣き出しそうな表情でこちらを見つめている。
「……さぁ、ニナ。お部屋へ戻って出立の準備をしましょう」
「ですがお嬢様、よいのですか?」
もちろん、エルネストのことだというのはすぐに分かった。
遠征中の今、カメリアは別れを告げることすらできないままに王宮を去ることになる。
「エルネスト様なら、きっと噂づてにでもお聞きになるでしょう。仲良くしてくださったのに直接お礼を言えないのは残念だけれど……仕方のないことだわ」
悲哀に満ちたニナに反して、カメリアの表情はどこかすっきりとしていた。
急な話とはいえ、いつか離れる時が来ることはとっくの昔から分かっていたことだ。
エルネストと話すときはいつだってこれが最後になっても構わないようにと、心からの感謝を別れの言葉に込めている。
長い遠征に出ると聞いたとき、帰ってくる頃には自分はすでに王宮を去っているだろうと、カメリアは心のどこかで確信していた。
それに、本当に想い合っているならば何かしらのアクションがあるはずだ。
王宮を一歩出たら、カメリアはシリルの婚約者候補ではなく、ただのカメリア・ラフォンになる。
あれほど仲良くさせていただいていたのだし、きっと遠征から帰ったら手紙の一枚くらい寄越してくれるはずだと、根拠のない自信がカメリアの胸に満ちていた。
「さぁ、もうこんなにお日様が高いわ。早く支度しないとすぐに真っ暗になっちゃうわよ」
*****
持ち込んだ荷物はそれほど多くなかったため、昼過ぎには王宮を出ることができた。
堅実でしっかりとした作りの馬車と、いつも通りの昼食までしっかり用意されていたが、王都で食べたいからと食事は有難くお断りし、人生で二番目に長く暮らした場所を後にする。
来た時は暖かかった外の空気も、いつしか肌寒さを感じさせるようになっていた。
婚約者候補として王宮に招かれて以来、出ることを許されていなかった王都の道はしっかりと舗装されていて、お尻が痛くなることはない。
適当な街で一泊して行こうと思っていたが、ふと漂ってきた肉の香ばしい匂いに気付いた途端、待ってましたと言わんばかりにカメリアの腹の虫が鳴き始めた。
「次の街で食事にしようかと思っていたけれど、この匂いじゃ我慢できそうにないわね」
カメリアは御者に馬車を停めるよう告げると、ニナを伴って屋台通りへと向かった。
平民や商人たちで賑わう屋台通りは人で賑わっており、どこもかしこも食欲をそそる匂いを漂わせている。
慣れ親しんだ通りの景色を思い起こさせるような街の様子に、カメリアは浮足だった。
軽くあたりを見回し、ひときわ人集りの大きい屋台に目を向けると、大ぶりの肉が豪快に串焼きとなって売られていた。
この空腹を満たすには、がっつりしたものを食べないといけない!
そう勇んだカメリアも肉を目当てにずんずんと進んでいき、列の最後尾に加わった。
するとどんどん前を譲られてしまい、気付けばすっかり先頭まで進んでおり、あれほど並んでいた人間達はどこかへ隠れてしまったようだった。
店主らしき男性も明らかに緊張した面持ちでカメリアたちの様子を伺っているように見える。
そこでハッと気がついた。
普段街へ行く時は平民の中でも浮かないような地味なドレスに着替えていくのだが、今のカメリアは王宮帰りでいかにも貴族といった豪華なドレスを身に纏っている。
平民にとって貴族とは雲の上の人間に等しい存在であり、同時にひとたび機嫌を損ねればどうなるか分からない恐ろしい存在でもあるのだった。
「あ、あの、その串焼きをいただけるかしら?」
店主からしてみれば、突然貴族のお嬢様がこんな場所までやってきて自分の店の串焼きを求めるのだから、さぞ恐ろしかったことだろう。
可能な限り愛想良く、物腰柔らかに申し出たカメリアであったが、串焼きを持つ店主の手が尋常じゃないほど震えており、居た堪れない気持ちでいっぱいになった。
怖がらせてしまったお詫びにと串焼きの代金を多めに支払うと、カメリアはすぐに馬車へと戻ることにした。
本当ならばもう少し街を見回りたかったのだが、この格好ではどうにも怖がらせてしまうし、騒ぎになってシリルへ迷惑をかけることになっては申し訳が立たないからだ。
次に王都に来る機会があれば、いつもの下町用のドレスを着てこようと強く誓うカメリアなのだった。